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                         會津ニ十







扉の前で脚が竦む。
心臓が喉をつきやぶってしまいそう。
よりにもよって、あの方のお部屋なんて。

長い廊下をもう一度見まわす。
今日に限って、皆、外出でもしてしまったのだろうか。
静まりかえった午後の日差しだけが、長い廊下に揺れてたゆたう。






何度も深く呼吸をして、やっとの思いでノブを回した。
驚くほどあっけなく扉は開き、誰もいない部屋が穏やかに迎えてくれた。
お姉様が待っていて下さるかも、何を思い上がっていたのかしら。
安堵する胸の奥に、少しだけ苦い自己嫌悪が刺さる。
人に使われた気配の無い寝台、おそらく私のものなのだろう。
取り合えず纏めてきた当座の荷物を手早く整理する。
教科書とノート、ほんの少しの衣類、あの本はあかねに返してしまった。





「薫子さんは、もっとうつくしい方と、ご一緒できるものね。」


なんとなくざらざらした言葉が、あかねのかわいらしいくちびるからこぼれ出た。
教室でも倶楽部でも、私の知らない方が私のことを知っているようだった。
ひかるはあれからよく、体育館にやってくる。
「月湖お姉様が文通してもいいわよ、って仰って下すったの。」
恥ずかしげに頬を染めながら、それでも嬉しさに弾む声で
そっと耳打ちしてくれた。

そんなふうに、もう少し、私を知っていただけてからならば、
こんなに重い気持ちではなかったのかも知れない。
あの方の溜息が聞えてしまうようで、一つ溜息をついた。

逃げるように自習室で、時を過ごすことが多くなった。


あの方は、もう二度といらっしゃらない。









僅かな荷物は、たちまち片付いてしまう。
恐る恐る部屋の向こうに目を上げる。
昨日までいた部屋と同じはずなのに、まるで知らない世界のように見えた。

古い木の匂いに隠れ、仄かに甘い香りが漂う。
生徒会室で見たような、優雅な猫足の小さなソファが窓際に据えてある。
本棚には驚くほど沢山の本が重なっていた。
懐かしい父の書斎を思い出し、つい近寄って見てしまう。
布張りの分厚い本に、なんとなく心が落ちついた。
露西亜文学がお好きなのかしら、
プーシキン、ツルゲーネフ、トルストイ、ドストエフスキー。
ハイネの詩集に隠れるようにレクラム版の洋書まで混ざっている。



「お待たせしてしまったかしら。」



生徒たちを魅了して止まない微笑で、あの方が扉に立たれていた。
滑らかな白いブラウスが、しなやかな身体の線を浮き立たせる。
少し薄い色の髪が緩くうねり、品のいい輪郭を柔らかくかたち作る。

「何か、お手伝いすることはあって。」
「 あ、いえ、もうすませましたので。」
「では、そちらにお座りになってらして。」

微笑まれるあの方を見ると、薫子はなぜか涙が出そうになった。
淳子がゆったりと部屋を横切り、優雅な動作で戸棚を開ける。
繊細な切子細工を施したグラスを、薫子の前に置く。
「折角いらして下すったのですもの。」

紅玉色をした液体が切子に映り、煌きながら流れ落ちる。


「ほんの少しだけ、ね。」


驚きに目を丸くしながらも、恐る恐る口をつけてみる。
こんなに胸が熱くなるのは、きっと、このお酒のせい。
嬉しい口がお喋舌りになってゆくのも、きっと、お酒のせいなのだわ。

お姉様が微笑むお顔が、ゆうらりとぼやけてゆく。
午後の光が、ふんわりと柔らかく頬に落ちる。








窓際のソファの少女の手からゆっくりとグラスが落ちる。
生まれたてのような乳白色の肌にほんのりと薄桃が溶ける。

あの子が眺めていた本の棚に目を上げる。

アンナ・カレーニナ。

社会からも道徳からも、貴女は逃げ切った。
けれども、神様に掴まってしまったのね。





わたくしに、神は、いない。













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