こんにちは。

 

今回は、主イエスの復活と偽預言者RAPTについて書きます。RAPTは、表向きだけ聖書を振りかざし、人を惑わす行為をやめず、また、絶えず聖書の御言葉に反した教えをし、主イエスを冒瀆し続けとる反キリストであることについて書きます。

 

アメブロとそれ以外にもRAPTを手放しで称賛しているRAPT信者なのか、それとも彼自身、若しくは彼の身内の者による工作なのかもしれへんが、少なからず存在します。見ていて非常に惨めです。また、嘘がこんなに広まっているのかと驚きました。RAPTとRAPT信者は、嘘ばかり垂れ流し、RAPTが真実を語っとると嘘を言うてます。せやけど、彼を称賛する客観的証拠や聖書的根拠が一切無いさかい。とにかく、RAPT信者は、しきりに「RAPTのブログを読め」と連呼しているだけで、まともな思考力も無くしとる。はっきり言っておきますが、RAPTのブログ、RAPT信者のブログを読む必要はまったくありません。「百害あって一利なし」や。RAPTは間違うた陰謀論を餌にして社会に疑問を持った人々を引きつけ、最後に地獄に導くからや。主イエスに救いを求めるために聖書を手にしても、RAPTに引っ掛かるRAPT信者たちはRAPTの誤誘導によって、真理から逸れてサタンの僕になってます。ネット上にはRAPTから呪いをかける脅迫を受けたとか、悪態をつかれたという被害を報告してる者も居てます。調べてみれば分かるやろ。細かく調べんでも、RAPTが反キリスト、サタン崇拝者であることは拙者が証明してます。はっきりとRAPTは偽預言者だと前から言ってきてるとおり、彼は聖書を振りかざして、独自の勝手な教理を教え、人々を滅びに導く反キリストです。RAPTなんかローマ教皇に比べれば、存在価値も無い程の小物やが、無知な日本人にとっては脅威になり得るため、日本人を聖書と主イエスに立ち返らせるために、拙者は執筆しています。もっともらしい陰謀論を展開することと主イエスの信仰が必ずしも両立しとる訳ではないことを理解すべきです。RAPT信者が騙される根本がこれです。RAPTが聖書を読んで、報道機関が報道せんような世の裏側のことを知っとるから、彼の「神様」発言にまつわる事から、彼が神から特別な加護や啓示を受けていると思うのは、ただの妄想であり、騙されとるだけや。ちなみに、彼の陰謀論にも多数の誤りがあります。そして、彼に主イエスの信仰があるか否かの判断は、聖書を基に判断するべきです。もし、聖書の内容にRAPTの言動が一致していればええが、実際は真逆で、反してます。過去記事「RAPTは偽預言者であり、サタン崇拝者です」で証明したとおり、一つも一致してへん。彼が聖書の御言葉を引用するんは正しく見せかけるための撹乱であって、彼の聖書解釈は彼の私的解釈で曲解されており、彼の言動が正しいことを裏付けるものでは決してない。前に指摘した、RAPTが主イエスの名前を出さへんことは、今も継続してます。また以前のように「神様」発言に戻っています。ほんまに彼は主イエスを信仰してへんのが明白です。もっとも、これは悪霊やサタンであっても、口先だけで「イエスは主、全能の神」と言うのは簡単であって、問題は普段の言葉や行いが一致するかです。RAPTは普段から主イエスの御名を出しません。そして、彼の言動も聖書に合致してへんさかい、ほんまに主イエスに対する信仰が無いです。

 

RAPTの記事で、とんでもない箇所、これぞまさに彼が反キリストだという物証がまた出てきたので説明します。真のキリスト者であれば、主イエスの復活について正しく理解し、説明出来るやろ。しかし、主イエスの復活について誤った理解、説明をする者はキリスト者では有り得へん。なぜなら、主イエスの復活は、キリスト者の信仰に欠かせへんものやさかい。主イエスの復活が無ければ、誰も復活せえへんことになり、信仰はまったくの無駄になります。パウロも「もしキリストが復活されへんかったのなら、我等の宣教は無駄やし、あんた方の信仰も無駄や。」(コリント一 十五章十四節拙訳)と述べとる。せやから、主イエスの復活を否定することは、父なる神がその独り子をこの世に遣わし、受肉しはった人として唯一生涯でモーセの律法に違犯せずに罪を犯さへんかった主イエスさえも復活させられへんかった無力な存在と言っているのと等しいことになります。そのような義なるお方である主イエスですら復活せんのやったら、主イエスを信じて世捨て人になり、殉教までした人たち、そして、今を生きる我々の死後の復活、永遠の命を授かることも有り得ないことになってまう。せやから、主イエスの肉体的復活を否定する者はサタンの僕であり、ナザレのイエスがただの説教上手な預言者、主イエスの復活を信じて殉教した直弟子の十二使徒たちはただの狂人やったと暴言を吐くことに他ならへん

 

以下、RAPTの記事です。記事の題からして信仰を否定してます。

(RAPTブログ: http://rapt-neo.com/?p=2608)

 

RAPT教のおかしい点を一つずつ順に指摘します。

 

一、キリスト教の禁忌

まず、禁忌(タブー)に関しては、聖書を唯一の絶対的権威として信頼せんこと、主イエスが聖霊によって処女であったマリアから誕生し、受肉された人間としてこの地に来られ、神の王国の宣教をして人々に悔い改めるように説き、多くの信仰ある社会的弱者を癒したりして救い、ファリサイ派や律法学者といった聖職者的な立場の人たちとは対立して激しく非難し、その果てに彼らに捕まって神の民の罪の贖いのために死なれ、三日目に肉体的に復活し、復活後にそれを証明するために弟子たちの前に現れて教えをしばらくしはった後で昇天し、唯一無二の救世主となり、天の至聖所で大祭司となり、神の右に座しはったことを否定することが禁忌や。これらを信じひん、否定することは、主イエスに対する信仰は無く、反キリストであることの証明です。RAPT教では、主イエスが肉体的に復活したことを否定するのが教理やさかい、RAPT教は主イエスに敵対するサタン崇拝ということになります。

 

二、主イエスへの虐待の描写について

カトリック信者であるメル・ギブソンが監督した二千四年公開のパッション(The Passion of the Christ)という映画を引用しています。パッションという英語は、ここでは情熱という意味では無く、受難という意味です。邦題として受難とせえへん理由が分かりません。片仮名英語なんかにして多くの日本人に分かる訳ないやろ。ほんまに現代の西洋かぶれの日本人には辟易させられる。過去に説明したとおり、カトリックという時点で、聖書を蔑ろにして、主イエスの信仰が無いということになりますが、RAPTは聖書よりもこのカトリック信者が監督した映画を盲信してます。なぜなら、この映画ありきで話を進めているからです。拙者は、この映画の描写は、カトリック信者であるギブソン監督の主イエスに対する憎悪を感じます。特に、主イエスを痛めつける所をこれでもかと見せつけているからです。聖書には、主イエスを執拗に痛めつけることの詳細は長々と書かれてません。聖書に書かれとるんは、イスカリオテのユダの裏切りで捕らえられてから十字架で息を引き取りはるまでの間、主イエスは、鞭打たれ、侮辱され、唾を吐きかけられ、こぶしで殴られ、平手で打たれ、茨の冠をかぶせられ、葦の棒で頭を叩かれましたが、鞭打ちの後すぐ引き渡され、軽く流されています。あの映画にあるような執拗な鞭打ちで長い尺を取ることは、聖書に基づかへん誇張です。そして、ゲツセマネでの祈りの後、十字架で死を受け入れる覚悟を決めた主イエスが、蛇の頭を踏み付ける場面もありましたが、これも聖書に記述が無いです。そもそも、主イエスを白人の西洋人かのように描写するのが大間違いです。従って、この映画は、聖書を忠実に再現したものではないです。事実、メル・ギブソン監督は、「衝撃的な映画にしたかった。」と誇張したことを認めています。そして、反キリストの頭である、当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世は、「聖書の内容に忠実だ。」と発言して、公開中止の危機にあったこの映画公開の後押しをしました。もし仮に聖書に忠実な映画であれば、反キリストであるローマ教皇は反対するだろうし、悪魔崇拝がはびこるハリウッドでは受け入れられへんさかい、世にも出回ることはありません。この映画の描写を真に受けるRAPTは、こないにボロボロになった肉体が回復するはずがないと言うてます。絶対に有り得へんとまで言うています。以上より、RAPTが聖書の御言葉を信じてへんこと、カトリックの映画を盲信することが明白です。

 

三、主イエスの復活後の体について

RAPTは、主イエスの昇天について、「人間の肉体が空高く飛んでいくことができるでしょうか。絶対できませんね。」と言っています。そして、肉体ではなく、霊体が復活したのだと虚言を言うてます。さらに、「この世のクリスチャンたちは、人間に「霊」と「肉」があることを知らないので、このイエスの復活を無理やり「肉体」の復活だと思い込み、信じ込んでいるわけです。」とまで言うてます。RAPTが自ら聖書に対する無知と不信仰を露呈しています。次のRAPTの発言もサタンの言葉です。

「「新約聖書」が書かれたのは今から二千年も前のことです。そして、二千年前には今のような科学的な知識はありませんでした。 なので、「聖書」を書いた人たちは、現代のような科学的な知識もないまま、ただ見たまま聞いたままを書いたわけです。 
となると、我々現代人はきちんとそのことを念頭に置いた上で「聖書」を読み、解釈しなければなりません。 二千年前の人たちの考えていたことを、我々現代人がそのまま受け入れてはいけないのです。そうでなければ、それは「信仰」ではなく「妄想」になってしまいます。
ところが、例の如く、悪魔どもがこの教理をねじ曲げてしまいました。イエスのこの復活は「肉体」の復活であり、イエスを信じた人も死んだ後はその「肉体」が復活するのだと、クリスチャンたちに無理やり信じ込ませてきたのです。」

 

確かに、現代と同じ科学知識は当時は無かったが、聖書を読むのに科学知識は不要です。そして、肉体の復活を否定して、聖書を曲解しているのはRAPTであり、反キリスト、サタンです。以下の箇所で明確に主イエスの肉体が蘇ったことを示しています。

 

新約聖書 ルカによる福音書 二十四章二節〜三節(拙訳)

そして、石が墓から転がされたのを見つけた。また、中に入って、主イエスの遺体を見いひんかった。

 

もし、肉体の復活を否定するなら、遺体は何処に行ったのか。霊体が復活したのならば、肉体である遺体は残ってないと不自然ではないか。霊が肉体を運ぶことは出来ません。RAPTはこの点について何ら言及せえへんが、何の根拠も無く霊体の復活だと虚言を言うてます。そして、他の聖書の箇所も見ます。

 

新約聖書 ルカによる福音書 二十四章三十節(拙訳)

そして、一緒に食事の席に着いた時、イエスはパンを取り、祝福し、裂いて彼らに渡しはった。

 

霊がパンを裂くことが出来るやろか。勿論、出来まへん。肉体的に存在した証拠です。そして、弟子たちに現れる場面も肉体的復活を裏付けています。

 

新約聖書 ルカによる福音書 二十四章三十八節〜四十三節(拙訳)

そこで、イエスは彼らに言わはった。「何故、動揺しとるんか。どうしてあんた方の心で疑いが起こるのか。我が両手と我が両足を見なさい。まさしく我や。我に触って見よ。霊は肉や骨を持たへんが、あなた方が見てるとおり、我は持っとる。」こう言わはって、両手と両足を見せはった。せやけど、彼らの喜びと驚きのために未だ信じひんさかい、彼らに「ここに何か食べられる物があるか」と言わはった。そこで、一切れの焼いた魚と蜜蜂の巣の一部を彼に渡した。そして、受け取りはり、彼らの前で食べはった。

 

この箇所がはっきりと主イエスが肉体的に復活したことを証明しとる。このように、聖書に反するRAPTの主張がサタンの主張でなくて何だというのか。RAPTは「死んだ人がゾンビのように復活したという話を、今まで一度でも聞いたことがあるでしょうか。」と訳の分からんことを言うてます。何故、主イエスを普通の罪深い人間と一緒に考えとるんか。これも主イエスを義人の復活の初物となった特別な存在、神の子たる存在として信じてへんのが明白です。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 二十章十九節(拙訳)

さて、夕方のその日、安息日明けの初めの日に、ユダヤ人の恐れのために、弟子たちが集められた所の戸が閉ざされていた。イエスが来はってその真ん中に立ち、「あんた方に平和があるように」と言わはる。

 

上記の箇所を霊的復活の根拠としとるようやが、他の箇所の肉体的復活の否定根拠にはなり得ません。主イエスの復活の真相は、肉体的に復活したが以前の肉体とは同一では無く、人間の理解を超えた存在に変わりはったということです。よって、科学的視点で考えようとする人は疑い、信じひんのや。そもそも、科学なんていうのは、人間が長年積み重ねた様々な知識や経験と実験の結果の創作であり、人知を超えた神を科学という愚かな物差しで測ろうというのが間違いなんや。科学は万能ではないし、現代科学も嘘にまみれとる。それにも拘わらず、科学で証明出来へんさかい嘘やとか、非科学的だと主張する人々は、全能の神から遠く離れ、有限の科学という人間の考えに縛られ、サタンに惑わされた不信仰な者に過ぎひんのや。

 

最後に、RAPTは聖書の解説書を読むなと言うてますが、拙者は、世に出回る聖書の解説書もRAPTの記事も読むなと言うときます。理由は過去記事も含め、今まで挙げたとおりです。RAPTは、聖書を曲解して嘘を伝道してます。まさに、サタンの働きです。それを後援するRAPT信者も同罪です。拙者のように、聖書の真理を正しく理解し、本物の信仰を持っていれば、RAPTといった偽預言者や偽教師等に騙されません。兄弟たち、もしRAPTを少しでも信用しているのなら、彼から離れて関わらんようにしなさい。決して、あのような偽預言者に騙されてはなりません。我等は、主イエス・キリスト、ただ一人を救い主として信じて従わなあかんさかい。拙者は一人でも多くの人が救われることを願っています。

 

以上

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