Re:Ron連載)「ことばをほどく」第13回
私の好きなa flood of circleというバンドの『WILD BUNNY BLUES/野うさぎのブルーズ』という曲は「ブルシットな世界に 俺 小さい野うさぎ」という歌い出しで始まるが、私たちはまさにブルシット(=でたらめ)な世界を生きている。いや、ブルシットが横行する世界と言うべきだろうか。この歌詞に込められた意味合いとは違う事柄だろうが、私が念頭においているのは政治的な文脈におけるでたらめな発話のことである。
「ブルシット(bullshit)」とは、「でたらめ」や「たわごと」、「ほら話」といったことを指すスラングだ。2020年にアメリカの人類学者デヴィッド・グレーバーの翻訳書『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』(酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹訳、岩波書店)が出たことで、カタカナで「ブルシット」という言葉をときおり見かけるようになった。
ひとまずこの記事では「でたらめ」という訳語を採用することにしよう。
でたらめは、実は近年の英語圏の言語哲学で注目が集まっているトピックである。英語で書かれた哲学論文を探すためのPhilPapersというサイトがあるが、ここで試みに「bullshit」で検索してみると、ちらほらともっと古い論文もあるものの、2010年代以降に発表された論文がかなりの比率を占めていることがわかる。これにはいろいろな要因があるだろうが、現在の政治情勢へのリアクションとしてこのトピックを取り上げている哲学者も少なくないだろう。
英語圏の研究で、テーマが「でたらめ」で、現在の政治情勢に関連するというと、もちろんしばしば話題に上がるのがドナルド・トランプ米大統領の発言である。昨年の大統領選の討論会でも「移民たちが犬を食べている。猫も食べている」という荒唐無稽な発言をし、就任後にもウクライナのボロディミル・ゼレンスキー大統領を指して「独裁者」と言ったかと思うとその数日後には「私がそんなことを言ったか。信じられない」ととぼけるなど、「でたらめ」としか言いようのない言動が頻繁に見られる。
もちろん、でたらめは近年になって初めて生じた問題ではない。『徒然草』にもめちゃくちゃな発言をするひととそれを吟味することなく鵜呑みにするひとについての話がある。ただインターネットを通じて途方に暮れるくらいに膨大な言説が無数の人々の目に飛び込むようになっている現代において、でたらめの言語的特徴やでたらめがもたらす社会的影響がこれまで以上に重要になっているという面はあるだろう。トランプの発言は、そうしたでたらめをめぐる現在の社会状況の一種の象徴と言える。
真理に対する関係で区別
さて、言語哲学的に重要なのは、でたらめとはどのような言説であり、そしてそれがなぜ、どのように害をもたらすのかということだ。
でたらめに関する哲学的研究の古典は、1986年にアメリカの哲学者ハリー・フランクファートが発表した論文「でたらめについて」(“On Bullshit”)だ。これは40年近く前の古い論文ではあるが、フランクファートのでたらめ論はでたらめについての哲学的研究ではまず間違いなく言及される重要な業績である(フランクファート自身も2005年に同名の本を出版している)。
フランクファートが重視するのは、嘘とでたらめの違いだ。もちろん、日常的には嘘をつくひとを指して「でたらめばかり言ってる」と述べることもあるだろうし、でたらめについて「あれは嘘だった」と言うこともあるだろう。なので、普段の私たちはそれほど「嘘」と「でたらめ」を区別しているわけではないかもしれない。ただ、嘘やでたらめについて考察する際にはふたつの異なる現象をしっかり切り分けたほうがいい。
議論の詳細を省いて述べるならば、フランクファートは嘘とでたらめを真理に対する関係という点で区別している。ただし、ここでの「真理」は「深遠な真理」のようなものではなく、単に何らかの言明が真であること、事実であることを指す。例えば「日本には47の都道府県がある」という言明は真である(=正しい)わけだが、このとりたてて深遠でも何でもない例も真理のひとつだ。さて、フランクファートの言う嘘とでたらめの違いはおおよそ次のようにまとめられる。
嘘は何が真理であるかを気にしたうえで相手を真理から遠ざけるような言明である。
でたらめは、そもそも何が真理であるかを気にさえせずになされる言明である。
いくつか例を挙げてみよう。
子どもが花瓶を割って親に問い詰められたときに「割ってないよ。風で揺れたカーテンに当たって倒れたんだよ」と言ったとしよう。このとき、この子どもは自分が花瓶を割ったという事実を理解したうえで、親がそれに気づかないよう考慮してこの発言をしている。つまり、この子どもにとっては自分が実際に花瓶を割ったかどうかはどうでもいい問題ではなく、自分が花瓶を割ったのが事実だとわかっているからこそこうした発言をしている。その意味では、この子どもは真理、すなわち何が事実で何がそうでないかということには、あくまで関心を持っている。これはフランクファートによると、嘘に該当する。
同様のことは、「善意からの嘘」といった特殊な嘘の例についても言える。試しに待ち合わせの場面を考えてみよう。
友達から待ち合わせに30分ほど遅れるという連絡があり、仕方なく適当に時間をつぶしていたとする。友達がようやくやってきて「遅くなってごめんね」と言ったのに対し、実際にはやることがなく時間を持て余していたとしても、「ううん、ちょうど見たいお店があったから」などと返すこともあるだろう。この発言は、嘘である。発言者は、自分が時間を持て余したかどうかをはっきりわかったうえで、事実を友達に知らせまいとして発言をしているのだ。
橋の下で拾われてきたんだよ
でたらめはそうではない。一例を挙げてみよう。
私が子どものころには、親が子どもに向かって「あなたは橋の下で拾われてきたんだよ」と言うことがしばしばあった。なぜ「橋の下」なのか、なぜそのような発言が一種の習慣として広まっていたのかはよくわからないが、私(1985年生まれ)と同世代前後のひとであればどこかで聞いたことがあるのではないだろうか。これはフランクファートの議論に照らすとでたらめの一種だろう。このような発言をする親は、子どもが橋の下で拾われたわけではないという事実を意識したうえで、その事実に気づかせまいとして子どもに向かってこのように言っている、というわけではないはずだ。むしろ、その子が橋の下で拾われたわけではないという事実と無関係に、一種の冗談のつもりでこのような発言をしているのだろう。言い換えると、このとき子どもが実際には橋の下で拾われたわけではないという事実は、そもそも関心を払われてさえいない。フランクファートがでたらめと呼ぶのはこのたぐいの発言である。
冒頭で言及したトランプの発言も、でたらめの例と見なすべきだろう。「移民たちが犬を食べている。猫も食べている」という発言は、わざわざ移民たちが犬や猫を食べてなどいないということを確認したうえで、その事実から人々を遠ざけようとしてなされたものではないはずだ。むしろ、移民たちの実際の食生活や文化について関心などはなから持ってはいなかったのではないか。ゼレンスキーを独裁者と名指したことに関する「私がそんなことを言ったか。信じられない」も、トランプが実際にゼレンスキーを独裁者と呼んでいたという周知の事実から人々を遠ざけるためになされた発言というわけではないだろう。というのも、それはあまりに知れ渡っていたことであり、いまさら「信じられない」と言ったところで事実からひとを遠ざけられるようにはそもそも思えないのだ。むしろ、実際に独裁者と名指ししてはいたし、そのことはよく知られているところだったが、そんなことは気にも留めずに発言をしていた、と見なす方が理にかなっている。
では、でたらめにはどのような害があるのだろうか? フランクファートはこれについても、嘘とでたらめの区別に基づいて論じている。
事実への関心はそもそもない
嘘をつくひとは、「私たちは真理を目指すべきだ」という目的意識を正直なひとと共有したうえで、その目的を阻害するような発言をしていると言える。これは真理からひとを遠ざけるという害をもたらすが、しかしそれはあくまで「私たちは真理を目指すべきだ」、言い換えると「何が事実であり、何が事実でないかをできるだけ見極めようとすべきだ」という前提を維持したうえでのことだ。
しかし、でたらめはそもそも真理への関心を持たずになされるのであった。つまり、でたらめを言うひとは何が事実であり、何が事実でないかを見極めようとする必要があるという前提をそもそも共有していないのである。そのような発言が横行するとどうなるだろう?
事実を正直に伝える言葉と事実と反することを意図的に伝える言葉(つまり嘘)があるだけなら、いずれも事実を気にしてはいるのだから、事実に照らして両者を区別することもできそうだし、場合によっては事実を突きつけて嘘を撤回させることもできるだろう。しかし、そもそも事実を気にしていないでたらめがさも普通の発言のように広まってしまうと、そうはいかないのだ。こうなると、でたらめの存在によるノイズが大きすぎて、もはや個々の言明を取り上げて「これは正しい」「これは間違っている」と選り分けることなんてできないと感じるひとも出てくるだろう。
フランクファートは、でたらめは「真理に対する嘘よりも強大な敵」と呼んでいる。
これは、政治の領域においては深刻な問題だ。本来、私たちの生きる世界の今後について考えるためには、事実をきちんと踏まえることが重要である。環境や気候について考えるうえで科学的に確かめられた事実を無視すべきではないし、医療について専門的な知見の積み重ねを脇に置くべきではないし、統計をろくに取ることなく社会集団について意思決定をすべきではないはずだ。しかし、でたらめはそうした真理に立脚する意志をくじき、そのような本来捨てられるべきでない前提を無効化してしまう。
荒唐無稽がシリアスになるとき
また、別の哲学者ジェニファー・ソール(犬笛の研究で知られる)は、2024年の著書『犬笛とイチジクの葉』(Dogwhistles and Figleaves)で、でたらめが持つ社会的機能にも注目している。
フランクファートは論じていなかったことだが、政治的な言説は基本的に多くの聴衆に向けてなされる。そしてそうした聴衆は、決して一枚岩の存在ではない。ある人々にはでたらめであることが明白な発言でも、別の人々にとっては信憑(しんぴょう)性のある発言となることがある。その状況で、その発言がでたらめであるとわかっている人々がそのでたらめさを糾弾すると、発言者はそれを利用して「あいつらがでたらめ扱いしてくる」と支持者に訴えかけ、分断を意図的に加速させることができると言うのだ。
それに加えて、力関係という観点からでたらめがもたらす害を捉えることもできるだろう。普段の会話において、私たちは自分のおこなった発言によって自分のその後の行動に一定の縛りを与えている。私がある日の朝あなたに「きょうは大雨だって」と言ったとする。それにもかかわらず傘もレインコートも持たずに出かけようとするとあなたは怪訝(けげん)に思うだろうし、「大雨なんじゃなかったの?」と尋ねたりもするだろう。また、実際には雨がまったく降らなかったとして、そのときに私が朝の発言をまるで覚えていないかのように「やっぱり私の言った通りきょうは雨なんて降らなかったね」などと言い出したら、あなたは途方に暮れるだろう。
普通はそういう振る舞いはしない。
そして私とあなたが対等なら、私がそのような奇妙な振る舞いをすればあなたはそれを非難することができるし、私の発言の真意をただすこともできるだろう。しかし私が、それでもなおそうした振る舞いを続けたとしたら?
あなたが私と対等であり、そして私の振る舞いを許容できないのであれば、単に私のもとから立ち去ることもできる。しかしそうでない場合、あなたは私のでたらめに振り回され続けることになる。別の言い方をすると、私はでたらめを言い続けることで、あなたを振り回し、あなたに及ぼす自分の力を誇示することができる。それゆえ、でたらめを1回言うくらいでは大して害はないかもしれないが、でたらめを言い続け、それを撤回しないこと、そうした振る舞いを相手に許容せざるを得なくすることは、相手を支配するひとつの形式であると私は考えている。
でたらめの厄介なところは、それが一見するとあまりに荒唐無稽で、面白おかしいものに見えかねないところだろう。対等なひと同士のあいだでたまに個人的になされるくらいだったら、実際でたらめは単に面白おかしいチャーミングな発言でしかないかもしれない。しかしそれが広く不特定多数に広まったり、社会的な力のある者によって発せられたりするとき、でたらめは面白くもおかしくもない、シリアスな問題となる。
放置すれば害をもたらし、でたらめだと指摘してもソールの言うように分断を招くだけだとすると、これは大きなジレンマとなる。
実のところ、でたらめの蔓延(まんえん)にどのような対策がありうるのか、私は現時点ではっきりとした答えを持たない。それでも、でたらめが深刻な問題となりうるとしっかり意識することは、最初の重要な一歩だ。哲学の世界でも、いままさにその一歩が、そしてその先の歩みが始まっているところだ。
みき・なゆた 1985年、神奈川県生まれ。哲学者、大阪大学大学院講師。専門はコミュニケーションと言語の哲学。単著に『言葉の道具箱』『言葉の風景、哲学のレンズ』『言葉の展望台』(講談社)、『会話を哲学する』(光文社)、共著に『われらはすでに共にある 反トランス差別ブックレット』(現代書館)など。
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- 【視点】
でたらめや嘘が社会の分断を加速させ、あおられた怒りが投票行動を通じて政治力へと変換される――。いまや世界各地で、選挙のたびにそんな光景を目にします。 社会は人種や性別、宗教といった多様な背景を持つ人々が共に暮らす場です。その複雑な織り目のなかに「切れ目」を見つけ出し、現状に不満を抱える人々の感情に火をつけて怒りのエネルギーを作り出し、「私こそがあなたたちの味方だ」と一方に肩入れして集票して政治力を手にする。分断をあおればあおるほど政治的なエネルギーが生み出される駆動装置のような仕組みで、でたらめや嘘が燃料として投下され、ネットを通じて拡散し続けています。「切れ目」の典型が移民問題で、トランプ氏が移民への攻撃を続けるのも、そこに政治エネルギーの巨大な鉱脈があるとみてのことだと思います。事実に基づく論評を無力化する「でたらめ」は、燃えやすく消しにくいナパームのようなものかもしれません。 でたらめのノイズがあまりに大きくてくじけそうになりますが、それでも、この言説はでたらめ(あるいは嘘)である、と事実を示して粘り強く指摘し続けることがメディアには求められていると思います。強力な感染力をもつ「でたらめ」というウイルスに接触しても、簡単に感染しないような免疫力を社会全体につけていくために。
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