第101話 魔女の揺り籠
『一緒に――』
猛然と迫ってきたトラックが、妹を吹き飛ばす。
『――――ス……テ……キ……』
爆弾のような瀑布が、アネリを一瞬で飲み込む。
『アタシ…………笑って、ねえ…………』
笑いすらして、ヴィッキーを斬り飛ばす。
――ああ、これでいい。
これでいいんだ。
他人のことを何とも思わない、生きているだけで害悪を振り撒くような奴らは、こうしてしまって構わない。
もし、これを観劇している人間がいたとしたら、そいつらも喝采して俺を褒めたたえるだろう。
――よくやった!
――生きている価値のないゴミを、よくぞ掃除してくれた!
胸がスッとする。
笑顔になる。
だから、これでいいんだ――
『――それって、わたしも?』
フィルが、泣きそうな顔で笑っていた。
『そうだよね。仕方ないよね。たくさん殺したもん。じーくんのお父さんも、お母さんも。ごめんね、じーくん。生きてる価値ないから、死んじゃうね』
待て、違うっ! お前はっ――
フィルは、糸が切れたように崩れ落ちる。
人形のように動かない、偽物のように空っぽなそれに、俺は慌てて縋りついた。
違うんだ、そんなつもりはなかったんだ。
お前は、お前だけは……。
『それって、自分勝手じゃないかな』
エルヴィスが言った。
『何も知らないアネリさんのご両親も、きっときみみたいに嘆き悲しんだはずだ。ヴィッキーにだって、そういう人がいたかもしれない。彼女たちは死んで良くて、どうしてフィリーネさんだけはダメなんだい?』
だって……だって、フィルは――
『都合のいいことを言うなよ。きみは大勢殺しただろ。ぼくたちだって殺した。サミジーナだって殺した。世界中の人々を殺した。その世界の記憶を、きみだって知っているはずだ』
俺は――俺は、ただ――
血の海が、足元に広がっていく。
俺の身体はずぶずぶと、その中に沈んでいく。
――普通に、幸せに、暮らしたかっただけなんだ――
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
後宮は記憶通りの場所にあった。
そこらの空に飛ばしておくと目立ちすぎるので、人足が遠のいた峻険な山間に停泊させていた。
空から屋敷の前庭に着地する。
俺の記憶が途切れている間、何があったのか?
屋敷に残してきたアゼレアとビニーなら、何か知っているかもしれない……。
そう考えながら、屋敷の玄関に足を踏み出した。
「――止まりなさい!」
瞬間、鋭い声と共に、爪先を蒼い炎が焦がした。
「――――っ!?」
慌てて飛び退くと、バタン、と扉が開け閉めされる音がした。
前を見る。
侵入を拒むようにして隔たる壁の、その向こう側に、炎の蒼さとは正反対の、赤い髪の少女がいた。
「アゼレア……?」
戸惑って級友を見る俺を、アゼレアは厳しい眼差しで見やる。
そして口にするのだ。
「何者? どうしてこの場所を知ってるの?」
誰何を。
俺に対して、どこの誰だ、と。
「おい……嘘だろ?」
思わず口から零れ出ていた。
「俺を……俺を、忘れたのか?」
ああ――くそ。
わかっている。答えが頭の端で主張している。
さっきの難民キャンプでのことを思い出せ。
ダイムクルドが忘れられていた。
魔王が忘れられていた。
それは、すなわち――俺が、忘れられているということではないのか。
この世界から。
ジャック・リーバーという存在が、消え去っているということではないのか。
「俺だよ、アゼレア……! ジャックだ! お前のクラスメイトで、寮では隣の部屋でっ……!」
忘れられていると、わかっているのに、縋るような言葉が止まらない。
やっと――やっと、昔みたいになれたんだ。
奪わないでくれよ。
お願いだよ。
俺はもう、充分、失っているじゃないか――
「なっ、何よ!? 私はあなたなんて……!」
「じゃあ、お前はここで何をしてるんだよ!? この屋敷を守ってくれって言ったのは俺だろ!?」
「えっ……?」
瞬間、アゼレアの顔に当惑の色が浮かんだ。
眉根を寄せ、口を開けて、自分の中を探るように視線が泳ぐ。
「私……? 私は……」
「アゼレア!! 一体何があったんだ!?」
「……わからない……」
迷子のような呟きが漏れ出た。
難民たちは、ただダイムクルドの名前を知らなかっただけかもしれない。
あるいは、ジェイコブも語ったように、ショックで記憶を封じていたのかもしれない。
だが。
アゼレアのこの様子は、尋常じゃない。
忘れているのではない。
忘れさせられているのだ。
俺が、忘れられたのではなく。
俺を、忘れさせられたのだ。
世界から、何者かが、俺を消し去ったのだ。
「――ああもううるさいっ!」
滲んだ当惑を消し飛ばすように、アゼレアは高い声で叫んだ。
「とにかく、私はここを守らなきゃいけないの! 余所者は去りなさい!」
蒼い炎が蛇のように襲いかかってきて、俺は退がらざるを得なかった。
これ以上、ここで粘っても益はないだろう。
冷静な自分がそう判断し、しかし同時に、弱い自分が子供のように悔しがっていた。
ちくしょう。
ちくしょう。
ちくしょう!
誰だ。この期に及んで、俺から奪おうとするのは。
絶対に……絶対に、見つけ出してやる。
もう一つだって、俺の手のひらからは、零れさせはしない。
後宮を発った俺は、一路、センリ共和国へと向かった。
世界から俺を忘れさせた犯人。
そんなことが果たして可能なのか、今でも信じられないが、現実として起こっている以上、何者かがそれをしたことは間違いない。
その犯人について――冷静に考えれば、目星はつく。
つい最近、よく似た現象を、俺は体験したはずだ。
あれは……あるいは、今とは真逆の現象か。
今のように、在るものをなかったことにするのではなく。
ないものを、在ることにした。
そう――
――もうすでに、騙されているぞ
ディーデリヒたちが消えたときの、あの現象。
そして、彼らのバックにいる存在。
センリの魔女――エヴェリーナ・アンツァネッロ。
この忘却現象が精霊術によるものだとしたら、なるほど、エヴェリーナが術者ということは考えられなくもない。
精霊術はこの世界の万人に宿るものだが、エヴェリーナの精霊術は非公開だ。
ならば、もしその術が、群衆に暗示をかけるようなものだったとしたら?
魔女と称されるあの舌鋒にも説明がつく。
そして、規模を広げれば、今のこの状態も実現しうるだろう。
俺の記憶は、ダイムクルドに乗り込もうとしたところで途切れている……。
もしダイムクルドで、エヴェリーナと対峙したんだとしたら……?
その半日前に首都イルネシアで演説しているんだから、普通なら考えにくい。けど【絶跡の虚穴】を使えば、移動時間に関しては問題にならない。非常時用の【絶跡】使いを用意するのは、一国の首脳なら当たり前のことだ。
エヴェリーナ・アンツァネッロの、秘匿された精霊術を探る。
今の俺に打てる手の中で、それが最善だと思えた。
真っ先に思い浮かんだのは、イルネシアの大統領官邸だ。
だが、官邸は深夜まで警備が厳しいし、先々のことを考えると、禍根が残りかねない真似をするのはマズい。
官邸はいったん後回しにして、次点を先に当たることにした。
エヴェリーナ・アンツァネッロは、身寄りのない孤児だったという。
幼少期を孤児院で過ごし、後に政治家として活動するための知識を、ほとんど院の図書室で蓄えたという逸話がある……。
エヴェリーナの精霊術秘匿が、幼少期から行われていたとは思いがたい。孤児院になら、その情報が少しは残っているんじゃないかと、そう考えたのだ。
日が沈んだ頃にイルネシアに入った俺は、街が寝静まるのを待った。
センリ共和国は、三国の中でも技術に優れる。
その首都イルネシアは、大陸でも最も文明の進んだ街と言えるだろう。
夜であっても、ガス灯が煌々と道々を照らし、建物からも光が消えることはない。
文明が進めば進むほど、夜は短くなっていくのだ。
孤児院は、街の中心から少し外れたところにある。
文明の光を避けるようにして移動した俺は、院の窓から光が消えているのを確認した。
やはり子供が多いだけあって、消灯は早いようだ。
【巣立ちの透翼】は、潜入にも有用だ。
何せ足音をまったく立てずに移動できる。
家人が寝静まった今ならば、誰に気付かれることもなく、調べ物ができるだろう――
……ん?
俺は立ち止まった。
孤児院の門、その手前に……一人の、老女が佇んでいた。
老女は何をするでもなく、ぼうっと孤児院を見上げている。
夜の闇にじっと佇む老女――何ともホラーチックな、ぞっとしない光景ではあったが、幽霊ならばガス灯の光に影を落としたりはしないだろう。
無視しても良かったが、今はどんな情報でも欲しい状況だ。
関係があるとは思えなかったが、一応、話しかけてみることにした。
「おばあさん、どうかされましたか?」
老女はじっと孤児院を見上げたまま、呻くように唇を震わせた。
「家に……入れんのよ」
「家?」
「あたしの家に……入れん」
もしかして、孤児院を自分の家だと思っているのか?
ボケ老人ってやつか……。深夜徘徊の真っ最中みたいだし、家族が心配するだろう。
「おばあさん。ここは孤児院です。おばあさんの家は別のところですよ」
「そう……だったかぁ?」
「そうです。早く帰りましょう」
「うぅん……」
唸りながら俯き、首を傾げ、老女はゆっくりとした足取りで去っていった。
あの様子なら、俺のことは忘れてくれそうだ。顔も見られてないし。
さて。
俺は閉められた門を軽く飛び越える。
どこから入るか……。
あまり建物の周りをうろついていると不審者丸出しだ。さっさと侵入ルートを見極めたいところだが。
子供部屋には用はない。
エヴェリーナがこの孤児院で暮らしていたのは、もう30年ほども前のことだ。彼女の私物が残っているはずもない。
あるとしたら、記録……。
院長室とか、あるいは、書庫か……?
建物の横に回っていくと、見つけた。
図書室だ。
イルネシアでは窓ガラスもさほど珍しくはないが、ここは木製の鎧戸があるのみだった。施錠も古く脆い。少し隙間を開けて、『あかつきの剣』の先端を差し込めば、簡単に金具を外すことができた。何とも不用心なことだ。
宇宙船の船員のように、無重力になってするりと窓に滑り込む。
どこか甘い、紙の匂いがした。
林立するいくつもの本棚に、きっちり製本された本の背表紙が、ずらりと並んでいる。
そのいずれもが、おそらくは活版印刷の本だ。
ラエスやロウでは今でも手書きの写本に頼っているが、センリ共和国では、俺が学院にいた頃から活版印刷を実用化している。
これだけの本を揃えられるのは、それだけ本が安価になっていることの証明だろう――大統領を輩出した孤児院ということで、寄付も相当数、あるんだろうけどな。
背表紙を眺めながら、俺は本棚の間を歩いていく。
どれも新しい。ここ数年のうちに増えた蔵書だろう。
エヴェリーナがここで暮らしていた頃は、さすがのセンリ共和国も、まだ手書きの写本しかなかったはずだが……。
図書室の奥まったところに行くと、突き当たりに扉があった。
掛札には『書庫』とある。
扉の古び方から察するに、相当に昔からある部屋のようだ。
錠前も古く、簡単にマスターキーが作れてしまうことから今では使われていないタイプ。
残念ながらマスターキーの持ち合わせはないが、これなら即興で作ることもできる。
携帯している飲み水を少量、浮遊させ、鍵穴に流し込む。それから水の熱を『浮遊』させたら、氷の鍵の完成だ。
氷の鍵を回し、カチリと錠前を外した。
ギギイッ……と、軋みながら扉が開き、濃密な埃の匂いが溢れ出してくる。
闇に沈んだ書庫は思ったよりも狭く、人一人入るのがやっとだった。三方を本棚に埋められ、そのほとんどが、表紙もない紐綴じの本で占められている。
かなり長い間、誰も入っていないような雰囲気だ……。燭台すら見当たらない。そもそも、蝋燭など点けたら、簡単に何かに引火してしまいそうな紙と埃の量だった。
一応、こういうときのために、携帯ランプを用意してある。電気で光るので、引火の心配はないだろう。
本棚の本には、どれも背表紙がない。
俺は携帯ランプを片手に、1冊1冊取り出して中身を検めた。
孤児院らしく、子供向けの御伽噺も多いが……それに紛れて、本格的な政治書や経済書が散見される。
こんなものが、どうして孤児院に?
そこで思い出した――エヴェリーナ・アンツァネッロは、政治家として活動するための知識を、孤児院の図書室で蓄えた……。
俺はてっきり、童話や伝記から教訓を得たり、算術や歴史を学んだりした、という意味だと思っていた。
しかし、これは……。
――まるで、最初から、大統領を育てようとしていたみたいだ。
怖気が走る。
不気味だった。
最速で、最短で、最効率で。大統領を生み出すために用意された、知識の山。
おかしい。そんなはずはない。
だって――エヴェリーナがこの孤児院にいた約30年前は、大統領という役職そのものが存在しなかった。
当時はまだ、センリ共和国ではなく、センリ王国だったのだから。
なのになんで、こんなものを子供に読ませる?
君主制の国で、孤児院の子供が政治に携わる可能性など万に一つもない。
未来において革命が起こり、共和制に移行することを知っていない限り、こんな教育はありえない……!
手が震えた。
これは、恐怖だった。
この書庫そのものに、俺の本能が、巨大な恐怖を訴えていた――
震えを抑え込み、俺はさらに本棚を漁っていく。
すると、乱雑に積まれた本の後ろに、まるで隠すようにして、題も記されていない紙の束が隠されていた。
そう、紙の束だ。
一応、紐で綴じてはあるものの、紙の大きさも不揃いで、とてもちゃんとした写本とは思えない。
気になって取り出してみると、紙束の隙間から、するりと何かが零れ落ちた。
反射的にキャッチしてみると、それは――
「指輪……?」
何の石もついていない、シンプルな指輪だ。
普段使いする用の……結婚指輪か何かだろうか?
不審に思いつつ、俺はいったん、その指輪を懐に仕舞って、紙束を検めた。
これは……ノートか。
勉強に使ったんだろう、走り書きの寄せ集めだった。
計算式や考察などが、乱雑に書き留められている。
エヴェリーナが使ったノートだろうか……?
ページをぱらぱらとめくっていくと、後半は白紙だった。
眉をひそめて、記述のある最後のページを探す。
ほどなくして見つけ出したページには――紙を埋め尽くすような大きさで、こんな殴り書きがあった。
『どうせ ぜんぶ うまくいく』
……どういう意味だ……?
意味はわからない。だが、怒りを、悲しみを、諦めを、悔しさを、叩きつけたような、この筆跡は――
そして、光に包まれた。
「…………!?」
眩しい。見えない。意識が――!
まるでページに吸い込まれるようだった。
突如として視界を埋めた光に、俺の意識は飲み込まれていった。