表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生ごときで逃げられるとでも、兄さん?  作者: 紙城境介
黄金の少年期:才能胎動編
8/262

運命の日

 ――蝉の声が聞こえた。


 それは、もう何年前だかもわからない夏のこと。

 そいつは両親と一緒に、俺の家に挨拶しにやってきた。

 単なる引っ越しの挨拶はいつだか長話になっていて、俺と妹とそいつは、すっかりお互いの両親に取り残されてしまっていた。

 最初に話しかけてきたのは、そいつのほうだった。


『――ねえ! お名前なんてーの?』


 訛りなのかなんなのか、そのちょっと違和感のあるイントネーションに、妙にドキッとしたのを覚えている。

 俺が答えると、そいつは続いて妹にも同じ質問をした。

 当時4歳の妹は引っ込み思案で、常に俺の背中に隠れているような奴だったから、俺が代わりに答えようとしたのだが――

 驚くべきことに、妹は、自分の口で名乗ってみせた。

 おそらく――後に恐るべき転身を見せるあの妹が、人生で唯一、俺以外の人間にわずかなりとも心を開いた瞬間だった。


 まだ俺たちが、どこにでもいる普通の兄妹だった頃。

 小学校に上がって最初の夏。

 7歳の夏の日――


 幼馴染みとなる女の子との、出会いの記憶。




◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆




「あっつ……」


 ふかふかのベッドの上で、俺は目を覚ました。

 寝ている間に蹴飛ばしたのか、布団がベッドの下に落ちている。

 クーラーのない生活にはとっくに慣れたが、暑いものは暑いのだ。


 俺は寝汗に顔をしかめながら起き上がる。

 いつも起こしに来るメイドはまだ来ていないのか、カーテンは閉まったまま。

 けれど、殺人的な熱光線は、カーテンを貫いて室内にまで届いていた。

 ただ、蝉の声だけがない。


「……夢……」


 まだかすかに、頭の隅に残っている。

 今となっては遠く眩しい、暖かな記憶が。

 彼女の名前すら、今の俺には思い出せない。

 すべて、削り取られたのだ。

 悪夢のような、あの5年間に。


「……やめよう」


 昔のことはもういいんだ。

 今から6年前に、決着をつけたことなんだから。


 ベッドから降りて、カーテンを開ける。

 窓の外には、リーバー伯爵領ダイムクルドの緑溢れる風景が、どこまでも広がっている。


 俺――ジャック・リーバーは、7歳になっていた。




◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆




「ん……ん、ん、ん、ん……!」


 足の裏に意識を集中させる。

 そのほんの少し先――足裏に触れる空気だけを、ピンポイントで――


「うわっ!?」


 全身を浮遊させていた力が、不意に途切れた。

 ぼふんっ! と、俺は柔らかな砂場に落下する。

 あまり痛くはない。クッション用の砂場だし。

 でも砂まみれだ。口の中までじゃりじゃりする。


「ぐえ~……ぺっ。くっそー……」


 悪態を吐きながら、俺は今の失敗の原因を考えた。

 オンにしておく部分とオフにしておく部分を、自分の中でどうやって区切るかだよなー、やっぱり。


 リーバー家の屋敷の裏手に、俺のためのちょっとした訓練場がある。

 ここで精霊術の訓練をするのが俺の日課だった。


 ちなみに今のは2段ジャンプの練習である。

【巣立ちの透翼】は『飛行』ではなく『浮遊』の力なので、鳥みたいに空中で自由自在に動くことはできない。

 だが、足裏に触れる空気だけ術の範囲外にすれば、虚空を蹴ることで飛行に等しい機動力を得ることができる。

 まあ、その域に達するには、2段どころか3段4段5段と連続して成功させなければならないのだが……現状、俺の最高記録はわずか3段だった。


 俺の今の目標は、王都にある王立精霊術学院への入学である。

 学院は精霊術師ギルドを母体とする組織で、王国中から精霊術師の卵が集まる登竜門的な場所だ。

 精霊術師として名を上げるなら、絶対に避けては通れない。

 俺は将来、この領地を父さんから継ぐことになるわけだが、貴族社会でも精霊術師としての名声は強力な箔付けになるのだ。


 学院は入学試験を行わず、スカウトか精霊術師ギルドメンバーからの推薦状がなければ入れない。

 俺は充分な実力をつけたら、父さんの伝手を頼って推薦状を勝ち取り、学院に入学するつもりだった。

 せめて10歳までに入学できれば、あとは学院内で成り上がればいい。

 そのためにこうして術を磨いているのだ。


「朝から精が出るな、ジャック」


 砂まみれのままうんうん唸っていると、屋敷のほうからそんな声が聞こえてきた。


「あ、父さん。おはようございます」

「うむ。おはよう」


 俺の父親、カラム・リーバー。

 赤ん坊の頃は若いなと思ったが、俺が生まれてもう7年だ。

 もともと精悍な顔つきなのもあって、貴族の当主らしい威厳的なものが、最近はとみに出てきたように思う。

 ……うーん。子供が自分の親に対して持つ感想じゃないな。


 父さんは砂まみれの俺を見て頬を緩める。


「苦戦中か?」

「ええ、まあ。教えてくれる人がいないので暗中模索の日々です」

「はっはっは! 息子に皮肉を言われてしまった」


 俺に精霊術が目覚めたときに宣言した通り、父さんは全力をもって俺の才能を育てようとしてくれた。

 伝手を使って優秀な教師を探し、片っ端から俺にあてがった。

 だが、残念ながら、というべきか、その教師たちから俺が学べたのは、たった一つのことだけだった。


 すなわち――どうやら俺に宿った才能ってやつは、思った以上にとんでもない代物らしい、ということ。


 教師たちは揃って、教え子の異常な才能を抱えきれず、時には嫉妬に狂い、次々と匙を投げていった。

 そんなわけで俺は未だに、独学で精霊術の訓練をしているのだった。


「悪いな。いい教師を探してみてはいるんだが……」

「いえ。そもそも、人によって千差万別の精霊術を他人に指南する、ということ自体が難しいんですから、父さんや先生がたが悪いわけじゃありません」

「はっはは! 物分かりのいい奴め!」


 父さんは快活に笑う。

 今、結構クソ生意気なこと言ってしまったような気がするんだが、笑うとこなの?

 父さんは親バカだが、その一方、俺を子供ではなく一人の人間として対等に扱ってくれる面もある。

 父さんのそういう分け隔てのないところを、俺は一人の人間として、一人の子供として、心から尊敬していた。


「父さん、ご用はなんですか?」

「ああ、そうだったそうだった」


 父さんは笑うのをやめて、


「暗中模索しているところ悪いが、その砂を落としたらすぐ応接間に来てくれ。客にお前を紹介したい」

「お客さん……ですか?」

「ああ。ウチが昔から懇意にしている商人だ。お前の顔も覚えておいてもらわねばな」


 俺はリーバー家の次期当主である。顔繋ぎも大事な責務だ。


「そのくらいの用事なら、誰か使用人を寄越せばよかったのでは?」

「なぁに。姑息な点数稼ぎさ。将来、子供に煙たがられないようにするためのな」


 ジョークだろうけど、本当だとしたら涙ぐましすぎる……。

 俺も父親になったらそういうこと考えるのかな……。


「わかりました。すぐに行きます」

「ああ。待っているぞ」


 俺は砂まみれになった身体をどうにかするため、屋敷へと向かった。




◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆




 屋敷に戻ると、メイドたちが総出で俺の身体を洗ってくれた。

 なぜだか俺は、屋敷の若いメイドたちに気に入られているのだ。

 もし前世の俺がこんな妙に大人ぶった子供に出くわしたら、クソ生意気なクソガキだとしか思わなかっただろうが、彼女らに言わせると『可愛い』らしい。

 どこの世界でも女の子の『可愛い』はよくわからない。


 着替えて応接間に行くと、父さんの他にもう一人、恰幅のいい男性がいた。


「ポスフォードさん、紹介します。息子のジャックです」

「ジャック・リーバーです。以後お見知りおきをお願い申し上げます」


 俺が折り目正しく礼をすると、ポスフォード氏は「ほお~」と感心したような声を漏らした。


「礼儀正しいお子さんだ。ご両親の教育がよっぽど行き届いておるのですな」

「いえいえ。あまりに手がかからなくて、私たちのほうが助かっているくらいですよ」

「ほっほっほ! それはいい。私にもジャック君と同い年の娘がおるのですが、これが手の付けられないお転婆で……今日もご紹介するつもりで連れてきたのですが、少し目を離した隙にいなくなってしまいましたよ」

「我が家の者が見ていますから、屋敷から出たということはないでしょう」

「すみませんな。我が娘ながら神出鬼没で……」

「では、僕がお相手しておきましょうか?」


 大人たちの会話に、俺はそう口を挟んだ。

 別に親たちの話を聞いているのが嫌だったわけじゃない。

 だが、ここで置物になっているよりは、子供同士で仲良くなったほうがよっぽど覚えがいいだろう。

 ポスフォード氏は豊かな顎を揺らし、「ほっほう!」と笑った。


「そいつはいい! ジャック君の影響を多少なりと受けてくれれば、フィリーネも少しは落ち着いてくれるだろう」

「ポスフォードさんがそう仰るのなら――ジャック、すまんが頼めるか」

「謝ることは何もありませんよ、父さん。女の子と遊んでいればいいなんて、こんなに名誉な仕事はありませんから」


 悪戯めかしてそう言ってみると、ポスフォード氏は「ほっほっほ!」と上機嫌に笑ってくれた。成功成功。

 一礼してから応接間を出る。

 廊下を歩きながら、俺は思案した。


 子供が興味を持つ場所というと、どこだろう?

 子供にとっちゃ、他人の家なんてダンジョンみたいなものだからな。それもこれほど大きな屋敷となれば、探検したい場所は山ほどあるだろう。

 娘さんに出会う前に、ちょっとしたかくれんぼになりそうだ。




◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆




 とりあえず、使用人に聞き込みをしてみた。


「あっ! もしかして、洗濯物の中に隠れていた子のことですか?」

「女の子なら見ましたよ! 先輩の後ろで変な顔をするものだから、わたし、叱られてる途中なのに笑っちゃって……」

「ああ、あのお嬢さんですか。支度中の賄いを摘まみ食いしていかれましたよ。……いえ、ご心配召されますな。もともと余り物ですので」


 ……どうやら、想像以上のお転婆娘みたいだ。

 目撃証言をもとに捜索してみたが、結局屋敷の中からは見つからなかった。

 外に出たのか? そう思って、エントランスの扉を開ける。

 すると、扉の向こうに人が立っていた。


 二人組で、少なくとも片方は男だ。

 子供の視点だと、年上はみんな大きく見える。だからその男は、俺の目からは10代後半くらいにも見えたし、20代のようにも見えた。


 もう片方は、フードを目深に被って顔を隠している。

 世界には、怪我をしているとか、宗教上の理由とか、いろんな理由で素顔を晒せない人間がいる。

 だからそういう人を見かけても濫りに触れないのがマナーだと、2番目の家庭教師が言っていたのを思い出した。


 突然、扉が開いたのに驚いたのか、二人組は俺をじーっと見つめている。まあ片方は目が隠れてるんだが。

 なんだか怪しいな。見張りが通したってことは不審者ではないはずだが。


「あの……お客様ですか?」

「あ、ああ……。君の親御さんと約束してきたんだ」

「父なら今、他のお客様を応対しているところですけど……ええと、あなたは――」


 名前を訊く前に、後ろから柔らかな声が割り込んできた。


「――ああ、いいのジャック。そちらは私のお客様よ」


 俺の母親――マデリン・リーバーだ。

 俺を生んだとき、まだ17歳だったらしいので、今は24歳。

 威厳が出た父さんと違って、母さんはまだまだ若々しい。

 母さんは柔らかに微笑みながら、玄関に立つ二人組に歩み寄った。


「ようこそいらっしゃいました。奥さんもどうぞ中へ」

「……はい」


 フードを被ったもう一人が初めて声を出す。

 声、若いな。10代の女の子の声だ。

 奥さんって呼ばれてたけど、やっぱりそのくらいの歳で結婚するのが当たり前なのかな? 母さんもそうだし。

 俺も将来、ティーンエイジャーの女の子を嫁にもらうことになるのだろうか。


「聞いたわよ、ジャック。ポスフォードのお嬢さんを探しに行くの?」

「はい。屋敷の中では見つからなかったので」

「気を付けて行ってらっしゃい。あまり遠くには行かないようにね」

「はい」


 父さんと母さんには、6年前――1歳のときに大きな心配をさせてしまっている。

 こういうとき、俺ははっきり素直に頷くことにしていた。


 二人組と入れ替わるように外に出る。

 母さんの客だというその二人には、軽く会釈だけしておいた。

 どういう関係の人なんだろう?


 玄関からまっすぐ進み、とりあえず正門の見張りにポスフォード嬢を見かけたか尋ねてみたが、見ていないとの答えが返ってきた。

 ってことは、やっぱり敷地内からは出ていないのか?

 敷地内で子供が好みそうな場所というと……俺の訓練場とか?


 とりあえず行ってみようと歩いていったところ、途中で珍しいものを見つける。

 野ウサギが目の前を横切ったのだ。

 森の中でならよく見かけるが、ここには柵があるから入ってこられないはず……。


「なんだお前? どこから入ってきたんだ?」


 捕まえて訊いてみるものの、当然野ウサギが喋るはずがない。

 一体どこから……、と野ウサギが走ってきた方向に目を向けてみる。


「……あ」


 茂みに隠れてわかりにくいが……柵の一部に、穴が開いていた。

 ……まさかとは思うが……。

 ポスフォードのお嬢様、あそこから出ていったりしてないよな?




◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆




 訓練場でも見つからなかったので、俺は例の穴から柵の外に出なければならなくなった。

 柵の外には森がある。

 6年前、あの妹が半分近く焼き払ってしまった森だ。

 よく人が通る森で、野犬などの危険な動物も少ないが、万が一ということもある。探さないわけにはいかない。


「おーい! ……えーと……フィリーネさーん?」


 確かポスフォード氏はそう呼んでいた気がする。

 フィリーネ。フィリーネ・ポスフォード。

 何度も呼びかけてみるが、返ってくるのは葉擦れの音ばかりだった。

 森に入ったとしても、そこまで奥には行ってないと思うんだが……。

 しばらく探したら、また屋敷に戻ってみるか?


 そんな風に考え始めた頃だった。


 ――ガッサッ!! と音を立てて、近くの木が不意に揺れた。

 直後。


「きゃああああああああああああああっ!!」


 枝葉の中から、零れ落ちたように。

 木の上から、女の子が落ちてきた。


 は?

 ……はあ!?


 思考停止しかけた俺は、反射的にダッシュする。

 一瞬ごとに地面へと近付く女の子に、全力で腕を伸ばし――

 その背中が、地面に激突する寸前。

 指先を、腕に掠めさせることができた。


 ――【巣立ちの透翼】!


 精霊序列第65位〈尊き別離のアンドレアルフス〉の力が、女の子から重さを消し去る。

 それによって女の子はその場にふわふわと浮遊し、地面との激突を免れた。


「……お? お? おー?」


 女の子は目をぱちくりと瞬き、不思議そうに自分の身体を見る。

 くるくると空中で寝返りを打っては、楽しそうにきゃいきゃい笑った。

 一方の俺は、ぜはあと大きく溜め息をつく。


「……あ、危なかった……」


 シャレになってねえよ今の。たまたま俺がいたからよかったものの……。

「あーっ!」と女の子が声を上げた。

 事ここに至ってようやく俺の存在に気付いたらしい。

 彼女はふわふわと浮いたまま、


「これ、キミがやったのっ!? へー! すごいねー! 楽しいねー! ほらほら、ふわふわするーっ!」

「ちょっ、あんまり動いたら――」

「――あわ? あわわわわわわっ!」


 案の定バランスを崩した女の子は、くるん、と縦に回転し――

 ゴツン!

 地面で頭を強打した。


 あ~あ、やらかした……。

 慣れてないうちはよくやるんだ、これ。俺も昔やった。


「の゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛」


 頭を押さえ、濁点だらけの呻き声を発する女の子。

 とにかく、またやったら危ないので、術を切って彼女を地面に下ろした。


「……大丈夫か?」

「だ、だいじょうふ……」


 目の端に涙が滲んでますが……まあ、ぎゃん泣きしないだけ大したもんだな。

 栗色の髪を肩口まで伸ばしたその女の子は、まず間違いなく、俺と同じくらいの年頃だろう。つまり、6歳だか7歳だか。

 そのくらいの歳の子供が地面で頭を強打したら、それはもう朗々と泣き喚くのが普通だと思う。

 たぶん痛みに慣れてるんだろうな。それほどのお転婆娘なのだ。

 ってことは……。


「……君がフィリーネさん?」

「ん? そだよ? なんで知ってるの?」


 ……やっぱり。


「僕はリーバー家の子供だよ。屋敷の中に君がいなかったから探しに来たんだ」

「ふぇー? わたしを探しに? どして?」

「どして、って……森に一人で入ったら危ないだろ?」

「そーなの? どして?」


 心底不思議そうに、きょとんと首を傾げるフィリーネ。

 どうやらこの子の辞書には『危険性』の三文字がないらしい。

 なるほど……ポスフォード氏も手を焼くわけだ……。


「んー、まあいっか!」


 けろっとそう言って、フィリーネはすっくと立ち上がった。


「ね、一緒に遊ぼうよ! さっきね、向こうに広い原っぱが見えたの!」

「は? いや、いったん屋敷に帰――」

「ほらほら!」


 有無を言わさず、フィリーネは俺の手を取ってぐいぐい引っ張っていく。

 俺は為す術なく引きずられながら、どこか、懐かしい気分でいた。


「あ、そうだ」


 栗色の髪を翻し。

 こちらに振り返った、その女の子の顔が。

 確かに――

 かつての幼馴染みと――

 ――重なる。




「――ねえ! お名前なんてーの?」




 蝉の声が聞こえない、7歳の夏の日。

 俺は、フィリーネ・ポスフォードと出会った。




◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆




「ジャッくん?」

「クが抜けてる」

「クジャッくん?」

「ジャック! ジャック・リーバー!」

「ジャック……くん?」

「そうそうそう」

「わかった! ええと……じーくん!」


 頭文字しか残ってねえ!

 俺は溜め息をついた。


「もういいよ、じーくんで……」

「えっへへー。じーくん♪ じーくん♪」


 何が楽しいのか、フィリーネはそう連呼しながらスキップする。

 そんな彼女に虜囚がごとく引っ張られていく俺。

 ……やっぱりいったん帰りたいなあ。

 だって、この子のノリ、なんか如何にも大変なことに巻き込んできそうだもん。


「あのー……フィリーネさん」

「あ、わたしのことはフィルでいいよ? みんなそう呼んでるから」

「あー……じゃあフィル」


 なんか恥ずかしいな。女の子を愛称で呼ぶことなんかないから。


「俺としては、やっぱり一度屋敷に帰りたいんだが。ほら、君のお父さんも心配してると思うし」

「そだねー。お昼ごはんの時間にはいったん帰りたいね!」

「いや、そうじゃなくて」


 今すぐ帰りたいって話をしてるんだよ!

 と言う前に、森を抜けた。


「ふわー!」とフィルが声を上げる。

 さっき彼女が言っていた通り、大きな原っぱが広がっていた。

 見上げると、屋根みたいに覆いかぶさっていた梢が途切れて、青い空が高く高く広がっている。

 こんな場所あったんだな……。知らなかった。


「うわー! うわー! ひろーい!」


 風が吹き抜けて、草が波打つ。

 それと競争するように、フィルが俺の腕を離して走り出した。


「あっ、おい!」


 なんて落ち着かない奴だ!

 俺はフィルを追いかけた。

 フィルは時たま跳びはねたり、「こっちこっち!」と振り向いたりしながら、なかなかのスピードで駆けていく。

 あーもう、あんな走り方してたら――


「――あうわっ!?」


 ぽてっ。

 ほら、こけた。

 俺が追いつくと、フィルは「あいてて……」と額を押さえながら身を起こす。

 顔面から行ったのかよ。受け身取れよ。


「大丈夫か?」

「うん。なんか足に引っ掛かって――」


 足に?

 フィルの足の辺りに視線を向けた俺は、ぎょっとした。

 足があったのだ。

 フィルのじゃない。別人の足が、切り株の陰からひょっこりと首を出していたのだ。


 え……? 死体?

 有り得なくはない。ここも一応森だから、野犬だか熊だかに襲われて屍を晒す、ということも充分考えられる。

 あるいは……あの足の先には、胴体がついていないかもしれない。


 俺は恐る恐る、切り株の陰を覗き込む。

 幸いなことに、足にはちゃんと胴体がついていた。

 五体満足の人間が、うつ伏せに倒れている。

 女性なんだろうか、青みを帯びた長い髪が、大きく散らばっていた。


「大丈夫かな……?」


 さすがにこれには驚いたのか、フィルが気遣わしげに言った。

 大丈夫かどうかで言えば、まあ、大丈夫ならこんなところで倒れてはいないだろう。

 問題は、生きているかどうかだ。


「あのー……」


 俺はそっと、死体(?)の肩に触れた。

 ……温かい。生きてる?

 いや、死んで間もないということもあるし、脈を確かめないことにはわからない。


 俺は地面に大きく広がった長い髪を、そうっと指先でかき分けた。

 そうすることで、今まで見えなかったものが見え――俺はもう一度驚いた。


 耳が――長い。


 ……エルフだ。

 存在はすると、話では聞いていた。

 ヒトよりも精霊に近しく、ヒトよりも遥かに長命な、現人神めいた亜人種……。

 それがこんな平和な森で野垂れ死にしているっていうのか?


 とにかく脈を取ってみようと、白い首筋に指を触れた――瞬間。

 ぴくっ。

 エルフが動いた。

 俺は驚いて手を引っ込め――ようとしたが、その前にエルフの手に捕まえられた。


「はっ、はなっ……!」


 反射的に振り払おうとしたが、すごい力でビクともしない。

 そうしているうちに、エルフがゆっくりと顔を上げる。

 長い髪がすだれのようになって、その隙間から、青い瞳が垣間見えていた。

 一対のそれは、髪の毛の向こうから、俺をまっすぐに睨んでいる。


 え?

 もしかして、ヤバいか?


「きゃあああああああっ!!」

「あっ、おいフィル! 一人だけ逃げるな!」


 薄情者! しかもなんでちょっと楽しそうな悲鳴なんだ!

 フィルに続こうとした俺だったが、


「――――お」


 深い深い穴の底から、響いてくるような。

 おどろおどろしい声と共に、掴まれた手を引っ張られた。

 にっ……逃げられなっ――


「お、お、お、お、お、お、お―――――」


 知性の失せた青い瞳が爛々と光り輝く。

 そして、女エルフの姿をしたソレは、覆いかぶさるようにして俺を組み伏せた。

 ちょっ、まっ、動けなっ―――

 あっ、そうだ精霊術!


 俺は【巣立ちの透翼】で女エルフを押しのけようとしたが、手遅れだった。

 その前に、女エルフが目の前で口を開き―――


「――――おなか、すいた…………」


 ……は?

 俺の目が点になった直後。

 女エルフは再び、ぐったりと気絶した。

 組み伏せられていた俺は、当然、その下敷きになる。

 むぎゅっ。

 …………お、おっぱい…………!




 蝉の声が聞こえない、7歳の夏の日。

 俺はフィルの他に、行き倒れのエルフに出会った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
‥‥‥‥‥これまでの話を読んだ限り、妹も幼馴染みの記憶を持っている。 つまり‥‥‥‥。
ラブコメだと思って身に来たんだけどなんかサイコホラーじゃね?これ?冗談抜きにいつだれが妹になるか怖いって 書いた感想読み直して思ったけど意味わかんねえなこれ
[一言] もう新しい登場人物全員疑っちゃう
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。