夜の静寂に

夜、眠るまでのひと時、残り僅かとなったウイスキーのグラスを傾けながら窓の外をじっと眺める。高層マンションの窓からは、眩いばかりの色とりどりの光がどこまでも続く。

その一つひとつに人の生活があるんだろうな、などと考えながら、時折思い出す子どもの頃の事件。四半世紀もの間、誰にも話したことのない思い出だ。

父は、私が5歳のときに、あっけなく病気で亡くなった。父は、夏の間いつも近くの浜辺に泳ぎに連れて行ってくれた。4つの時、水に顔をつけるのを怖がっていた私を、父は無理やり抱えて海に入り、力づくで私の顔を抑えて海面につけた。それ以来、私は水が怖くなくなり一人で泳げるようになった。

母は、父が亡くなってから、私と2つ違いの妹の愛美を抱えながら、苦労して二人を育ててくれた。母は、近所の食堂兼居酒屋で朝から晩まで働いていた。夕方前に一度家に戻って、私と愛美に食事をさせて、食堂に戻って行った。私は、学校から帰ると、愛美をおばあちゃんちに迎えに行って、一緒に遊んだ。母は、時折、パンの耳をもらってきてそれを揚げておやつとしてくれた。そのおやつは、かりっとして甘くておいしかった。

当時私達が住んでいたのは、六畳一間にお勝手がついているだけの古いアパートだった。近くには海があり、山もあり、子どもが遊ぶには事欠かない町で、ちょっとした商店街もあった。母は、いつも忙しく働いていたが、私と妹は、母の愛情に育まれ、貧乏だとか不幸だとか、将来への不安も感じることなく、明るく育てられた。私が鈍感だったこともあろうが、子どもに不安を感じさせないということは母の偉大さであると思っている

それは、小学校の二年生の春だった。担任の桂先生の家庭訪問があった。

まだまだ学校の先生の権威が何の疑問もなく広く受け入れられていた頃の話だ。その日先生が来るというので母は、朝から緊張していた。母は、いつもの時間には、仕事に行かずに、小さなおんぼろアパートを隅々まで念入りに掃除した。そして、近所の空き地で何種類かの花を摘んできてコップに入れてちゃぶ台の上に飾っていた。いつもは、パンの耳を揚げたのが、おやつだったが、その日は、町で一番の和菓子屋である栄屋さんの羊羹を一つ買ってきていた。私は、食べたことはないが、きれいな栄屋さんの黄色い袋は知っていた。母は、大家さんから、きれいな急須とお茶碗も借りてきていた。

桂先生は、二時に来る予定だったが、少し前に玄関で先生の声がした。

「こんにちは」

「先生早かったね」

「うん。迷わずまっすぐこれたからね。お母さん初めまして。浩一君の担任の桂です。おじゃまします」

先生は家に上がり、母に勧められるまま、座布団にすわった。

「浩一君は、いつも元気で明るいお子さんですね。おうちでもいい子ですか」

先生は、照れるくらい私の学校での授業態度や生活態度を母に褒めてくれた。私は、先生が母に自分のことを褒めてくれたのがうれしくて天にも昇る心地だった。

母は、父が早く亡くなって、子どもたちに寂しい思いをさせていることや、私が愛美の面倒を良く見てくれることなどを話した。話している途中お湯がわき、母は、大家さんから借りてきた急須と茶碗でお茶を入れて羊羹とともに勧めた。

私は、初めて見る栄屋さんの羊羹を瞬き一つせずに見つめた。先生と母の会話も耳に入らないほど見つめて、先生が羊羹に手を付けなければ、愛美と二人で食べられると期待していた。

先生は、母と談笑しながら、羊羹には手をつけるそぶりもなく、お茶を一口すすっただけで、しばらくして訪問のお礼を言った。母は、羊羹を紙で包んで、栄屋さんの黄色い袋に入れて先生に

「後で召し上がってください」

と言って渡した。

「せっかくですので、いただいて参ります」先生は別れを告げた。

私は羊羹の当てが外れてがっかりしたが、それを悟られないように

「先生、またね」

と明るく先生を送りだした。

先生が帰ってからも、母は、上機嫌だった。自分の息子が担任に褒められて相当うれしかったのだろう。

「いい先生でよかったね」

母は、にこにこしていた。私も羊羹のことはすぐに忘れて少しうきうきしていた。

母は、仕事に戻って、私はいつものとおり敏子をおばあちゃんちに迎えに行くため家を出た。おばあちゃんちは、歩いて5分もかからないところにある。母が先生のために、花を摘んだ空き地にやってきたところで、ずっと先の方に、さっき別れたばかりの桂先生が小さく見えた。走って行って先生に声をかけようと思った瞬間、空き地から犬の唸り声がした。

いつも、私と愛美に吠え掛かる大きな茶色の野良犬が黄色の袋を食いちぎっていたのだ。あっという間に紙がボロボロになり、中の羊羹を一瞬で食べた。黄色の袋の残骸をそのままに、茶色の犬は、地べたをクンクン嗅ぎながら向こうの方に走っていった。

私は、しばらく栄屋さんの黄色の紙袋の残骸を呆然と見ながら、愛美を迎えにいかなくちゃと心の中でつぶやいた。

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夜の静寂に|らいす
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