1954年に立大経済学部に入学し、豊島区南長崎にある合宿所での生活が始まりました。1年春のリーグ戦は11試合に出場して、打率・176。6月の新人戦で挽回しようと思っていた矢先に「チチキトク」の電報が届きました。
急いで佐倉へ戻り、父(利=とし=さん)の枕元へ行くと、僕の手を握って「六大学一の選手になれ。プロへ行っても日本一の選手になれよ」と。息を引き取ったのは、1時間後くらいだったかな。
母(ちよさん)は、よく働く人でね。畑で採れた野菜を行商で売り歩くんです。父親が亡くなって経済的に苦しいだろうから、大学をやめようかとも思いましたが、「冗談じゃない。茂雄のために一生懸命働くから、4年生まで頑張れ」と言ってくれました。
立大の砂押邦信監督は、とにかく厳しくて怖かったですよ。一方、当時としては珍しく米大リーグがものすごく好きでね。メジャーリーガーの写真をたくさん持っていて、打撃フォームなどを解説してくれました。
《砂押邦信は22年、茨城県出身。旧制水戸商から立大へ進み、50年に立大監督に就任。猛練習で53年春に20年ぶりのリーグ優勝を果たし、大学選手権も制した。退任後は社会人の日鉱日立の監督を務め、60年に国鉄のコーチ、61年に監督に就任。球団史上初のAクラス(3位)に導いたが、62年は最下位に終わり、ヘッドコーチに。65年途中に再度指揮を執り、最下位に終わると辞任した。2010年、87歳で死去》
日暮れまで練習した後も、僕には夜間練習が待っていました。砂押監督に「10分で来い」と呼び出され、合宿所から池袋の監督宅まで約2・5キロを走りました。
夜なので、ボールに石灰をつけてのノックです。打球をそらすと「まだグラブに頼っているのか。そんなもの、捨ててしまえ」と怒鳴られ、素手で捕球しました。グラブじゃなくて心で、体全体で捕れということですね。それでも、突き指などのけがをしたことは一度もありませんよ。
監督は翌春のリーグ戦が終わって退任しましたが、僕は猛練習のおかげで足腰が強くなり、20歳のときには体ができ上がっていました。まさに僕の原点ですね。
(2014年11月22日付紙面に掲載)
■長嶋 茂雄(ながしま・しげお) 1936(昭和11)年2月20日生まれ。千葉県出身。佐倉一(現佐倉)高、立大を経て58年に巨人に入団。1年目から中心選手として活躍し、65-73年の9年連続日本一に貢献。引退する74年までの17年間、三塁手でベストナインに輝いた。主なタイトルは首位打者6度、本塁打王2度、打点王5度、リーグMVP5度、新人王。88年に野球殿堂入り。75-80、93-2001年は監督としてリーグ優勝5度、日本一2度を飾り、02年から終身名誉監督。13年に国民栄誉賞。21年に野球界で初めて文化勲章を受章した。右投げ右打ち。25年6月3日、肺炎のため死去(享年89)。