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独学の思考法 地頭を鍛える「考える技術」 (講談社現代新書)

本書「プロローグ」ではショーペンハウアー「読書について」の読解をしています。ここではある理由から、本書が引用している岩波文庫版ではなく、光文社古典新訳文庫の鈴木芳子訳を引用します。訳文の改行位置に空白を入れ、文ごとに改行しました。

読書するとは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことだ。
他人の心の運びをなぞっているだけだ。
それは生徒が習字のときに、先生が鉛筆で書いてくれたお手本を、あとからペンでなぞるようなものだ。
したがって読書していると、ものを考える活動 Arbeit des Denkens は大部分、棚上げされる。
自分の頭で考える営み Beschäftigung mit unsren eigenen Gedanken をはなれて、読書にうつると、ほっとするのはそのためだ。
だが読書をしているとき、私たちの頭は他人の思想が駆けめぐる運動場にすぎない。
読書をやめて、他人の思想が私たちの頭から引き揚げていったら、いったい何が残るだろう。
だからほとんど一日じゅう、おそろしくたくさん本を読んでいると、何も考えずに暇つぶしが出来て骨休めにはなるが、自分の頭で考える能力 Fähigkeit, selbst zu denken がしだいに失われてゆく。
いつも馬に乗っていると、しまいに自分の足で歩けなくなってしまうのと同じだ。

だがこれは非常に多くの学者にあてはまる。
かれらは多読のために、愚かになっている。
暇さえあれば、すぐ本を手に取り、たえず読書していると、たえず手仕事をするより、もっと精神が麻痺する。
手仕事なら作業にいそしみながら、あれこれ物思い eigenen Gedanken にふけることができるからだ。

バネにずっと他の物体の圧力をかけ続けると、しまいに弾力が失われるのと同じように、
たえず他人の考え fremder Gedanken を押しつけられると、精神は弾力性を失う。
栄養をとりすぎると、胃が悪くなって、そのうち身体全体がだめになるように、
精神も栄養分をとりすぎると、詰め込みすぎで窒息するおそれがある。
いいかえれば、たくさん読めば読むほど、読んだ内容が精神にその痕跡をとどめなくなってしまう。
精神はたくさんの事を次々と重ね書きされた黒板のようになってしまう。
そのため反芻し、じっくり噛みしめることができない。
だが食事を口に運んでも、消化してはじめて栄養になるのと同じように、
本を読んでも、自分の血となり肉となることができるのは、反芻し、じっくり考えたことだけだ。

ひっきりなしに次々と本を読み、後から考え späterhin weiter daran zu denken ずにいると、
せっかく読んだものもしっかり根を下ろさず、ほとんどが失われてしまう。
概して精神の栄養も身体の栄養と変わりはなく、
吸収されるのは、摂取した食物のせいぜい1/50にすぎない。
残りは蒸発・呼吸作用その他によって消えてゆく。

さらに、紙に書き記された思想 Gedanken は、砂地に残された歩行者の足跡以上のものではない。
なるほど歩行者がたどった道は見える。
だが、歩行者が道すがら何を見たかを知るには、読者が自分の目を用いなければならない。
(引用終わり)

ドイツ語の原文の denken, Gedanken (英語では think, thought)が「考え(る)」「物思い」「思想」と訳し分けられています。原文で「同じものだ」としているので、多少不自然な日本語であっても同じ言葉に訳す必要があります。

  • 自分の頭で考える営み Beschäftigung mit unsren eigenen Gedanken (occupation with our own thought)

  • 自分の頭で考える能力 Fähigkeit, selbst zu denken (ability, personally/by oneself to think)

逆にこちらは原文の違いを無視してどちらも「自分の頭で考える」としています。どう違うかは後ほど説明します。訳者はあとがきで得意げですが、これでは哲学など不可能です。もっともこのレベルでさえまともに訳せる人はまずいませんが。

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最初から順に具体的にやります。

読書するとは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことだ。
他人の心の運びをなぞっているだけだ。
それは生徒が習字のときに、先生が鉛筆で書いてくれたお手本を、あとからペンでなぞるようなものだ。

「nachzieht なぞる」には「後からついて行く」という意味もあり、トレースではありません。習字が「運動」だとすると、書かれた字は「表現」です。

したがって読書していると、ものを考える活動 Arbeit des Denkens は大部分、棚上げされる。
自分の頭で考える営み Beschäftigung mit unsren eigenen Gedanken をはなれて、読書にうつると、ほっとするのはそのためだ。

「Beschäftigung mit unsren eigenen Gedanken 我々独自の考えが占めること」です。運動はしんどいので「Arbeit des Denkens 考える努力」としたほうがよいでしょう。読書では他人が運動するが、読者は運動しなくてよいのでほっとするわけです。

だが読書をしているとき、私たちの頭は他人の思想が駆けめぐる運動場にすぎない。
読書をやめて、他人の思想が私たちの頭から引き揚げていったら、いったい何が残るだろう。

何も残らないか自分の考えが残るかですが、ダンスや競技のように他人の表現を手本にし、読者も運動しろということです。「思想」は悪い訳です。

だからほとんど一日じゅう、おそろしくたくさん本を読んでいると、何も考えずに暇つぶしが出来て骨休めにはなるが、自分の頭で考える能力 Fähigkeit, selbst zu denken がしだいに失われてゆく。

「我々独自の考えが占めること」は「考え」が主体ですが、「Fähigkeit, selbst zu denken 個人的に/自分自身で考える能力」は「自分」が主体なので、対比になっています。具体的に言えば「考える努力をし、怠けない自制心」です。

いつも馬に乗っていると、しまいに自分の足で歩けなくなってしまうのと同じだ。

歩く比喩は最後にも出てきますが、最終的な目的は単なる移動ではないということです。

さて、習字にしろダンスにしろ、自分で書いたり踊ったりしなければ練習にはなりません。つまり

  ショーペンハウアーの「考える」は「書く」であり、読書をしたら自分でも書かなければならない

のです。書くことで上達するのは「言葉の使い方」であり、それは「体得」するものです。「個人的に考える能力」は、他人に読ませるためではなく、自分の練習のために書く自制心です。下手くそや間違いを避けてはならず、一度書いたものを見直して何度も修正しなければなりません。

だがこれは非常に多くの学者にあてはまる。
かれらは多読のために、愚かになっている。
暇さえあれば、すぐ本を手に取り、たえず読書していると、たえず手仕事をするより、もっと精神が麻痺する。
手仕事なら作業にいそしみながら、あれこれ物思い eigenen Gedanken にふけることができるからだ。

学者は自分で書く練習をしないのでバカだと言っています。農民や職人の「eigenen Gedanken 独自の考え」は、どうすれば自分の手仕事が上達するのか、手を動かして試行錯誤することです。単なる物思いではありません。

バネにずっと他の物体の圧力をかけ続けると、しまいに弾力が失われるのと同じように、
たえず他人の考え fremder Gedanken を押しつけられると、精神は弾力性を失う。

ダンスには柔軟な身体が必要ですが、精神が弾力性を失うと「バカ」になります。ストレッチや体操は身体を柔軟にしますが、精神にはユーモアやダジャレが必要です。humor には「体液」という意味もあり、精神 Geist (spirit) や自分自身と深い関係にありますが、無教養な専門バカ=学者は解さないのです。ここは隠喩を理解するしかないが、非常に大事なところです。

栄養をとりすぎると、胃が悪くなって、そのうち身体全体がだめになるように、
精神も栄養分をとりすぎると、詰め込みすぎで窒息するおそれがある。

身体と精神はどちらも栄養を吸収するので同じ側にあり、「自分」と対比されています。なぜなら栄養の吸収は自分が預かり知らぬところで起きるからです。これはきわめて非西洋的な認識です。

いいかえれば、たくさん読めば読むほど、読んだ内容が精神にその痕跡をとどめなくなってしまう。
精神はたくさんの事を次々と重ね書きされた黒板のようになってしまう。
そのため反芻し、じっくり噛みしめることができない。

読んだ「内容」は不適切で、「Gelesene 読んだもの」です。読んだものの痕跡を反芻し噛みしめますが、重ね書きされるとわけわかめになります。

だが食事を口に運んでも、消化してはじめて栄養になるのと同じように、
本を読んでも、自分の血となり肉となることができるのは、反芻し、じっくり考えたことだけだ。

食事はよく噛んで栄養が吸収されなければ、自分の血肉となりません。噛むのは自分ですが、栄養を吸収するのは自分ではなく身体です。同様に、読んだもの(意味ではなく言葉の使い方)を自分で何度も書き直さなければ、精神が栄養を吸収しない、つまり体得できません。

ひっきりなしに次々と本を読み、後から考え späterhin weiter daran zu denken ずにいると、
せっかく読んだものもしっかり根を下ろさず、ほとんどが失われてしまう。
概して精神の栄養も身体の栄養と変わりはなく、
吸収されるのは、摂取した食物のせいぜい1/50にすぎない。
残りは蒸発・呼吸作用その他によって消えてゆく。

「späterhin weiter daran zu denken それについて後でいっそう考える」です。重要なのは、習字やダンスのように上手な他人を真似ることであり、学者のように「自分の意見」を書いてはいけないということです。

さらに、紙に書き記された思想 Gedanken は、砂地に残された歩行者の足跡以上のものではない。
なるほど歩行者がたどった道は見える。

砂地の足跡はやがて消え、先生が鉛筆で書いたお手本も消されますが、自分がペンで書いたものは消えません。本に書かれた表現は忘れても、心に残る痕跡は消えません。痕跡は足跡ではなく「道 Weg (way)」すなわち

  言葉の真っ当な使い方

とりわけ比喩のことです。

だが、歩行者が道すがら何を見たかを知るには、読者が自分の目を用いなければならない。

しかし本当に見るべきものは道ではなく、そこから見える「光景」、砂浜なら海に沈む夕日のような「言葉にならないもの」のことです。自分で光景を見てはじめて、先人が何のために歩きにくい砂地をわざわざ自分の足で歩いたのかがわかります。光景がよく見えなくとも、単に移動するためではないことはわかります。

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並置や対比、言い換えといった「部分」に着目することは、マニュアル的な読書の「技術」です。

概して精神の栄養も身体の栄養と変わりはなく

共通する「栄養」から精神と身体を並置するところまでは技術です。それに「自分」を対比させることはマニュアル化できないが、本を読んで書く練習で身につくスキルです。その正当性は文章全体から判断するしかないため、何度も読んだり書いたりを繰り返さなければならず、常識・想像力・思慮/思いやり Gedanke といったものが必要になりますが、ユーモアが大いに助けになります。しかし総体を理解すれば、「意味」をはるかに超えたものが得られます。

ショーペンハウアーの読書は、『論語』や『平家物語』を暗唱するような超アナクロなスパルタの反リベラルで、一冊読むのにも膨大な時間がかかり、それ以上に書く時間が必要です。「読了」ほど愚かなものはありません。このレビューもその通りに実践していますが、現代的なコスパ・タイパ読書の対極にあります。ストレートに書かない、絵のようなもっとわかりやすい比喩を用いないのは、読者を鍛えるためと、ダサくなるのを避けるためですが、そういった著者の手の内もそのうちわかるようになります。どちらをやるかは読者次第ですが、それがそのまま人間性となります。

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「道」という言葉は、西洋でもアラビアでも中国でも日本でも、「道理」の隠喩としてよく使われます。とりわけ日本では「お天道様」と言います。

子曰、朝聞道、夕死可矣。
子曰く、朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。

伊藤仁斎(いとうじんさい)は、その著『論語古義(ろんごこぎ)』の中で、「ある人が、『朝に真理を聞いて夕方死ぬというのでは、少しせわしなさすぎるのではないか。』と尋ねたのに対し、『そうではない。人間として道を聞かなければ、生きていても益がない。だから孔子が、朝、道を聞いて、夕方死んでもよいとされたのは、どうしても真理を聞かずにはおれないというつきつめた気持ちをお示しになったもので、決してせわしないなどということはない。』と答えた。」と解釈している。

朝(あした)に道(みち)を聞(き)かば夕(ゆう)べに死(し)すとも可(か)なり | 今週のことわざ(三省堂辞書編集部) | 三省堂 ことばのコラム

『論語・里仁』にある孔子の言葉で、人としての道を追求することの大切さをあらわす。
「あした」は元々「朝(あさ)」を意味した言葉で、「朝」と書いて「あした」と読む。
ここでの「道」とは、物事の道理、人の在り方を意味する。

朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり : 故事ことわざ辞典

「道」を「真理」「人としての道」と解釈していますが、「読書について」では「光景」が真理に相当します。

漢文の助字。句の最後につけて断定・推量・詠嘆などを表す。…である。…だなあ。…だろう。

「矣」とは? 部首・画数・読み方・意味 - goo漢字辞典

  朝日を見て天道(日が昇って沈み、また昇ること)を知れば、夕日を見ていっそう感激できるだろう

  朝日を見て天道を知ったので、日没=死も受け入れられるのだ

伊藤仁斎は「漢意(からごころ)」、この解釈は 「大和魂(やまとごころ)」です。洋才・漢才・和魂のどれを面白いと思うかは、まさにユーモア、人間性の問題ですが、読書はその本から情報を得るだけでなく、自分でも書いているうちに連想が広がるものです。

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著者はどうでしょうか。

そんな大学2年生の夏休みが終わると、「自分は馬鹿になってしまった」という思いを抱えながら、再び大学のキャンパスに通う日々が始まりました。あるとき、上智大学の図書館の地下1階に立ち寄ると、いつもあまり見ないコーナーのある本の背表紙が、とても浮かび上がって見えました。
その本のタイトルは『読書について』というものでした。ドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer, 1788-1860)が書いた『パレルガ・ウント・パラリポメナ(付録と補遺)』という論集の中から、3つの論文がセレクトされて訳出された書籍です。
ちょうど、本の読み方について深い反省の念を抱いていた頃合いでしたので、その本との出会いは、半ば運命的なもののように感じました。私は『読書について』を手に取り、1階の貸し出しコーナーで借り、そして丸ノ内線の電車内で読み始めました。
そのときの衝撃は、今でも忘れられないものです。「そうだったのか」と、すべてが腑に落ちるような体験でした。この本は、他でもない私に向けて書かれている――そう直観しながら、私は食い入るように読み続けました。ショーペンハウアーは、まさに私のような本の読み方に対して、あの冷ややかな文体で最大限の警鐘を鳴らしていたのです。彼の言葉を実際に読んでみましょう(以下、引用はすべて岩波文庫版に依拠しています)。(27/221ページ)

大学2年生の著者は、邪気眼が開いた厨二そのものです。せっかくバカの自覚があったのに、地下鉄の中で読んだくらいで古典が理解できると思ったのでしょうか。それまで難しい本が理解できずに苦労した経験はなかったのでしょうか。あったのならどこに行ったのでしょうか。

(※承前)
読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。絶えず読書を続けて行けば、仮借することなく他人の思想が我々の頭脳に流れこんでくる。ところが少しの隙もないほど完結した体系とはいかなくても、常にまとまった思想を自分で生み出そうとする思索にとって、これほど有害なものはない。というのも、他人の思想はそのどれをとってみても、それぞれ異なった精神を母胎とし、異なった体系に所属し、異なった色彩をおびていて、おのおのが自然に合流して真の思索や知識、見識や確信に伴うはずの全体的組織をつくるにいたらず、むしろ創世記のバビロンを想わしめるような言葉の混乱を頭脳の中にまきおこし、あげくの果てにそれをつめこみ過ぎた精神から洞察力をすべて奪い、ほとんど不具廃疾に近い状態におとし入れるからである。(11-12頁※「思索」)

私は、これほどまでに「この本は自分について書かれている」と思ったことはありませんでした。淀みなく語られる彼の言葉は、まさに私の精神が陥っていた状況を正確に言い表していたのです。
まさに「読書は思索の代用品(8頁※「思索」)に過ぎません。それでは、読書とは区別される「思索」という営みは、つまるところどのようなものなのでしょうか?そこでこのプロローグにおいては、ショーペンハウアーの議論を参考にしつつ、「自分の頭でものを考えるとはどういうことなのか?」という問題について考えていきます。

古典を読むときには、本で使われている言葉に自分が思う言葉の意味を当てはめてはいけません。時代や文化も違い、そうでなくても偉人と自分では知性の程度に大きな差があるからです。読者は安易に覚醒してはいけない、覚醒していいのはムーの戦士だけなのです。

(※承前)
まずは、次の文章を皮切りに「思索」という営みについて考えていきます。

読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。(中略)ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく。(127-128頁※「読書について」)

先ほどの引用箇所と同じく、ここでもショーペンハウアーは、本を読むという営みを痛烈に批判しています。

「思索 Selbstdenken」と「読書について Über Lesen und Bücher」という別々の小文からごちゃまぜに引用していますが

  著 者 は そ も そ も 本 の 読 み 方 を 知 ら な い

のです。同一筆者でも文章が違えば言葉の使い方も違うので、独立に理解し、それからようやく共通点を見出すなりして論じることができるからです。「読書について」では「考える=書く」であり、題名とはうらはらに書く話ばかりだという面白味があります。「思索」ではそうとは限らず、実際に違います(後述)。誤訳は訳者の責任ですが、ここでは読み手の一般論をしています。

(※承前)
ショーペンハウアーにとって「本を読む」という行為は、「他人の考えた過程を反復的にたどる」という行為に他なりません。ここから、「本」が「他人の考えた過程」として理解されていることが明らかになります。
そして、そのような本を単に数多く受容するということは、様々な人たちがバラバラに考えたことを断片的に繋ぎ合わせていくことに他ならないのです。
結果、それによって得られるのは「他人からえた寄せ集めの材料からできた自動人形」(10頁※「思索」)の如きものに他なりません。その動きは大変ぎこちなく、「なぜそう言えるの?」というたった一つの問いにすら、満足に答えることができないのです。他人の知識を継ぎはぎしたものと、自分自身の思索によって生み出された体系的な思考との間には、乗り越えがたい開きがあります。

「思索」の引用から形容を削ると

読書を続けて行けば、他人の思想が我々の頭脳に流れこんでくる

体系とはいかなくても、思想を自分で生み出そうとする思索

他人の思想はそれぞれ異なった体系に所属し、自然に合流して思索や知識をつくるにいたらず

「思想」「体系」「思索」「知識」は出てきますが、「思考」は出てきません。

読書は自分の頭ではなく、他人の頭で考えること(「思索」)

読書は、他人にものを考えてもらうこと(「読書について」)

この二つは表現が異なり、前者では「他人の頭で(自分が)考える denken」、後者では「他人が考える denkt」と言っています。考える主体が異なるし、いずれにしろ「思考」という言葉は出てきません。「体系的な思考」は、ごちゃまぜの引用にアレンジを加えた著者のフィクションなのです。自分の読解を述べるなら、まず「思想」「思索」「考える」「思考」の違いを明確にすべきでした。訳文がひどいのは理由にはなりません。

(※承前)
続く「習字の練習」の比喩も大変分かりやすいものです。習字の先生自身は、当然のことながら自分で文字を書いています。ですが、それをなぞる生徒たちは、別に自分自身で文字を書いているわけではないのです。「薄い線の上をなぞる」という行為と、「自分で文字を書く」という行為は、やはり別物です(例えば、ロシア語の文字をなぞれるからといって、自分自身で何も見ずにロシア語の文章を書けるわけではありません)。
つまり、少なくとも「本に沿って文字を読む」という行為だけでは、自分自身で考えていることには全くなっていないのです。この比喩から私たちは、「自分の頭でものを考えるとは、自分自身でものを書くこと(他人の思想を単に反復するのではなく、自分の思索を展開すること)である」という教訓を得ることができます。
こうしたことを振り返りもせずに、他人の書いた文字ばかりをなぞっているのでは、それは「その文字の通りになぞらされている(考えさせられている)」に過ぎないのです。こうした意味で、単に本を読むだけでは、私たちは何かを考えさせられているという隷属的な状態に留まり、結果、自らの思考力や洞察力はどんどん失われてしまうことになります。

もはやショーペンハウアーはつまみ食いされ、歪められ、著者の主張の補強に使われるのみです。困ったことに、陳腐な主張ほど広く支持されるので、純朴な読者と安直で卑しい読者ほど騙されてしまいます。

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バカの相手をしてもしょうがないので、冒頭の原文にあたってみます。

Wann wir lesen, denkt ein Anderer für uns: wir wiederholen bloß seinen mentalen Proceß. 
Es ist damit, wie wenn beim Schreibenlernen der Schüler die vom Lehrer mit Bleistift geschriebenen Züge mit der Feder nachzieht. 

Sometime when we read, another for us thinks: we replay just its mental process. 
"It" is "so that, how", when at the student's learning to write, they from the teacher, with pencil-written train, drag behind themselves, with the pen. 
我々が読んでいるあるとき、我々にとり別の何かが考える:我々はまさにその心のプロセスを再現する。
生徒が書くことを学んでいるとき、先生から鉛筆で書かれた連なりとともにやって来たものが、今度は生徒のペンで引きずられる。「それ」は、「そのため、いかに」これを成す。

When we read, another person thinks for us: we merely repeat his mental process. In learning to write, the pupil goes over with his pen what the teacher has outlined in pencil: so in reading; the greater part of the work of thought is already done for us.
(On Books and Reading - Wikisource, the free online library)

多義性を保ったまま翻訳するのは不可能なので、結局は原文を読む羽目になります。こちらの解釈は習字ではなく書く練習のことで、2行目は1行目の言い換えになっています。「やって来たもの」は「言葉の真っ当な使い方」、「それ」は体得の瞬間の「ひらめき」です。これは自分で経験してはじめて可能な解釈なので、いわば卒業試験です。ショーペンハウアーと同格の、一流になった証ですが、金儲けにはつながらないものの、俗物的なノーベル文学賞などよりはるかに価値があり、実に気分のいいものです。ちなみに、ジャック・ラカンによれば「4, 5年かかる」そうですが、最初の1年は何の手ごたえもないかもしれません。

「思索」からです。

§. 268.
Die Gegenwart eines Gedankens ist wie die Gegenwart einer Geliebten
Wir meynen, diesen Gedanken werden wir nie vergessen und diese Geliebte könne uns nie gleichgültig werden. 
Allein aus den Augen, aus dem Sinn! 
Der schönste Gedanke läuft Gefahr, unwiederbringlich vergessen zu werden, wenn er nicht aufgeschrieben, und die Geliebte, von uns geflohen zu werden, wenn sie nicht angetraut worden. 

The presence of a thought is like the presence of someone to lovers
We believe that we will never leave this thought, and that this girl can never be indifferent to us. 
Only of the eyes, of the mind! 
The handsomest thought runs risk, the most unrecoverable thing to be missed if it is not marked out, and the girl to escape from us if she has not been married. 
考えの存在は、恋人たちにとっての誰かの存在に似ている。
我々はこの考えから目を離さない、彼女が我々に無関心になることはないと信じている。
目に入るものだけが心に留まる!
もっともハンサムな考えは危険を冒す。目印がなければどうにも取り戻せないものを失わせ、結婚していないなら彼女を我々から去っていかせる。(犬っち)

The presence of a thought is like the presence of a woman we love.
We fancy we shall never forget the thought nor become indifferent to the dear one.
But out of sight, out of mind!
The finest thought runs the risk of being irrevocably forgotten if we do not write it down, and the darling of being deserted if we do not marry her.
(The Art of Literature/On Thinking for Oneself - Wikisource, the free online library)

Arthur Schopenhauer: Selbstdenken

Article
einer
genitive/dative feminine singular of ein

Pronoun
einer
one
someone, somebody

einer - Wiktionary, the free dictionary

Noun
Geliebten f
dative plural of Geliebte

Geliebten - Wiktionary, the free dictionary

Verb
aufschreiben (class 1 strong, third-person singular present schreibt auf, past tense schrieb auf, past participle aufgeschrieben, auxiliary haben)
to write down, mark down, to make a note (of something)
Ich schreibe etwas auf.
I'm writing something down.
to mark out
(medicine) to prescribe (medicine)

aufschreiben - Wiktionary, the free dictionary

wikisource は単複や格にすら頓着しない誤訳です(おそらくアクセス可能なものは全て)。ここは多義的ではなく

魅力的な考えは書き留めなければ忘れてしまい、美人の彼女は結婚しなければ逃げてしまう

は明白な誤りで(入試なら0点)

魅力的な考えは目印をつけなければ取り戻せないものを失わせ、イケメンは未婚の彼女を寝取る

が「唯一正しく」、ギャグとしても面白く、また eyes と marked out がうまく掛かっています。目印はたとえば「持ち物に書く名前」で、小学生がゲーセンで忘れ物をするようなものだと思われます。schönste Gedanke は他人の考えであり、ショーペンハウアーではいわゆる「思考」の地位は非常に低いのです。

Verb
denken (irregular weak, third-person singular present denkt, past tense dachte, past participle gedacht, past subjunctive dächte, auxiliary haben)
(intransitive) not to forget; to remember [with an (+ accusative) ‘something to be brought along, etc.’]
Denk an den Schlüssel!
Don’t forget the key.

denken - Wiktionary, the free dictionary

真に賢くなって偉人と対等に渡り合いたいのか、知りたい・理解したいという欲望を満たしたいのかの、人間性の分かれ目です。

§. 261.
Lesen heißt mit einem fremden Kopfe, statt des eigenen, denken.
Nun ist aber dem eigenen Denken, aus welchem allemal ein zusammenhängendes Ganzes, ein, wenn auch nicht streng abgeschlossenes, System sich zu entwickeln trachtet, nichts nachtheiliger, als ein, vermöge beständigen Lesens, zu starker Zufluß fremder Gedanken; 
weil diese, jeder einem andern Geiste entsprossen, einem andern Systeme angehörend, eine andere Farbe tragend, nie von selbst zu einem Ganzen des Denkens, des Wissens, der Einsicht und Ueberzeugung zusammenfließen, vielmehr eine leise babylonische Sprachverwirrung im Kopfe anrichten und dem Geiste, der sich mit ihnen überfüllt hat, nunmehr alle klare Einsicht benehmen und so ihn beinahe desorganisiren.

Reading means to think with a foreign head instead of the own.
Now is again to the own thinking, from which always self strives to develop a related whole, one whenever also not strictly separate, system,
Now is nothing detrimental, as one, which I/God force resistant/steady reading, towards/with great inflow of foreign thoughts; 
while the thoughts, rather they cause a quiet Babylonian confusion in the head, flow into each other, to one sprouted from other spirits, to one belonging to other systems, to one bearing another color, to a whole never done up by yourself, of the thought, of the knowledge, of the insight and conviction, and to whom spirits, which self has overfilled with the thoughts, henceforth all clear insight, conduct themselves, 
and so, the thoughts almost disorganize to them. 
読書とは、自分のではない異質な頭で考えることだ。
今や自分で考えることに戻る。「自身」は常に、そこから関連づいた全体、完全に分かれることのない「一つ」、体系を作ろうと努力している。
今や有害なものは何もなく、異質な考えたちの偉大な流入に向かう/それらと共にある、抵抗的な/間断のない読書を、私/神が強いている「一つ」だ;
その間、考えたちは、静かなバビロンの言葉の混乱を起こすのではなく、他人の精神から芽吹いた「一つ」へ、他の体系に属する「一つ」へ、他の色を生み出す「一つ」へ、あなた自身では決して仕上げることのない、考えの、知識の、洞察と信念の全体へ、精神が自らを導く先へと合流する。「自身」は精神を考えたちで満たし、以降あらゆる明晰な洞察となる。
そして、考えたちはほぼ精神へと解体する。
(犬っち)

Reading is thinking with some one else's head instead of one's own.
To think with one's own head is always to aim at developing a coherent whole—a system, even though it be not a strictly complete one; and nothing hinders this so much as too strong a current of others' thoughts, such as comes of continual reading. 
These thoughts, springing every one of them from different minds, belonging to different systems, and tinged with different colors, never of themselves flow together into an intellectual whole; they never form a unity of knowledge, or insight, or conviction; but, rather, fill the head with a Babylonian confusion of tongues. The mind that is over-loaded with alien thought is thus deprived of all clear insight, and is well-nigh disorganized.
(The Art of Literature/On Thinking for Oneself - Wikisource, the free online library)

読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。
絶えず読書を続けて行けば、仮借することなく他人の思想が我々の頭脳に流れこんでくる。ところが少しの隙もないほど完結した体系とはいかなくても、常にまとまった思想を自分で生み出そうとする思索にとって、これほど有害なものはない。
というのも、他人の思想はそのどれをとってみても、それぞれ異なった精神を母胎とし、異なった体系に所属し、異なった色彩をおびていて、おのおのが自然に合流して真の思索や知識、見識や確信に伴うはずの全体的組織をつくるにいたらず、むしろ創世記のバビロンを想わしめるような言葉の混乱を頭脳の中にまきおこし、あげくの果てにそれをつめこみ過ぎた精神から洞察力をすべて奪い、ほとんど不具廃疾に近い状態におとし入れるからである。(岩波文庫)

こちらは多義的ですが、どちらが面白いかは一目瞭然です。

Numeral
einem
dative masculine/neuter singular of ein

Article
einem
dative masculine/neuter singular of ein: a, an

einem - Wiktionary, the free dictionary

einem は与格しかないので、対格としている wikisource や主格としている岩波文庫は明確な間違いです。

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