第93話 魔女の尖兵
「エルヴィス様っ!」
ゆっくりと起き上がったエルヴィスに、アプリコットの髪の女の子が飛びついてきた。
エルヴィスは驚いた顔をしたが、すぐに優しい微笑を浮かべて、女の子の髪を撫でる。
「ごめんね、ヘルミーナ。みっともないところを見せて――幻滅してくれていいよ」
「いいえ、いいえ……あなたは、わたくしが思っていたよりも、ずっと素敵な方でした……」
あれがロウ王国の第一王女、ヘルミーナ・フォン・ロウか。
写真やラケルの記憶では見たことがあるが、実際に会うのはこれが初めてだった。
……お似合いだな。
もし、七年前の事件がなければ、この二人は今頃、とっくに結婚していたんだろう。
「ジャック」
半分ほど夜になった空を見上げていると、ラケルの声がした。
空から視線を下ろし、ラケルの顔を見て、俺は苦笑する。
「ごめん。未練ったらしい男で」
「いいよ。……この程度で嫉妬してたら、たぶん身が保たないし」
「どういう意味だ?」
首を傾げたが、ラケルはふいっと顔を逸らして、だんまりを決め込んだ。
「……ジャックっ……! エルヴィスさんっ……!」
ラケルの後ろからやってきたのは、アゼレア、ルビー、ガウェインの三人だった。
アゼレアは俺とエルヴィスの前で立ち止まると、目に大粒の涙を浮かばせる。
「私っ……! うっ……ふ、二人ともっ……! ううっ……うああぁあああああああああああああああああん!!」
見た目は立派な女性に成長したくせに、アゼレアの泣きっぷりは、まるっきり子供のそれだった。
その後ろで、ルビーがやれやれと肩を竦め、ガウェインが目元を拭う。
ああ……くそ、やめてくれよ、お前ら。
俺まで、糸が切れたみたいに、涙が溢れそうになる。
こんな世界が――あったんだ。
俺たちは、ようやく、辿り着けたんだ。
何度も何度も、ラケルがやり直してくれたおかげで――
――俺たちは、ようやく、元の友達に戻れたんだ。
もう戻らないものもあるけれど。
手のひらから、取り零さずに済むものもあるって。
…………やっと、思い出せた…………。
「……お墓を作ろう、ジャック君」
エルヴィスが、周囲を――精霊術学院の残骸を見ながら言う。
「どうせ、作ってないんだろう? ……眠らせてあげないと。いい加減」
「……ああ」
別れるのはつらいけど。
いつまでも、このままではいられないから。
「どこに建ててやるか、考えないとな――」
そのとき、無数の糸が天から伸びてきて、ヘルミーナを絡め取った。
「…………、え?」
反応ができなかった。
突然だったからじゃない。
反応できなかったことに、反応できなかった。
誰もが。
おそらくは、世界で随一の精霊術師が揃ったこの場で、誰もが。
事前に察知できなかった。
絡め取られたヘルミーナが、勢いよく吊り上げられていくまで、その糸の存在に気が付けなかった。
なんだ――あれは。
まるで、世界の外側から、突然伸びてきたような――
「……! そっちか!」
ルビーがピクンと猫耳を動かし、背後に振り返る。
吊り上げられたヘルミーナが回収されていく先に、怪物がいた。
大蜘蛛。
象のような大きさの、巨大な蜘蛛だ。
そしてそれに侍るようにして、奇妙な装備に身を固めた兵士が、10人ほど立っていた。
金属じゃない。
革でもない。
だが、はっきりと鎧だとわかる。
両手足は言うに及ばず、首や顔に至るまで、肌を隙間なく覆うように、ピッチリと黒い布地のスーツで鎧っているのだ。
怪人。
そう形容するのが、最も相応しかった。
「『王眼』で、視えない……!? なんだあいつら……!」
エルヴィスの呟きを聞いて、俺はすぐに思い至る。
精霊術を拒絶する装備。
もしかして、あのスーツは――!
「――目敏いですな、魔王陛下」
重く低い声と共に、一人の大男が大蜘蛛の前に進み出る。
他の怪人と同様、黒のスーツで全身を覆っていた大男は、顔の前面に付いたファスナーをジーッと下げた。
中から現れた顔を、俺は知っていた。
頬やこめかみに銀の鱗を煌めかせる、四十近くの竜人族。
「……ディーデリヒ・バルリング……」
俺の呟きに、エルヴィスとガウェインが素早く身構えた。
「ディーデリヒ・バルリング……!」
「ロウの『虐殺英雄』! 魔王軍の将か!」
そう――俺の部下の一人だ。
魔王軍・空挺竜騎士部隊の長。個人の戦闘力では、おそらく俺に次ぐ実力を持つ。
しかし、ダイムクルドの外では、もう一つの異名のほうが有名だろう。
『虐殺英雄』。
かつて、ロウ王国で英雄と謳われるほどの武功を挙げながら、醜聞によって支持を失い、その果てに市中で大勢の民を手にかけたという――
「……どういうつもりだ、ディーデリヒ」
俺は魔王としての顔を出し、自軍の将に問うた。
「ヘルミーナ・フォン・ロウの略取作戦は凍結しているはずだ。それに、なんだ? その――邪神の糸で作った装備は!」
怪人たちのスーツの正体。
間違いない。あれは、精霊術を無効化する邪神の糸で作った服!
「……どういうつもりだ、か」
ふ、とディーデリヒは嘲るように口元を緩めた。
「まったくもって、こちらの台詞ですな、魔王陛下――いや、ジャック・リーバー」
「……何?」
「世界にとっての災厄たらん。そのためにこそ集ったのが、我ら魔王軍。迷いなどなく、躊躇いなどなく、ただただすべてを破壊する――そうだったはずだ。それが我らだったはずだ! だが、どうしたことか! 先日から続く、ロウとの開戦を遅らせる動き――大本を辿ってみれば、貴様に行き着くではないか!」
「…………!」
辿られたか……!
ベニーは最善を尽くしたはずだ。だがそれ以上に、ディーデリヒが早かった……!
「理由などいい。事情など斟酌せん。どういう形であれ、足を止めた時点で、貴様に魔王たる資格はない――決議はすでに終わった。天空魔領ダイムクルドは、これよりこの私、ディーデリヒ・バルリングが暫定指揮を取る!」
「……つまり、クーデターの真似事か」
俺は『たそがれの剣』を抜いた。
「誰の入れ知恵か知らんが、邪神の力を利用して気が大きくなったか? その程度で俺を克せると思ったのならば、俺は少々、貴様を買いかぶりすぎていたようだな」
「然り。真似事だとも。魔王陛下、かつてのあなたのな。あなたが世界そのものたる精霊の力を利用して災厄たらんとしたように、私もまた、邪神と――魔女の力を、利用することにしたまで」
……魔女だと?
俺が怪訝に思った瞬間、
「かつて敬愛したあなたに、ご忠告申し上げよう――」
ディーデリヒが仰々しく腕を広げ、
「――すでに、騙されているぞ」
その姿が、消えていた。
消えた、ではない。
消えていた。
そこに誰もいなかったことに、たった今、気が付いた。
「……えっ……?」
「ヘルミーナ……!?」
ディーデリヒだけではない。
大蜘蛛も、他の怪人も、ヘルミーナも、全員が消失していた。
幻覚。
精霊術か。いないものをいると思わされていたのか!
「くそっ! あたしとしたことが……こんな簡単な手に……!」
「仕方ない。あの大蜘蛛に、みんな感覚を狂わされてた」
毒づくルビーに、ラケルが冷静に言う。
俺は顔を渋く歪ませながら、
「やっぱり、アレは……邪神の眷属か」
「たぶん。バアルも精霊の一種なら、分霊がいてもおかしくない」
ラケルの記憶でも、邪神が自分の子供のようなものをばら撒いていた。
しかし、本体はまだ遥か空の彼方――こんなにも早く、眷属が地上に降りているなんて……!
何もかも前とは違う。
追い詰められてもタダでは済まさねえってわけかよ、沙羅……!
「……いやに冷静じゃねーかよ、お二人さん」
俺とラケルに、突っかかるようにルビーが言った。
「邪神? バアル? 何のこっちゃわけわかんねーぜ! どうなってんだよジャック! お前の国は! 部下の手綱くらいちゃんと握っとけ!」
「ああ……俺も予想外だった。いずれこうなるにしても、元の世界線から分岐してほんの一週間程度……あまりにも早すぎる」
普通じゃない。
何かが裏で糸を引いていることは間違いない。
「……今、ダイムクルドはどうなっているんだい?」
エルヴィスが言った。
「何の準備もなく出てきたわけじゃないんだろう? 国内の状況を把握する手筈は整えているんじゃないかな」
「エルヴィス、お前……」
たった今、婚約者が連れ去られたっていうのに、よくそんなに冷静で……。
エルヴィスは力強く笑った。
「理不尽には慣れたよ、おかげさまでね。――この程度じゃ折れない」
……まったく。頼りになる勇者様だ。
「状況を把握しよう。確かにダイムクルドが――特に後宮が心配だ。あそこにはフィルの遺体もある――」
「――陛下!」
そのとき、ちょうど折良く、ビニーが駆け寄ってきた。
彼女が連絡係だ。ダイムクルド内に残ったベニーと常に感覚を共有している。
ビニーは息を切らしながら、
「はあっ……申し訳……ありません。対応するには……兄さんの脳だけでは、足らず……ご報告が、遅れました」
「ビニー! 今、ダイムクルドは――」
「大丈夫です――間に合いました。すぐに……ここに来ます」
そのとき、俺たちを影が覆った。
空を見上げる。
紫色に染まる空を、大きな土の塊が、真っ黒な影となって遮りつつあった。
「ダイムクルド本国は、謀反した軍部に占拠されました……。気付いた兄がかろうじて、後宮だけを切り離したのです」
……よかった。不幸中の幸いだ。
国を支える中核である彼女たちを保護できているなら、いくらでも立て直しようはある。
「ベニー、ビニー、よくやった」
「はいっ……!」
ぽんぽんとビニーの頭を撫でると、俺はエルヴィスたちに言う。
「みんな、上がってくれ。こんな状況での招待になって申し訳ないけどな」