第100話 ■■の爪跡
女の子はネルと名乗った。
彼女の辿々しい言葉から察するところには、ここは故郷を失った難民たちのキャンプらしい。
「人ね、どんどん増えてるんだよ。お兄さんはどこから来たの?」
俺が咄嗟に、「……ラエス王国からだよ」と答えると、ネルは「わたしと一緒だね」と言って、少し嬉しそうに笑った。
彼女に連れられて川沿いを歩いていくと、テントがたくさん張られた場所に行き当たった。
ネルの言う通り、そこには100人以上の人間が生活していた。
古い布を縫い合わせて服にしている女性や、捕ってきた野生動物を解体している男性が、あちこちに散見される。
教会の炊き出しだけではとても足りないのだろう。彼らなりの方法で、自活の手段を確立しているのだ。
彼らの中には、怪我をしている人間も多く見受けられた。
狩りによるものだけとは思えない、明らかに、もっと大きな暴力による傷……。
彼らの故郷を奪ったのが誰なのか、訊かずとも容易に知れた。
ダイムクルド以上に戦争を起こしている国は、今、この世界のどこにもない。
俺は、この世で一番、ここにいてはいけない人間だ。
だが、俺の身に何が起こったのか……せめて、このキャンプがどこにあるのか掴まないうちには、去るわけにはいかなかった。
恥知らずにも、俺は正体を隠すことにしたのだった……。
「ここに、代表さんがいるよ」
他と変わりのないテントの前で、ネルが言った。
「新しく住む人は、代表さんと会うのが決まりだから」
「……ああ。住むかどうかはともかく、挨拶はしておこう」
テントの中に入ると、四十過ぎほどの男が、テントの奥で胡座をかいていた。
元々は猟師でもしていたのか、屈強な身体つきで、眉間には深いしわが刻まれている。
しかし、その眼差しには柔らかなものがあり、なるほど、慕う者も多そうな、強くも優しげな雰囲気を帯びていた。
「おう、ネル。新入りかい?」
「うん。街のゴミ山で寝てたの、見つけた」
「そりゃずいぶん物好きな居眠りだ。しかしネル、一人で街に行くなって言っただろ。『ハグレ』に見つかったらどうすんだ?」
「……ごめんなさい」
しゅんとするネルに、男は困ったように口元を緩め、
「人を見つけてきたんだ。今回はその手柄で大目に見てやらぁな。……それで、若いの。疲れてんだろう。とりあえず座ったらどうだい?」
俺は軽く会釈して、男の前に胡座をかいた。
男は伸び放題のヒゲをじょりじょりと擦りながら、
「……ずいぶんいい身なりをしてるな。どこの出だ?」
「……しがない下級貴族です。どれだけ貧乏でも、身なりだけは一丁前にしておかなければならないのがつらいところでして」
我ながら、つらつらと臆面もなく、よくもこんな出任せが言える。
男は「ハッハ」と軽く笑い、
「俺はジェイコブ。一応、ここのキャンプを取り仕切ってる。あんたは?」
「……ジャックです。姓はすでに意味を為しませんので、名だけですが」
男――ジェイコブは少し目を丸くした。
「こりゃ奇妙な縁だ。よく似た名前じゃないか」
「よくある名前だと思いますが」
「かもしれねえが、重要なのさ。どんな些細な縁でも、こんな時代じゃあな」
縁――か。
確かに、一人で生きていこうとするには、あまりに難しい世界だ。
「あんた、どこから来たんだ? あんたが寝てたっていうゴミ山のある街――あそこはもうとっくの昔に廃墟になってたはずだが。たまに『ハグレ』もうろついてやがるから、あそこにゃあ住みつけねえだろう?」
「『ハグレ』?」
「知らねえのか? 魔物だよ。ハグレの魔物」
……軍の指揮から外れた魔物が、地上でまだ生きているのか。
【試練の迷宮】で動物を依代に生み出された魔物は、【無欠の辞書】によって統率されている。
しかし、やはりあれだけの数がいれば、多少は脱落するものが出てきてしまう。【無欠の辞書】の統率から外れてしまうものも……。
そいつらが生存本能に基づいて、地上で人を襲っているのだ。
ダイムクルドから離れた魔物は、いずれ自然に元の動物に戻る。
だから俺は、それを些事として、捨て置いていたのだ……。
「……実は、気絶する以前の記憶が、ほとんどないのです」
自分の卑劣さに吐き気を催しながら、俺は言う。
「自分がどこから来たのか……ここがどこなのかも。かろうじて、自分の素性が思い出せる程度で……」
「むう……そうか。そいつは大変だったな。まあこう言っちゃなんだが、安心してくれ。あんたみたいな奴は多いよ。中には、自分が誰だったか思い出せねえ奴もいる……」
本来なら不審でしかない説明が、こうも当たり前に受け入れられてしまう。
その事実に、俺は目が眩むような思いをした。
「ここはラエス王国の北西部、ロウとの国境から少し入ったところだ。近頃はロウからの避難民も多いが、名前から察するに、あんたはラエス人だろうな」
「何か……知りませんか? 俺がどこから来たのか……些細なことでもいいんですが」
「そうさなぁ。あんたみたいな身なりの若いのを見かけたら、すぐに俺んところに報告が上がってきたはずだが……。最近あったことと言えば、そうだな……流れ星が落ちたって報告があったくらいか」
「流れ星?」
「夜が明ける直前くらいにな。空の上から星が落ちてきたって言う奴が、何人かいたのさ。まあ、もしそれがあんただとしたなら、今頃、地面でペチャンコになってるはずだがな」
そう言って、ジェイコブは軽く笑った。
それだ、と俺は心の裏で思う。
俺は落ちてきたんだ――どこから? 一つしかない。空を飛んでいる土地など、ダイムクルドの他にはない。
……俺の記憶は、ヘルミーナを救うため、ダイムクルドに乗り込もうとしたところで途切れている。
何か、あったんだ。
ダイムクルドで、何かが――
いったん戻るべきだ。
幸い、ここの大体の位置は知れた。後宮の場所も覚えている。
後宮に残してきたアゼレアやビニーと合流すれば、もっと詳しいことがわかるはずだ。
早々に発とう。
そう思った矢先だった。
「空から人が落ちてくるなんて、まるで御伽噺みたいだよなあ。雲の上に国でもできてんのかねえ」
ジェイコブが、強烈に違和感のあることを言ったのだ。
「……あの」
「んん?」
「ダイムクルドのことを……知らないのですか?」
ジェイコブは怪訝げに眉をひそめた。
「だいむくるどぉ? なんかの本の話かい?」
彼は知らなかった。
知らないはずがないのに。
それによって、彼らは故郷を失ったはずなのに。
ダイムクルドのことも、魔王軍のことも、覚えてはいなかった。
それから、何人かの難民たちに尋ねて回ってみたが、やはり誰も、『ダイムクルド』という地名も、『魔王』という肩書きも知らなかった。
ハグレの魔物がいることは知っているが、ではそれが何からはぐれたのかと訊くと、皆一様に首を傾げてしまう。
なかったことになったわけではない。
ラケルが神聖フィアーマ帝国で目覚めたときのように、世界が根底から変わってしまったわけではない。
『ハグレ』という実在の証拠が確かにあるのに、ダイムクルドや魔王という存在だけが、まるでピースを失くしたパズルのように、歯抜けになっているのだ。
もしかして……俺の記憶が欠けているのとも、関係しているのだろうか。
もう少しだけ情報を集めるために、俺は難民キャンプに留まることにした。
「お兄さん、お兄さん、一緒に遊ぼ?」
最初に俺を見つけてくれた女の子――ネルにせがまれて、彼女と一緒にキャンプの周囲を歩いた。
飲み水の確保のためだろう、キャンプは川沿いに作られている。
その川辺に移動すると、ネルはしゃがみ込んで、綺麗な石を探し始めた。
「わたしね、得意だったんだ。きれいな石を探すの。お父さんやお母さんにも、たくさん褒めてもらったんだ」
その小さな背中を見下ろしていると、どうしても重ねてしまう。
フィル。
サミジーナ。
俺の、不肖の妹によって人生を利用された、二人の少女のことを……。
……感傷に浸っている場合じゃない。
心を冷やせ。今は情報がいるんだ。
「君の……お父さんと、お母さんは?」
「死んじゃった」
ぽいっと石を捨てながら、ネルは軽く、そう言った。
「いきなり、街のほうから怖い声がたくさん聞こえて……。わたしはそのとき、ちょうど街外れに遊びに行ってて。お父さんとお母さんが危ないって思って……でも、大人の人に止められて」
たどたどしい言葉は、不自然なくらいに無感情だった。
枯れたように、空っぽだった。
「わたしが……もう少しだけ、お姉さんだったら……助けに行けたのかな?」
その呟きは、山彦のように不確かだった。
きっと、何度も繰り返した言葉。
繰り返して繰り返して擦り切れた、胸の奥から零れた残響。
彼女の人生を、ずっと縛ることになる、呪い……。
彼女のような人々のことを、俺は考えないようにしていた。
どうせ、すべて妹なのだから。
考える必要などない――考えてはならない。
そうして、魔王たる俺を遂行してきた。
ああ……同じだ。
改めて、そう思う。
人を人とも思わない盗賊ヴィッキー。
子供たちをコレクションにしていたラヴィニア・フィッツヘルベルト。
そして、俺の友人知人を殺し尽くした妹……。
俺が何よりも憎んできたあの邪悪たちと、今の俺は何も変わらない。
いや、彼女たちよりも、ずっと悪辣なのだろう。
全人類を抹殺することさえも、躊躇うことがなかったのだから。
今更、心を改めたところで、罪は消えない。
彼女たちは生きている。
俺に傷付けられた人生が、それでもまだ続いている。
贖う方法は、あるのだろうか。
この寂しそうな女の子の身体を、優しく抱き締めてやる資格すら、ないっていうのに。
「……お兄さん」
ふと、ネルが立ち上がり、俺に何か握り締めた手を差し出してきた。
「あげる」
開かれた小さな手には、つるりと綺麗な丸い石があった。
「これ……」
「お兄さん、まっくらな顔してたから」
「まっくら?」
こくりとネルはうなずいた。
「ここに来たとき、わたしも、そうだったんだって。でも、きれいな石を見てたらね、少しずつ、くらくなくなっていったんだって」
「……そっか……」
それで……俺を、連れ出してくれたのか。
きらきらと輝く石を見ていると、自分が照らされていく気がした。
きっと、石の光じゃない。
彼女の優しさが、俺の『まっくら』を少しだけ、拭い去ってくれたんだ……。
俺には慰められる資格はない。
けれど、こんな俺さえ照らしてくれる光が、まだこの世界にはある。
それは、きっと……絶やしてはならないものだ。
「……俺たちが、きっと、君が悲しい思いをしなくて済む世界を作るよ」
石を掴みながら、俺は告げた。
ネルは軽く首を傾げて、
「……ほんと? ……お母さんたちに、また会える?」
「いいや……それは、約束できない。けど……いつか、君がお姉さんになって、お母さんになったとき、同じ思いをしないように、……俺たち大人が、頑張るから」
「おとな?」
また小首を傾げて、ネルはくすりと笑った。
「大人は、泣いたりしないよ?」
頬を涙が伝っていることに、俺は今、ようやく気が付いた。
「……そうか。そうだよな」
父さんも、母さんも――最期まで決して、涙を流さなかった。
だったら、俺も。
俺は目元を拭い、ネルから一歩離れた。
もう、情報は充分だ。
「ネル。俺は、もう行くよ」
ふわりと、地面から足が浮き上がった。
ネルは、少し驚いた顔をして、俺の姿を見上げた。
「幸せになれよ」
資格はなくとも。
この願いは、きっと間違いじゃない。
「お父さんとお母さんが、君が生きていてくれて良かったって、思えるように――」
せめて俺は、この言葉を、現実にしよう。
伸ばされたネルの手に軽く触れ、俺は青い空へと、浮き上がっていった。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「あ……」
ネルは、宙に伸ばした手を止めた。
青い空には、何の姿もない。
ただ、白い雲が、ゆっくりと流れていくだけ。
伸ばした手を引っ込めた。
そしてその甲を見つめて、ことりと首を傾げる。
「わたし……何してたんだっけ?」
青い空には、何もない。