第106話 魔女
エルヴィス=クンツ・ウィンザーは、この世で最強の精霊術師はラケルだと思っている。
幼い頃はかの永世霊王、トゥーラ・クリーズだと考えていたが、7年前のあの日、ラケルと魔物化したトゥーラの凄まじい戦いを見てからは、考えを改めた。
7年ぶりに再会し、模倣した精霊術をルースト並の出力で使えるようになったと聞いたときは、心強く思ったものだ――同時に、何かの間違いで彼女が敵に回れば、果たして誰が対抗しうるのかと、恐ろしくも思った。
ラケルが行使できる精霊術は、〈バアル〉、〈アスモデウス〉、〈ビフロンス〉、そして〈シャックス〉自身を除く、68種類だという。
それに比べれば――たかだか、16種類。
それも、戦闘経験を積んでいない、ただの政治家――苦戦は免れないにしても、やりようはある。そう考えていた。
考えが甘かった。
「【乱霊の咎印】」
ありったけの質量を込めた蜃気楼の剣、それを正面から受け止められたとき、生存本能ががなりたてた。
まずい。
にげろ。
「【雷霆の軍配】」
エヴェリーナの全身から稲光が迸る。
道を作れ。即座にエルヴィスの脳裏に思考が走った。
蜃気楼の剣を形作る圧縮空気は雷を通さない。だから、剣を伝って直接電撃を浴びせられることはない。
そして、雷には通りやすい道を自動的に見つけ、そのうち最短のルートを通るという性質がある。圧縮空気でこっちから道を作り、よそに逸らしてやれば――
「【最後の天秤】」
魔女が、輝きながら笑っていた。
「『あらゆる大気は、電撃を阻まない』」
――直線、だった。
本来、通りやすいルートを選び、ジグザグに進むはずの電撃が――まるで、ピンと張り詰めたように、まっすぐ――蜃気楼の剣の中心を、貫いてきた。
エルヴィスの脳が真っ白に染まる。
刹那のうちに全身を巡った電撃が、悲鳴さえ許さずに筋肉を縛る。
ほんの一瞬だった。
【乱霊の咎印】――肉体を強化する精霊術。
【雷霆の軍配】――雷を操る精霊術。
【最後の天秤】――ルールを付加する精霊術。
ただの政治家でしかないはずの女は、ほんの一瞬で三つもの精霊術を完璧に使いこなし、当代最強の称号でもある勇者に、致命の一撃を与えたのだった。
激しい打ち合いもなく。
高度な読み合いもない。
実力差のある勝負が、往々にしてそうなるように――
――それは、あまりにも地味な、決着だった。
「……なん、で……」
麻痺した脳髄に、疑問が巡る。
エヴェリーナ・アンツァネッロが、精霊術師として活躍した記録などない。
本来の精霊術――【舌裏の偽詞】に関しては、政治活動を通じて鍛え上げたと解釈できるだろう。だが、いま掌握したばかりの、16種類の精霊術に関しては、習熟する暇など決してなかったはずだ。
なのに――
「あのエルフは、長ぁい寿命を使って個々の術の熟練度を上げたようだがねえ」
コツコツと、16柱の精霊を従えた魔女が歩いてくる。
「経験という意味じゃあ、あたしだって負けちゃいないさ――はっは! あの女、肝心な記憶は封じていきやがったが、繰り返した人生で培った経験だけは残していきやがった。せっかくだから、おありがたく使わせてもらったよ」
それは、エルヴィスには理解しえない説明だった。
ヒトである彼女が、長命種であるエルフよりも膨大な記憶を有していることなど、エルヴィスには知る由のないことだった。
「さて」
力なく倒れ伏すエルヴィスを、魔女は薄笑みと共に見下ろす。
「【女仙の甘美】を使えば、あんたを骨抜きにすることもできるんだがねえ――ま、もう手駒は必要ないか。首級でもいただいて、愛しいフィアンセへの手土産にでもしようかい? んん?」
震える右手が、地面を掴んだ。
天の双眸が、まだ開いていた。
「お?」
『王眼』が、エヴェリーナを凝視する。
直後、彼女の足元が突如として砕け、半球状に窪んだ。
エヴェリーナの周囲の大気が質量を増し、その重みで押し潰したのだ。
だが、魔女は涼しい顔で笑っていた。
「いいねえ。肩凝りが取れそうだよ」
エルヴィスは震える手を伸ばす。
力など入らないはずの手で、それでも力強く、エヴェリーナの足首を掴む。
魔女は怪訝そうな顔をして、その手を見下ろした。
「なあ勇者サマ。教えてはくれないかい? 何のためにそこまで頑張る?」
エルヴィスの手を乱雑に振り払い、今度は逆に、足でその手を踏みつける。
「ぐッ……!」
「ジャック・リーバーを逃がし、自分が残ったのもそうだ。その自己犠牲精神はどこから来る? あの魔王は、世紀の大悪人じゃあないか――そこまでして守る義理がどこにあるってんだい?」
二度、三度、四度。
子供が地団駄を踏むように、何度もエルヴィスの手を踏みつける。
「あんたは勇者なんだろ? え? がっかりするだろうねえ、世間の連中が聞いたら! 世界の希望を託して送り出した勇者が、当の魔王と仲良しこよしなんてッ! 悪を成敗しろよッ、正義の味方ぁ!! お前はっ! そのためにッ! いるんだろうがッ!!」
振り下ろした足が、傷だらけの手に受け止められた。
目をすがめたエヴェリーナを、エルヴィスがゆっくりと見上げる。
微笑みながら。
あるいは、憐れみながら。
「……羨ましいのかい……?」
「はああ……?」
「あなたには……いなかったんだろう……? 行為の善悪なんて関係なく……その、本当の心根を信じてあげられる、友達が……」
「――――――――は」
魔女の唇が、歪んだ。
「面白い。ははは。こいつは痛いところを突かれた。はははははは! いいぞ、素晴らしく胸糞が悪いッ!! はっはははは! そうか! あたしは寂しく哀れなぼっち女か! はははははは! ははっははははははははははッ!!」
お腹を抱えてけたけたと笑う女は、まるで壊れた玩具のようだった。
それはおそらく、弁舌一つで世界を操ってきた彼女にとって、初めて経験する論破。
悔しさ。悲しみ。怒り。
去来する感情を、魔女は大いに味わっていた。約束された勝利のレールを歩んできた彼女には、それらは特段の刺激だった。
「――ふう」
やがて、それが過ぎ去ると、空っぽな静けさがやってくる。
魔女は噛み締めるように虚無の空を見上げ、それから傷だらけの勇者を見下ろすと、そのときにはもう、すべての感情が抜け落ちていた。
「さて、殺すか」
頭上で、16柱の精霊が旋回する。
どれで殺すか。誰が殺すか。先を争うように。
「例を言おう、勇者エルヴィス。今までで一番面白い――負け犬の遠吠えだったぞ?」
決めた。
これで殺そう。
旋回が止まる。
【教命の森林】の力で地面から見る見るうちに木が生え伸びる。
その鋭い枝が垂れ、伸び、いずれエルヴィスの背中に突き立てば、それを媒介した【秩序の吉糸】による構造分解で、その身体は粉々に崩れ去るだろう。
その血肉をこの木が肥料として、天を衝くような高さに育つのだ。
最後に貴重な気持ちにさせてくれた、せめてもの礼だった。
まあ、どうせこの場所も長くは保たない。
こんなものはただの自己満足で、エルヴィスにとっては甚だ不満だろうが。
ああ――見ている奴は、いい話だと解釈してくれるさ。
どうせ全部、うまくいく。
「――ん?」
いつの間にか、枝の成長が止まっていた。
どうした?
精霊術が、うまく働いていない。
……というより……。
すでに、この手を離れている。
頭上を見上げた。
違和感があった。
1……2……――子供のように順番に数えて、初めて気付く。
精霊が、15柱に減っていた。
「……な……?」
代わりに、人影が浮かんでいた。
陽炎めいておぼろげに、この城の――本来の主の影が。
「……貴様……いつから、そこにいた……?」
ありえない。
千里眼の精霊術――【憧憬の図版】は、常に働かせていた。
いかに視界外から現れようと、そいつの出現を見逃すなど!
「答えろ――いつからそこにいたッ!? ジャック・リーバーッ!!」
魔王ジャック・リーバーは、悠々と微笑みながら、魔女を見下ろした。
「悪かったな、派手に登場できなくて――こちとら、正義の味方じゃないんでね」
エヴェリーナは、頭上に集めていた精霊たちを即座に散開させる。
何をした……?
〈フォラス〉との経路は完全に切れていた。
というより、その存在自体を感じられない。消された。そうとしか形容できなかった。
ジャックが何かしたのだとしたなら、それには『触れる』ことが必須。
以前のダイムクルドであれば、鹵獲した【最後の天秤】との合わせ技で、土地そのものを自身の身体の延長と定義することもできただろう。
だが、精霊励起システムをこちらが掌握している以上、ヤツは自身の身体で対象に触れなければ精霊術を適用できない。
精霊の化身は飽くまで影法師に過ぎないが、それに触れることを条件として、何らかの力を発揮している可能性はある……!
おそらくは、【舌裏の偽詞】と同じ――精霊自体に作用する精霊術!
ジャックが、虚無の空からゆっくりと降りてくる。
どこからどうやってこの空間に入ってきたのか、それすらも杳として知れない。
得体の知れない圧力を感じて、エヴェリーナはその場から素早く離れた。
残されたエルヴィスのそばに着地すると、ジャックは跪き、優しくその身体を抱き上げる。
「……ジャック、く……」
「ありがとう、エルヴィス」
穏やかな笑みを浮かべて、ジャックは言う。
「お前と友達になれたことは、俺の人生の、数少ない誇りだ」
エルヴィスが少し、目を見開いた。
直後、傷だらけのその姿が、消えた。
「!?」
消えた。
消えたのだ。
猛スピードで移動したのではない。
ふっと――蝋燭の火が消えるように、消失したのだ。
なんなんだ――あれは。
【巣立ちの透翼】に、あんな力はない。
いや……待て。
そもそも、因果次元を漂流しているこのダイムクルド自体、【巣立ちの透翼】の暴走でこうなったのではなかったか?
ならば、もし、ジャック・リーバーが暴走した精霊術をコントローラブルにしたのだとしたら、エルヴィスを通常空間に復帰させることも容易いはず――それが傍目には消失したように見える、ということか……?
ジャックはすっくと立ち上がると、エヴェリーナの両目を見据えた。
凍りついた世界に、ただ二人。
この場所でなかったとしても、二人には他の誰もが無意味だった。
ただ二人。
たった二人だけなのだ。
この世界で――結城沙羅に、人生を根本から支配された者は。
「――よお、同類」
ジャックが呼びかけると、エヴェリーナは皮肉げに笑った。
「どうした、お仲間? 積もる話でもあるのかい?」
「ああ。ないとは言えねえな――でもまあ、その前につけるべきケリってもんがあるだろ? お互いに、大人としてさ」
「大人?」
面白い冗談を聞いたかのように、魔女は唇を歪めた。
「なるほどねえ――大きくなっちまったもんだよ、お互いに」
「そうさ。責任を取るとしようぜ?」
二人の人間が対峙する。
天空魔領ダイムクルド国王、ジャック・リーバー。
センリ共和国第二代大統領、エヴェリーナ・アンツァネッロ。
結城沙羅など関係ない。
この世界に依って立つ二人の人間が、その職分において宣言する。
「天空魔領ダイムクルドより、センリ共和国に対し、宣戦を布告する」
魔王ジャック・リーバーが、黄昏の剣を抜いた。
「俺とあんた、たった二人の戦争だ。――ちゃっちゃと済ませようぜ、大統領」