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2008年4月12日 |
北陸道を歩く(その3) |
あわら市細呂木町~
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行動日程 |
細呂木の関所跡~細呂木の坂~蓮ヶ浦~坂口~嫁威~照厳寺~千束の一里塚 |
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参考資料 |
地図:国土地理院2万5千分1地形図:北潟湖(金沢)
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注:この地図はおおよそのルートをトレースしたもので、正確ではありませんので、参考程度にお使いください。 |
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今回の出発点は、細呂木の関所跡から。なお、前回の紀行文には書かなかったが、地元生まれの90歳になるというおばあちゃんから聞いたところによると、関所跡の碑が立っている向こう側には昔は舟着場があり、ここから舟に乗って吉崎御坊にお参りに行ったそうだ。吉崎御坊では毎年春になると蓮如上人の御影道中の行事が行われており、その時期になるとここら辺はたくさんでの人でごった返したそうだ。舟着場はこのとなりの蓮が浦や赤尾などにもあったそうだが、細呂木の舟着場は細呂木駅(現JR北陸線)から近かった為に、そこから人がぞろぞろと歩いてきて、ここで舟に乗って吉崎に向かったそうだ(舟に乗らない者はここから山の中に入り、吉崎道をたどった)。最盛期には舟会社まであり、舟着場は昭和30年頃までは存続していたそうだ。御影道中とは浄土真宗の中興の祖、蓮如上人が一時京都を離れ、吉崎(福井県あわら市)で布教活動を行うことになった際にたどったルートを、蓮如上人の御影(ごえい)(肖像画)を輿に乗せてたどるもので、300年以上続いている。この行事は毎年4月中旬から5月中旬に掛けて行われており、今年は4月17日に京都を出発し、吉崎に4月23日に到着。吉崎御坊で10日間の法要を営み、5月2日に再度吉崎を立ち、5月9日に京都に戻ることになっている。いつもはひっそりとしている吉崎もこの時ばかりは賑わいを見せるが、昔は今とは比較にならないくらいに盛大だったようで、おばあちゃんはここら辺の道は人がごった返していたと昔を懐かしみながら、話してくれた。そのおばあちゃんは90歳とは思えないほど元気で、今も毎日畑仕事に出ているということだ。また、記憶も鮮明で、昔のことを淀むことなく話してくれた。また、この丘の上に登ると北潟湖がよく見えるから、一緒においでと誘ってくれた。「ここから見る夕日がきれいなんですよ」となかなかロマンチックなおばあちゃんだった。
関所跡があるところ(観音川)の橋を渡り細呂木の集落内に入り、まっすぐ50mも行くとT字路にぶつかり、右に曲がる。この辺りは元宿場町であり、わずかながらその雰囲気を漂わせている。その道をまっすぐ進むとコンクリートの壁にぶつかるが、そこには上記右側の写真のようなお地蔵さんが鎮座していた。おばあちゃんの話によれば、ここら辺は昔は土がむき出しの崖になっていたということだ。
家に帰って古い地形図(明治36年製)を確認したところ、そのころはこの小高い丘陵の裾野まで北潟湖が迫っていたことを確認することができた。このおばあちゃんは90歳だといっていたから、大正7年くらいの生まれということになる。そのころから、この近辺の北潟湖を埋め立て水田にする工事が始まっており、その埋め立てが終わった後の記憶が鮮明に残っているのだろう。また、この地図には坂の両側に家のようななものがびっしりと書き込まれており、旅人相手の店がたくさん軒を並べていたようだ。確かに道の両側には少し平坦なところもあった。その名残で米屋がそこに残っていたのだろう。
ここには南北朝時代の騒乱の時や室町時代後期の一向一揆の時には城があったが、今はお稲荷さんがあり、細呂木の集落を見下ろしていた。
右記写真はそのお稲荷さんから細呂木の集落を見渡したところ。時代劇に出てきそうな眺めだ。ここからは昔の宿場町の雰囲気が色濃く伝わってくる。
坂を上りきると左側に、上記左側写真の石碑が現れる。これは『親鸞聖人御旧跡』の碑で、正面には親鸞聖人が詠んだ句が刻まれている。『文政12年(1829年) 越中魚津同行中』となっていた。また少し行くと上記右側の碑が現れる。これはここに昔、細呂木一里塚があったという碑だ。
細呂木の一里塚があった位置から蓮ヶ浦方面を望む。昔は、中央に見える県道辺りまで、北潟湖の湖岸が迫っていた。≪2008年7月11日本文一部訂正≫
細呂木の坂を下りてくると、左記写真の右側の細い道路を通って、ここに出てくる。10mほど、細い道路が残っているが、これが旧道の名残だと思われる。この写真の手前右側には下記写真のお地蔵さんがあった。
旧道は、このお地蔵さんを左に見て蓮ヶ浦の集落に入って行く。
蓮ヶ浦の中の旧道は左記写真のとおりだが、どちらかというとこの道より、もう一本西側のほうの道路に集落が集まっているが、これは集落のはずれに舟着場があったからだろう。
蓮ヶ浦の集落を抜ける辺りには上記写真ような追分があり、お地蔵さんも祀られてあった。右が旧北陸道で、左は集落内を通り、元舟着場があったところに至る。
蓮ヶ浦を抜け、出てきたところ、ここら辺に舟着場があったことになる。正面に見えるのは北潟湖。
蓮ヶ浦を抜けると坂道になり、山の中に入っていく。この道の右脇には昔の道跡と思われる掘られた部分があったので、地元の人に話を聞いたが、この辺りの道筋は殆ど変わっていないということだった。ただ、右のほうに折れて山の中を北潟湖にほうに行く野道のようなものがあったので、それではないかと思われる。
蓮ヶ浦の集落から出て300mくらい行くと、北潟湖のほうに向かう大きな道にぶつかり、そこを渡って左側の坂を上っていくことになる。新しい道路ができるまでは、もう少しまっすぐ道が進んでいたようだ。 次に至る坂口は小さな集落で、あっという間に過ぎてしまったが、ここの集落は次に訪れる嫁威に住んでいた人々が移り住んで出来上がったということだ。坂口の集落を過ぎるとまた坂となり、新道(県道金津吉崎線)に合流するが、その辺りにはたくさんのお地蔵さんや石碑があった。特に古いのは上記右側写真の石碑(坂口宝筐印塔)で、碑の脇には正徳4年(1714年)と刻まれている。 坂口の坂を登り、新道に合流する地点。ここからは車道を進むことになる。
1km進むと嫁威(よめおどし)に到着する。嫁威には蓮如上人が吉崎で布教していた時の言い伝えが残っており、ここら辺では知らぬ者のない地名だ。嫁威の言い伝えは下記説明板のとおり。
嫁脅の谷の東側には現在は嫁脅の集落があるが、これは戦後ここら辺の山林を開拓するために出来上がった集落であり、今は広々とした畑が広がっているが、昔は上記右側写真のような鬱蒼とした藪だったようだ。 嫁威から坂を下り、山十楽の交差点を渡って更に進むと、照厳寺の門が見えてくる。この門の前はこれまでも何度も車で通っていたが、中に入ったことがなかったので、山門を上がってみたところ、大刹の寺院が現れたのでびっくりした。
永平寺や勝山の清大寺(越前大仏で有名)を除けば、ここら近辺のお寺ではこれだけ大きな本堂を持ったお寺はそうはないだろう。となりにあった唐破風を持った建物も立派なものだ。このお寺は浄土真宗大谷派のお寺だが、一向一揆のときの拠点となった寺院であり、朝倉氏との闘争に敗れ一時は加賀のほうに拠点を移していたが、その後また越前に戻り、ここ柿原(現在の正式な地名は清王)に戻ってきたということだ。寺院の前にあった説明書によると本堂は昭和56年に建て直されたものであるようだ。 柿原を過ぎると、道路は二股に分かれ、左に入ると千束に至る。二股の分岐点から100mも行ったところに大きなお地蔵さんがあった。このお地蔵さんの裏には天保10年(1839年)の銘が刻まれてあった。
そして、千束の集落を過ぎると、大きな榎が見えてくる。それが千束の一里塚だ。ここにも道の両側に二つの一里塚があったが、道路を拡幅する時に東側にあった一里塚は取り払われたということだ。これだけ昔の雰囲気をとどめた立派な一里塚は全国的にも珍しいそうだ。
千束一里塚の説明板
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