立大の砂押邦信監督は1955年、僕が2年生のときの東京六大学春季リーグ戦を最後に辞任し、後任に辻猛監督が就任。僕は秋に初めて4番に座り、開幕戦で初ホームランを打ちました。
3年生の春に2本、秋に3本。4年生になると、春のリーグ戦が開幕してすぐに1本打ち、当時のリーグ通算最多記録(7本)に並びました。マスコミも、ファンも大騒ぎですよ。
それから苦しみました。結局、春は打率・225の不振で、本塁打はタイ記録となる1本だけ。学生最後となる秋のリーグ戦を迎えても、開幕から13打席無安打でした。プレッシャーがあったんでしょうね。
ヒットは出るようになりましたが、通算8号は出ないまま、学生最後の試合となる57年11月3日の慶大戦を迎えました。0―0で迎えた五回の第2打席。不思議なことに、声援やカメラのシャッター音が気にならなくなりました。林薫がカウント3―1から投げた5球目、内角低めへの直球を捉えると、打球はライナーで左翼席へ飛び込みました。
一塁を回ったときに大観衆の歓声が耳に入り、初めてホームランだと分かったんです。二塁を回ると、興奮して思い切り飛び上がりましたね。
《それまでの最多記録は、慶大・宮武三郎(のちに阪急。65年に野球殿堂入り)と早大・呉明捷の7本。長嶋氏の記録は67年に法大・田淵幸一(のちに阪神、西武)が更新し、22本まで伸ばした。現在の最多は慶大・高橋由伸(のちに巨人)の23本》
立大は4―0で勝って、チーム初の春秋連覇。スランプでスタートした僕は、終わってみれば、2度目の首位打者でした。
最終戦から2日後の11月5日、巨人入りを表明しました。巨人以外からも熱心に誘われましたよ。南海の鶴岡一人監督とお会いし、エースの杉浦忠と一緒にお世話になろうかと思ったこともあります。しかし、最後のリーグ戦の最中に巨人と決めていました。
決め手になったのは、母(ちよさん)の「お父さんが亡くなったし、一番近いところにいておくれ」という言葉です。昔は親子のきずなが強かったからね。
(2014年11月25日付紙面に掲載)