4
吉屋かめ乃
いつ磨かれたかもわからない真鍮のノブに手をかける。
午前2時まで開放されているこの自習サロンも、
利用する生徒が少ないのは、まだテストまで幾分時間があることと
独特の黴臭さにあるのだろうか。
此処が薫子のお気に入りだった。
大きなテヱブルに、とっても素敵だから、と
あかねが貸してくれた「少女画報」を置く。
噂の吉屋信子さんの「花物語」。
エスとかシスとか、そういったものみたいだけれど…。
椅子を引き、そっと表紙をひらく。
嗚呼、お茶をいれてくればよかった。
折角お母様がフォートナム・アンド・メイスンの缶を送って下さったのに。
扉の開く音に、心臓がどきっと大きく跳ねる。
誰も来ないと思ったのに。
なんだか、悪いことをしてるみたいに 顔が上げられない。
気に留めぬそぶりで、頁をたどる。
食後すぐに居なくなると思ったら、こんな処に来ていたのね。
薫子のすぐ向かいの席をえらぶ。
肘をつき、いつの間にか袖にかけたらしい花びらを弄ぶ。
俯いて活字を追う花のような少女だけに、初めてまぢかから視線をそそぐ。
さらさらと流れ落ちる前髪が、伏せて揺れる長い睫毛が、
心なしか桃色に染まった薄い耳朶が、
見つめる淳子の全身をなまぬるく浸し
堪らない思いがつきあげてゆうるりと淳子を責める。
わたしの気の所為かしら
さっきから見られているような感じが・・・。
この方、御本をお持ちでもないし、でも。
読んでいる筈の文章がさらりと素通りしていってしまう。
どうしましょう・・心臓のどきどきがとまらない。
どれくらいの時間が過ぎたのかも、わからない。
「 綺麗な挿絵ね。」
落ち着いた風合いの声に、瞬間的に顔があがる。
あ この方、先刻食堂にいらっしゃった方。
たしか、とても人気があるって。
「 あ はい、あの …お友達に借りたん です。」
「 ふふ。 中原淳一の絵ね。瞳がおおきくて、小さなくちびる。
あら、あなたに似ているわ。」
「そんなっ・・・! こんな、別の世界のことのようですのに・・。」
信じられない。こんなに素敵なお姉様が、わたしなんかに。
綺麗なお顔…どこか他のお姉さま方とはちがう、洗練された雰囲気。
きっとお戯れなのね。
なのにわたしときたら、こんなに緊張してしまう。
「そんなことないわ、とっても素敵よ、あなた。」
どうしたら、こんなふうに微笑むことが出来るの・・・。
それに、もっと気取ってらしてもいい方なのに
こうして気さくに話し掛けてくださって、きっと性格も綺麗な方なのだわ。
「 いえ、・・・・・・ 」
折角上げた顔が、亦うつむいてしまう。
「 すこし、わたくしとお話してくださる?」
「わたくしがお相手で宜しいのでしたら・・。」
ぼうっと上気した頬に、突然訪れた幸福な驚きに潤んだ瞳。
艶やかな唇が薄くひらいて、真直ぐにわたくしを見つめ返す。
あんな絵なんかより、あなたの方がずっと綺麗。
「わたくしは、紫吹淳子。 お名前は?」
「大和 薫子です」
「すてきなお名前ね。よくお似合いだわ。
あら、黙ってしまった。 ふふ、御免なさいね。」
「…いえ、もう、 からかわれるんですもの・・」
テヱブルの端にかけられた指の可憐さに、思わず目を細める。
触れたい衝動をぢっと留めて、小さく息を吐き出す。
「一年生かしら。倶楽部には入ってらっしゃるの?」
「はい。篭球倶楽部に入りました」
「まぁ、じゃあ月湖をご存知?」
「あ お友達が憧れてるんです、月湖お姉様に。」
「そうなの。彼女とは生徒会で一緒に仕事をしているのだけど・・」
「淳子お姉さまは、生徒会に?」
薫子の唇からこぼれた自分の名前が、淳子の中に沈み
じんわりと波紋をひろげる。
「ええ。わたくしは大して出席しないのだけれど、
宜しかったら遊びにいらしたら?」
「 えっ・・・・・・」
「大丈夫 怖いことないわ。待っていますからね。 」
すんなりと無駄のない動作で出てゆかれる。
壁掛け時計の午後十時を知らせる音が、夢から覚醒させる。
いけない、同室のひとに叱られてしまうわ!
吉屋信子をしっかりと抱え、薫子は夢見ごこちでふわふわとしたまま
自室への階段を駆け上がった。
| SEO |