運命の日
――蝉の声が聞こえた。
それは、もう何年前だかもわからない夏のこと。
そいつは両親と一緒に、俺の家に挨拶しにやってきた。
単なる引っ越しの挨拶はいつだか長話になっていて、俺と妹とそいつは、すっかりお互いの両親に取り残されてしまっていた。
最初に話しかけてきたのは、そいつのほうだった。
『――ねえ! お名前なんてーの?』
訛りなのかなんなのか、そのちょっと違和感のあるイントネーションに、妙にドキッとしたのを覚えている。
俺が答えると、そいつは続いて妹にも同じ質問をした。
当時4歳の妹は引っ込み思案で、常に俺の背中に隠れているような奴だったから、俺が代わりに答えようとしたのだが――
驚くべきことに、妹は、自分の口で名乗ってみせた。
おそらく――後に恐るべき転身を見せるあの妹が、人生で唯一、俺以外の人間にわずかなりとも心を開いた瞬間だった。
まだ俺たちが、どこにでもいる普通の兄妹だった頃。
小学校に上がって最初の夏。
7歳の夏の日――
幼馴染みとなる女の子との、出会いの記憶。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「あっつ……」
ふかふかのベッドの上で、俺は目を覚ました。
寝ている間に蹴飛ばしたのか、布団がベッドの下に落ちている。
クーラーのない生活にはとっくに慣れたが、暑いものは暑いのだ。
俺は寝汗に顔をしかめながら起き上がる。
いつも起こしに来るメイドはまだ来ていないのか、カーテンは閉まったまま。
けれど、殺人的な熱光線は、カーテンを貫いて室内にまで届いていた。
ただ、蝉の声だけがない。
「……夢……」
まだかすかに、頭の隅に残っている。
今となっては遠く眩しい、暖かな記憶が。
彼女の名前すら、今の俺には思い出せない。
すべて、削り取られたのだ。
悪夢のような、あの5年間に。
「……やめよう」
昔のことはもういいんだ。
今から6年前に、決着をつけたことなんだから。
ベッドから降りて、カーテンを開ける。
窓の外には、リーバー伯爵領ダイムクルドの緑溢れる風景が、どこまでも広がっている。
俺――ジャック・リーバーは、7歳になっていた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「ん……ん、ん、ん、ん……!」
足の裏に意識を集中させる。
そのほんの少し先――足裏に触れる空気だけを、ピンポイントで――
「うわっ!?」
全身を浮遊させていた力が、不意に途切れた。
ぼふんっ! と、俺は柔らかな砂場に落下する。
あまり痛くはない。クッション用の砂場だし。
でも砂まみれだ。口の中までじゃりじゃりする。
「ぐえ~……ぺっ。くっそー……」
悪態を吐きながら、俺は今の失敗の原因を考えた。
オンにしておく部分とオフにしておく部分を、自分の中でどうやって区切るかだよなー、やっぱり。
リーバー家の屋敷の裏手に、俺のためのちょっとした訓練場がある。
ここで精霊術の訓練をするのが俺の日課だった。
ちなみに今のは2段ジャンプの練習である。
【巣立ちの透翼】は『飛行』ではなく『浮遊』の力なので、鳥みたいに空中で自由自在に動くことはできない。
だが、足裏に触れる空気だけ術の範囲外にすれば、虚空を蹴ることで飛行に等しい機動力を得ることができる。
まあ、その域に達するには、2段どころか3段4段5段と連続して成功させなければならないのだが……現状、俺の最高記録はわずか3段だった。
俺の今の目標は、王都にある王立精霊術学院への入学である。
学院は精霊術師ギルドを母体とする組織で、王国中から精霊術師の卵が集まる登竜門的な場所だ。
精霊術師として名を上げるなら、絶対に避けては通れない。
俺は将来、この領地を父さんから継ぐことになるわけだが、貴族社会でも精霊術師としての名声は強力な箔付けになるのだ。
学院は入学試験を行わず、スカウトか精霊術師ギルドメンバーからの推薦状がなければ入れない。
俺は充分な実力をつけたら、父さんの伝手を頼って推薦状を勝ち取り、学院に入学するつもりだった。
せめて10歳までに入学できれば、あとは学院内で成り上がればいい。
そのためにこうして術を磨いているのだ。
「朝から精が出るな、ジャック」
砂まみれのままうんうん唸っていると、屋敷のほうからそんな声が聞こえてきた。
「あ、父さん。おはようございます」
「うむ。おはよう」
俺の父親、カラム・リーバー。
赤ん坊の頃は若いなと思ったが、俺が生まれてもう7年だ。
もともと精悍な顔つきなのもあって、貴族の当主らしい威厳的なものが、最近はとみに出てきたように思う。
……うーん。子供が自分の親に対して持つ感想じゃないな。
父さんは砂まみれの俺を見て頬を緩める。
「苦戦中か?」
「ええ、まあ。教えてくれる人がいないので暗中模索の日々です」
「はっはっは! 息子に皮肉を言われてしまった」
俺に精霊術が目覚めたときに宣言した通り、父さんは全力をもって俺の才能を育てようとしてくれた。
伝手を使って優秀な教師を探し、片っ端から俺にあてがった。
だが、残念ながら、というべきか、その教師たちから俺が学べたのは、たった一つのことだけだった。
すなわち――どうやら俺に宿った才能ってやつは、思った以上にとんでもない代物らしい、ということ。
教師たちは揃って、教え子の異常な才能を抱えきれず、時には嫉妬に狂い、次々と匙を投げていった。
そんなわけで俺は未だに、独学で精霊術の訓練をしているのだった。
「悪いな。いい教師を探してみてはいるんだが……」
「いえ。そもそも、人によって千差万別の精霊術を他人に指南する、ということ自体が難しいんですから、父さんや先生がたが悪いわけじゃありません」
「はっはは! 物分かりのいい奴め!」
父さんは快活に笑う。
今、結構クソ生意気なこと言ってしまったような気がするんだが、笑うとこなの?
父さんは親バカだが、その一方、俺を子供ではなく一人の人間として対等に扱ってくれる面もある。
父さんのそういう分け隔てのないところを、俺は一人の人間として、一人の子供として、心から尊敬していた。
「父さん、ご用はなんですか?」
「ああ、そうだったそうだった」
父さんは笑うのをやめて、
「暗中模索しているところ悪いが、その砂を落としたらすぐ応接間に来てくれ。客にお前を紹介したい」
「お客さん……ですか?」
「ああ。ウチが昔から懇意にしている商人だ。お前の顔も覚えておいてもらわねばな」
俺はリーバー家の次期当主である。顔繋ぎも大事な責務だ。
「そのくらいの用事なら、誰か使用人を寄越せばよかったのでは?」
「なぁに。姑息な点数稼ぎさ。将来、子供に煙たがられないようにするためのな」
ジョークだろうけど、本当だとしたら涙ぐましすぎる……。
俺も父親になったらそういうこと考えるのかな……。
「わかりました。すぐに行きます」
「ああ。待っているぞ」
俺は砂まみれになった身体をどうにかするため、屋敷へと向かった。
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屋敷に戻ると、メイドたちが総出で俺の身体を洗ってくれた。
なぜだか俺は、屋敷の若いメイドたちに気に入られているのだ。
もし前世の俺がこんな妙に大人ぶった子供に出くわしたら、クソ生意気なクソガキだとしか思わなかっただろうが、彼女らに言わせると『可愛い』らしい。
どこの世界でも女の子の『可愛い』はよくわからない。
着替えて応接間に行くと、父さんの他にもう一人、恰幅のいい男性がいた。
「ポスフォードさん、紹介します。息子のジャックです」
「ジャック・リーバーです。以後お見知りおきをお願い申し上げます」
俺が折り目正しく礼をすると、ポスフォード氏は「ほお~」と感心したような声を漏らした。
「礼儀正しいお子さんだ。ご両親の教育がよっぽど行き届いておるのですな」
「いえいえ。あまりに手がかからなくて、私たちのほうが助かっているくらいですよ」
「ほっほっほ! それはいい。私にもジャック君と同い年の娘がおるのですが、これが手の付けられないお転婆で……今日もご紹介するつもりで連れてきたのですが、少し目を離した隙にいなくなってしまいましたよ」
「我が家の者が見ていますから、屋敷から出たということはないでしょう」
「すみませんな。我が娘ながら神出鬼没で……」
「では、僕がお相手しておきましょうか?」
大人たちの会話に、俺はそう口を挟んだ。
別に親たちの話を聞いているのが嫌だったわけじゃない。
だが、ここで置物になっているよりは、子供同士で仲良くなったほうがよっぽど覚えがいいだろう。
ポスフォード氏は豊かな顎を揺らし、「ほっほう!」と笑った。
「そいつはいい! ジャック君の影響を多少なりと受けてくれれば、フィリーネも少しは落ち着いてくれるだろう」
「ポスフォードさんがそう仰るのなら――ジャック、すまんが頼めるか」
「謝ることは何もありませんよ、父さん。女の子と遊んでいればいいなんて、こんなに名誉な仕事はありませんから」
悪戯めかしてそう言ってみると、ポスフォード氏は「ほっほっほ!」と上機嫌に笑ってくれた。成功成功。
一礼してから応接間を出る。
廊下を歩きながら、俺は思案した。
子供が興味を持つ場所というと、どこだろう?
子供にとっちゃ、他人の家なんてダンジョンみたいなものだからな。それもこれほど大きな屋敷となれば、探検したい場所は山ほどあるだろう。
娘さんに出会う前に、ちょっとしたかくれんぼになりそうだ。
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とりあえず、使用人に聞き込みをしてみた。
「あっ! もしかして、洗濯物の中に隠れていた子のことですか?」
「女の子なら見ましたよ! 先輩の後ろで変な顔をするものだから、わたし、叱られてる途中なのに笑っちゃって……」
「ああ、あのお嬢さんですか。支度中の賄いを摘まみ食いしていかれましたよ。……いえ、ご心配召されますな。もともと余り物ですので」
……どうやら、想像以上のお転婆娘みたいだ。
目撃証言をもとに捜索してみたが、結局屋敷の中からは見つからなかった。
外に出たのか? そう思って、エントランスの扉を開ける。
すると、扉の向こうに人が立っていた。
二人組で、少なくとも片方は男だ。
子供の視点だと、年上はみんな大きく見える。だからその男は、俺の目からは10代後半くらいにも見えたし、20代のようにも見えた。
もう片方は、フードを目深に被って顔を隠している。
世界には、怪我をしているとか、宗教上の理由とか、いろんな理由で素顔を晒せない人間がいる。
だからそういう人を見かけても濫りに触れないのがマナーだと、2番目の家庭教師が言っていたのを思い出した。
突然、扉が開いたのに驚いたのか、二人組は俺をじーっと見つめている。まあ片方は目が隠れてるんだが。
なんだか怪しいな。見張りが通したってことは不審者ではないはずだが。
「あの……お客様ですか?」
「あ、ああ……。君の親御さんと約束してきたんだ」
「父なら今、他のお客様を応対しているところですけど……ええと、あなたは――」
名前を訊く前に、後ろから柔らかな声が割り込んできた。
「――ああ、いいのジャック。そちらは私のお客様よ」
俺の母親――マデリン・リーバーだ。
俺を生んだとき、まだ17歳だったらしいので、今は24歳。
威厳が出た父さんと違って、母さんはまだまだ若々しい。
母さんは柔らかに微笑みながら、玄関に立つ二人組に歩み寄った。
「ようこそいらっしゃいました。奥さんもどうぞ中へ」
「……はい」
フードを被ったもう一人が初めて声を出す。
声、若いな。10代の女の子の声だ。
奥さんって呼ばれてたけど、やっぱりそのくらいの歳で結婚するのが当たり前なのかな? 母さんもそうだし。
俺も将来、ティーンエイジャーの女の子を嫁にもらうことになるのだろうか。
「聞いたわよ、ジャック。ポスフォードのお嬢さんを探しに行くの?」
「はい。屋敷の中では見つからなかったので」
「気を付けて行ってらっしゃい。あまり遠くには行かないようにね」
「はい」
父さんと母さんには、6年前――1歳のときに大きな心配をさせてしまっている。
こういうとき、俺ははっきり素直に頷くことにしていた。
二人組と入れ替わるように外に出る。
母さんの客だというその二人には、軽く会釈だけしておいた。
どういう関係の人なんだろう?
玄関からまっすぐ進み、とりあえず正門の見張りにポスフォード嬢を見かけたか尋ねてみたが、見ていないとの答えが返ってきた。
ってことは、やっぱり敷地内からは出ていないのか?
敷地内で子供が好みそうな場所というと……俺の訓練場とか?
とりあえず行ってみようと歩いていったところ、途中で珍しいものを見つける。
野ウサギが目の前を横切ったのだ。
森の中でならよく見かけるが、ここには柵があるから入ってこられないはず……。
「なんだお前? どこから入ってきたんだ?」
捕まえて訊いてみるものの、当然野ウサギが喋るはずがない。
一体どこから……、と野ウサギが走ってきた方向に目を向けてみる。
「……あ」
茂みに隠れてわかりにくいが……柵の一部に、穴が開いていた。
……まさかとは思うが……。
ポスフォードのお嬢様、あそこから出ていったりしてないよな?
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
訓練場でも見つからなかったので、俺は例の穴から柵の外に出なければならなくなった。
柵の外には森がある。
6年前、あの妹が半分近く焼き払ってしまった森だ。
よく人が通る森で、野犬などの危険な動物も少ないが、万が一ということもある。探さないわけにはいかない。
「おーい! ……えーと……フィリーネさーん?」
確かポスフォード氏はそう呼んでいた気がする。
フィリーネ。フィリーネ・ポスフォード。
何度も呼びかけてみるが、返ってくるのは葉擦れの音ばかりだった。
森に入ったとしても、そこまで奥には行ってないと思うんだが……。
しばらく探したら、また屋敷に戻ってみるか?
そんな風に考え始めた頃だった。
――ガッサッ!! と音を立てて、近くの木が不意に揺れた。
直後。
「きゃああああああああああああああっ!!」
枝葉の中から、零れ落ちたように。
木の上から、女の子が落ちてきた。
は?
……はあ!?
思考停止しかけた俺は、反射的にダッシュする。
一瞬ごとに地面へと近付く女の子に、全力で腕を伸ばし――
その背中が、地面に激突する寸前。
指先を、腕に掠めさせることができた。
――【巣立ちの透翼】!
精霊序列第65位〈尊き別離のアンドレアルフス〉の力が、女の子から重さを消し去る。
それによって女の子はその場にふわふわと浮遊し、地面との激突を免れた。
「……お? お? おー?」
女の子は目をぱちくりと瞬き、不思議そうに自分の身体を見る。
くるくると空中で寝返りを打っては、楽しそうにきゃいきゃい笑った。
一方の俺は、ぜはあと大きく溜め息をつく。
「……あ、危なかった……」
シャレになってねえよ今の。たまたま俺がいたからよかったものの……。
「あーっ!」と女の子が声を上げた。
事ここに至ってようやく俺の存在に気付いたらしい。
彼女はふわふわと浮いたまま、
「これ、キミがやったのっ!? へー! すごいねー! 楽しいねー! ほらほら、ふわふわするーっ!」
「ちょっ、あんまり動いたら――」
「――あわ? あわわわわわわっ!」
案の定バランスを崩した女の子は、くるん、と縦に回転し――
ゴツン!
地面で頭を強打した。
あ~あ、やらかした……。
慣れてないうちはよくやるんだ、これ。俺も昔やった。
「の゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛」
頭を押さえ、濁点だらけの呻き声を発する女の子。
とにかく、またやったら危ないので、術を切って彼女を地面に下ろした。
「……大丈夫か?」
「だ、だいじょうふ……」
目の端に涙が滲んでますが……まあ、ぎゃん泣きしないだけ大したもんだな。
栗色の髪を肩口まで伸ばしたその女の子は、まず間違いなく、俺と同じくらいの年頃だろう。つまり、6歳だか7歳だか。
そのくらいの歳の子供が地面で頭を強打したら、それはもう朗々と泣き喚くのが普通だと思う。
たぶん痛みに慣れてるんだろうな。それほどのお転婆娘なのだ。
ってことは……。
「……君がフィリーネさん?」
「ん? そだよ? なんで知ってるの?」
……やっぱり。
「僕はリーバー家の子供だよ。屋敷の中に君がいなかったから探しに来たんだ」
「ふぇー? わたしを探しに? どして?」
「どして、って……森に一人で入ったら危ないだろ?」
「そーなの? どして?」
心底不思議そうに、きょとんと首を傾げるフィリーネ。
どうやらこの子の辞書には『危険性』の三文字がないらしい。
なるほど……ポスフォード氏も手を焼くわけだ……。
「んー、まあいっか!」
けろっとそう言って、フィリーネはすっくと立ち上がった。
「ね、一緒に遊ぼうよ! さっきね、向こうに広い原っぱが見えたの!」
「は? いや、いったん屋敷に帰――」
「ほらほら!」
有無を言わさず、フィリーネは俺の手を取ってぐいぐい引っ張っていく。
俺は為す術なく引きずられながら、どこか、懐かしい気分でいた。
「あ、そうだ」
栗色の髪を翻し。
こちらに振り返った、その女の子の顔が。
確かに――
かつての幼馴染みと――
――重なる。
「――ねえ! お名前なんてーの?」
蝉の声が聞こえない、7歳の夏の日。
俺は、フィリーネ・ポスフォードと出会った。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「ジャッくん?」
「クが抜けてる」
「クジャッくん?」
「ジャック! ジャック・リーバー!」
「ジャック……くん?」
「そうそうそう」
「わかった! ええと……じーくん!」
頭文字しか残ってねえ!
俺は溜め息をついた。
「もういいよ、じーくんで……」
「えっへへー。じーくん♪ じーくん♪」
何が楽しいのか、フィリーネはそう連呼しながらスキップする。
そんな彼女に虜囚がごとく引っ張られていく俺。
……やっぱりいったん帰りたいなあ。
だって、この子のノリ、なんか如何にも大変なことに巻き込んできそうだもん。
「あのー……フィリーネさん」
「あ、わたしのことはフィルでいいよ? みんなそう呼んでるから」
「あー……じゃあフィル」
なんか恥ずかしいな。女の子を愛称で呼ぶことなんかないから。
「俺としては、やっぱり一度屋敷に帰りたいんだが。ほら、君のお父さんも心配してると思うし」
「そだねー。お昼ごはんの時間にはいったん帰りたいね!」
「いや、そうじゃなくて」
今すぐ帰りたいって話をしてるんだよ!
と言う前に、森を抜けた。
「ふわー!」とフィルが声を上げる。
さっき彼女が言っていた通り、大きな原っぱが広がっていた。
見上げると、屋根みたいに覆いかぶさっていた梢が途切れて、青い空が高く高く広がっている。
こんな場所あったんだな……。知らなかった。
「うわー! うわー! ひろーい!」
風が吹き抜けて、草が波打つ。
それと競争するように、フィルが俺の腕を離して走り出した。
「あっ、おい!」
なんて落ち着かない奴だ!
俺はフィルを追いかけた。
フィルは時たま跳びはねたり、「こっちこっち!」と振り向いたりしながら、なかなかのスピードで駆けていく。
あーもう、あんな走り方してたら――
「――あうわっ!?」
ぽてっ。
ほら、こけた。
俺が追いつくと、フィルは「あいてて……」と額を押さえながら身を起こす。
顔面から行ったのかよ。受け身取れよ。
「大丈夫か?」
「うん。なんか足に引っ掛かって――」
足に?
フィルの足の辺りに視線を向けた俺は、ぎょっとした。
足があったのだ。
フィルのじゃない。別人の足が、切り株の陰からひょっこりと首を出していたのだ。
え……? 死体?
有り得なくはない。ここも一応森だから、野犬だか熊だかに襲われて屍を晒す、ということも充分考えられる。
あるいは……あの足の先には、胴体がついていないかもしれない。
俺は恐る恐る、切り株の陰を覗き込む。
幸いなことに、足にはちゃんと胴体がついていた。
五体満足の人間が、うつ伏せに倒れている。
女性なんだろうか、青みを帯びた長い髪が、大きく散らばっていた。
「大丈夫かな……?」
さすがにこれには驚いたのか、フィルが気遣わしげに言った。
大丈夫かどうかで言えば、まあ、大丈夫ならこんなところで倒れてはいないだろう。
問題は、生きているかどうかだ。
「あのー……」
俺はそっと、死体(?)の肩に触れた。
……温かい。生きてる?
いや、死んで間もないということもあるし、脈を確かめないことにはわからない。
俺は地面に大きく広がった長い髪を、そうっと指先でかき分けた。
そうすることで、今まで見えなかったものが見え――俺はもう一度驚いた。
耳が――長い。
……エルフだ。
存在はすると、話では聞いていた。
ヒトよりも精霊に近しく、ヒトよりも遥かに長命な、現人神めいた亜人種……。
それがこんな平和な森で野垂れ死にしているっていうのか?
とにかく脈を取ってみようと、白い首筋に指を触れた――瞬間。
ぴくっ。
エルフが動いた。
俺は驚いて手を引っ込め――ようとしたが、その前にエルフの手に捕まえられた。
「はっ、はなっ……!」
反射的に振り払おうとしたが、すごい力でビクともしない。
そうしているうちに、エルフがゆっくりと顔を上げる。
長い髪がすだれのようになって、その隙間から、青い瞳が垣間見えていた。
一対のそれは、髪の毛の向こうから、俺をまっすぐに睨んでいる。
え?
もしかして、ヤバいか?
「きゃあああああああっ!!」
「あっ、おいフィル! 一人だけ逃げるな!」
薄情者! しかもなんでちょっと楽しそうな悲鳴なんだ!
フィルに続こうとした俺だったが、
「――――お」
深い深い穴の底から、響いてくるような。
おどろおどろしい声と共に、掴まれた手を引っ張られた。
にっ……逃げられなっ――
「お、お、お、お、お、お、お―――――」
知性の失せた青い瞳が爛々と光り輝く。
そして、女エルフの姿をしたソレは、覆いかぶさるようにして俺を組み伏せた。
ちょっ、まっ、動けなっ―――
あっ、そうだ精霊術!
俺は【巣立ちの透翼】で女エルフを押しのけようとしたが、手遅れだった。
その前に、女エルフが目の前で口を開き―――
「――――おなか、すいた…………」
……は?
俺の目が点になった直後。
女エルフは再び、ぐったりと気絶した。
組み伏せられていた俺は、当然、その下敷きになる。
むぎゅっ。
…………お、おっぱい…………!
蝉の声が聞こえない、7歳の夏の日。
俺はフィルの他に、行き倒れのエルフに出会った。