以前から、何度も記事にしているように、仏教というか禅宗では「冬至」については良く説法の題材になる。その理由としては、この日から夜の時間が短くなり、昼の時間が少しずつ長くなるということで、いわば闇が退き、明が進むことになる。言い換えれば、迷いが退き、悟りが進む。よって、我々が仏道の道理を得るという状況に親しみやすい。だからこそ、説法の題材となったのだ。
一方、「夏至」については、その逆となるので、説法の題材にしているところを見たことがない。もしかしたら、存在しないのかも・・・と思えるほどだ。まぁ、ありとあらゆる時代の文献を見ていくと、あるかもしれないので、有無の判断は保留しておく。
それで、夏至に限らないのだが、ちょっとした文脈を見出したので、それを見ていきたい。
大婆羅門よ、我れ今、更に昼夜の分数、長短の時節を説く。汝、当に善く聴くべし。冬十一月、其の日最短なり。昼夜分別すれば、三十分有り。昼は十二分、夜は十八分。五月の夏至の日、昼は十八分、夜は十二分。八月・二月は、昼夜、等に停まる。五月自従り、日退き夜進む。十一月に至って、夜退き日進む。五月に至って、日夜進退し、亦た一分進み、亦た一分退く。
『摩登伽経』「明時分別品第七」
密教部の経典なのだが、多分に占いを行う必要などもあり、この辺の天体に関する記述は詳細である。それで、面白いのは、一日の長さを「三十分」していることであり、そこから、夏至の時には「昼十八:夜十二」であるという。これは妥当なのだろうか?現代の観測では、夏至の時の昼夜は以下の時間に分けられている。
夏至の日の昼:14時間35分(875分)
夏至の日の夜:9時間25分(565分)
875:565 = 175:113
まぁ、確かにだいたい18:12といって良いくらいにはなるということか。実際、この辺の天文に関する記述は、かつてのインド・中国(日本も?)では、かなり正確に表現されていることは分かっているので、こういう経典に載っていることも、信用には値することも分かっているので、確認してみたわけである。
ただし、先の経文で気を付けねばならないのが、「月」は旧暦の時間になるので、1ヶ月ずれている。冬至・当時11月⇒現在12月、夏至・当時5月⇒現在6月、秋分と春分・当時8月と2月⇒9月と3月、とこうなっている。その上で、冬至は先に挙げたように、禅宗では説法の題材となっている。「転迷開悟の好時節」となるのである。また、秋分・春分は、彼岸会として機能しており、拙ブログで繰り返し指摘している通り、既に鎌倉時代の禅宗でも関連する説示が見える。
だが、どうしても「夏至」はそこから除かれてしまうのだ。「冬至」の反対だと思うと、確かに使いづらい。でも、禅宗であれば、「大悟底人却迷時如何」の説法を行う場面として機能するのではないだろうか?ちょっと、余りにいえば「理」に堕ちた見解かな?
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