【6】
夜半の雨は、衣擦れの囁きとなり、
そして、いつしか消えてしまった。
赤く爆ぜる薪の音が、空気に罅を走らせる。
私の息遣いだけが、あの人の部屋を漂う。
乱れたブロンドが、端正な顔を縁取る。
焦点の定かではない瞳に、冷え切った口の端がぼやけて映る。
「ご満悦かしら。」
深い淵からの声は、張り詰めた意識の糸を断ち切った。
ローブを羽織り、髪を整え、寝台を降りる。
息一筋も、乱したくはない。
「お気に、召しましたか?」
暖炉を背にした影が、大きく伸びる。
ブロンドに手を差し伸べ、喉の奥で嬉し気に笑う。
口唇に残る、ブランデーを赤い舌で舐め取る。
「とても、ね。」
あの方の濡れた唇が、寄せられる。
静かに口を合わせ、静かに口唇は離れた。
「早く、帰っていらっしゃい。」
あなたのいるべき処へ。
燭台を片手に、貴族は退場する。
闇が見えてしまう、かわいそうで冷たい貴族。
かをるの選んだ、カットグラスを掌で弄ぶ。
この子のような繊細なガラスに、指が吸いつくようで。
握り潰してしまったら、わたくしは傷を負い血を流す。
止め処なく流れる血を見つめる恍惚は、堪らなくわたくしを誘う。
だけど、まだ、今は駄目。
身体中の血を流してしまうほどの傷は、二人で負いたいの。
レースのカーテンをゆっくりと捲り上げる。
羽根を毟り取られたいとおしい天使。
壊れた人形のようね、かおる。
折れそうな青白いうなじを晒し。
艶やかなブルネットが、白い肌に鮮やかに絡みつく。
蹂躙された傷が、薔薇色に輝くようにわたくしを吸い寄せる。
どんな宝石に飾られるより、傷にまみれたあなたの胸はわたくしを魅了する。
上下する膨らみに残る汗は、芳香を放つ。
貴族らしい傲慢さは、思った通り。
そして、わたくしは息の根を止めよう。
意識とは別の何処かで、痛みは覚醒し続ける。
痛みとは別の何処かで、疼きがのたうつ。
あの方の歯が、引き裂いていたのならば。
あの方の腕で、押し潰されたならば。
あの方の爪で、抉られていたのならば。
わたしは、底無しの悦楽の中で死んでしまえたのに。
混迷する無意識の底、踏み躙られた官能が叫ぶ。
切れた口唇をブランデーが濡らし、又血が滲みはじめる。
重なる口唇から、潮の香が染みる。
髪を梳く感触に、痺れるように目を開く。
あの方の白い指が、この上もなく優しく額を這う。
心の奥底から、涙が溶けはじめる。
暖かい舌に、頬を柔らかく拭われる。
関節を軋ませながらわたしは、あの方に手を回す。
縋りつきあえぎながらわたしは、あの方を誘っている。
緩やかな曲線は触れあい、重なりあい、擦れあう。
その感触は、息苦しいほどに痺れを昂める。
温もりと欲望が、押し入るように流れ込む。
堰を切ったように、溢れる嗚咽が止まらない。
あの方が、息が止まるほど強く抱き締めてくれる。
それしかこの世にないように。
縋り続け、泣き続け、ひたすらにあの方を求めるわたしがいる。
涙と血にまみれて、ぬめる口唇が喘ぐように開かれる。
真珠のような歯から、覗く舌の震えはわたくしを誘い込む。
触れあう膨らみが徐々に硬さを増し、わたくし達の昂まりは顕在する。
わたくしの熱を刻み込むように、身体中でこの子に触れる。
混ざりあう汗は表層を溶かし、剥き出しにされた神経でわたくし達は縺れあう。
蕾の色の傷が、鮮やかに花開くような色を帯びてこの子を飾る。
匂いたつような香りを、この子は纏いはじめる。
「とても、美しいわ。」
額に額を寄せる。
黒い瞳は驚いたように、わたくしを見上げる。
涙の奥に疼くような光が見える。
その悦楽の萌芽に、わたくしの喜びは突き上がる。
気が違うほど激しく、唇を塞いでやる。
息が詰まるほどに、舌を差し込む。
喉の奥深く、欲望を流し込む。
震えるほどの快感の中で、抱き締める。
人形の肌の、温もりが上がる。
突き落とされた淵で、溺れてしまったと思った。
この方に抱き締められたまま、息が止まるのならば。
そんな、浅ましい想いだけが望みだった。
そんなわたしを、この方は綺麗だと言ってくれる。
いつにない荒い口唇と指使いが、身体のどこまでをも走り回る。
この方が、蹂躙してくださるならば。
わたしは身体の隅々まで、さらけだし懇願する。
あらゆる感覚が、この方の手で快感に導かれる。
全ての痕跡をこそげ落としてしまうほどに、わたしを組み敷いて。
サンタ・カタリーナの炎のような微笑で、わたしを切り裂いて。
あなたが求めた血で、わたしを浸して。
あなたの腕の中で、わたしを溺れさせて。
上がる声は、炎に巻かれる断末魔の其れにも似て。
焼き尽くすような快感は、爪先を駆け上がる。
身体の芯を鋭く突き上げるような官能が、たたみかけるように欲望を呼び覚ます。
流れる黒髪にわたしは愛撫するように指を、挿しこむ。
艶やかな黒髪がわたしの指を犯すように、絡みつく。
この方の身体の隅々までが、わたしを誘い込む。
飢えた動物のように、唇をりかに返す。
いつも、醒めていた瞳が嬉しげに歪む。
目じりが淡く薔薇に染まり、夢見るように閉じられる。
柔らかな胸を、頬張るように口を寄せ。
滑らかな脇腹に、いとおしく舌を這わせる。
眉間に一筋、影が寄る。
吐息の温度が上がるのにあわせ、曲線に沿って身体をなぞる。
快感の速度が増すのにあわせ、尖る舌が激しさを増す。
わたしの下で、あの方が身体を波打たせる。
激しく渦巻く波に、わたし達は飲み込まれる。
肩に絡められるしなやかな下肢に、わたしは縛りつけられる。
美しい指に捕らえられたわたしは、忘我に落ちて口唇で隷属する。
口の端から頤へ、喜悦が雫となり伝い落ちる。
喜びにまみれながら、わたしはただ奉仕する。
波を打つ夜の底で、わたしはあの方に跪く。
ブルネットに埋め込まれた指が、熱い。
これまでも、そしてこれからも、あなただけのわたしでいる。
わたしの目に映るのは、永遠にあなた只一人。
細く洩れる吐息が、わたしの名を綴る。
「わたくしの、かおる。」
吸い付くような肌から、薔薇の香気が立ち昇る。
かおるの口唇に、身体に、思いにどうしようもなく昂められていく。
息が止まるその時を、こうして迎えたい。
囚われ人は、わたくしなのだ。
どんなにもがいても、逃げられない檻でもがいている。
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