神はあんたを見てて、見捨てはらへん

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こんにちは。

 

今回は、終末のこの時代に大事なことを書きます。決して、RAPTのように彼自身の名誉のため、サタンの名誉のために、聖書の御言葉を曲解したり都合よく解釈して、虚偽妄想の教えを書くのではありません。彼は聖書を利用するので、一見正しいように見せかけていますが、聖書の真理を本当に理解したら、彼の言葉の偽りに気付くはずです。もし気付かへんのやったら、あんたに本物の信仰は無いと思った方がええで。ここでは、聖書にある主イエスの御言葉を紹介すると共に、その解説をいたします。

 

聖書を読んだことがなく、主イエスを救い主(キリスト)として信じてへんあんたは、自分のことをどない思てるんか。普段、周りの人間から自分がどない思われてるかと気にしてるんとちゃうか。または、他人がどう考えようが気にせず、自分のしたいようにするという人も少しは居てるやろなぁ。果たして、その結末として、あんたは死後どないなるんか、考えたことがありますか。おそらくまったく考えたことが無いやろなぁ。死んだら、すべて終わりと思っているでしょう。死んだら終わりやから、生きているうちに好き勝手したいという考えがあなたを支配しとるやろ。はっきり言っておきますが、それはサタンがあんたを支配しとる状態や。サタンは、嘘つきの父(ヨハネ八章四十四節拙訳)、この世の神(コリント二 四章四節拙訳)です。サタンは、天に居てはる父なる神に反逆し、その神が愛する我等人間をあらゆる誘惑を使って神が悪とした行為を人間にさせて、人間を神から引き離そうとしとる。この状態を把握せず、あんた自身の自由意思ですべての行為をしていると思てるやろ。ちゃいます。あんたが罪を犯すのは、神の愛、神の言葉を知らんさかい、サタンに騙されて罪を犯すように仕向けられとるんです。罪を犯し続けるあんたのことも決して神はお忘れになっていません。あんたが早く罪から足を洗い、悔い改めるのを待っておられます。以下の聖句のとおりです。

 

旧約聖書 イザヤ書 四十九章十五節(拙訳)

女が自分の腹から出た子に憐れみを持たずに自分の乳飲み子を忘れることがあろうか。

然り、女たちが忘れるとしても、我があんたを忘れることは決してない。

 

信仰が無いあんたのことも神は見てはります。神は人間を愛してはります。あんたに悪を行って滅びて欲しないんです。せやから、是非、人間が作った法律にだけ従う者になるのではなく、神があんたを愛するのと同様に神を愛し、神の掟に従う者となられますように、拙者は願っています。

 

次に、聖書を読んで、主イエスを救い主(キリスト)として信じてる人は自分自身のことをどない思てるんやろか。未だ信仰して間もない、信仰歴何年、何十年と言う人も居てるでしょう。はっきり言っておきますが、信仰歴の長さはまったく関係ありまへん。芸歴みたいにその長さを競ったり、上下関係を意識せんでください。主イエスに従う我々は兄弟であり、上下関係は存在しません。もし、存在すると考えてるんなら、カトリックと同様、あんたはにわかキリスト者であり、真のキリスト者ではないと言わざるを得ません。

 

新約聖書 マタイによる福音書 二十三章八節(拙訳)

しかし、あんた方は『先生』と呼ばれたらあかん。あんた方の師は一人、キリストで、あんた方は皆兄弟やさかい。

 

正しい底本を用いてへん口語訳、新共同訳、新改訳等の日本語訳聖書では意図的にこのキリストという単語を削除されてますが、正しい底本にはキリストの単語が確かにあります。拙者はその原語を忠実に訳しました。ここの師とは、主イエス・キリストのことです。主イエスに従う我々は兄弟というのが、ここから明白です。あんたは他の兄弟の上にも下にもつかへんのや。また、以下の聖書の箇所でも上下関係を作ること自体に戒めをされてます。せやから、プロテスタントで一般人が牧師を「牧師先生」等と呼ぶことは主イエスの教えに反する反キリストであり、牧師がそれをやめさせず「先生」と呼ばれていることについて注意せえへんのも同じく反キリストやからや。

 

新約聖書 マタイによる福音書 二十章二十五節〜二十六節(拙訳)

しかし、イエスは彼らを呼び集めて言わはった。「民族の支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっとることをあんた方は知っとる。しかし、あんた方の間では、そうではないだろう。

 

勝手に上下関係を作り、上に立って踏ん反り返ることはもっての外であり、その逆を主イエスは教えてくださいました。以下の箇所です。

 

新約聖書 マタイによる福音書 二十章二十六節〜二十八節(拙訳)

むしろ、あんた方の中で偉くなりたい者は、あんた方に仕える者になり、長になりたい者は、あんた方の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人にとって買戻金であるその命を献げるために来たのと同じように。」

 

ここでは、長とか偉くなりたいという表現をしていますが、これは上記のような行動が神に喜ばれることなので、そのように説いているのであり、決して上下関係を肯定するものではありません。そして、主イエスが御自分の命を献げるために来たというのは、選ばれた神の民の罪を贖うために地上に来はって、十字架にかかって死なれた主イエスのことです。神の子である主イエスが、罪深い我々人間のために犠牲になられた愛を主イエス御自身が模範として我々に見せてくれはったんや。主イエスのように、愛を持って我々が隣人に奉仕するようにと教えはったんです。また、キリスト者ではない人向けに上述したとおり、キリスト者に対しても神は一人ひとり我等を見てはります。

 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 十三章五節(拙訳)

神が「決してあんたから離れず、決してあんたを見捨てへん」と言わはったからです。

 

神は、憐れみ深いお方です。もしあんたが一時、魔が差して罪を犯しても、常に神を求め、あんた自身の行いが神の律法違反である罪に当たることに自分で気付き、神に赦しを請い、後で少しずつでも改善していくことで、いずれ同じ罪を犯さなくなります。しかし、もし信仰のある者のように装う偽預言者(例えばRAPT)や世の諸教会の自称聖職者らとそれに従うにわか信者等のように、神の律法違反の行いをやめようとせず、神の律法に背くことが罪であるという自覚が無く、直そうともせず、悔い改めへんのやったら、神はその人間を後に裁かれます。最後に、以下の聖書の箇所で締め括ります。

 

新約聖書 エフェソの信徒への手紙 六章二十三節〜二十四節(拙訳)

平和が兄弟たちに、また、愛が信仰と共に父である神と主イエス・キリストからあるように。不朽の愛で我等の主イエス・キリストを愛するすべての人に恩寵があるように。

 

一人でも多くの人が救われることを願っています。

 

以上

 

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