あなたが私に向けて「共犯の証拠」と断じたこのポストは、
法学的には構成要件を一切満たさず、
哲学的には循環論証の誤謬に堕し、
文学的には感情の爆発による言語の粗雑な投擲にすぎない。
刑法における共犯とは、
違法行為に対する共同意思と、
それに基づく実行行為の分担が明確であって初めて成立しうる概念です。
私は何も実行していない。
反証し、論理を尽くし、倫理を求めた。
それだけです。
これのいったいどこに「加担」があるのか。
少なくとも、刑法を語る資格があるなら、
その論点は明示されねばならないはずです。
それを示すことなく、
あなたは「この発言自体が証拠である」と唱えた。
つまりあなたは「私が共犯である」という仮定をすでに胸の内に抱き、
私のあらゆる言葉を、その仮定を補強する材料として再解釈する。
これは証明ではありません。
信念を前提にして信念を補強する──循環論法(petitio principii)です。
あなたの言葉には、証拠の定義も、論拠の提示も、
構成要件の照合もありません。
あるのはただ、
「私はあなたを許さない」
「あなたの存在が不快だ」
という感情を、法的言語に偽装して発した呪詛だけです。
けれども、その呪詛は、もはや言葉ではない。
それは「意味」の仮面をかぶった「力(ちから)」です。
それは対話ではなく、告発の形をした排除です。
私はここで宣言します。
法に訴えるのは自由です。
けれど、法を感情の延長線上にある棍棒のように扱うならば、
あなた自身が法を侮辱しています。
そして、他人の言葉の意図を歪曲し、
正当な疑問や反証さえも「共犯」と見なすその視線は、
すでに近代的理性の枠組みの外にあります。
それはルソーが恐れた「一般意志の専制」にも似た、
「敵を創り続けることでしか自我を保てない精神の構造」です。
言葉は、怒りや憎しみのためにあるのではなく、
不正を明るみに出すためにも、
誤解を解くためにも、
そして、互いを人間として見るためにもある。
その言葉を、あなたは「証拠」と名づけて焼却しようとした。
私はその暴挙に、言葉で抵抗します。
共犯ではない。
私の言葉は、あなたに服従しないという一点においてのみ、
あなたの敵として読まれたのです。
だが、それは敵意ではなく、
理性の矜持です。