表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生ごときで逃げられるとでも、兄さん?  作者: 紙城境介
因果の魔王期・最終回〈下〉:夢のままでは終わらせない
256/262

第96話 魔王の輩


 どれだけ時が過ぎ去っても、ディーデリヒ・バルリングの魂は『あの日』の闇に囚われている。


 天井の梁から伸びた、細いロープ。

 その下で静かに揺れる、妻だったもの。


 死が充満する戦場で無数の武功を立ててきた彼が、そのたった一つの死の前では、怯えた子供のように沈黙するしかなかった。


 切っ掛けは、根も葉もない醜聞だった。

 内容は、特筆すべきこともなければ、思い出すことも厭わしい――ただ、わかっていればいいのは、ロウ王国の将として英雄と呼び囃され、異例の速さで昇進を続けていた彼を、やっかんだ仲間がいた、ということだけだ。


 ディーデリヒの武勇は凄まじいものだったが、政治力の面では隙があった。

 ただ真面目に、馬鹿正直に醜聞を否定することしかできなかった彼には、充分な根回しを経たその政治的攻撃に、抗するすべなどなかったのだ。


 言い訳を重ねれば重ねるほど、民心は離れていった。

 自分たちが勝手に英雄などと呼び始めたくせに、裏切られたなどとがなり立て、彼を――ひいてはその家族を責め立てさえした。


 妻は、まともに表を歩くことさえできなくなり。

 その果てに――天井から、ぶら下がったのだ。


 ――なぜだ?


 一人になった彼は、顔を隠して街を彷徨し、自問を繰り返した。


 ――なぜだ?

 ――なぜ、こんなにも国に奉公した俺が、こんな目に遭わなければならない?

 ――なぜ人々は、英雄と呼んだ俺を、今度は罵倒するのだ?

 ――なぜ……俺の言葉に耳を貸さず、大仰なだけの醜聞にばかり、耳目を傾けるのだ……?


 そんな折だ。

 酒に酔った声が、ディーデリヒの耳に飛び込んできたのだ。


『――聞いたか? ディーデリヒの妻が首を括ったってよ』


『はっは! 英雄サマの化けの皮がやっと剥がれたか!』


『ああ、自死を選んだってことは、噂が本当だってことだからな! 違ったなら、堂々と否定すりゃいいんだから!』


 ――何度もした。

 ――何度もした。


 何度も――――しただろうが!!


 ろくに聞かなかったのはお前たちだ。

 俺の言葉を聞きもしなかったくせに――聞く気もなかったくせに! よくも……よくもッ……!!


 ああ――笑い声が聞こえる。

 妻の死を、天井からぶら下がったあの光景を、喜劇でも見るかのように笑う声……。


 そうか。

 そうか。

 そうか。


 なぜ?


 わかったよ。

 それが、理由だったのか。




 ただ―――『面白いから』、だったのか。




 そして、ディーデリヒは剣を抜いた。

 白昼の市街に、血の海が広がった。


 できる限りを殺し。

 できる限りを壊し。

 それから、ついに投獄されたディーデリヒには、もはや生き延びようとする意思などなかった。


 あの笑い声。

 あれこそは、人間がどうしようもなく持つ、根源的な悪性。

 そうだ。悲劇がいい例ではないか。悲しい結末を見て涙する――しかし、悲しいと思うのなら、そんなもの作らなければいいし、見なければいい。


 人は。

 誰かの悲惨な結末を、心から、楽しむことができる。


 これが悪でなくてなんなのだ。

 これが悪でない社会など、あっていいのか。

 俺もまた――そんな人間の、一人だったのか。


 自分が、そういう生き物の一種だったという事実が、何よりもディーデリヒを打ちのめした。

 立場が違えば、自分もあの笑い声の側に立っていたかもしれない。

 誰かの妻が首を吊るのを、笑って酒の肴にしていたかもしれないのだ。

 だったら――そんなものは、消えてなくなったほうがいいに、決まっている……。


 魔王が現れたのは、そんなときだった。


 誰よりも深い闇を纏った少年は、牢の格子越しにディーデリヒを見つめ、こう告げたのだ。


『――人間は、信ずるに足る生物だと思うか?』




◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆




 ディーデリヒの重い一撃が、俺の『あかつきの剣』を大きく弾く。

 邪神繊維で編まれた籠手に捕まる前に、俺は距離を取る。

 改めて朝焼け色の剣を構える俺の視線の先で、ディーデリヒ・バルリングは、どこか寂しそうに目を細めた。


「救われた。……救われたのだ」


 一歩。

 硬い靴底で、魔王城の床石を踏みつけながら。


「あの日、あなたが言ってくれた言葉、私に向けてくれた目――『仲間がいる』と、思わせてくれた。『一人じゃない』と、思わせてくれた。……笑うがいい。まるで迷子の幼子のように……私を見つけてくれたあなたが、輝かしく見えたのだ」


 銀の鱗がどす黒く染まり、目に見えないウイルスが空気に充満していく。

 ラケルやエルヴィスたちの相手をしている、対精霊術装備の怪人たちには何の効果もない。俺たちだけを一方的に弱らせる飽和攻撃。

 俺は【巣立ちの透翼】を繊細に操作して気流の壁を作り、それを封じ込めた。


「勇者が光を齎す太陽ならば、魔王は闇を導く月だ。世界からはぐれ、生きる意味を失った俺たちにとって、あなたのような人間こそが道標になる。『下には下がいる』と……地獄の底を、仰ぎ見ることができる」


 病原菌を纏い、漆黒に染まった剣先が、俺にひたと向けられた。


「なのに、何を一抜けしようとしている?」


 次の瞬間、その剣先は俺の目の前にあった。

『あかつきの剣』で横に弾く。しかしディーデリヒの剣筋はそれすら最初から織り込み済みだ。暴力的な踏み込みから、柔らかな旋転。優雅でさえある横薙ぎの一撃が、さらに俺の首を狙う。


「貴様は、不幸でなければならないだろうが。誰よりも、幸せであってはならないだろうが! なのに、なぜ改心などしている? 我を取り戻している? 生きる意志を見出しているッ!?」


 黒く染まった特注の剣は、毒の塊にも等しい。少しでも刃に触れれば、たちまち身体は病に侵され、運動能力を奪われるだろう。

 だが、今は、それよりも――言葉のほうが、重く、鋭かった。


「俺たちよりも絶望しろッ!! 俺たちよりも不幸であれッ!! だからこそ貴様はっ、魔王なのにっ――!!」


 剣が激突するたび、感情の重みが伝わってくる。

 その熱が、痛みが、ダイレクトに伝播して、俺の傷口をも開いていく。


「……悪いかよ……」


 感情の制御が利かなくなった。

 溢れ出す言葉を、止められなかった。


「そんなに、悪いかよッ……! 魔王が幸せになっちゃ! 俺は、言われたんだっ……! 言ってもらえたんだ! 幸せになってもいいって――――!!」


「は! 笑止ッ!!」


 剣圧が急激に増し、俺の足が床から浮いた。

 地面に転がされる前に、自身を浮遊させる。しかし、空中に縫い留められるその一瞬の隙を、歴戦の将が見逃すはずもなかった。


「よほど心地よかったと見える! あのエルフと供にしたベッドの中が!」


 力任せに振るわれた剣が、俺の腹部を打ち据える。

 ボールのように吹き飛ばされ、壁に激突した俺を、ディーデリヒはさらに追撃する。


「その程度のものだったのか!? 憎悪も、絶望も! 子種と一緒に吐き出したかッ!! まるで猿だな、ええ!?」


 逃れようとした俺の腕に、ディーデリヒの籠手が触れた。

 たったそれだけで【巣立ちの透翼】が解除され、身体が重力に囚われる。


「良かったなあジャック・リーバー!! 心の底から言祝ごう!!」


 壁に縫い留めるように、ディーデリヒの靴が俺の胸板を踏んだ。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ッ!?!?」


 ……ラケルを……!

 何百年も……何千年もかけて、俺を救ってくれた、あいつを……!


「――侮辱するなッ!! ディーデリヒぃッ!!」


 身体を捻り、ディーデリヒの靴裏から抜け出すと、俺は『あかつきの剣』を大上段から振り下ろした。

 不意を打ったはずのその一撃は――しかし。

 大重量を解放する、その一瞬前のタイミングで、軽く防がれた。


「……軽い……。悲しくなるほどに……」


 失意に満ちた声で呟き、ディーデリヒは俺の剣を弾き返す。

 直後、横腹を乱暴に蹴り抜かれ、俺は床石の上を滑った。


「馬鹿だったよ。本当に愚かだった。最期の主と見定めた王が……ただ、猿のように下半身の収まりどころを探しているだけの、ガキだったとはな」


 俺が起き上がる頃には、すでにディーデリヒの病毒の剣が、目の前に突きつけられていた。


「言い返せ……。否定してみろ」


 深い洞のような瞳で、魔王の輩が俺を見下ろす。


「示すがいい、ジャック・リーバー――女を知ったくらいのことで、ガキが大人になれると思うなッ!!」


 そして、漆黒の剣が振り下ろされる。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] 96話の、2/3は回収されたけど、最後の1段落、 「ーーーーだが、ーーなーー・・・・・・!?」 「ーーーーともなーーねえ、男のーーーー」 この二つのセリフだけなかったんだけど。 …
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。