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                        會津ニ十














梅雨の隙間に薄く光がさす。





あの子が今日は帰ってくる。




月湖はあれから、なにか問いたげな顔をする。
云いたいことは分からぬでもない。
けれども、気づかぬふりをする。
あなたは、決して理解できない。


世間や社会の枠という、人の道の正当さを疑ったことのない、愛すべき旧友。
世界を席巻する帝国主義、踊らされ追随する亜細亜の小国。
そんな歴史の轟音が、わたくしたちのあずかり知らぬところで、響きつづける。
人でありながら人ではない、そんなことに気づいたのは、いつのことだったろう。
だから、絶望していた。
いつか巡り合う殿方とやらの為生きることに、縛られるわたくしたち。
そんな人の道を、理性で演ずるのはたやすいこと。
けれども、どうしても感情がゆすぶられる。
全てを裏切っても、どうしても手に入れたい。



それが、薫子。



こういう時ばかり、わたくしの仮面は役に立つ。
仮面の奥の窒息しそうな胸をかかえ、わたくしは微笑みつづける。
わたくしの保身などではなく。
それは、あなたへの贖い。
わたくしは、わたくしに罰を科す。











何度かひかるが顔を見せた。


静かに語るひかるの声は、今の私には心地よい。
「薫子さんは、肺炎をこじらせてしまったの、って月湖お姉様が仰ったの。
 あの方の仰ることですもの、皆さんお信じになるわ。」
はにかみながら、それでも囁くように話し続ける。
月湖の話を、ひかるはどう受けとめたのかわからない。


わたしならば、耐えられたのだろうか。
かげろうのような、終わりが見えていたとしても。
おそらく、それが人の道なのだろう。
折り合いをつけ諦める、そして日々をやり過ごす。
お姉さまは。


そんなことを考えている顔が、小難しく見えたのだろう。
慰めるように、ひかるは静かに話しはじめる。
「それにね、月湖お姉様が、
 そのような人品の卑しいことを、お考えになってはいけません、って
 あそこにいらした皆さん、恥じていらっしゃたわ。」
本当に尊敬しているのだろう、誇らしそうなひびきが声音に混ざる。
「 淳子お姉様は、なにもお変わりはないし、
 あれは誤解だったのねって、もうどなたも気になんかしていらっしゃらないわ。」
一生懸命わたしの為に話し続ける、ひかる。
ごめんなさい、もうなにも聞えなくなってしまう。



 淳子お姉様は、なにも、お変わりはない。












みじめな思いを抱えたままで、扉を開ける。
わたしの寝台はきれいに整えられ、何事もなかったような部屋が広がる。


「お、姉様。」
仏蘭西窓の陽を受けて、あの方が微笑んでいらっしゃる。
こんなふうにお呼びする資格などないことを思い出し、わたしは唇を噛む。
「本当に、ご迷惑をおかけしてしまって   」
鼻の奥が熱くなり、言葉が続かない。







またあの子は、痩せてしまった。
虹彩が初夏の光を返す。
わたくしはやっと息を吹き返す。
駆け寄りたい脚を、無理やり抑えこむ。
「お帰りなさい、ルームメイトさん。」


本当になにも、お変わりではない。
わたしにかかわる騒ぎなど、この方には煩わしいことですらないのだろう。
こんなふうにわたしにまだ微笑みを下さる、それでいい。
それだけで、胸がこんなに熱い。


わたくしの思いは、どうしても変わらない。
あなたの緩やかな茫洋さに、わたくしはかなわない。
その雄大さにそれでも憧れる、わたくしの愚かさに目をつぶって。
せめてあなたに微笑みたい、それでいいはず。
だから、仮面を被りつづける。







鼻の奥の熱が、いつのまにか頬を伝う涙にかわる。
きちんとしなくてはと、何度も練習した言葉は、たちまちに頭から消えてゆく。
こんなにも愚かなわたしを、どうか嫌わないで。


滑らかな頬を、ゆっくりと涙が伝う。
わたくしの性急さが、あなたにそんな顔をさせてしまったことに、胸が詰まる。
こんなにも愚かなわたくしは、それでもあなたを求めている。


こぼれる光りの粒はとてもうつくしく、魅入られたように。
気がつかず、わたくしは人差し指を伸ばす。
戸惑いと怯えを含んだ瞳は、私をまっすぐに見つめる。


こんなみじめなわたしを、哀れんでくださったのだろうか。
それでも喜びが、わたしの顔をあげさせる。
慈愛と優しさに満ちた瞳を、縋るように見つめる。






硝子を通す光が、部屋に迷いこむように射しこんだ。






逆光に浮かび上がる、あの方の影はとても綺麗。
そんなことをぼんやり、思いながら眺める。
羽根が掠めたように、薄い口唇の感触に気がついた。
わたしの汚らわしい幻とは違う、固く閉ざされた口唇が静かにふれる。


切なげに薄く開く、あなたの口唇がとてもいとおしい。
突き上げる思いに気が付いたときは、遅すぎた。
抑えこんだ思いが洩れぬよう、必死の思いで口唇を閉ざす。
もしも押しのけられてしまったら、わたくしは気が狂ってしまうのだろう。





身体中の力を振りしぼり、あの子から口唇をはなす。





ゆっくりと離した顔に浮かぶのは、混乱と驚き。
他の翳は見えるだろうか。
軽い絶望の中、わたくしは取りつくろう。
「あなたは、可愛らしい下級生、いつまでも変わらなくてよ。」


ゆっくりと離れた顔に浮かぶのは、落ちつきと余裕。
他の翳は見えはしない。
薄い失望の中、わたしは微笑んだ。










そして、自分に言い聞かせる。
お側によらせていただけるならば、それだけで過ぎたこと。
触れていただけなくとも
わたしは、しあわせ。


そしてわたくしは、理性でねじ伏せる。
あなたを壊すくらいならば、耐えることなどたやすいはず。
触れることなどできなくとも、
わたくしは、しあわせ。




そう、たぶん。











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