佐倉一(現佐倉)高3年の夏(1953年)に南関東大会で特大本塁打を放ったことで、大映(57年限りで消滅)、阪急、巨人から誘いがきました。プロへ行きたかった僕は有頂天でしたね。立大はマネジャーが一生懸命に誘ってくれて、砂押邦信監督の「スパルタで人間をつくる」という言葉に感服した父(利=とし=さん)が「プロへ行くのは、大学を出てからでも遅くはない」と言うのです。
正直、立大で大丈夫かなと思いましたよ。この年の春に東京六大学リーグ戦で戦後初優勝したとはいえ、地元では早慶法明に比べて知名度が低かったですからね。
11月に静岡・伊東市で行われた野球部のセレクションを受けに行くと、全国から100人近く来ていました。そこで、のちに「立教三羽がらす」と呼ばれるようになる兵庫・芦屋高の本屋敷錦吾、愛知・挙母(ころも、現豊田西)高の杉浦忠と出会いました。
僕と同じ内野手の本屋敷は、52年夏の甲子園優勝メンバー。事実、うまかったですよ。エラーなんて、しないもの。
《本屋敷錦吾は35年10月31日、兵庫県出身。立大では主将。58年に阪急(現オリックス)に入団し、1年目から二塁の定位置を獲得。4年目以降は出場機会が減り、64年に阪神へ移籍し69年に引退した。通算成績は打率・227、13本塁打、179打点。阪神と阪急でコーチを務めた後、実業家に転身》