第92話 こうして、彼らは失恋した - Part3
『あかつきの剣』が押し割る。
『天の剣』が斬り裂く。
その、たった二振りの剣こそが、大気にとっての天敵だった。
空が叫んだかに思えたそれは、夕映えに煌めく空気が唸る音。
ジャック・リーバーが。
エルヴィス=クンツ・ウィンザーが。
白骨の大地の上で、それぞれの剣を激突させる、その前触れであった。
「――――ッ!!」
「――――ッ!!」
片やヒヒイロカネ――世界最重の金属を用いた、尋常ならざる質量を帯びた剣。
片や神器――空そのものを鋳溶かして鍛ち上げたとされる、異界よりの宝具である。
朝焼け色の、半透明の、刃が正面から激突したとき、あたかも二人の想いの強さを語るかのごとく、白骨の大地が蜘蛛の巣状にひび割れた。
爆発にも似た衝撃の中心にて、しかし、二人は笑っている。
級友の。
旧友の。
顔を間近から覗き込み、刃を介して語っている。
――ああ、エルヴィス。お前は昔っからそうだったよな。
――控えめなのにまっすぐで、謙虚なのに強引で。幸せになることに怯え、転生したことを後ろめたく思っていた俺には、お前の姿は眩しかった。
あるいは尊崇を込めて。
――ああ、ジャック君。きみは昔っからそうだったよね。
――不敵に見えて臆病で、完璧に見えて抜けていて。母さんの言葉に取り憑かれ、最強になることしか見えていなかったぼくには、きみの姿は憧れだった。
あるいは憧憬を込めて。
――だから、倒したかったんだ。
あるいは――嫉妬を込めて。
鍔迫り合いは束の間だった。
ギリリ、と互いの刃が軋んだ瞬間、二人は同時に間合いを取る。
しかし、激甚たる攻撃力を持つ元神童たちにとって、間合いが何間あろうが関係はない。
決意。
それだけがあれば、刃を届かせるには十二分。
エルヴィスが『天の剣』を、高く頭上に掲げた。
「――――照現せよ、《天剣エクスカリバー》――――ッ!!!」
真なる名を解放し、百の松明よりもなお眩い、黄金の輝きを放ち始めた剣を見て、アゼレアたちは揃って瞠目した。
――いきなり!?
そう、それはエルヴィスにとっての切り札。最後まで残しておくべきとっておき。
それでも、出し惜しみはしないと彼は決めたのだ。
なぜなら、今、対峙しているのは世界を脅かす魔王ではない。
七年ぶりに出会う、誰よりも憎たらしい、親友なのだから。
空が黄金に染まる。
その中心を衝くように、光の刃が膨張し、伸長する。
それを見上げて、なおもジャックは笑った。
ここではない別の、しかし確かに在った時間軸で、彼はその刃に一度、敗れている。
そんなことは承知の上。
それでも、何ほどのものか、と少年は笑う。
たかが――天そのものが落ちてくる程度のこと!
「おぉおおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――――――ッ!!!!」
咆哮しながら、ジャックはもう一振りの剣を抜き放った。
『たそがれの剣』。
魔王として鍛え上げた、世界に終わりをもたらすための剣を、『あかつきの剣』と交差させる。
同時、極彩色の翼が黄金の空を覆った。
〈尊き別離のアンドレアルフス〉。
18年間、あるいはそれ以上――いつでもジャック・リーバーの背中を見守ってきた『自由』の精霊が、今、その壮麗な翼を、いつよりも大きく広げた。
――でかい!
エルヴィスは目を見張る。
見上げる双翼は、まるで空の黄金を塗り潰すかのようだ。仮に天空が、吊り天井のように落ちてきたとしても、その翼ですべてを受け止めてみせるだろう。
精霊の化身は、あくまで世界に落ちた影法師。
その姿に実体はなく、大きさにも制限はない。
それでも、とエルヴィスは直感する。
あの精霊の姿が告げていた。
ジャック・リーバーは今、【巣立ちの透翼】の極点に至ろうとしている。
世界そのものたる精霊の力を、世界に――人間という種に許されるギリギリの限界まで、引き出そうとしている……!!
伝承は語る。
かつて、世界に天と地の区別はなかった。
誰もが自由に山を越え、世界中の人々と語らうことができた。
しかしその結果、異なる言葉、異なる思想、異なる信仰が衝突し、誰もが自分の思う通りに生きられなくなった。
これを憂えた精霊〈アンドレアルフス〉は、人々を見えない鎖で大地に縛りつけ、軽々に山を越えられないようにしたという――
ならば。
その鎖を伸ばすがいい、アンドレアルフス。
人のみならず。物のみならず。
地を覆う天すら引きずり下ろし!
天地という概念を、この世から奪えッ!!
「なッ……!?」
見開いた目は、もうこれ以上開かない。
だから、エルヴィスは口を開けるしかなかった。
極彩色の翼に覆われた黄金の空――それが、見る見る間に、虚無たる黒へと裏返っていくのを見て……!
現象は終わらなかった。
天の次は、地。
足元の白骨の大地が、すべて、一気に砕け散った。
糸を抜いたようなその崩壊は、あたかも七年前の逆回し。
散り散りになった白骨が、雪のような純白の破片となって、虚無の空へと立ち昇っていく。
白骨の下から現れたのは、無残な姿となった精霊術学院だった。
懐かしい校舎も、学生寮も、闘術場も、すべてが残骸となったまま。
それでも、七年間凍っていた時が、今ようやく動き始めた。
その上空に、ジャックは君臨していた。
「――天空を浮遊させた」
高密度大気の足場で浮遊するエルヴィスに、ジャックは告げる。
「その『眼』を持つお前ならわかるだろう、エルヴィス? この世には、『因果』という絶対的大地がある。ならば――」
「……たとえ実体のない『天』であっても、浮遊させられる――ってわけかい?」
不敵に笑うジャックに、エルヴィスもまた笑った。
「ああ、まったく――これだから、きみと戦うのはやめられないんだ」
「はははははははッ!!!」
爆音めいた笑声を響かせて現れたのは、大量の宝石をちりばめた王冠を被った、男とも女とも知れない人の形。
〈傍観する騒乱のパイモン〉、その化身。
「やる気になったかいッ!? エルヴィス!!! だから最初から言ってたじゃないか!! 王たる権利は、君にある!!!!」
「御託はいいよ。――寄越せ、パイモン」
「イエスッ、ユアハイネスッ!! はははははははは――――ッ!!!!」
瞬間、今度はジャックが漆黒に裏返った空を見上げ、息を止めた。
そこにあったのは、エルヴィスの『王眼』の全開発動を意味する、世界を覗くように開かれた単眼――
ではなかった。
「……眼が、二つッ……!?」
双眸。
今まではたった一つの目で世界を覗いていた『王眼』が、今は一対となって、左右の瞳で地上を睥睨する。
それが示すものを、ジャックは即座に理解した。
眼が、二つになるということ。
それは、平面しか認識できなかったモノが、立体を把握できるようになるということ。
すなわち。
二次元から、三次元へ。
――知覚する次元の上昇!
「悪いけど、天はぼくのものだ。――返してもらおうか」
天の双眸が見開かれた。
瞬間、漆黒の空が表返る。
浮遊させたはずの空が元通り、黄金色に染まった空へと――
ジャックは理解した。
【争乱の王権】の本質は、あの『眼』――すなわち、物理的な表層を透過し、因果を直接観測する能力にある。
観測するとは、決定するということだ。
世界の在り方を『視る』ことができるのが【争乱の王権】の術者だけである以上、その観測結果が真実となる。
ゆえの王権。
ゆえの王眼。
因果への絶対観測能力――!
それによって、浮遊させた天を見つけられたッ……!!
「どんなに上手く隠しても、ぼくは必ず見つけ出すさ。ジャック君――君が秘めたまま持ち去った、七年前の真実もね」
柔らかく。
まるでかくれんぼでもしているかのように、エルヴィスは微笑んだ。
――どうせ言ってもわからない。
もし、亜座李と再会しないままこのときを迎えていたら、ジャックはそう答えていたのだろう。
転生。妹。地球。日本。
自分を取り巻く状況は、この世界で生まれ育ったエルヴィスたちにはわからない。そうだと思い込んでいたから。
だが、今は――
「見つけてみろよ。できるもんならな」
――もーいーよー、と。
鬼に答える子供のように、ジャックはほくそ笑んだ。
「言われなくとも」
今は、剣だけが真実を語る。
学院の残骸が地表に現れようと。
七年間、少年たちを止めていた時は、真実でしか動かせない。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
最初は、子供らしいほのかな恋情だった。
だけど、最強たらねばならぬと自分を縛っていたぼくにとっては、好きなものに遠慮しない、どこまでも自分に正直な彼女の無邪気さが、欠かせない癒しになっていた。
……見ているだけでいい。
見ているだけでよかったんだ。
何も求めない。
見返りなんかいらなかった。
いずれ時間と共に区切りがつくだろう感情を、ぼくはただ、愛でていたいだけだったんだ。
だけど、その機会を、あの日の出来事が奪った。
だから、今でも引きずっている。
みっともなく。
ずるずると。
……なんで、こんなことになってしまったんだろう。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
俺にとって、フィルは救いだった。
20人以上。細かい数さえ思い出せない、友人知人を見殺しにして、なのに神様の贔屓を得てのうのうと生きている――そんな自分を赦し、救ってくれる、唯一の存在だったんだ。
きっと本物だった。
今ならわかる。
彼女と過ごした時間、彼女に救われた日々、そのすべては、確かに在ったものだった。
……でも、だからこそ思うんだ。
なあ、フィル。
俺はお前に、救われてばっかりだったけど。
俺はお前に――一体、何をしてやれたんだろうな?
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
刃と刃が、ぶつかる。
巨大な双眸が天から見下ろす中で、二人の少年が、剣を手に幾度となく正面から激突する。
戦略もない。
戦術もない。
子供の拳のようながむしゃらな剣撃が、幾度となく弾き合っては、もつれあう。
そのたびに、互いに伝わるのだ。
拗れた感情。
爛れた後悔。
この七年――積み上げてきた、呪いが。
「――どうしてッ!!」
血を吐くように、エルヴィスが叫んだ。
「どうして、何もできなかったんだ! きみが一緒にいながら、どうしてッ……!!」
王族としての威厳など何もない。
優等生らしい自制など何もない。
「きみだから求めなかったんだ! 他ならぬきみが、彼女の傍にいたから! ぼくは夢見ることすらしなかった!! なのに……!!」
それは、紛れもない、一人の少年の本音。
「あの日、ぼくたちの前に現れたきみは、守れなかったという悔恨すら表情に浮かべていなかった! ただ、ぼくたちを猜疑の眼差しで見るだけで……! まるで一人で悲劇の中にいるような顔をして……! まるで! ぼくたちも、フィリーネさんも、自分の不幸の象徴であるかのような目をしてッ!!」
偽らざる言葉には、ただの一つの優美さもなく。
「ふざけるなッ!! ふざけるなよ!! きみなら守れたはずなんだ!! だからフィリーネさんが死んだのは! ――きみのせいなんだよッ、ジャック・リーバーッ!!」
ただ醜い、けれど人らしい感情の塊となって、剣と共に叩きつけられる。
かつて、異なる世界で。
勇者として、魔王と対峙したときの彼からは、こうも溢れ出すことはなかった。
――けれど、今ならば。
今ならば、届く。
魔王ではなく、旧友として自分の前に現れたジャックならば――きっと、この偽らざる本音が、届くはずだ。
「こんなことなら――きみに彼女を、任せなければよかった」
失望の言葉と共に、剣先を突きつけられたジャックは、なのに小さく笑う。
――ああ、なんて哀れなエルヴィス。
真実を知らないがゆえに、そうも無邪気に俺を恨める。
……少し前までなら、ジャックはそう思っていただろう。
だけど、今は。
「……どうせ無理だったよ」
ジャックの手が、突きつけられた天剣エクスカリバーを掴んだ。
「あのじゃじゃ馬は、お前ごときじゃ乗りこなせない」
天剣の光が弱まる。
ジャックの力が、エルヴィスが付加した質量を打ち消しているのだ。
素早く剣を引くエルヴィスを、すかさずジャックが追った。
「任せてたって? 俺に? フィルを? そんなことだからダメなんだよ、王子様。あいつはそんなに、弱い人間じゃなかった」
『あかつき』と『たそがれ』、二刀が煌めきながら振るわれる。
「わかってるさ。俺が悪い。俺が弱い。俺がしっかりしていれば――そんなことは誰より俺がわかってるし、何よりあいつがわかってる! フィルは、俺が悪い奴なのを知ってたし、弱い奴なのも知ってた……。知っていて、それを受け入れてくれた。都合が良すぎるくらい強い女の子だった――俺はそれに甘えてた!!」
続けざまの斬撃を、エルヴィスはかろうじて捌いた。
しかし、重い。
一撃一撃が、腕が千切れそうなくらいに、重い。
「俺たちは知らないんだよ、エルヴィス!! あいつがどれだけ悪かったか。あいつがどれだけ弱かったか! 何も知りもせずに、のうのうと好きだの愛してるだのほざいてたんだ!!
だって、そうだろ!? 俺もお前も、ただの一度も! あいつが弱音を吐いてるところなんて――見たことないッ!!」
「――――ッ!?」
天剣が揺れる。
その隙に大上段から振るわれたたそがれの剣が、エルヴィスを天剣ごと打ち据える。
強烈な威力を受けきれなかったエルヴィスは、もはや空中にいることはできなかった。
隕石のような速度で、剥き出しになった、精霊術学院の残骸の只中に墜落する。
「無邪気? 天真爛漫? 悩みなんてなさそう? ……そんなわけないだろうが」
ジャックがゆっくりと地面に着地しながら、悲しみと悔しさがないまぜになった表情で言った。
「人間だったら、弱音の一つも吐きたくなるときが、あるだろうが。なのにないんだ――見たことがないんだよ!! あれだけ一緒にいて、ただの一度もっ!!」
枯れるほどの声は、まるで自らを傷付けるかのよう。
痛みに呻きながら起き上がったエルヴィスは、なのに自分より彼のほうが、追いつめられているようにさえ見えた。
「……俺はこの七年間、救われることばかり考えてた……。もう一度あいつに会って、救って、助けてもらうことばかり、考えてた……」
力なく笑って、ジャックは旧友を見やる。
「でもさ、エルヴィス――俺たちって、一度でも、あいつのことを助けてやったか? 我がままは聞いたさ。おねだりもされたさ。でも……相談事をさ、されたことなんて、ないよな」
エルヴィスは歯を噛み締めた。
ジャックは諦めたように口元を緩めていた。
溜め息をつくように首を振り、ジャックは周囲の、学院の残骸を見回す。
そして、呟くのだ。
「――自分が悪霊王ビフロンスだってことも、……悩まないはずが、なかっただろうにな」
エルヴィスはゆらりと起き上がった。
フィリーネ・ポスフォードが、悪霊王ビフロンス。
それが――この七年、求めてきた真実。
「……どうしてかな。あまり驚かないよ。……どこかで一度、聞いたことがあるのかな」
「……………………」
「訊いてもいいかい、ジャック君? ――フィリーネさんは、きみが殺したの?」
「……そうだ。この手で、首を絞めた」
エルヴィスは、ジャックの両手が震えるのを見た。
それから、己の内を顧みるように、少しだけ瞼を伏せた。
「……彼女は、最期に、なんて言ってた?」
その問いに、ジャックは忌まわしい記憶を思い出す。
忘れるはずがない。
でも、思い出そうとしなかった。
手のひらにまとわりついた、コキリという感触のことばかりで。
フィルが、最期に口にした、あの言葉を――――
「――――ごめんね、ってさ」
そうだ、謝ったのだ。
何もしてやれなかったのはこっちなのに、彼女は……謝ったのだ。
「…………ああ…………」
エルヴィスは天を仰ぎ、溜め息をつく。
黄金の空の下に、束の間の沈黙が漂った。
「ああ、ああ、ああ、ああぁああぁあぁ……あ゛あ゛あああああああああああ――――――っ!!!!」
沈黙を破ったのは、エルヴィスの地団駄だった。
駄々をこねる子供のように、少年が地面を踏みつける音だった。
「……どっちがだよ……。どっちがだよッ!! フィリーネさん……何できみは最期まで、そうなんだよっ!!」
憤りの言葉は、もはや向けるべき場所がなく。
だから、あてどころもなく、ただ虚空を彷徨う。
「恨めばよかったんだ。怒ればよかったんだ。きみ一人満足に助けてやれない、不甲斐ない男どもをッ!!」
エルヴィスは、美しい金髪を、台無しにするように掻き毟った。
「あぁああぁちくしょうッ!! 腹が立つ、腹が立つ、腹が立つ腹が立つ腹が立つッ……!!
……七年間、怒るに怒れなかったんだ。何もかもわからないままで終わって、置いていかれて、ただただ傷跡だけが残って。
……僕は嬉しいよ、ジャック君。こんなにも腹立たしいってことが、どうしようもなく嬉しいッ!!」
そして。
もはや華麗さを失った天才王子は、薄く笑いながら天剣を旧友に向ける。
「だから……ちょっと、八つ当たりしてもいいかな」
ジャックは笑った。
零した愚痴に、共感してもらえたときのように。
「いいぜ。……俺も久しぶりに、虫の居所が悪くなってきた」
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「あぁあああぁぁぁああああああああああああああッ!!」
「ぉぉおぁああああああぁあああああああぁあああッ!!」
精霊術学院の、残骸の中心で。
癇癪を起こした子供のような、みっともない叫び声を上げながら剣を叩きつけ合う二人を、かつてのクラスメイトたちが見守っていた。
その戦いには、もはや技術も戦術もありはしない。
世界最強クラスの精霊術師の戦いとはとても思えない、稚拙な暴力のぶつけ合い。
子供が泣きながら叩き合うような、無様な喧嘩でしかない。
……なのに、どうしてだろう。
アゼレアの頬には、いつしか涙が伝っていた。
懐かしくて――たまらない。
ジャックがあんなにみっともない本音を吐くのも、エルヴィスさんがあんなに我を忘れて怒っているのも、初めて見るのに。
どうしてだか、懐かしくて、たまらない……。
――そのとき、歓声が聞こえた。
アゼレアはハッと顔を上げて、辺りを見回す。
そして、ようやく気付いた。
瓦礫に埋もれるようにしてわずかに残った席。
それを覆うようにして伸びた、庇のような屋根。
ここは――もうほとんど、原形が残っていないけれど。
ジャックとエルヴィスが、初めて戦った、あの闘術場だった。
――目に浮かぶ。
満員の観客が目に浮かぶ。
学院の生徒たちが、教員たちが、幼い自分たちが目に浮かぶ。
『おおーっとウィンザー二段! ここで仕掛けるうう――――っ!!』
彼らが魅入られているのは、二人の少年だった。
勇者でも、魔王でもない。
たった二人の、少年と少年だった。
……ああ、そうか。
世界も、勇者も、魔王も、真実も。
何も何も……関係なかったんだ。
私は。
私たちは。
ずっと――これが見たかったんだ。
『じーくんが負けるわけないけどねっ!』
……そうよね、フィル。
きっと、あなたも……これがまた、見たかったのよね。
「……ジャック……! エルヴィスさん!」
いつしか、声が漏れ出ていた。
こうするのが私たちの友情だと、あなたが、教えてくれたから。
「頑張れっ――――!!」
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「――――――――!!」
「――――――――!!」
剣を振るいながらの怒鳴り合いは、もはや言葉の体すら為さなくなった。
後悔と後悔。
憤慨と憤慨。
生の感情を叩きつけ合うだけの、泥沼の喧嘩。
「…………はは」
「……は」
「ははははは」
「はははははははははは――――っ!!」
なのにいつしか、二人は晴れやかに笑っていた。
楽しいわけじゃない。
嘲っているわけでもない。
なのになぜか、笑っていた――
そうして、その瞬間はやってくる。
「…………っ!」
タイミングが狂った。
簡単なフェイントに引っかかったジャックが、あかつきの剣を大きく弾かれて体勢を崩す。
その隙を見逃すエルヴィスではなかった。
輝く天剣が、すかさずジャックの身体を撫でようとする。
ジャックは逆に、前に踏み出した。
薙ぎ払われた天剣を潜るように地面を転がり、
――俺は、自ら前へと一歩を踏み出した
――そしてそのまま、転がるようにして、エルヴィスの脇を抜ける
――蜃気楼の剣の恐るべき威力が、直前まで俺のいた場所を薙ぎ払った
懐かしい記憶が過ぎる。
それと同時に、ジャックは自然と手を伸ばしていた。
――そんなに難しくないぜ? 相手の視線がどこに向いてるかをよく見るのがコツだ
狙うのは、エルヴィスの首から下がっているペンダント。
彼の精霊術のルーティンに組み込まれているそれを奪えば、【争乱の王権】はまともに機能しなくなる――
「――もう」
伸ばした手が、空を掴んだ。
「その手は、食わない」
たった一歩。
ほんの一歩。
だが、その一歩によって、エルヴィスはジャックの射程外に逃れていた。
天剣が振りかぶられる。
いかにジャックといえども、ここから回避する術はどこにもない。
黄金の剣が、神速で眼前に迫り――
ジャックは、ほのかに笑った。
「知ってるよ。友達だからな」
空を、掴む。
文字通り――あらゆるものを浮遊させるジャックの手が、この空間を、掴んでいた。
空間が、浮遊する。
ジャックが、エルヴィスが、二人の足元の地面が、何もかもまとめて重力を失う。
天に引き寄せられるように高く舞い上がった二人は、かつて精霊術学院だった場所を、思い出の母校を、二人で一望した。
「まったく、ジャック君――」
そしてエルヴィスは、呆れたように笑う。
「――きみって奴は、どこまで自由なんだ」
ジャックの手のひらに空気が圧縮され、眩く輝く。
黄金の空よりも、なお眩しく。
かつて二人で鍛え上げた技が、華々しく炸裂した。
一瞬――けれどそれは、未来への門出を祝う花火。
――『太陽破風』――
再び、隕石のように二人は墜落した。
もはや、白骨の大地は存在しない。
黄金の空も、夕焼けのそれに戻っていく。
夕日はいつも、終わりを告げるものだった。
一日の終わりを。
授業の終わりを。
放課後、幾度となくこの夕日の中を、彼らは連れ立って歩いた。
今――終わる。
呪われた七年が。
凍りついた七年が。
夕日に溶けて、終わっていく。
赤く染まった母校の中心で、ジャックがエルヴィスを組み伏せていた。
エルヴィスの肩を押さえつけながら、ジャックの睫毛が震える。
その顔を見上げながら、エルヴィスの唇が震える。
「――エルヴィス、俺はさ」
呪われている間は、認めなくてよかった。
凍りついている間は、見逃してよかった。
でも、この七年を――終わらせるなら。
「フィルのことが……本当に、好きだったんだ」
認めなければならない。
直視しなければならない。
七年前のあの日、確かに起こったことを……。
ジャックの目から、一滴の涙が零れ落ちた。
「……うん」
その涙は、エルヴィスの頬に落ち。
エルヴィス自身の涙と共に、地面へと滴り落ちていく。
「ぼくも……そうだったよ」
こうして、この日、終わりを告げた。
呪われた七年が。
凍りついた七年が。
二人の少年の、初恋が。