第103話 暴力の化身
気付けば、俺の意識は暗い書庫に戻っていた。
なおも頭の中に色濃く残留する、白昼夢のような光景……。
あれがもし、エヴェリーナの記憶だとしたなら。
あいつも――そうだというのか。
だとするなら、この記憶が何を意味しているのか、なんとなくわかる。
両親の死体を前にしたエヴェリーナは、次の瞬間、『孤児院』にいた。
まるで両親など、最初からいなかったかのように。
……いや、忘れたのだ。
自分の生い立ちも、自分の両親も、自分の絶望も、自分が何者なのかも。
すべてに嘘をつき――すべてを偽った。
俺は知っている。
人を象った炎――彼女の前に現れた、精霊の名を。
〈笑い去る理想のアミー〉。
精霊術の名は……〈舌裏の偽詞〉。
この記憶は、メッセージなのだ。
過去の自分から、未来の自分へと向けた……。
あまりの事実に、俺は呆然としていた。
エヴェリーナもまた、俺と同じ、あの悪魔に人生を壊された人間。
だとしたら、彼女の望むことは――
――プウン、と耳障りな羽音が、耳朶を打った。
ちょうど1匹の蚊が、目の前から飛び去っていくところだった。
考えることに集中していて、気付かなかったらしい。
手の甲をやられたらしく、途端に痒くなってきた。
俺はその部分を軽く掻きながら、意識を切り替える。
……エヴェリーナの正体はわかった。
長居することもないだろう。そろそろこの孤児院を離れ――
ドアが開く音がした。
俺は息を潜める。
図書室ではない。音が遠い。
キイ、キイ……と、床板が軋む音。
警戒した足取りではない。俺の存在がバレたわけではないだろう。
音の軽さから察するに、孤児院の子供が起きてきて、トイレにでも行こうとしているに違いない。
俺はしばらく、書庫の中で気配を殺し、足音に耳をそばだてた。
見咎められる前に逃げ去ることは可能だが、幽霊か何かだと思わせて、怯えさせてしまうのは本意じゃない。
キイ……キ、キイ……。
…………?
気のせいか……徐々に、足取りが遅くなっている気がする。
それに足音が不規則で……まるで、千鳥足にでもなっているような――
――ドカッ。
「!」
鈍い音に、俺はハッとした。
――倒れた!?
俺は一応、浮遊して足音を鳴らさないようにしながら、書庫から図書室に移動した。
そして図書室のドアに隙間を開けて、そうっと廊下を覗き込んだ。
廊下の真ん中に、10歳くらいの男の子がうつ伏せになっている。
明らかに、尋常ではなかった。
俺は思わず図書室を飛び出し、男の子に駆け寄って、その身を抱き起こした。
大丈夫か――と、声をかける必要もない。
熱い。
身体が。まるで燃えているようだ。
不規則で、浅い呼吸。幼い眉が苦悶で激しく寄っている。
そして――
顔に。
黒い――斑点のようなものが。
戦慄が走った。
俺は、この症状を知っている。
肌が黒く染まり、程なくして死に至る――
「黒死――」
ぐらり。
と。
視界が、ゆれた。
全身を熱が覆うと共に、猛烈な吐き気が胃の腑から込み上げる。
思考が散り散りになっていく中、ただ一つ、鮮明な感覚があった。
痒み。
さっき、蚊に刺されたところが、かゆい。
俺は自然と、手の甲に視線を落としていた。
そこにあったのは、虫刺されの赤い腫れ――ではなく。
黒い、斑点。
確か――黒死病は。
ノミやネズミなどの、小動物を介して、感染を広げた――と。
ならば、蚊も――
「……ぅぐ……!」
俺はぐらつく意識を懸命に保ちながら、男の子をゆっくりと床に寝かせた。
わかっている。
黒死病が、こんなに唐突に感染拡大するはずもなければ、こんなスピードで症状が表れるはずもない。
これは――精霊術だ。
近くに、彼がいる。
軽くふらつきながら、暗い廊下を歩き、孤児院の玄関に辿り着く。
力の入りにくい腕で扉を押し開いた、そのときだった。
真っ黒な野犬が、目の前に飛びかかってきた。
「!?」
顔面に噛みつかれる寸前に、俺は横に身体を倒して躱す。
野犬は着地して、牙の隙間から涎をだらだら垂らしながら振り向いた。
飢えているのか――いや、これは、もっと異常な……!
野犬が再び地を蹴ったときには、俺は空にいた。
宙に滞空して見下ろす俺を、野犬は、バウバウバブアバウッ!! と怒ったように威嚇する。
好戦性の異常な向上。
――狂犬病か……!
俺は空から、深夜のイルネシアを見渡した。
すると、まるでガス灯の光を拒絶するかのような、真っ黒な影が、表通りをふらふらと歩いているのが見えた。
――いた。
ディーデリヒ・バルリング!
俺は空から、もはや人の形をした闇と言えるほどに、全身を漆黒に染めたディーデリヒの前に着地した。
あの漆黒の正体は、竜人族たるディーデリヒが、身体のあちこちに有する銀の鱗だ。
ディーデリヒは肉体も屈強で、武芸も右に出る者がいない――しかし、ただそれだけでは、魔王軍の将は務まらない。
彼が俺に次ぐ単騎戦闘力を持つと言われる所以は、その精霊術にある。
疫病を操る力――【銀蝕の命風】。
感染症を意のままに広げ、戦わずして敵地を無力化することのできる、図抜けた制圧力こそが、ディーデリヒ・バルリングの真骨頂なのである。
その際、彼の身体の銀の鱗は、彼自身が放つ病原菌の毒性により、黒く染まるのだ。
かつての彼は、その力をもって敵を退け、味方の病を治した。『戦う医者』と呼ぶ者もいたという。
しかし、ある切っ掛けで悪の淵に転がり落ち、『虐殺英雄』と渾名されるまでになったのだ。
「貴様……」
うら寂しく輝くガス灯の、文明の温かみを否定するかのように黒く佇むその男に、俺は吐き気を呑み下しながら告げる。
「それが将の姿か、ディーデリヒ――夜陰に紛れ、無防備な人間を病で殺す、そのコソ泥のような振る舞いが、貴様の思う『魔王』か?」
答えはない。
代わりとばかりに、ディーデリヒの口元からは、ノイズめいた言葉が繰り返される。
「……魔女……魔女……魔女……魔女……」
……なんだ……?
様子がおかしい。
明らかに正気ではない。
その証拠に、ディーデリヒは一度として俺を見ない。
両眼の焦点を定めないまま、ぼうと虚空を見つめるのみ――まるで、夢遊病の患者のよう。
忘れている? 俺を?
そうだ、アゼレアさえ忘れていたのだ、この男だって覚えているはずがない――だとすれば、どうなる?
もはや故郷もなく、魔王軍だけが居場所となっていた男が、それを失えば。
どうなる?
「――ゥゥウウウルルァアアァァァッ!!」
獣のような雄叫びをあげて、ディーデリヒは腰から剣を抜き放つ。
その剣の刃だけが、ディーデリヒ自身とは対照的に、ガス灯の光を浴びて白々と輝いていた。
暴力。
『魔王』を失ったディーデリヒには、もはやそれしかなかった。
拠り所を失った大きな迷子。
振り上げた拳を落とす場所を探す、暴力の化身。
……ああ、そうか。
お前にとって――魔王軍という場所は、それほどに大切だったのか。
ズン! と地響きめいた踏み込みの直後、ディーデリヒが迫る。
単純な斬撃は俺には通じない。
警戒すべきは【銀蝕の命風】による感染だ。
【巣立ちの透翼】で大気の流れを操れば、空気感染、飛沫感染は防ぐことができる。警戒すべきは接触感染のみ……!
俺はバックステップで間合いを取ると、すぐに空中へと逃れた。
束の間ではあるが、剣の射程の外に出る。
だが、ディーデリヒ・バルリングは制空権を取った程度で完封できるほど甘くはない。おそらくは感染させたコウモリなどをけしかけて、空を塞ごうとする……!
その前に失神させる。
ディーデリヒの意識を刈れば、垂れ流しになっているウイルスも効力をなくすはずだ!
風のバリアを作る。
これで病原体との接触を防ぎつつ――
「――っ、あっ!?」
バランスが崩れた。
身体だけじゃない。大気の流れを精密に操作しようとした、【巣立ちの透翼】のバランスが――
なんっ……だ!?
【巣立ちの透翼】の、コントロールが上手くいかない……。移動しているときは、さして気にならなかったのに――精密作業が必要になったこの段になって、初めて気が付いた。
いつもより、出力が強すぎる……!?
コントロールを失った大気が、俺の身体を煽って傾かせる。
まだだ。まだ落下はしていない! 体勢を立て直して――
コウモリの群れが、視界を埋め尽くした。
バサバサと羽ばたきながら、通りすがりに俺の腕を噛んでいく。
くそっ……! 間に合わなかった!
体調が悪化する。
意識が霞む。
思考が鈍り、精霊術を制御するリソースが足りなくなる。
上下がわからなくなった、と思った瞬間、背中にしたたかな衝撃が走り、肺から空気が叩き出された。
墜落したのだと気付いたのは、ぼんやりと光るガス灯が、ずいぶんと高く見えてからだった。
ま、ず……。
起き上がろうとするが、手足に力が入らない。
エネルギーが致命的に足りなくなっている感触だった。電力が切れたロボットはこんな気分なんだろうか。
――ちくしょう、思考が逸れてる。集中力が維持できない……。
ザリ、と石畳に靴が擦れる音。
真っ黒な影が、傍に立っているのがわかる……。その手からは、白く輝く光が細長く伸びていた。
影がディーデリヒで、光が剣だと、すぐに認識できないくらいに、思考力が落ちている……。
細長い光が、鋭く振り上げられる。
……こんなところで、死んで、たまるか……。
ラケルが何回も、何十回も、何百回も繰り返して、ようやく辿り着いた世界……。
この先に、俺たちが幸せになれる世界があると、あいつは、信じたんだから……!
力の入らない手を、それでも伸ばした。
目の前に見える影の、その足首を、掴んだ。
足首を覆う服の繊維を、指の腹に感じて、
俺の中から、何かが消えた。
それは例えば、開けっ放しの栓を閉める感覚。
垂れ流しになって、溢れ返っていた水が、今、ようやく止まった――そんな感覚。
――ああ、そうか……。
――そういう、ことだったのか。
理解した瞬間、記憶が復活した。