東大新聞に掲載された、学術会議法案に関する東大新聞の自由記述の内容を読むという配信をした。
ネトウヨのなかでは、一部の教員のコメントをあげて「人文系がイカれており、理系教員がまとも」であるかのような評価がなされていた。しかし、学術会議の独立性を重んじる態度を「イカれている」と評するのであれば、実は自由記述を書いた大半の教員がイカれていることになるだろう。ネトウヨが挙げた、政府の介入を支持するコメントを除けば、ほぼすべての教員が政府への介入に批判的な内容を書いていたからだ。
つまり、ネトウヨは自身に都合のいいコメントを抜き出して、あたかも全体が自分たちと同じ立場であるかのように嘘をついていたということになる。いつものことだが。
コメントの全体像
まず、コメントの全体像を確認しよう。東大新聞の記事は6つに分かれている。(配信では最後の2つを扱い損ねていた)『東大教員は学術会議の法人化をどう見ているか ①総合文化研究科』では、11人分の自由記述が掲載されている。そのうち、政府の介入案に賛同している記述はない。学術会議を強く批判しているコメントが2名分あるが、それらも政府の振る舞いには反対するという前置きがされている。なお、実名は2名。
『②法学政治学・人文社会系・経済学・教育学研究科』は20名分が掲載されている。そのうち、政府の介入を否定しないコメントは3名分で、いずれも経済学研究科の教授のもの。なお、実名は4名。
『③工学系・理学系・数理科学研究科』は15名分で、介入を否定しないのは5名分。ただし、評価に迷うコメントもあり、学術会議に否定的なもので政府の介入を明確に否定していないものを含めれば半数ほどがそういう態度だとも言えるという印象。なお、実名は1名のみ。
『④医学系・農学生命科学研究科、大気海洋研究所』は14名分で、介入を否定していないと解釈できるのは2名分。こちらも評価に迷うコメントがあるが、それらを含めても半数は絶対に越えないという印象だ。なお、実名は1名のみ。
『⑤新領域創成科学・情報理工学系研究科、情報学環』は9名分で、明確に介入を否定しない態度をとっているのは1人もいなかった。なお、実名は4名。
最後、『⑥その他の部局・名誉教授など』は16名分で、介入に否定的でないのは1名のみ。なお、実名は10名。
政府介入を支持するのはわずか
ここまで見てわかる通り、政府の介入をはっきりと支持するコメントはあまりに少数だ。少なくとも、自由記述を書いた教員の大多数が、様々な立場を取りつつも、政府の介入には問題があるという意見を表明している。特に注目すべきは③の記事で、ここは最も政府介入の支持率が高いものの、それでも50%は超えない水準となっている。ネトウヨは「一部の人文系教員に振り回されるまともな理系教員」という物語を描き出したが、そのような構図は存在しない。
実際にあるのは、ごく一部のネトウヨっぽい教員が出鱈目を書き、ネトウヨが喜んでいるといういつものインターネット地獄絵図だ。
・大学院農学生命科学研究科 教授あまりにもレベルの低かったコメントの代表例は、④に掲載されたものだろう。ネトウヨのなかではなぜか共産党が学術会議に影響力を及ぼしていることになっているが、野党第一党、いや第二党ですらない政党がどうやって影響力を及ぼすというのだろうか。あまりにも小さい勢力がなぜか強い影響力を持っていることになっているという世界観は陰謀論にありがちで、レイシストが好む「在日コリアンによる支配」とも似た物語だという印象がある。
今回の政府による学術会議に対する対応は、もともと共産党の影響力が大きかった同会議を正当かつ純粋に学問を追究する組織に改める上で当然のことと考える。
学術会議と共産党が近しいように見えるのは、単に、戦争の反省から作られた組織と戦前から戦争に反対していた組織の方向性が似通っているだけだろう。だが、彼らの単純極まる世界観では裏で繋がりがあることになってしまう。これは暇アノンが女性支援団体を指して「共産党と強い繋がりがある」とはしゃいだのと同じ構図だ。
・大学院経済学研究科 教授もう1つ、②の記事から、低質なコメントとしてお気持ち長文を書いてしまった例を挙げる。『極端な言動・党派性』と書いており、他の人のコメントも学術会議が軍事研究反対を「感情的に」主張しているという意見が見られるが、このコメントを見る限り介入を支持する人々もかなり感情的なようだ。配信で音読して改めて気づいたが、例えば『党派的に極端な主張を前面に押し出して自分のイデオロギーを前面に出すのか理解に苦しむ』は同じ単語が連続して登場しておりかなり読みにくい。このような問題が、たったこれだけの文章に複数現れている。
私自身は6人の任命拒否の際などはぼんやりと問題だなとは感じていたものの、今は反対派の方々の活動の仕方や極端な言動・党派性を見て非常に疑問を感じ始め、このような人たちに勝手に「学術界の意見」を代表されるくらいであれば、政府のコントロールの方がよほどましだと感じるようになった。特に、弊学の一部教員については勝手に「東京大学教職員組合執行部有志」を名乗って勝手に組合の統一見解のように誤認されるような文章を同HPに掲載したり、Youtubeでのアジ演説のようなものを見て、この人たちや学術会議なるものの構成員というのはどういうレジティマシーがあって勝手に学術界を代表されるのか、そもそもこの組織の運営自体が極めて非民主的であり、それがゆえにこのような事態になっていると感じるようになった。米国の民主党左派の極端なDEI推進が逆向きの反動を生んでいるのに近い感じになっていることに近い感じで多くの研究者にある種のアパシーを生み出していると感じる。何故社会科学者(ではないかもしれないですが)であるのにもかからずこのようなことになぜ無自覚であり、党派的に極端な主張を前面に押し出して自分のイデオロギーを前面に出すのか理解に苦しむ。学会・研究者の世界のより多くの人の意見がきちんと集約されなにのであれば、そのような機関の独立性にどのような価値があるのだろうか。
内容ももちろん問題だ。『米国の民主党左派の極端なDEI推進が逆向きの反動を生んでいる』というネトウヨ言説が登場しているが、こういうときに『極端なDEI推進』の具体例が出てくることはない。アメリカでは黒人が警察に撃ち殺されているし、アファーマティブアクションも違憲扱いされてしまったのだが。
秀逸(皮肉)なのは、彼が日本語の理解に難があると思われる点だ。彼は一部の教員が有志を名乗って声明を出したことに『組合の統一見解のように誤認されるような文章を同HPに掲載した』ことにお怒りのようだが、有志という言葉は「志を同じくする者の集まり」という意味でしかない。平均的な読解力を有していれば、有志の出した文章はあくまで声明に賛同する人間の発信に過ぎないことが理解できるはずだ。
まぁ、学術会議バッシングにおいて、学者が対峙すべき相手の知的水準がこのレベルであるという象徴的な例なのかもしれないが。意見の中にはよりわかりやすい発信やアピールの重要性を説くものもあったが、日本語の用法すら共有できない相手に対してどう発信すればいいというのだろうか。
俺の言うことを聞かないから駄目!
学術会議といえば、なぜか原発事故の汚染水放出問題にやたらこだわる向きが一部にある。③に掲載された以下のコメントもその文脈だ。・大学院工学系研究科 岡本孝司教授汚染水放出で日本がバッシングされているときに何もしなかったから駄目!という話だが、あの問題で学術会議にできたことがあったとは思えない。あの問題は地元住民との約束を破って汚染水放出を行ったので叩かれた、以上のものではない。放出した水の安全性は、実のところ重要ではないのだ。いくら科学的に安全だったとして(私はこの評価自体に懐疑的だが)、約束を破って勝手に放出したら誰だって怒るし、そんな方法で放出すればやましいことがあるのではないかと思われ「科学的には安全」という説明の説得力も消え失せるだろう。
学術会議は、例えばALPS処理水の問題について、何も役に立っていない。内閣府や外務省など、日本国全体で科学的な説明を行った。日本国が大変な時に、役に立たない組織は、不要である。
諸外国の対応も同様である。日本にとって、汚染水放出はリスクがあっても実施するメリットがある行為だった。一方、ただ汚染水を放出された諸外国にはリスクしかないため、放出を許容する理由は一切ない。仮に科学的なリスクがわずかだったとしても、その僅かすら許容する理由が彼らにはないのだ。諸外国の対応には政治的な思惑もあったかもしれないが、第一には日本との置かれた状況との差異が影響していたし、こうした反応はあまりにも容易に想像できるはずのものだった。
仮に学術会議にできたことがあるとすれば、科学技術コミュニケーションの専門家を呼び集めてコンフリクトを解決するための合意形成のありかたを提言するとかだろう。学術的に誠実な言動をとるならそうするほかない。だが、そうした提言が彼らの望む「科学的な」説明でないことは明らかだ。
結局、彼らは学術会議が何をしてもバッシングするというだけである。
なお、汚染水放出にお熱な岡本教授は原発業界から多額の研究費や寄付を受け取っている。研究分野と近い業界から研究費を受け取ることが必ずしも悪いことだとは思わないが、こういう背景がある発言だという割引は行うべきだろう。
学術会議バッシングの多くを占める意見は、学術会議が軍事研究に反対していることに対するものである。学術会議の出発点を考えればこうした「イデオロギー的偏向」は自明のことだが、反対する人間がいるのは理解できる(それが、研究費などの地震の利益のことしか考えない振る舞いだったとしても)。しかし、特徴的なのは、そう考える人々が「軍事研究を推進する学者の会」のようなものを作ったという話は聞かない一方で、学術会議バッシングには熱心だということだ。
汚染水放出にせよ軍事研究にせよ、こうした振る舞いの背景にあるのは「自分と同じ意見じゃない組織が許せない」という幼稚な態度である。軍事研究においては、自分が何か具体的な行動を起こすわけではないが異論を持つ組織は叩くという、更なる幼児性も加わる。誰かが「日本人は何もしないために何でもする」と言ったが、バッシングの背景にはこういう心性もあるのではないかと思う。
からかいの政治学
最後に、学術会議バッシングのもう1つの特徴を挙げたい。それはミソジニーを背景にしたからかいと被害妄想である。現在、学術会議への介入問題に最も熱心な活動をしている一人が東大の隠岐さや香教授である。氏は専門が科学史なので、そういう背景からも問題に取り組んでいるのだろうが、インターネットというのは優秀な女性がとにかく嫌いなので攻撃の対象となっている。
代表的な攻撃はこういうものだ。彼らのなかでは、学術会議「寄り」の人々に嫌がらせをされるため、批判的な意見を実名で出せないことになっている。だが、こうした言説は妄想の範疇を出ない。上でまとめたように、そもそも実名を出している教員が少数派である。もし実名を出さないことを攻撃への懸念だと捉えていいなら、学術会議を擁護する意見を出すことこそ攻撃を恐れざるを得ない状況にあると解釈すべきだろう。そういう解釈になっていない以上、彼らは実態を理解しないまま自分にとって都合のいい物語にはしゃいでいるにすぎない。
ところで、女性研究者に対する「名前を言ってはいけないあの人」呼ばわりは、北村紗衣氏に対するものが初出だったように記憶している。北村氏も執拗な誹謗中傷の被害者だが、インターネットではなぜか非常勤講師を失職に追いやった悪逆非道のように扱われている。加害者のひとりであるガンリンはそうしたインターネットの妄言を本当に信じ込んでしまったのか、戻ってこれないところに居るように見える。
ともあれ、隠岐氏もそうだが、シンプルに誹謗中傷の被害者でしかない人物を、「名前を言ってはいけない」などと呼称することで加害者の位置に転換するという卑怯な振る舞いが今回も見られている。もちろん、彼らが女性研究者を本気で恐れているわけではない。本気で恐れていればこのような表現はできないからだ。
ここには女性に対する「からかい」がある。『女性解放の思想』という本が収録する『からかいの政治学』がこうした言説を鮮やかに説明している。本の初版は85年だが、現在の言説を説明するのに補足が不要というレベルだ。自分の書いたブログ記事のまとめを読んでそう思うくらいに洗練された論評であり、また現代の発展のなさも思わされる。
学術会議バッシングの言説は、客観的に見れば意見の内容以前に幼児性や妄想の類、悪ふざけがあまりにも多くとてもではないがまともに取り扱うべき水準にない。だが、言説の水準すらまともに評価されなくなっているのが現在の日本であり、だからこそ学術会議バッシングが起こるとも言える。こうした状況を解決する答えはしばらく見つかりそうにない。
学問と政治 学術会議任命拒否問題とは何か/岩波書店/芦名定道
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「市場は効率的な結果をもたらすという理論についてはどうだろう? 保守派の経済学者は絶えず、アダム・スミスの言う「見えざる手」を引き合いに出してきたが、スミスがそれに課した条件を忘れていた。そのため、競争市場が効率的であることを証明しようとして行き詰まってしまった。」
「ポピュリズムを生み出し、繰り返し社会を独裁主義へと向かわせてきたのは、小さすぎる政府だ」ノーベル賞経済学者スティグリッツによる解説
https://toyokeizai.net/articles/-/882774?page=2
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経済学(資本主義)が発足時点でその様なパラダイムを抱えており、資本主義を根底から疑い再出発を企図したマルクスでさえもそのパラダイムに疑問を持っていない。つまり、そういう学問として始まり、未だに大多数の経済学者がその謬見に気付かないか、或いは克服出来ずにいる、との指摘。経済学に限らず理工系でも割とよく見かける現象で、生成AIの偏見や安全設計の性差などに今更気付き、それでも猶認めようとしない自称理性的論理的なテクノクラートなぞが好例でしょう。