第107話 たった二人の戦争
――薄い。
エヴェリーナ・アンツァネッロは、ジャック・リーバーをまっすぐに見据えながら、しかし今にも彼を見失いそうだった。
薄い。
何が?
実際に姿が透けているわけではない。
しかし、何か――薄い。
今にもその場から消え去ってしまいそうな印象が、ジャックの全身を包んでいた。
……どういう絡繰りだ……?
エヴェリーナは目を細めて魔王を注視しながら、精霊の化身たちを退がらせる。
先ほどの、精霊を消滅させた力――【巣立ちの透翼】によるものであることはほぼ間違いない。しかし、どういう理屈でそれが成立しているのかはわからない。
今、まず確実なことは。
ジャックが手にしているのは『たそがれの剣』の1本きりで、片手をあえて空けているということ。
エルヴィスとの対決では二刀流で戦っていたと聞く――空けられた片手には、必ず意味がある。
――近付けさせん。
1柱消されたとて、残る精霊は15柱。指一本触れずとも、ガキ一人殺し切るのは容易……!
「【試練の迷宮】!」
因果次元に浮遊する空中庭園が、さらなる異空間へと塗り替わる。
それは、無限の魔物を生む迷宮空間。
化け物の胃袋めいた脈動が足元を突き上げ、同時、床から2匹の巨大な魔獣が出現する。
1匹はドラゴン。
1匹は大鬼。
「【無欠の辞書】」
そして、即座にそれらを支配下に置き、精密な指揮を可能とする。
天を衝く2匹の怪物に理性が宿り、さらに――
「まだまだァ! 【忘我の水月】!!」
――16匹に分身した。
本物は2匹。残り14匹は幻像だ。
しかし、ジャックの逃げ場を塞ぐのには十二分。
「やれ」
指令に応じ、16匹の怪物がジャックに全方向から襲いかかる。
これだけでも過剰に過ぎる暴力の渦。
だが、魔女に手心の二文字はない。
「――【未感の大器】……!」
ものの力を増大させる精霊術【未感の大器】。
これによって、ジャックに殺到する16匹の巨躯が、さらに倍加する……!
ドラゴンの爪が、大鬼の拳が、ジャックの姿を押し潰す。
舞い上がる粉塵から、死体が現れるのを待つ必要さえない。
エヴェリーナは千里眼の精霊術【憧憬の図版】を用いて、ジャックの屍を確認しようとした。
が。
「……っ!? いな――」
迷宮空間が、不意に崩壊した。
ドラゴンも、大鬼も、それを模した幻像たちも、砂のように崩れ落ちる。
【憧憬の図版】によって360度全方位の視界を確保しているエヴェリーナは、しかし、それでも振り向かなければならなかった。
背後に退がらせておいた精霊の1柱――〈外なる偶像のモラクス〉。
その化身が、ジャックの手に触れられて、油汚れのように溶けていくところだった。
――消えていく……。
いや。
離れていく?
……そうか! 奴がやっているのは……!
「チッ! 【女仙の――」
【女仙の甘美】は、好感度操作の精霊術だった。
それによってジャックの行動を縛ろうとしたが、一手遅い。
ラクダに乗った女貴族の姿をした〈渺茫たる愛欲のグレモリー〉は、瞬時に移動したジャックに触れられて、溶けるように消えていく。
――速い!
単なる超スピードではない。【絶跡の虚穴】を思わせる瞬間移動……!
エヴェリーナの脳裏に過ぎったのは、先ほどのエルヴィスが消失するシーンだった。
もしジャックが、因果次元に浮遊したこの空間と、通常の物質空間を自由に往来できるのだとしたら、通常空間を経由することで実質的な瞬間移動が可能になる。先ほどの全方位攻撃を避けたのもそういう仕組みか!
「【原魚の御手】! 【不朽の昔日】! 【最後の天秤】!」
魔女は一気に三種類の力を行使する。
水を操る【原魚の御手】が雨雲を呼び。
腐敗を操る【不朽の昔日】に、【最後の天秤】がルールを付加する。
「――『雨に触れたものは、みな腐り落ちる』!!」
雨雲が無数の雨粒を滴らせた。
いかにジャックが素早かろうと、降り注ぐ雨をすべて避けることなどできない。
これは史上最悪の絨毯爆撃だ。
数瞬後、最初の雨粒が地上に降り落ちたそのとき、魔王はこの城ごとぐずぐずに腐って溶け落ちる!
【不朽の昔日】で腐敗をコントロールできるエヴェリーナだけが、この雨を勝利の祝福として浴びることが叶うのだ。
天から雨粒が落ちるまでの、ほんのコンマ数秒。
ジャックは最初からすべてがわかっていたかのように、『たそがれの剣』を振りかぶっていた。
ブオン!! とオリハルコンの超重量が、大気を震わせる。
それは無数の雨粒を吹き散らしながら、その母体である雨雲をも一刀の下に斬り伏せた。
あまりにも遅すぎる。
たかが雨粒程度の速度では、魔王の影に触れることさえできない。
両断された雨雲は散り散りになり、もはや腐敗の雨を降らすこともない。
そして、もう次の雨雲が生まれることもなかった。
〈フォカロル〉――〈レラジェ〉――〈アンドロマリウス〉。
3柱の精霊の化身が、ジャックの手に触れられ、エヴェリーナから切り離されたからだ。
――切り離し。
そう、これは切り離しだ。
精霊たちとエヴェリーナを繋げている『縁』。それを浮遊させ、切り離している。
あたかも、囚人の鎖を断ち切るように……!
『自由』を司る〈アンドレアルフス〉の、おそらくは人が達しうる極限の領域だった。
ただのルーストでは触れることすら叶わない。精霊という存在の、より本質に近しい、極点。
最初の切っ掛けは、薬守亜沙李――ラケルから記憶を共有されたことだったのだろう。
ラケルの膨大な経験、特に因果次元での体験を受け継ぎ、ジャックは世界の正確な形を知った。
それによって、より精霊の力を、より精霊そのものに近しい感覚でもって行使できるようになった。
そこに、【舌裏の偽詞】による暴走が拍車をかけた。
因果や縁という、この世の根底に横たわる本質的ルールに意図せずして触れ、掴んでしまったのだ。世界そのものに触れる感覚を!
――だからなんだ。
結局は浮遊――ふわふわと浮かび、風に流されるしか能のない力!
切り札は取ってある。他は全部囮。
魔王様――あんたは目の前のことに気を取られ、一番警戒しなければならない力を野放しにした!
「――【天学の羽針】――!」
それに、【未感の大器】もまだ生きている。
【天学の羽針】で生み出した風を嵐に変え、お前を散り散りに引き裂いてやろう――!
「くたばれ、魔王――――!!」
巨大な竜巻が、ジャックを足元から飲み込まんとした。
風に質量はない。
【巣立ちの透翼】で浮遊させることはできない。
因果だの縁だの世界の本質だの、そんな御大層な話は関係ない。単純な精霊術の相性! それだけで、魔王を打倒するには充分だ――!
「――センリの魔女」
足先に竜巻が触れたジャックが、にやりと笑っていた。
「――騙されたな?」
ジャックがぐいんと身を捻り、剣を握っていないほうの手を、竜巻に向ける。
まるで、見えない穴が開いたようだった。
突き出したジャックの手のひらに、竜巻が余さず吸い込まれていく。
そこに生まれた小さな無質量空間に、大気が引き寄せられているのだ。ごく当たり前の、自然の現象によって。
そして、ジャックの五指が、吸い込んだ風を掴む。
その瞬間。
その質量が、倍加した。
「なっ……!」
それは、【巣立ちの透翼】ではない。
大気の質量を増やすのは、【争乱の王権】の――!
虚無の空に、一対の『王眼』が開いた。
――誰が言った?
エルヴィス=クンツ・ウィンザーを、通常空間に逃がしたと。
縁を切り離す。
存在を薄くする。
それができるなら――消したように見せかけて、庭園の隅に隠しておくくらいのこと、できないはずはない。
勇者は今も、依然として、親友の戦いを見守っていた。
「……なぜ……どうやって……」
膨大な風を封じ込め、【争乱の王権】で質量を倍加させた掌中は、金色に光り輝いていた。
「いつ……打ち合わせた? ガキどもォおおおおッ!!」
「打ち合わせなんているかよ」
ジャックは皮肉げに笑う。
「俺があいつと、何度騙し合ったと思ってんだ?」
――かつて。
来たる霊王戦に向けて、夜な夜な練術場に籠り、完成させた技。
ジャックとエルヴィスが二人で鍛え上げたその技は――
「――『太陽破風』」
残る精霊を総動員した。
すべて無駄だった。
どんな精霊術をぶつけても、輝きながら迫る膨大な風の槍は、些かも威力を減じることがなかった。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
エヴェリーナはまるで10代の少女のように、荒れた庭園の床に大の字になって、虚無の空を見上げていた。
俺はそこから5メートルほど離れたところに立ち、静かに彼女を見下ろしている。
エヴェリーナの身体に、外傷はすでにない。
【癒しの先鞭】の力によって、傷は回復していた。
そのために残した〈ブエル〉以外の精霊は、すでにすべて、縁を切り離している。
戦争は終わった。
これから始まるのは、和平交渉のための、首脳会談だ……。
「……なあ。聞かせておくれよ」
センリの魔女は、空を見上げたまま言う。
「世界を壊したくなったんじゃあないのかい? この世が地獄に見えて――だったら全部壊れちまえって、そう思ったんじゃないのかい? ……なのに、なんで今更、改心なんかするんだ。あんな目に遭ったくせに――どうして、また人を信じられる……?」
ディーデリヒにもされた質問だ。
答えはとっくにわかっている。
「人を信じていた頃の俺が、間違っていなかったと気付いたからだ」
だから、俺の答えなんて今更、どうだっていい。
エヴェリーナは俺に問うことで――自分自身の答えを、探そうとしているんだ。
「これ。勝手に拝借してきた」
俺は懐から1冊のノートを取り出し、エヴェリーナの身体の上に放り投げた。
孤児院の書庫に死蔵されていた、幼い頃のエヴェリーナのノート――
エヴェリーナは、緩慢な仕草でそれを手に取り、顔の前にかざすと、ふっと皮肉げに笑った。
「まだ残ってたのかい。もう無用の長物だってのに――」
【舌裏の偽詞】を使い、エヴェリーナは自分の中の沙羅を封じた。
そのことによって沙羅は計画を変更し、エヴェリーナの両親を殺害――エヴェリーナの生家は、孤児院だったということに捻じ曲げられた。
死をトリガーに暗示を解除したエヴェリーナは、すでにそれを知っている。
――だが。
「お前が残したものは、まだあるよ」
エヴェリーナが怪訝そうに眉をひそめる。
「死してなお解除されない、最も深い暗示。かつてのお前は、そのノートに残した仮初の真実によって、本当の真実を隠したんだ」
「……なん、だって……?」
「お前は、そうしなければならなかった――最も守りたいものを、何としてでも守るために。そしていつか、それを思い出せるように――沙羅の手には絶対に届かない場所に、自分の本当の記憶を隠したんだ……」
幼いエヴェリーナが見事に隠しおおせた、真実の嘘。
そのヒントは、ノートに刻まれた記憶に、あえて残されていた……。
「お前が沙羅の封印を終え、目を覚ましたとき――父親に、頭を撫でられたよな。そのときの感触を、お前は正確に、暗示の中に残している――」
――お父さんが涙を浮かべて、左手であたしの頭を撫でる
――手のひらの柔らかさの中に、結婚指輪の硬い感触がした
「ところが、死体を発見し、その手を握り締めたときには、こういう記憶が残っている」
――お父さんの左手を握る
――ぬめりという感触だけがあった
――お母さんの右手を握る
――影に冷やされた煉瓦のように冷たかった
「結婚指輪はどこに行った?」
エヴェリーナの目が、大きく見開かれる。
「あの沙羅が、他人の結婚指輪になんか興味を示すはずがない。指輪だけが持ち去られたなんてことはありえない。あるはずの指輪が、ない――この矛盾が、かつてのお前が仮初の記憶に込めた、メッセージだったんだ」
俺は懐に手を入れ、ノート以外にもう一つ、書庫から持ち出してきたものを取り出した。
指輪――
ノートの中から滑り落ちてきた、あの指輪だった……。
俺はエヴェリーナの傍まで行き、その指輪を彼女の手に落とす。
「他ならぬあいつだったお前には、わかっていたんじゃないか? 俺への感情でおかしくなっているあいつが、どこの誰のものとも知れない結婚指輪を、左手の薬指になんか嵌めるはずがないって――」
だからこそ。
この指輪は、どこよりも安全な、秘密の隠し場所になる。
エヴェリーナは震える指で指輪を摘まむ。
それから、ゆっくりと、自分の左手の、薬指に――
――嵌める。
……俺はすでに、その指輪に込められた記憶を見た。
だから今、エヴェリーナが何を思い出しているのか知っている。
目を見開き、口をぽっかりと開けた魔女に、俺は告げた。
「――お前の両親が殺されたのは、お前自身が作り出した偽の記憶だ」
「……………………」
「――お前の家を孤児院にしたのは、他ならぬお前自身だ」
「……………………」
「――両親が生きていることを隠すために……お前は世界ごと、沙羅を騙したんだ」
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
エヴェリーナが1階に降りたとき、両親はまだ生きていた。
これから危険が迫ることを察知していたエヴェリーナは、両親に精霊術で暗示をかけて逃がし――そして、自分には両親などいなかったことにした。
自分も。
世界さえも騙し。
あの結城沙羅の目を――誤魔化し切ったんだ。
「――そういえば」
俺は唇を緩めて、思い返す。
「お前の孤児院に行ったとき、入口の前でお婆さんと会ったっけな。あの孤児院を、自分の家だって言ってる――お前がこの空間に閉じ込められたせいで、暗示が解けかかってたのかもな」
ぽろりと、エヴェリーナの目の端から、涙が伝った。
――どうせぜんぶうまくいく。
沙羅がいるから? それが当たり前?
とんでもない。
他ならぬ俺だからこそ、これがとんでもないことだとわかる。
「お前は、勝ったんだよ。守ったんだよ、あの悪魔から。他の誰でもない――お前自身の力で、成し遂げたんだ」
それが、どれだけすごいことか。
他の誰も知らなくとも――俺とお前だけは、知っている。
「……ああ……」
エヴェリーナの唇が震え、しわがれた声が漏れる。
「…………ああ…………」
悪い夢を見続けてきた、囚われの女は。
こんなにも時間が経って、ようやく噛み締める。
「――――いい、夢だ」
俺はエヴェリーナが見上げる空を、同じように見上げた。
「いや――夢のままでは、終わらせない」
戦いは終わっていない。
人生は終わっていない。
これからなんだ――俺も、お前も。
「お互いにさ。そろそろ、奮い立とうぜ――あいつに怯えるだけの人生は、もうたくさんだ」
そして俺たちは、ようやく始めることができた。
悪夢に囚われた、哀れな罪人が。
このクソッたれな世界を覆すための、ろくでもない悪だくみを。