第1573回 かぐや姫と、古代の巫女との相関図。

 

東経135.74にある月読神社(月読神社)。 竹と関わりの深い隼人の居住地で、隼人舞発祥の地。 垂仁天皇の妃であるカグヤヒメの実家。

 昨日、久しぶりに経王寺(東京都新宿区)を訪れ、住職の互井観章さんとお会いし、興味深い話になった。そのことを書こうと思って筆を走らせていると、また、とてつもなく長くなってしまった。まあ、こういうことに関心のある人は長くても読むし、関心のない人は、短くても読まない。
 前回のタイムラインで、日本史を通じて最も重要な場所の一つ、向日山のことを書くにあたって、縄文の祭司道具である石棒と「竹野」の関係を書いた。
 そして、竹野媛が自らを恥じて、向日山で堕ちて亡くなったことが、恥=羞=犠牲を神に薦(すす)める祭祀の終焉を象徴していることも書いた。
 互井観章さんもまた、独自に歴史探究をしており、時間があれば京都や奈良まで足を伸ばしている人だが、私が古代の巫女のことについて話をすると、それを受けて、仏教における話をしてくれた。
 たとえば熊野の比丘尼や山伏尼など尼僧は、祈祷の中で自己の境界を消失させて神霊と一体化するような技法をとる。すなわち対象に完全に没入し、自他の区別を超えて、まさに「神そのもの」になるというプロセスを踏んで、神託や霊的啓示を受ける。
 それに対して男の僧侶は、仏教修行や祈祷の中で自己を統制し、祈りや読経によって神仏との結びつきを構築し、「自己の境界を壊して没入する」行為は、心理的・霊的に危険だとされている。そのため、男僧が託宣や霊降ろしをする場合、女性を媒介者・依代(よりしろ)として立て、その身体を通して神意を聞くという形が取られるのだ。
 確かに、たとえば「口寄せ」では、男僧が後ろで経を唱え、女巫が神意を語るし、沖縄のユタやノロ(女性霊媒)の世界では、神が「降りる」身体は女性。男性はそれを支える補佐的な役割に回っている。
 空海真言密教の祈祷では、修法の中で神仏を自身に憑依させるような技法があるが、空海自身の場合でも、完全な自己放棄(神懸かり的技法)ではなく、曼荼羅に象徴されるように視覚化・イメージ化によって仏と合一する方法を採っている。
 つまり、男性は、女性のように没入することは、心理的、霊的に危険で、自らの内的秩序を崩壊させてしまう可能性が高く、象徴的な儀礼的操作によって神仏との接点を作る必要がある。
 この男性と女性の体質の違いは、古代においても同じであり、女性の体は「受け入れる」性質があるゆえ、シャーマン的な霊媒=「巫(ふ)」として適しているとみなされ、男性はどちらかといえば「神を祀る」ことと「祈りを捧げる」側に位置づけられた。
 数日前に書いた「ヒルコ」と「ヒルメ」の違いも、このことに関わってくる。
 イザナギイザナミが最初に生んだ神である「ヒルコ」は不具という理由で流された。名前からして「ヒルコ」は、男巫である。その根拠は、流されたヒルコが西宮でエビス神となるのだが、エビス神は事代主でもあり、事代主は託宣の神ゆえ男巫の資質を維持しているのだが、主たる役割は漁業の神、商売繁盛の神となり、「巫」の役割は、自分の娘であるヒメタタライスズヒメが、神武天皇の皇后となることで間接的に発揮される。
 事代主のもう一人の娘も、2代天皇綏靖天皇の皇后のイスズヨリヒメであり、時代としては事代主と神武天皇ではかけ離れすぎているが、神話は、ものごとの道理を伝えているために、しつこく、何度でも、違う角度から、説いているのだ。
 こうした男女の体質の違いから、時代によって祭祀の体制が異なってくるのだが、一度変われば、その後もずっとそれが続くわけではないことを理解しておくことが、日本の古代史を紐解くうえで大切な鍵となる。
 前回に書いた記事で、時代の転換期であり祭祀の転換期のことを象徴的に伝えている第11代垂仁天皇の時代、それ以前の巫女の役割を象徴する竹野媛は、垂仁天皇から不要とされ、実家に戻る際に向日山で堕ちて亡くなった。堕ちるというのは、ある秩序から逸脱する行為である。
 第10代崇神天皇の時も、天皇は「朕の世になり災害が多い。その所以を亀卜にて見極めよう。」と詔して占った。するとヤマトモモソヒメに大物主神が乗り移って自分を祀るよう託宣した。しかし、祭祀を行ったが霊験がなかった。そこで天皇は沐浴斎戒して宮殿の中を清めてから祈った。するとその夜の夢に大物主神が現れ、大田田根子賀茂氏の祖)に祭らせるように告げ、そのとおりにして災いが鎮まったと記紀に記録されている。
 ここで注意しなくてはならないのは、崇神天皇が第10代となっているので、天皇を年代順に遡り、西暦3世紀や4世紀初頭の天皇だと説明する専門家がいたり、古事記日本書紀は、当時の権力者が自分に都合よく編纂したものだから、すべてデマカセであるという極論で処理しまっている人が多いことだ。
 この記紀の記録のなかで大事なポイントは、崇神天皇が亀卜にて占ったことと、沐浴斎戒を行っていること。
 畿内で亀卜による卜占が行われるようになったのは、日本書紀には、西暦487年、京都の月読神社にもたらされてからとなっている。
 そして、この時期が、今来という新しい渡来人が大挙してやってきた時で、日本の祭祀も大きく変化した。上に述べたように、女性の巫が、男性の祭祀者の依代に位置付けられ、女性の巫が、完全な自己放棄(神懸かり的技法)=自己犠牲によって、社会の問題を解決しようとする祈りが廃れていく時期にあたる。
 つまり第10代崇神天皇と第11代垂仁天皇の時代の記録は、この5世紀後半の祭祀の転換について、違う角度から象徴的に描かれている。
 この祭祀の転換は、今来という渡来人が大挙してやってきたからという理由だけで起きたことではなく、国内にも事情があった。
 それは、この100年前(西暦400年頃)に、後に秦氏東漢氏と呼ばれる渡来人が大挙してやってきたのだが、これらの人々は、新しい産業技術をもたらした。
 そのことで明らかに変わったのは、たとえば古墳の副葬品で、それまでの玉や鏡などに代わり、鉄製の武器や農具などが非常に増えているのだ。
 こうした変化によって、明治維新の富国強兵のように産業力は高まったが、同時に人災も増えた。むしろ天災よりも人災の方が深刻になった。
 第10代崇神天皇が「朕の世になり災害が多い」というのは、そのことを指している。記録だけを見れば、疫病としか書かれていなくても、古代、全国レベルの疫病は政治が間違っているせいだと意識が共有されているので、「疫病」という言葉の背後に隠れているものを察することが大事になる。
 崇神天皇の時代の記録は、祭祀の転換以外は、武埴安彦の反乱を鎮めたり、四道将軍を各地に派遣したりと、戦いのことばかりである。
 それゆえ、崇神天皇は、災いと鎮めるために、沐浴斎戒を行う必要があった。「斎」は、心身を清く保つこと。「戒」は、つつしみ、誤ちを戒めることである。
 天災の方が深刻な時代においては、女性の巫による完全な自己放棄による祭祀の形がとられていた。天災は、人間側の尺度による客観的な理性分別で乗り越えられる問題ではなかったからだ。もちろん、女性の巫が人柱になったとしても天災が鎮まるわけでないが、問題は、その天災に対する心の受け止め方だ。
 古代の人々にとって、天災は、「天地の秩序の乱れの兆候」であり、天地自然(神)の怒りだった。
 共同体の人々にとっての一番の恐れは、天地自然(神)の怒りがとどまらないことであり、天地自然(神)との関係の回復が最大の願いだった。
 巫女は、「神と人間の間の通路」としての役割を担っていたから、その巫女が身を投げるという行為は、神との断絶を防ぐための共同体の最大の誠意の表明だった。
 天災によって、共同体の人々は容易に不安・恐怖・混乱に陥ってしまい、天災の方は、いつか必ず終わりがあるのにもかかわらず、人間の不安心理は、社会の不安定さを増幅してしまう。
 神に最も近いと考えられた巫女の自己犠牲により、共同体全体が神への服従と誠意を尽くしたという合意の可視化が可能になり、その納得感によって社会的秩序と結束が回復された。
 天災の際の巫女の犠牲を通じて、新たな秩序の立て直しと、世界が更新されたという感覚が共有されたのだろう。それが苦難の後、心のリセットを行い、前向きに生きる力となった。
 巫女の祈りと犠牲は共同体の「罪と痛みの肩代わり」であり、「罪と痛みの受け皿」があることで人々は立ち直る余地を得たのだった。
 前回の記事でも書いたように、垂仁天皇によって選ばれなかった竹野媛が向日山で堕ちて亡くなるという物語は、そうした巫女による自己犠牲的な祭祀の終焉を告げている。同じ垂仁天皇の時代、殉葬にかわって埴輪が使われるようになったというエピソードも同じ意味だ。
 そうした自己犠牲的な祭祀は迷信で、古く理性的でないという判断が下される時代変化が、過去にも起きたということ。
 しかし、日本というのは世界でも稀にみる震災国であり、南海トラフ地震など、人智の及ばない大災害が、定期的に起きてしまう。
 そうした時、女性の霊力を重視する社会的状況が、復活することになる。
 日本人なら誰でも知っている『かぐや姫』の物語。これは、カナ文字で書かれた最古の物語とされる『竹取物語』が原型であり、この物語は9世紀末から10世紀初頭に書かれたと考えられている。
 9世紀末というのは、貞観の富士山大爆発(有史に残る富士山の最大爆発)や、2011年3.11の巨大津波を超える大きさだったとされる貞観の大津波、大地震があった頃だ。
 この竹取物語が仮名文字で書かれ、それに続いて、女性による仮名文学が興隆し、源氏物語へと至る国風文化が花開いたと、学校の教科書では教わる。
 この歴史的背景について、女性の地位向上などと説明されることがあるが、それは、あまりにも現代社会の構図の中でしか考えられていない発想だ。
 紀貫之は、『土佐日記』の冒頭でこう述べている。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」
 そして、彼は、仮名文字で書き連ねていく。 
 平安時代初期、漢文が「男の文体」とされ、公的な記録や文学は原則として男性による漢文で書かれていた。そして、奈良時代万葉集などで表現された和歌は廃れ、男は、自らの知識教養をアピールするために漢詩の方を好んだ。
 しかし、竹取物語が仮名文字で書かれた頃、紀貫之は、女になりきって仮名文字で日記を書き、さらに古今和歌集を編纂する中心人物となり、万葉の歌心(とりわけ柿本人麻呂を含む初期の万葉集)を復活させようとした。
 こうした精神の変化は、貞観時代の人智をはるかに超えた天災と無関係ではないだろう。
 竹取物語のことも、この時代背景を考慮しなければ、その謎は解けない。 
 かぐや姫の物語のなかで人々の議論の的になるのが、かぐや姫が犯した罪というのは、一体何だったのかだ。
 物語の中で、かぐや姫は、罪を犯したので地上にいるが、その期限が来たので月界に帰ることになるという設定だが、その罪とは何であるかは説明されておらず、そのため、月の住人なのに地球に憧れたことが罪だとか、様々な解釈が蔓延している。
 この問題に対して、かぐや姫個人が行ったことを、かぐや姫の罪と結びつけてしまうのは、あまりにも現代的価値観にそった解釈である。
 本居宣長は、日本古代の罪について、「其は必しも悪行のみを云に非ず、穣又禍など、心と為るには非で、自然にある事にても、凡で厭ひ悪むべき凶事をば、皆都美と云なり」と書き残している。  
 つまり、古代、罪というのは人間個人の悪行のみを指すのではなく、自然界における天変地異などの凶事も含まれているということだ。
 竹取物語の主人公が象徴しているものは、古代の女巫である。
 上に書いたように天災などにおいて、古代の巫女は、共同体の「罪と痛みの肩代わり」であり、「罪と痛みの受け皿」であった。
 かぐや姫は、その共同体の罪を肩代わりする機会を待つために地上にいる。 
 期限がきたので月界に帰るというのは、遂にその時が来たということだ。
 古代の巫女が、神と人間のあいだの信頼関係を回復するために完全なる自己放棄を行って、地上から消えることと同じである。
 もちろん、時代は移り変わっていくので、平安時代貞観の大地震や大噴火の後に巫女の人柱が復活したわけではなく、竹取物語が伝えていることは、文化的に、巫女の霊力を復活させるということになる。
 源氏物語などでも描かれているように、西暦900年から1000年頃、正月に新調される主人の衣装はその正妻が製作の采配をとっていた。妻の霊力が衣装に憑いて、男性を守護すると考えられていたからで、男性にその霊力を分かち与えることで守護する女性の力を、柳田國男は妹の力としている。
 そして、なぜ、その巫女の霊力の復活と「竹」が関わってくるのかも考えなければいけない。 
 これは、前回の記事で書いた、「竹」という名がついた「竹野媛」が堕ちるという物語とも重なってくる。
 日本神話の中で、霊力を備えた巫女のルーツに位置付けられるのが、天孫降臨のニニギと結ばれたコノハナサクヤヒメだ。
 コノハナサクヤヒメは、 ニニギと交わり子供を身籠るが、ニニギからは自分の子ではないだろうと疑われる。
 その疑いを晴らすために、誓約をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中で産む。
 火は、浄化であり清めの象徴であるが、コノハナサクヤヒメは、自らの身体を「火の試練」にさらし、ニニギの子を生み出す聖なる器(=依代)としている。
 このコノハナサクヤヒメは、全国の浅間神社の祭神で、富士山の神様とされているが、山そのものの神ではなく、その禍を鎮める神である。甲斐の国一宮である笛吹市浅間神社は、貞観6年(864年)の富士山の大噴火で大被害が発生した時に、コノハナサクヤヒメが祭神となったと記録されているが、コノハナサクヤヒメと富士山が結びついたのは、この時からだろう。
 そして、この貞観の富士大噴火の後、竹取物語が書かれたのだが、実は、 このコノハナサクヤヒメこそが、竹と深く結びついている。
日本書紀』神代下・第九段の一書(第三)において、コノハナサクヤヒメの出産にあたり、「時に竹刀を以て、其の兒の臍を截る。其の棄てし竹刀、終に竹林に成る。故、彼の地を號けて竹屋と曰ふ。」と記されている。
 コノハナサクヤヒメが臍の緒を切るために用いた竹の刀が竹林になったのである。
 また『薩摩国風土記』(逸文)の閼駝(あた)郡竹屋村の条にも、「風土記ノ心ニ據ラバ、皇祖裒能忍耆命、日向國贈於郡、高茅穗ノ漶生峯ニ天降坐シテ、是ヨリ薩摩國閼駝郡ノ竹屋村ニ移リ給テ、土人、竹屋守ガ女ヲ召シテ、其腹ニ二人ノ男子ヲ產給ケル時、彼所ノ竹ヲ刀ニ作リテ、臍緒ヲ切給ヒタリケリ。其竹ハ今モ在リト云ヘリ。此跡ヲ尋ネテ、今モ斯クスルニヤ。」という記述がある。
 これによると、ホノニニギノミコトは、高千穂に天降りした後、薩摩国の阿多(アタ)郡の竹屋村に行き、土地の人・竹屋守の娘を召して、娘が二人の男子の出産において、竹の刀で臍の緒を切ったとされている。
 コノハナサクヤヒメの別名は、神阿多都比売(かむあたつひめ)なので、阿多のヒメということになるが、このヒメは、竹屋村の竹屋守の娘ということになる。
 竹は、門松などにも使われているが、そこに神霊が下りてくると考えられている。また、竹で編んだ籠はその目が邪気を払うので家の軒先に掲げられていた。さらに竹の笹は、神の言を人に伝える呪力を持つものとして、巫女が笹の枝を持って神楽を演じたのが能楽舞楽の始まりとも言われる。
 イザナギが黄泉のイザナミから逃げる際も、湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を引きかいて投げ、筍を生じさせて逃げている。
 このように竹や竹製品にはふしぎな力があると信じられていた。
 そして、古代、竹の製品作りに関わっていたのが吾田(南九州)出身の隼人(注:隼人という名で呼ばれるのは奈良時代からであり、それ以前は、吾田の海人である)であり、コノハナサクヤヒメは、隼人の女神だった。
 奈良時代以降、隼人は、鹿児島から畿内に移住し、宮中で守護に当たり、芸能、相撲、竹細工などを行っていた。隼人は、犬の鳴き声のような吠声(はいせい)で皇宮衛門の守護や行幸の護衛を行ったとされる。その声には悪霊退散の呪力があると信じられたため、儀礼において、官人入場の際、隼人が立ち並び、その前を官人が通り吠声を受けていた。 
 京田辺の甘南備山の北麓に月読神社が鎮座するが、ここは、隼人舞発祥の地で、隼人の居住地だった。そして、この京田辺は、古事記によると、垂仁天皇の妃である迦具夜比売命(カグヤヒメ)の父親、大筒木垂根王の拠点である。
 すなわち、「カグヤヒメ」という名は、古事記の中にすでに存在していた。
 この迦具夜比売命のエピソードはどこにもないから詳しくはわからない。しかし、垂仁天皇という、前回も書いた祭祀転換の出来事が象徴的に描かれている時代の妃であることを、平安時代竹取物語の作者は、意識していたことだろう。
 この迦具夜比売命の実家である京田辺の隼人の拠点が月読神社であるように、竹と深く関係する隼人は、月とも深く関係している。
 この場所は、東経135.74度に位置しており、この東経135.74度を南に伸ばすと、竹屋村の竹屋守の娘であるコノハナサクヤヒメを祭神とする式内社の阿陀比賣神社が、吉野川の流域に鎮座している。

東経135.74にある吉野川の芝崎の奇岩。竹屋村の竹屋守の娘であるコノハナサクヤヒメを祭神とする式内社の阿陀比賣神社が、近くに鎮座している。(奈良県五條市

 この東経135.74度は、とても興味深く、日本海に面した小浜では、八百比丘尼の入定の地がある。
 コノハナサクヤヒメが竹と関わりがあるのに対し、八百比丘尼は、全国行脚し椿を植えたと伝承が残るように、椿と深く結びついている。
 椿は、日本原産種であり、古事記の中で、ヤマトタケルの父の景行天皇が、ツバキの木から作った槌を武器にして土蜘蛛を討ったと書かれているように、ツバキもまた、竹と同じく邪気を祓う霊木だった。
 しかし、椿の花は、散る時に花全体がポトッと落ちてしまうので、武士は、首が落ちる様に似て不吉だと嫌った。現在でも病気の見舞いに椿を持っていくことはタブーとされている。こうした椿の霊性と不吉な性質が、人魚の肉を食べさせられて死ぬことができなくなった八百比丘尼に結びついている。
 八百比丘尼の年齢は800歳。諸国を巡って人間の苦難と悲しみを数えきれないほど目のあたりにしても、そのあいだ、巫女としての役割(自己犠牲で神とつながる)を果たせなかった。
 しかし、若狭の小浜の言い伝えでは、800歳の八百比丘尼が若狭にやって来た時、若狭の殿様が重病になった。八百比丘尼は、残りの寿命を殿様に譲り、生涯を終えたとされる。この入定の場所とされる八百比丘尼入定洞が、面白いことに、東経135.74度上にあるのだ。

東経135.74にある八尾比丘尼 入定地(福井県小浜市

 さらに、竹取物語の舞台として最も有力視されているのが、奈良県広陵町で、ここに鎮座している讃岐神社のところが、竹林でかぐや姫を見つけた翁の「讃岐造(さぬきのみやつこ)」が拠点とした場所とされているが、ここもまた東経135.74度である。
 実は、この東経135.74度というのは、平安京の中心軸である朱雀通り(現在は千本通)が南北に走っている場所である。
 だから、この135.74度上に、羅生門があり、まつりごとの中心の大極殿がある。そして、この平安京の北端の135.74に鎮座しているのが、平安京を建造した時の方位神である大将軍神社だ。(奈良の平城京は四神相応という4つの方位神によって守られた都にするという元明天皇の詔があるが、平安京が四神相応によって作られているとする説は、かなり後の時代に風水師が言い始めたことで、平安京建造時には、そうした記録はない。あるのは、平安京の方位を守らせるために大将軍を祀ったことである)。
 東経135.74の大将軍社は、桓武天皇平安京造営に際し、王城鎮護のため京都の四方に「大将軍神社」を祀った一つなのだが、後に、祭神が、イワナガヒメになっている。

東経135.74にあるイワナガヒメを祭神とする大将軍神社(京都市北区)。平安京の中心軸である朱雀道通りの北の端。

 イワナガヒメは、ニニギが「いと醜き」という理由で選ばなかった巫女であり、前回に書いた「竹野媛」と同じである。
 このイワナガヒメ平安京の中心軸である朱雀通りの北端に祀ったのは、垂仁天皇に選ばれなかった=巫女としての役割を終えて「堕ちた竹野媛」の復権なのだ。
 さらに加えるならば、織物産業の西陣の町がこの東経135.74ライン周辺に発達し、織姫神社(今宮神社の境内末社)も、このライン上に位置している。これらの位置決めは、おそらく同じ時期に行われている。

 このように見ると、平安京の中心軸の東経135.74にそって、北の若狭では八百比丘尼入定洞があり、京田辺は、垂仁天皇の妃である迦具夜比売命の父親、大筒木垂根王の拠点であり、ここに竹取物語と関わりの深い月、すなわち月読神社が鎮座しており、竹の祭司道具などを作っていた隼人の居住地だった。
 その南の奈良県広陵町では、かぐや姫の翁と関わってくる讃岐神社が鎮座し、吉野川流域では、竹屋村の竹屋守の娘だったコノハナサクヤヒメを祀る阿陀比賣神社が鎮座している。
 これらの聖域は、明らかに計画的な配置であり、これらが配置された時期は、竹取物語が書かれた9世紀末から10世紀初頭であろう。つまり、貞観の富士山大噴火と大地震があった後、コノハナサクヤヒメが、富士山を鎮める神として祀られ始めた時である。
 この巫女の霊力の復権を機に、紀貫之は、女性になりきって仮名文字で土佐日記を書き、男性原理の強い漢詩に取って代わられていた万葉の歌の心を復活させ、その歌を取り込んだ源氏物語などの女流文学が花開く。
 源氏物語の主人公が、光源氏だと思っている人が多いが、光源氏の光で浮かび上がる女性たちこそが真の意味で主人公である。
 光源氏は、彼女たちに守られ、時に、自らの罪のため六条御息所の怨霊という試練を受ける。
 光源氏の栄光の物語は、主体性が極めて弱い女性、女三宮を正妻にした時から狂っていく。そして、すぐに光源氏は、幻のように消えてしまい、その後は、光源氏と明石の君とのあいだに産まれた明石姫と、その子供達が物語の中心になる。
 そして、大河のように長大な源氏物語の最後は、不遇を重ねてきた浮舟が出家することで閉じるのだが、ここにこそ、源氏物語でもっとも重要な主題がある。
 浮舟は、薫と匂宮という二人の男性から愛されながらも、どちらにも身を委ねきれず、身を投げて死のうとした。(古代の巫女のような自己犠牲)。
 しかし、助けられて出家する。この流れは、浮舟という、古代の巫女のように主体性の希薄な依代的存在だった彼女が、一度死に、復活することを象徴している。
 浮舟の出家によって、源氏物語は、男性中心の「愛と政治の物語」からの脱却を象徴する。
 浮舟を愛する薫は、自らのことを宗教的・精神的な存在と見なしているが、実際には、浮舟を求める彼の姿勢は、所有と支配の欲望を含んでいる。
 浮舟は、物語の最後、薫が訪ねて復縁を望んできても、きっぱりと拒絶する。
 浮舟は、男が主導する世界から脱却し、「愛される存在」であることを拒み、「祈る存在」へと変容するのだ。
 これは、かつて堕ちて亡くなった竹野媛の復活であり、男どもの求愛を拒絶して、月に上るかぐや姫と同じである。
 古代の巫女が、神と人間のあいだの信頼関係を回復するために完全なる自己放棄を行って、世俗世界を超越したことと同じである。
 そうした女性の霊力は、人智の及ばない天災を前に、男どもの智略がまったく通用しないと思い知らされた時に、定期的に復活する。それが日本の歴史なのだ。
 男の有識者が中心となって、皇位継承資格は男系云々と、天皇の祈りの本質とは無関係のところで矮小な議論を続けていられるのは、人間の智略で何事でも問題解決が可能だと傲慢になっている期間だけだ。
 四つのプレートに挟まれた島国で生きていくかぎり、そういう智略で事に対処できない事態に直面する時が巡って来るのは、ほぼ宿命と言っていいだろう。
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 今回書いたことは、古代から一挙に平安時代に飛んだが、西暦700年の頃、律令体制が整えられる前にも、同じような状況があった。(つづく)

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京都と東京でワークショップを行います。
<東京>2025年6月21日(土)、6月22日(日)
<京都>2025年7月26日(土)、7月27日(日)*亀岡のフィールドワークを予定。*いずれの日も、1日で終了。
 詳細、お申し込みは、ホームページでご確認ください。
https://www.kazetabi.jp/%E9%A2%A8%E5%A4%A9%E5%A1%BE-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97-%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC/
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新刊の「かんながらの道」も、ホームページで発売しております。

羽束師坐高御産日神社(はづかしにますたかみむすびじんじゃ)。
通称、はづかし神社だ。竹野媛の霊を祀っているとされる。

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