※思ったことをそのまま書き殴っています。気分を害したらごめん。
ネットを眺めていると、やたらと声が大きい人間がいる。発言のボリュームも頻度も桁外れで、タイムラインの風向きを一瞬で変えてしまう。ところが、実際に彼らの発言に振り回される当事者の声は――ほとんど聞こえてこない。
なぜか? 彼らは「声を上げられない」のではなく、「声を上げても誰も拾わない」からだ。
日本のネット空間で「影響力が強い人」というと、かつての実績に支えられた元○○が多い。現役バリバリなら忙しすぎて四六時中ポストする暇はない。
つまり、実績があって時間が余っている = 半ば干されている。
この “干され力” が最大化すると、承認欲求と自己防衛が混ざり合い、最後の輝きを放つ。タイムラインはその残光に包まれ、眩しさゆえに周囲は目を細める。
声が大きい人に対し、振り回される側は二種類いる。
反論や補足を試みるが、一瞬で潰される。
後者の声は可視化されない。だからネットには「被害者の声がない」ように見える。存在しないのではなく、“沈黙ごと無視されている” のだ。
魯迅の『阿Q正伝』を思い出す。失敗と屈辱を内面的勝利宣言でごまかす男、阿Q。
タイムライン上の“声がでかい”人々も、誰よりも早く「私は勝った」と叫び、自分の物語を確定させる。
その瞬間、周囲は「阿Q、今日も元気だな」と苦笑いをしつつ、いいねを押すかミュートするかの二択を迫られる。
ネットは 「影響力 × 暇」 の掛け算でできている。
“干され力” が高いほど、声は大きくなる。
だからこそ、私たちはタイムラインの喧騒を「世論」と勘違いしてはいけない。
阿Qが掲げる勝利宣言は、しょせん彼の内的世界の話であって、社会の総意ではない。
「阿Qって誰?」という若い人向けにリンク貼ろうとしたが、検索すれば一瞬だったのでやめた。
本文中の“干され力”は商標登録していない。自由に使ってほしい。
以上、インターネットの片隅より。