3
會津ニ十
初夏の夜風が、薔薇の香りを運ぶ。
回廊の向こうへと、あの子の笑い声が溶けてゆく。
薔薇の香りと、それよりも甘い声の残り香。
わたくしを惑わせる。
「淳子さん。」
回廊の柱から、ぶんが姿を現わす。
そんなに眉を吊り上げては、台無しよ。
悠子先生のお好きな、その可愛らしいお顔。
「なぁに。」
「 あ、たくし、貴方のこと、お友達と思っていたのだけれど。」
「ええ、あなたは大切なお友達よ。」
五月の薔薇に、手を伸ばす。
薄桃色の蕾を、選ぶ。
柔らかな蕾を、捻る。
掌に散る花弁は、切なくていとおしい。
「 じゃあ、っ、何故、あんなこと。」
花弁に口唇を寄せる。
あの子の香りが、胸に広がる。
「あんな、こと?」
夕暮れの校舎に、淳子はゆっくりと足を向けた。
今日も彼女は、行っている筈。
初めての恋でもないでしょうに、本当にお盛んなことね。
お相手が悠子先生なのは、願ってもない幸運だった。
あの方ならば、部屋を動かせる。
あの子を、私の元へ。
学長室のソファが熱い吐息で濡れる。
重いカーテンを白い指が掴む。
「せん、せ、え」
光る絹のリボンが滑る。
紺サージの襞に手が割って入る。
セーラーの襟が小刻みに震える。
「・・・・・・だ、い好き。」
赤いヒールが、落ちる。
静かに扉を開き、艶然と微笑んであげる。
「・・・じゅん、こっ、どうして・・っ。」
そんな端無い姿で、叫ぶのはお止しなさい。
ぶんを膝に抱いたまま、希臘の塑像が笑みを浮かべる。
「少し、お行儀が悪いのではなくて?」
「少し、気が急いておりましたの。」
「 そう、 ご用事はなにかしら。」
ぶんが膝の上で、わたくしを睨附ける。
「いえ、気が変わりましたわ、後程、改めて。」
ぶんに、にこやかに微笑みかける。
「ごきげんよう。」
「お友達だと思っていたから、だから、お話したのに・・・っ。」
涙を浮かべるほど、心配なのね。
そんな気は、全然ないわ。
貴女方は、勝手にしてくれればいい。
花弁にそっと舌を伸ばす。
「聞いてらっしゃるの。」
ああ、もう五月蝿いったら。
「あなたのご心配しているようなことは、なくてよ。」
「 じゃあ、どうして。」
「あなたには、関係無いわ。」
立ち尽くすぶんを残し、淳子はあてどもなく回廊を辿ってゆく。
ビロウドのような花片を、そっと口に含む。
緩く、噛んでみた。
口腔に、広がる薔薇の芳香。
あの子はどんな香りがするのだろう。
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