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所在地

2008年4月13日

北陸道を歩く(その4)

福井県あわら市北金津~
坂井市坂井町長畑

 行動日程

千束の一里塚~坂ノ下~願泉寺~総持寺~大鳥神社~金津宿の街並み~市姫橋~関の七曲~下関の大地蔵~お早良作の碑

 参考資料

地図:国土地理院2万5千分1地形図:三国(金沢)
文献:福井県歴史の道調査報告書第1集 北陸道/福井県教育委員会 

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千束一里塚
観音堂
金津代官所跡
関の一里塚
長畑一里塚

 注:この地図はおおよそのルートをトレースしたもので、正確ではありませんので、参考程度にお使いください。

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天気が何とかもちそうなので、昨日に続いて、北陸道を歩くことにした。今回は千束の一里塚から。曇り空だと、どうも写真が暗くなってしまう、腕が悪いのか、デジカメが悪いのかよく解からないが、ここの一里塚の榎は立派だ。ちょうど桜も見ごろで、きれいだ。ここにも両側に一里塚があったが、東側の塚は道路拡張の時に取り払われたということなので、何か痕跡のようなものがないか調べてみたがそれらしきものは発見できなかった。

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千束の一里塚周辺は以前は一面の畑だったが、今は住宅地としてかなり開発が進んでおり、また道の途中には大きな工場などもあり、昔とはだいぶ感じが違ってきている。しかし、西側に新しい幹線道路がある為、旧道は車の通りが少なくいつもひっそりしている。そんな中を1kmほど歩いていくと、下り坂が現れ、左に降りて行く細い道が見えてくる(上記左側写真の正面)。これが旧北陸道だ。道路の反対側にはお地蔵さんも祀られていた。

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この坂道の周辺には大きな木が生い茂げり、昼なおくらい場所であり、昔の北陸道はこんな風だったかと思わせるものがある。ここら辺は坂ノ下と呼ばれ、金津宿への玄関口だった。加越国境からここまで、山深い道のりを歩いてきた旅人にとっては人里に降りてきて、ほっと一息つける場所だったことだろう。金津宿は江戸時代以降になって栄え、日替わりのように市が立ち、大きな賑わいを見せていた。金津には六日、八日市、十日市などそれにちなんだ名前が数多く残っているし、花街も存在していた。お地蔵さんのところを通って、坂を降りきると、左側には観音堂が建ち、右側には坂ノ下八幡神社がある。

 

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観音堂の入口にはふたつの塔が建っている(上記左側写真)。左側が題目塔(南無妙法蓮華経と刻まれた塔)で、右側が名号塔(南無阿弥陀仏)だ。どちらも、福井市の足羽山名産の笏谷石で作られている。ここには他にも多くの石仏や石碑が建っており、金津宿の中で唯一、旧道の雰囲気を残した場所だ。

 

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上記左側の写真は観音堂と対峙するように置かれた坂ノ下八幡神社。ちょうど桜が満開で、地元の人がお花見をやっていた。ここを過ぎると、三国に行く道との分岐が現れるが、そこをまっすぐに進む。するとすぐに道路にぶつかり、左に行くことになる。この辺りには今でも商店が立ち並んでおり、金津のメインストリートだ。この道をまっすぐに進んで行けば、JR芦原温泉駅にぶつかる。3、40年前までは坂井郡内の商圏のひとつの中心としてある程度の賑わいを見せていたが、今は郊外の幹線道路沿いに商圏が移っており、昔ほどの活気はない。この道を進むとすぐに右側に願泉寺(上記右側写真)が現れる。ここには金津唯一のキリシタン灯篭というものが存在している。下記写真がそれだ。


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ご住職にお話を伺ったところ、灯篭の下にお地蔵さんのようなものが刻まれているが、これが聖母マリアを表したものではないかと言うことだった。キリシタン灯篭だという確たる証拠はないが、この灯篭は以前はこの寺の庭の築山のところにあり、金津の豪商のところにあったものを移築したものだとの言い伝えが残っているそうだ。また、この近くには九州のキリシタン大名で有名な有馬晴信の末裔が治めていた丸岡藩があり、ここのご住職の家も代々有馬の姓を名乗っていることから、それと何か関係があるのかもしれない。ご住職も自分の祖先は有馬家のご落胤だったのかもしれないと話していたが、特に確たる証拠があるわけではないという。有馬の姓は金津では2、3軒、丸岡では1軒もないということだった。10年ほど前に福井県教育委員会が行った『歴史の道調査報告書』の調査で、ご住職はこの両方の説があることを偉い先生に話したそうだが、教育委員会は金津の豪商が寄進したものだとの説を採用している。また、ご住職の話によれば、この近辺にはキリシタン灯篭といわれるものが5つほど存在しているそうだ。一番有名なのは有馬家が治めていた丸岡にある円光院のものだが、その灯篭にも下のほうにマリア様のような像が刻まれており、ここの灯篭とかなり似ていることは確かだ。丸岡のキリシタン灯篭はちょっとした旅行案内書にも載っているが、ここのキリシタン灯篭のことは文献にも載っておらず、殆ど知られていない。ただ、明治時代くらいに地元紙がここのキリシタン灯篭のことを取材した記事が残っているはずだと住職は話していた。芦原の旅館にもキリシタン灯篭だというものがあり、それを一度見たことがあるが、それがどこの旅館だったか記憶にないそうだ。


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願泉寺と道を挟んで反対側には明善寺があり、その裏山には真言宗金谷山総持寺がある。その境内には松尾芭蕉ゆかりの雨夜塚(上記写真左)が存在している。芭蕉は金津にも立ち寄っており、その威徳を記念して、弟子が建てたのがこの塚だ。また、その境内には昭和7年に金津町(現あわら市)新町から出土したという大きなお地蔵さんもあった。

 

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上記左側写真は大鳥神社、商売繁盛の神様として賑わったという。また、境内には昔舟をつないだという大銀杏もあった。右側写真はかなり新しい建物ではあるが、昔の商家の建築様式をよく表している。うだつ(建物の2階部分の窓の脇に大きく張り出した壁のようなもの)が張り出した商家は北陸地方のあちこちでよく見られる。金津の隣町だといってもいい石川県の大聖寺にはこのような古い形をした商家がたくさん残っているし、武生の町中や今庄などにもこのような商家が軒を並べている。この近辺では三国にも少し残っているが、戦後すぐに起きた福井大震災で殆どの建物は倒壊し、残念ながらこの辺では昔の雰囲気を残したところは少ない。  

 

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坂ノ下を折れて、一本目の橋を右手に見過ごし、1kmほど進んだところを右折すると市姫橋が見えてくる(上記左側写真)。この川は竹田川だが昔は三国まで水運があり、川の両側には舟着場があった。また、橋を渡って右側を2、300mも行くと、金津代官所跡の碑がある(右側写真の一番奥の辺り)。

 

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橋を渡って直進すると交差点があり、そこを左折すると上記左側写真のように道はゆるくカーブしている。ここらあたりになると殆ど旧道の雰囲気はないが、道の微妙なカーブだけがその痕跡をいくらか残していると言えるだろう。この後、あわら市役所(元の金津町役場)の横を通って、旧道は進んでいる。金津の市街地が切れると道は殆ど直線的になるが、道路脇には用水が流れており、それが旧道の唯一の名残だろうか。

 

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金津の市街地から1km少し行くと右に曲がる細い道が現れる。これが旧道だ。その分岐点にはお地蔵さんもあった。ここから、関の七曲を抜けると、道は金津町(現あわら市)から坂井町(現坂井市)に入ることになる。

 

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ここら辺は広々とした水田地帯であり、田んぼの中を右に左に曲がりながら旧北陸道は進んでいた為、『関の七曲がり』と呼ばれている。今は耕地整理が進み、道筋は大きく変わったものの、今でもその名残が残っている。

 

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青々とした麦畑(ここら辺は水田だが、転作が奨励されている為、今は麦が植えられている)の中にぽっかり浮かぶ『関の一里塚』。ここにもふたつの一里塚が存在していたが、今は東塚だけがその名残をとどめている。一里塚は現在の車道とは数十mほど離れているが、ここを旧道が走っていた。


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一里塚の上には三等三角点も存在していた(標高6.1m)。

 

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水田地帯をまた1kmくらい南下すると、ようやく次の集落である関(坂井市坂井町下関)が現れてくる(田んぼの中の一本道は特に見るものもないので、車での移動)。最初に出迎えてくれたのは大きな地蔵尊だ。地蔵堂は3mくらいあり、坐像の高さも1.5mくらいで、台座が1mくらいとこれまで見たお地蔵さんの中では一番大きい。このお地蔵さんは関の七曲のところにあったが、昭和40年に現在のところに移された。また、この横には下記左側写真の石仏もあったが、これには天文20年(1551年)と刻まれており、これまで見た石仏の中でもかなり古いが、元々ここにあったものではなく、下関集落の館跡より出土したもの。更にここから20mほど歩くと親鸞聖人の逸話が残る石団子の碑も存在している。親鸞聖人は浄土真宗の開祖で、越後に流される時にここを通り、その何代目か後の中興の祖と言われる蓮如上人が吉崎で布教したのも何かの縁か。

 

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そこから更に南下すると田んぼの真ん中に振袖地蔵が現れる。このお地蔵さんの謂れは下記の通り。

 

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下関、上関を過ぎると、五本に至る。この辺も道が微妙なカーブを描いており、昔ながらの道筋を色濃く残しているものの、集落内には昔の雰囲気が感じられるものは殆ど残っていない。ただ、道の脇には坂井平野の水田を潤す十郷用水が流れているが、この用水はかなり古く、平安末期にこの辺りが興福寺領の荘園となったときに作られたとの言い伝えが残っている。その言い伝えは別としても、かなり古い水紛争の記録や用水に関わる文献がたくさん残っており、千年近い歴史を持った重要な用水であった可能性は高い。戦国時代には朝倉氏がこの用水を支配していた記録も残っている。鳴鹿の堰から九頭竜川の水を取水し、この用水を通って、坂井平野の大部分の水田に水が供給されていた。上記右側の写真のポスターは蓮如上人の御影道中の日程を知らせるもの。御影道中の一行は、蓮如上人の故事が残る場所やゆかりの地(お寺など)で休憩することになっているが、ポスターが貼られてある古川家も300年以上も昔から、その休憩所を勤めてきたところだ。五本、定旨、下新庄、上新庄と通り、長畑に入る。JR北陸線の踏切を渡り、少し行ったところにお早良作のお地蔵さんが建っている。


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お早良作の物語は上記写真の案内板のとおりだが、お地蔵さんは元は道路の反対側にあったそうだ(下記写真の場所)。ここには天保12年(1841年)と刻まれた念仏講中の碑があり、長畑の一里塚があった。

 

hokurikudou4-39.jpgちょうどここに差し掛かった時、お早良作の碑を見に来たという越前市在住のお二人連れに遭遇した。お早良作は越前万歳として謡われていることで有名だが、一人の方は越前万歳ではないが、今立のほうに残っているお囃子(音頭??)の名人の方だそうだ。そのお囃子に謡われているお早良作の物語に興味を持ち、この地にお出でになったということだ。ご両人が持参した本に載っている説明文や写真と、現在お早良作の地蔵尊が立っている位置や状況が違うので、それを確かめたいということだった。近所の方にお話を伺っていたら、詳しい方が近くに居られるということだった。雨も降り出したし、だいぶ暗くなってきたので、私のほうもここで旧道歩きを止め(この日は車での移動も多かったが)、お二人さんをそこに案内することにした。紹介を受けた方は商店の旦那さんで、その方にお聞きしたところ、お早良作の地蔵尊の場所は昔から変わっていないということだった(ただし、道の逆側にあった)ので、その本をよくよく見てもらったら、その写真に写っていたのは別の場所(北横地の追分地蔵)だったということが判明。これで謎は解けた。その後、お二人さんは森田・石盛の人橋地蔵を見たいということだった。そこは、私がこれから歩こうとしている旧北陸道沿いでもあるので、予習も兼ねて、お二人さんをそこに案内することにした。石盛の大体の位置は解かっていたものの、正確な場所は知らなかった。北横地から森田に至る旧北陸道は旧国道8号線と交差しながら走っているのだが、入り組んだところが多く、まだはっきりした道筋を把握していなかったが、今回下調べをしたことで、道筋をかなり特定することができた。今度ここを歩く時はそれほど迷うこともなさそうだ。また、ここら辺りには昔の名残を残したところもかなりありそうなので、次回が楽しみだ。今回は車での移動が多くなってしまったが、次回は楽しみながら歩いて、旧道を踏破できそうだ。

 

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