27
會津ニ十
ステンドグラスをつき抜けて、閃光に部屋が白く浮かびあがる。
彫像のように三人は、時を止める。
遅れた遠い響きの中、滑らかに細い指が浮かびあがる。
仄暗い蔵書室に、その白さはつめたい気高さをまとい。
完璧なフォルムを描く優雅な手に、吸いこまれそうになる。
わたしに凭れかかる栗色の髪に残る、雨の匂いが鼻腔を掠める。
この暗い雨を湛えたような瞳に、わたしではない何かをうつしだして。
口の端を苦く上げ、微笑みではない微笑を浮かべられ。
わたしの身体に跡がつくほどに、固く爪を立てた陽子お姉様が頭を上げる。
「 淳子様は、 よろしゅうございますの・・・・?」
思いもかけない陽子の言葉は、わたくしを揺るがせるのに充分の重さをもっていた。
こんな瞳をわたくしは知っている。
それは、やるせない夜の狭間に迷い込み、陰鬱な朝焼けの一幕に息が詰まり、
そして、どうしようもない虚しさにさいなまれ、
見果てぬ彼方に暗い口が見えた瞬間に、世界を包んだあの色合い。
薫子というレゾン・デートルが、ただ其処に存在するというだけで
全てが生命の色を帯びるまでの、あの世界の色合いだ。
「薫子さんが選ばれたのならば、 ・・・・それで
本当に、貴女様はよろしゅうございますの。」
「よう こ・・・・おねえさまっ !」
飛び出そうとする身体を、陽子に押さえられる。
押さえているのではなく、本当は縋っているのが指の震えから伝わってくる。
だから、振りはらうことができなかった。
淳子の頬にうつる影が微かに歪んだような、
そんな、気がした。
薫子を押しやるようにして、陽子の影がゆらりと踏み出す。
差し伸べる淳子の腕を掴み、身を寄せる。
覗きこむ瞳は、未だ雨の色を湛えたまま。
血の気の引いた口角が上がり、肩口に寄せられる。
「それでも、
あなたは・・・・生きていけまし て ?」
絞るような囁きと共に、陽子が崩れ落ちる。
限界を超えた緊張の糸を自ら断ち切る。
壊れた操り人形のように。
わたくしの心に、囁きは楔のように突き刺さった。
「 陽子おねえさまっ !
淳子おねえさま・・・・・・お熱が、 早く医務室へ運ばないと!」
寝台の脇の小さな椅子に腰掛けながら、壁に走る薄い罅をぼんやりと追う。
淳子お姉様の問いかけが、頭の中で響きつづける。
・・・・・・・・・・・・・・選びなさい。
わたしにはなにも選ぶものなどないのです。
過ぎた望みをいつまでも、追いつづけているだけのわたしには。
あんなにも豊かでうつくしい方に憧れて止まない、ただそれだけしかないのです。
追いかけるわたしの歩みは、いつまでもあの方を苛立たせることしか、
できないのでしょうか。
不器用で危うい歩みに、未だ足を取られそうになりながら。
そんなわたしを見かねてさしだされた手に、包まれることができたなら、
あの優雅な手が、わたしを求めて伸ばされていたのならと、
切なくいとおしい思いだけが、胸の底を薄く過るのです。
消毒薬の沁みこんだ壁に囲まれ、その白さに溶け込んでしまいそうに、
陽子の呼吸が、ときおり乱れる。
混濁した思いがとりとめもなく、浮かんでは消えてゆく。
なるようになるならば、いっそ無くしてしまえば楽なのかもしれないと、
引き裂かれそうなわたしの心が、哀願する。
疾うに無くなってしまった心の余裕を、あると信じて笑おうとする
わたしはとても、ずるいのかもしれない。
淳子お姉様も陽子お姉様も、其々が向き合う何かを心の中に持っている。
臆病なわたしだけが、向きあえず未だ目を瞑ったままなのか。
血管の浮いた手首に走る、白く掠れた疵が今夜はいつになく疼く。
「そんな格好のままでは、風邪をひいてよ。」
部屋着に着替えられたお姉様の手が、わたしの肩に触れる。
優しく包み込むような眼差しは、もういつものお姉様。
「ここは、わたくしが見ているわ。
お部屋で着替えていらっしゃい。」
素直に頷き、廊下を軽い足音が遠ざかってゆく。
最前まであの子がいた椅子にかけ、蝋のような陽子を見るともなく眺める。
書架の奥でのあの光景が、印画紙に焼き付いたように離れない。
モノクロームの翳の中、薫子の大きく見開かれた瞳は
何を云おうとしていたのだろう。
耳を塞ぎ、救いを求め、わたくしは手をのばしてしまった。
ほかの誰かに触れられる、それを目のあたりにしただけで、
たちまちに足元が崩れ、心が潰れる音がする。
必死にさしのべる手は、思わず口走る言葉は、
あなたをひたすらに求める、わたくしの思いの丈。
わたくししか見てはだめ、わたくししか触れてはいけない、
そんな狂おしく浅ましいわたくしを、あなたにだけは知られたくない。
あなたにかかわる全てに、情けないほどに取り乱すわたくしが、
陽子には見えていたのかもしれない。
細い吐息のような、音が洩れる。
「 ・・・・・・ぁ・・さ こ ・・・」
形のよい口唇が僅かに歪み、眉根が薄く寄せられる。
「・・・・・い、かない・・で 」
「夏風邪は、こじらせると厄介だから。」
ようか先生が心配げに振りむかれる。
「大空さんは、一人部屋だったわね。」
頷くわたしたちを見ながら、すこし困ったようなお顔をなされる。
「入院させるほどではないけれど、しばらくは誰かついていてあげたほうが、
いいかもしれないね。」
陽子お姉様は、おそらく疎ましがられるに違いない。
それでも、やはりわたしがしなくてはならないような気がする。
あの張り詰めたお顔を見てしまった、償いを。
「あの、・・・それなら、わたし・・・」
「では、わたくしたちのお部屋にいらして頂いては?」
淳子お姉様が、ゆっくりと口を開かれた。
「幸い広い部屋ですし、寝台だけ運んでいただければ、
・・・・ねえ、薫子さん。」
頷く薫子の瞳に、困惑の影が宿るのは無理もないこと。
けれども、わたくしにはおそらく耐えられまい。
さしのべた手は、まだ空に浮かんだまま。
そんなわたくしを、あなたは知る由もない。
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