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ああ、もうどうしてこんな厄介な訴訟を引きうけてしまったのだろう。
自動車会社のニューモデルの欠陥部品によるリコール騒動。
下請の部品会社にいかにして責任を押し付けるかの書類を書きながらしみじみ思う。
とりあえず、もう帰ろう、やってらんない。
このごろ、私の忍耐力は減少気味になっている。
更年期、にはまだ早過ぎるはずだけど。
Leeの言うとおり、恋が足りないのかしら。
そんな取り止めのつかないことを考えながら、ビルの守衛に会釈してロビーを抜ける。
ふと、ロビーのソファに人影が見えた。
もう、殆どこのビルの住人は帰っているはずだけれど。
「どうしたの、こんな処で。」
少し目尻を赤くした、KAORUだった。
「うん、ちょっと、近くまで来たから。」
「呼んでくれればよかったのに。」
「でも、仕事中でしょ。」
「まあ、そうね。」
「立ち話もなんだわ、食事は?」
「食べてない。」
「食べてく?」
「うん。」
なんだか、珍しく素直で無邪気な笑みを浮かべるのね。
痺れそうだったわたしの頭に、やさしく染みこむような。
Leeだったら、決して選ばないようないたく騒がしいレストラン。
体重を忘れるほどの勢いで、私達は食べまくった。
私の処に来るなんて、何かあったのかしら。
でも、考え無しに喋るようなタイプではないことはよくわかっている。
だから、結局わたしの仕事の愚痴ばかり。
KAORUは分かっているのかいないのか、相槌を打ちながらワインを舐めていた。
ほんのり染まった顔でとろりと頬杖をつく風情は、ほんとうに可愛らしくて。
ついわたしは、余計なことまで話してしまう。
「ねえ、何で来たの?」
「別に。」
「何か、あったの?」
「あなたの愚痴を、聞きに来ただけ。」
もう、この子ってばLeeの前と、態度違わない?
「Leeの愚痴も聞いてるの。」
「どうして?気になるの?」
「つっかからなくてもいいじゃない。」
「詮索したのは、あなたよ。」
「はいはい、ごめんなさい。」
「これ・・・・『チャイナ・ドール』だよね」
やだ、そういえば。
「いつもはつけてない。」
「つけたらからかうでしょ、あの人。」
「からかわれるのは、厭なの?」
「そういうわけじゃないけど。」
「Leeはあなたが好きだから、からかうのよ。」
「そういうことにしておきましょう。」
「あたしはからかわれないわ。」
「それだけ、大事ってことじゃない。」
「わかんない。」
やれやれ、私はもしかして切ない思いの相談相手なんじゃないわよね。
そう思うと、無性にイライラしてきた。
Leeも相手を考えなさいよ、この子きっとプライド高いのよ。
いやだ、誰に怒っているのかしら、私ってば。
「そろそろ、帰ろっか。」
「 ・・・・怒ったの?」
「いいえ、明日も早いだけ。」
「ジムは。」
「しばらく忙しくて、お休みね。」
「家は、どっち?」
「忘れた。」
ウインドウに肘をついて、明後日の方を向きながら小さく呟く。
「じゃあ、Leeのとこに送るわよ。」
「今日はダメ。」
「どうして。」
「つまんない事言って、心配させちゃいそうだから。」
「じゃあ、あなたのマンションは。」
「一人でいるのも、厭。」
「じゃあ、どうするの。」
「あなたの家に、泊めて。」
一人暮しの私が断る理由も見つからず、なんとなくそのまま家に連れてきてしまった。
「ゲストルームは、こっち。」
いざ、部屋まで来てみると酔いが冷めたように、この子は緊張した顔になる。
「バスは先に使ってくれていいわ。」
シャワーを浴びながら、さっきのイライラを考える。
湯気の立ちこめる中、もやもやして見えそうなものが見えない。
バスローブを羽織り、神経を休めようと軽くワインを一杯あおっていると、
KAORUがパジャマで入ってくる。
「どうしたの?」
「あの・・・」
「ん。」
「私も、貰って、いい?」
「いいわよ、グラス持ってきて。」
私はソファに、KAORUはラグの上にぺったりと座りこみソファに寄りかかる。
こちらを眺める上目は、ぼんやりした仔猫みたいで愛らしい。
言葉が口の中で逡巡しているように、口唇が少し尖っている。
「どうしたの、言いたいことあるの。」
「別に、ない。」
「私、酔ってるから、すぐに忘れちゃうわよ。」
ソファに凭れかかる小さな頭があんまり可愛くて、
気が付いたら柔らかい髪を撫でていた。
怒ったのかしら、ゆっくりと顔がこちらに向けられる。
反射的に手を離す。
「あ、ごめんね、つい。」
「なんで謝るの?」
「勝手に触られると、厭でしょう。」
「別に、厭じゃないよ。」
そういって、私の膝に頬を摺り寄せる。
「人に触れてるのは、好きなの。」
「そうなの?」
「人見知りなだけ。」
「じゃ、遠慮なく。」
この子の身体は、ストレスで疲れ果てた私を癒すような温かさを持っていた。
ゆっくりと髪の毛を指で梳いていると、KAORUの口がぽつりぽつりと開く。
「ねえ、疲れることってあるの?」
「あるわよ。」
「落ちこむこととかは?」
「しょっちゅうよ。」
「あたしと、おんなじ?」
「あなたは違うわ。Leeのお墨つきなのよ。」
膝に乗った頬にわたしの指は移動していた。
「そうね、Leeはいつも優しいわ。」
「でしょう、羨ましいことだわよ、それって。」
「回りから、何を言われても聞き流せるくらい。」
「気にするくらいなら、最初から飛びこんでいないでしょう、あの世界に。」
「うん、あたし結構負けず嫌いだし。」
「それに、Leeがいるじゃない。」
不思議そうな、泣きそうな表情にKAORUの顔が変わってゆく。
言葉が宙に浮き出しているのは、私も感じていた。
ある意味最も近くにいたLeeが、この子を大事にしているのが寂しいのかしら。
私を含めて決して本気にならない彼女ですら、心が動くような引力を持つKAORU。
私はこの子に嫉妬しているの?
意識が飛んだとき、柔らかい口唇が触れた。
「 ちょ・・ っと 」
暖かく口唇の重なる感触に、眩暈を覚えそうになりながらも彼女を押しもどす。
離された彼女は、悪びれるというよりも拗ねたように横を向く。
「もう、Lee流のジョークはやめて。」
「あんまり疲れてるみたいだったから、目を覚ましてあげようと思っただけよ。」
耳の奥ががんがんする。
「ありがと、すっかり目が覚めたわ。」
「じゃね、おやすみなさい。」
ぱたぱたと軽い足音が、ゲストルームに消えて行く。
鼓動が収まらないのは、いつもよりワインを飲み過ぎたせい。
潤んだ瞳がたまらなく魅力的に見えたのは、アルコールが回ったせい。
二日酔いの頭を抱えて起きたときには、KAORUはもう消えていた。
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