【 9 】
あの方の私室に、腕一杯の薔薇を抱えて向かう。
サンタ・カタリーナ総督にご就任なされてから、
お忙しい毎日を過ごされて。
薔薇を愛でるお時間も、ご満足にお取りになれない。
日の暮れる前に、お帰りすらもままならぬ。
「かおる・・・」
重いヴェルヴェットのカーテンに、午後の傾いた陽射しが遮られたお部屋。
あの方が疲れた瞳を、こちらに向けた。
艶やかな漆黒の髪が、心持ち乱れていらっしゃるような。
ああ、わたしときたら気が急いて、ノックすらしていない。
「失礼致しました。
お帰りとは思わなかったもので・・・」
「いいのよ、今日は途中で抜けてきてしまったから。」
わたしは慌てて、薔薇を花瓶に整える。
遠い東の果ての国で作られたという陶磁器。
その滑らかな白さに薔薇の色がよく映える。
「全く、男供は頭が固くてかなわないわ。」
わたしの背中で、誰に言うわけでもなく呟く。
「今のイギリスは、後ろを向いている時間などないというのに。」
航海ばやりのこの時代、まだまだ新参のわたしたちの祖国。
「満足な海軍すらおぼつかない。
だからわたしたちのような海賊もどきの田舎貴族が、
取り立ててもらえるのだけれどもね。」
自嘲気味の色が声に混ざる。
「スペインの無敵艦隊、
それに対抗できるだけの領土と兵力を早急につけなければ、
すぐに足元をすくわれるわ。」
ヴェルヴェットのドレープに目を凝らすようにして。
りか様は、頬杖をつかれる。
わたしには政治のことなど、わからない。
だからただ、ついて行くだけ。
「婚姻の儀を急がせて、早く足場を作らないと。」
そういえば、あの海賊騒ぎでチカ様の婚姻は延び延びになっている。
この方のお立場を考えるならば、これだけお疲れなのも無理の無い事ね。
薔薇の花弁を整えて、りか様のお好きな加減は難しい。
今にも綻びそうで、だけど開きすぎてはいけないの。
「如何ですか?りか様。」
小首を傾げて振り向くかおる。
薄暗い部屋の中に、白いドレスが浮き上がるようね。
綺麗に巻いたブルネットが、つややかに波打って。
小さな赤い口角を愛らしく上げながら。
その美しさに、わたくしはやっと息をつく。
「こちらへ、来てちょうだい。」
「はい。」
ああ、あなたはいつも頬を染めてわたくしの元に来るのね。
なんてかわいらしいのかしら、かおる。
巻き毛に指を絡ませると、白い頬に薄く筋が走っているのに気付く。
この方の細い人差し指が、わたしの傷をなぞる。
「どうしたの、一体?」
傷が小さく開き、この方の爪を仄かに染める。
深く暗い海の色の瞳が、わたしの瞳の奥を抉るように。
わたしの頬は熱く染まり、又傷が開きそうだわ。
「ええ・・・あの御方が。
薔薇園で。」
これだけ言えば、分かるはず。
あの高慢な貴族の仕業だと言う事は。
瞳が少し驚いたように見開かれ、そして面白そうに微笑まれた。
「まあ・・・あの子が。」
わたしの頬は両手で包まれて、わたしは膝を折ってあの方の祝福を受ける。
あなたは、傷すらも美しい。
世間の厭わしさなど、あなたの前では忘れられる。
堪らなくなって、わたくしは傷に舌を這わす。
震えるように、この子は小さく唇を開き、
快感を露わにする。
微かに湿った音が、重いカーテンに吸い込まれる。
唇だけを触れあわせ、飢えた舌に気がつかぬ風をして。
「りか・・・様。」
掠れ声が洩れる、わたくしは唇を離し。
酔ったようなこの子の顔を、犯すように見つめる。
「今宵は、わたくしの部屋へ。」
開いたままの唇で、胸の震えるような喜びの言葉を。
「 ・・・・・・・・ はい、りか様。」
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