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會津ニ十
熱を含んでどんよりと、澱んだような空気とはうらはらに、
片手で数えられる程になった、葉山の日々は過ぎてゆく。
陽子様はいまだ微熱がひかず、一日の大半を寝台で過ごされる。
淳子お姉様はあいかわらず、わたしとは違う空気を吸っているかのように、
ご本を読んだり、思索に耽ったりしていらっしゃるようだ。
わたしはと云えば、海ですっかり日に焼けてしまい、
お友達にも「少年のようね。」、などと言われてしまう始末。
淳子が仏蘭西窓の硝子を、細く引きあける。
小さく深呼吸して机にもどり、放り出していた洋筆の軸を取る。
指先で転がして、ひとしきり考え、インキの壷に落としてみる。
月湖が来られないばかりに、余計な用事が増えてしまった。
付き合いとは云え副会長であるからには、片付けてしまわなければ。
紙の上に、端正な文字を綴ってゆく。
「亦、お勉強ですの?」
陽子が寝台から半身を起こして、真向に見る。
夏風邪は快方に向かっているはずなのに、やつれたように鎖骨が浮かぶ。
淳子は横顔を返し、片頬を緩やかに上げる。
お互いに微笑みとなる前の、表情を交わす。
「風がお身体に、障るかしら?」
「いいえ、もう大丈夫ですわ、
わたくしこそ、淳子様のお勉強の差し障りになっておりませんこと?」
淳子は少しく、弓を描く眉を寄せる。
見下げているのではなく、絡まる視線を探るような陰が眸にうつる。
「わたくしの?――――‐ ああ、こちらは関係ないわ、
ちょっとした頼まれ事ですから、明後日の。」
「明後日・・・・・フェアウェルパーティーですわね、葉山の。」
嗚呼、もう九時を回ってしまった。
早足で廊下を渡ってゆく。
この処、パーティーの準備でいつも帰るのはこんな時間になってしまう。
淳子お姉様との、最初で最後の葉山なのだわ。
心を込めて、最後の夜を楽しんでいただきたい。
「ただいま、戻りました。」
お机の淳子お姉様、寝台の陽子様が、ゆったりと振り向かれる。
「遅くなってしまい、すみません。」
ばたばたと洗面所に向かい、被ってきた埃をおとす。
お二人の待つ部屋に戻り、今日の楽譜のおさらいをする。
「一年生は、今年は何をなさいますの?」
必死で音符を追いながら小さくすぼむ口唇に、陽子が面白そうにたずねる。
「 え・・・お歌です。」
「三年のお姉様方とは最後ですものね。
熱心なこと。」
ふざけていらっしゃるのかしら。
陽子様はこの部屋にいらしてから、随分とお話になられるようになった。
「いえ、あの・・・わたし、歌は苦手なんです、
あかねたちはとても上手なのですけれど。
だから、足を引っ張らないようにしないと・・・・・・・」
少し赤らんだ、はにかむような顔を、淳子様はご覧になっているのかしら。
「淳子様も、お手伝いなさいますのよね。」
淳子の顔が見たいがために、水を向ける。
「まあ、お姉様も。」
はにかんだ顔が、たちどころに花開くような笑顔にとって代わる。
「ええ、まあ、少しだけ、ね。」
窓の桟を眺めながら、曖昧に答える。
陽子の言葉は繊細な棘を帯びた蔓のように、遠巻きにわたくしに伸びてくる。
過去に見失った自分を手繰りよせようと、ひんやりと隙間に忍び込むように。
「とても楽しみです、わたし。」
微笑みの眩しさに、気の所為か少し脈が上がる。
あなただけの為に、薫子。
ざわめく海の音が、夜に散りばめられたように漂っては消える。
薫子の穏やかな寝息が、規則正しく繰り返される。
この空気に包まれるのも、あと半年。
分かりきっていたことなのに、心でぴしりと音がする。
・・・・・生きていけまして ?
水底に沈めていた言葉が、こんな夜は顔をだす。
のばした手は、藻のように水底で揺らぎつづける。
取るもののない手は、やがて沈み溺れてしまうのだ。
そして暗い海の片隅で、静かに朽ち果ててゆく日をむかえるのだろう。
重い頭を振り、寝台から身を起こす。
水差しから、水を汲み窓を透かす。
今夜の月は、薄黒い雲間から僅かに覗く。
透かして浮かぶ翳は、定かではない輪郭をうつしだす。
わたくしたちの思いのように、あるようでない形は心もとない。
「お寝みに、なられませんの?」
低く陽子の声がする。
「起こしてしまったかしら、ごめんなさい。」
暗く這込む夜に、削ったような面差しが象られる。
薫子の寝息を窺がうように、そっと陽子が窓辺による。
「明日は、雨かもしれませんわね。」
「お寝みにならないの?」
「お昼間に休んでおりますから、目が冴えてしまって。」
そう云いながら、寝息の行方を追う。
薫子を見る眼差しは、柔らかいものであっても、わたくしのそれではない。
いまだにふさがらない疵を負っているような、そんな瞳をあの子に向ける。
「綺麗な子ですね。」
「そう。」
「覆う造作だけではなく、その奥にあるものも・・・・・・きっと。」
「そうね。」
判然としないまま、言葉を返す。
「誰もが求めて止まないような、そんなうつくしさを感じますわ。」
僅かに逡巡するようにして、言葉を継ぐ。
「・・・・・・・ ご存知とは、思いますけれど。」
あの雨の色を帯びた目が、此方をじっと見つめかえす。
「まだ、お答えを頂いておりませんわ。」
夏の夜が、不意にじんわりと汗が滲むように息苦しくわたくしを包む。
陽子の蔓は、熱を帯びてわたくしに絡みつく。
わたくしは隙間を鎖し、水面から顔を出す。
ちらと睫を流し、滑らかな笑みを浮かべる。
「あなたは、誰をご覧になっているの ?」
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