ベッコウ眼鏡をかけて淡々と語るその姿は、派手さこそないが、確固たる信念を感じさせた。田中角栄が惚れ込み、中曽根康弘が頼った「最高の補佐役」の素顔とは?
お世辞もお追従も言わない
大宅映子 初めて後藤田さんにお会いしたのは、私が司会を務めていた政府広報番組『あまから問答』にゲスト出演していただいた'79年。ほかの政治家と比べて断トツに魅力的でした。
とってもかわいいんです(笑)。初めての収録後、「大宅さん、女性票を取るためにはどうしたらいいかなあ」と真剣に聞いてくる。元警察庁長官なのにそんなことを尋ねるなんて、ギャップがあって素敵じゃないですか。
武村正義 あだ名が「カミソリ」ですから、一般には怖い人だという印象があるかもしれませんが、僕も全然そういう感じはしませんでしたなあ。
初対面は'62年、自治省を受けた時。当時局長の後藤田さんの面接を受けました。履歴書で僕が妻子持ちなのを知って、「君は結婚しているのか。アレッ、子供までおるじゃないか」とおもしろそうに言っていたのを覚えています。
御厨貴 私の場合、おふたりと違って最初は緊張関係(笑)。'95年、連続インタビューのお願いで事務所を訪れました。後藤田さんの経験の聞き取りをしたいと、その意味を縷々説明したら、「それが君たちの得になることはわかった。でも俺の役には立たない」とそっけなく言われてしまった。
何とか聞き取りさせてもらえることになってからも、「2週間前までに必ず質問事項を提出せよ。一日でも遅れれば中止する」と脅かされました。
武村 後藤田さんは言葉遣いが単純明快で、お世辞やお追従を言わない。だから怖く感じられるのかもしれませんね。
その分、合理的で実務能力は抜群でした。戦前の内務省出身ですから、頭は切れました。判断が早く、イエス・ノーがパンパンと決まる。
大宅 頭の中がよく整理されていましたね。後藤田さんが番組のゲストだと、どんな話を振っても大丈夫。こちらが準備をする必要がほとんどなかった。
しかも論理的で、書き起こしたらそのまま本になるくらい。でも「官僚言葉」じゃない。交通安全協会の集まりのあとで後藤田さんの時事問題についての意見を聞くのが楽しみでした。
選挙に落ちてから変わった
武村 そのうえ細かいところまでよく見ている。僕がそれを感じたのは、リクルート事件後。金権政治批判が渦巻く中、後藤田さんの下で政治改革大綱をつくりました。
官僚時代、田中角栄先生の指揮で都市政策大綱をつくったこともありましたが、田中先生は勘所だけを押さえる。一方、後藤田さんは何もかも分かっている。こちらは指示に従って、怒られないよう努力していれば大綱ができあがるんです。
御厨 インタビューでも、「この件は、彼がああ書いているが、それは間違い」「あれも事実誤認だが、正確なところは分からないから君たちで調べてくれ」といった具合に、明晰に話していました。
後藤田さんは内務省から警察庁に移られましたが、インタビューでの正確を期すため、後輩である警察庁長官(インタビュー当時)に昔のメモを出させ、記憶を蘇らせていたみたいです。
大宅 政治家には、番組に出演してもモゴモゴするだけで、こちらが冷や汗をかくような人もいるのに。大違いですよ。
御厨 元警察庁長官ならではの「情報の出し方」も印象的でした。インタビューの時、話題が、「自分の頭にあること」「ないこと」「あってもしゃべりたくないこと」の3つに峻別されている。しゃべりたくないことについては、「その質問については、自分は深く承知していない」と言って、即座に「はい、次」。こちらが口を挟む余地を与えない。
そんなキレ者の後藤田さんですが、選挙だけは別だったみたいです。参議院選に出馬した'74年の初選挙では、落選のうえ、選挙違反で大量の逮捕者を出しました。
武村 あれは元警察庁長官が不正をした、悪質だということでずいぶん非難されました。
御厨 ご本人によれば、選挙事務所を開いたはいいが、誰も何も教えてくれない。そこにわけのわからない有象無象が「俺が何票持っている」なんて言ってきて、まるで統制がとれない。そういう「選挙屋」に弁当やカネを配って、そのまま選挙に突入したら、逮捕者が続出したというわけ。
「本当に俺は世の中を知らないと思った。俺が見てきたのは、せいぜい『制度の中の悪人』だけだった」と言っていました。「あいつら言葉巧みで、思わず俺も騙されたんだよ。まあでも、俺を騙せたんだから大したもんだ」って(笑)。
大宅 初選挙は後藤田さんを変えたみたいですね。奥様が本に、「後藤田は選挙を経てひとまわり大きくなった」と書いていらっしゃいました。
御厨 選挙後、田中角栄さんのところに行って相談すると、「とにかく毎日地元を歩いて謝ってまわれ」と言われたそうです。実際、毎日苦しみながら有権者のもとを回って、初めて地元のことを掌握できたんですね。
武村 選挙というのは、私も経験しましたが、選挙区にいる3分の2の人に好かれなきゃならない。いろいろな人がいますから後藤田さんも苦労されたのでしょう。
大宅 票のことはその後も気にしておられましたね。番組で「カミソリ後藤田」云々というタイトルをつけたら、「カミソリ、やめてくれんか。あれで票が減るんじゃ」と言っていました。
御厨 人の感情の機微にも敏感だったんでしょう。後藤田さんは叱り方についてもこだわりがあった。「叱る時は雪隠詰めにしてはいかん。厳しくするにしても、逃げ場を用意しておく」と言っていた。「後藤田に叱られて良かったと思わせるんだ」と。
武村 後藤田さんは一見そっけないですが、実は人間臭く、人当たりは悪くない。対人折衝はうまかったと思います。
僕が後藤田さんに初めて会って、その後、国会議員になって再会するまで20年くらい間が空いているんですが、当選してあいさつにいくと、「ああ、子連れで役所へ入った男だな!」と声をかけてくださった。あれはうれしかったなあ。
御厨 よく覚えてますね。
「ちょっと待った」の人
武村 うん。余計なことは言わないんだけどね、懐は広かったですよ。
'93年、僕が政治改革のために自民党を仲間と10人で離党した時もそう。いよいよ党を飛び出すという朝、後藤田さんから電話がかかってきて、「君、何かおかしなことを考えているらしいな」って。「はい、考えています。自民党を出ます」と言うと、「そうか、何人だ」と聞く。「10人です」「よっしゃ、わかった」。頑張れとか余計なことは言わない。それだけ。でもなんとなく温かい。
大宅 偉ぶることもなくてね。終戦の時に占領軍とやりとりをするくらい英語が得意だったのに、全然ひけらかしませんでした。宮澤喜一さん(元総理)は、私がちょっとからかうつもりで、「英語がおできになるんでしょ?」と聞くと、平気な顔で「ああ、まあね」と言っていましたけど(笑)。
武村 「飾る」ということが、あまり好きじゃなかったんでしょう。
大宅 一方で、ちょっと依怙地なところはありましたね。
'90年代終盤から、警察刷新会議で、顧問として参加していた後藤田さんとご一緒した際、議論を全てオープンにしようという話が持ち上がりました。でも、後藤田さんが反対して、一部の公開に留まった。「元警察トップの俺が言うことが外に出たら、それは即政治になるから」と。
でも、やっぱりその分信念がありました。会議で一番警察に厳しかったのは後藤田さん。彼がすごい剣幕で自分の意見を言うと、みんな「後藤田さんが言うんだから」と従うんです。古巣相手だろうが、厳しいことを言い、それを通してしまう。今、それほどの政治家がいるでしょうか。
後藤田さんのような矜持ある方が今の政界にいてくれたらと思います。
武村 もし仮に安倍(晋三)内閣に後藤田さんが入ったら、安定感が増すと思いますよ。
大宅 後藤田さんは、「ちょっと待った」と言う役割の方ですから。権力行使が行きすぎになりがちな安倍政権にいてほしい。
御厨 たしかに後藤田さんは権力に対しては抑制的でした。警察は治安維持を行いますが、その時に人を傷つけないよう自重しなければならない。彼は自分にも同じことを課す気持ちがあったんじゃないでしょうか。
大宅 湾岸戦争後、自衛隊の掃海艇を派遣することについて、「『蟻の一穴』を開けると派遣が無制限に広がる」とおっしゃっていました。もっとも、私は「日本国民を信用していないのか」と、少し気になりましたが。
武村 後藤田さんは先の大戦中、軍隊で苦労されました。権力の横暴や世論の異様な熱気に敏感だったのでしょう。
御厨 後藤田さんは中曽根康弘内閣の官房長官でしたが、その点、二人の権力観には差があったと思う。
中曽根さんは権力が集中した大統領型の総理を目指しました。一方、後藤田さんは官房に権力を集中させるのは賛成でしたが、総理ひとりに権限が集まることは危険視していた。権力は使えるがゆえに抑制すべき、と。
武村 後藤田さんは戦後の民主主義や自由主義的な雰囲気にも、わりと素直に肯定的でした。
御厨 そこも中曽根さんと違う。中曽根さんの書く文書は軍事用語だらけで、勇ましいものなんだそうです。「それを勇ましくなくするのが仕事だ」と言っていました。
大宅 二人の関係は複雑だったんでしょうね。しかも後藤田さんは、内務省での中曽根さんの先輩でもあるでしょう。
御厨 そうです。だから後藤田さんは、中曽根内閣の官房長官になった後も、最初のうちは総理のことを「中曽根君」と呼ぶことがあったそうですが、それを田中六助さん(元官房長官)に聞き咎められ、「いつか問題になる。『総理』か『中曽根さん』と言ったほうがいい」と注意されたらしい。後藤田さんは「六助は賢い」と言っていました。
大宅 その後、後藤田さんご自身が総理になる話も何度か浮上しました。実現していたら日本が変わっていたと思います。
武村 僕も、細川護煕内閣の誕生前夜('93年)、後藤田さんを担ごうとしました。自民党が衆院選で過半数以下に甘んじた後、後藤田さんに、無所属で総理になってほしいと頼みにいった。でも、後藤田さんは入院していたこともあって、「99%ない」と断られたんです。
御厨 警察官僚出身で、本来「裏方」である自分が前に出てはいけないという思いがあったはずです。本当は第二次中曽根内閣の官房長官もやりたくなかったようです。
武村 後藤田さんは最後まで子分をつくりませんでしたね。僕は本当に尊敬していたから、子分にしてもらえなかったのは寂しかった。カネに頼らない政策中心の「後藤田派」が十分できたと思いますが……。最後まであえて毅然とそびえたつ、「孤高の政治家」でした。
「週刊現代」2016年5月28日号より