『進化思考批判集』批判
2025/6/12 追記:スマホだと引用部の改行が見づらいのでPCやタブレットでお読みになることをおすすめします。
初めに
この文書は『進化思考批判集: デザインと進化学の観点から』[1] (見やすさと分かりやすさの観点から、本稿ではこれ以降『進化思考批判集』と省略して記述する) に関して批判を行うものである。まず初めになぜこの文書を書こうと思ったかを述べたい。この記事を読んでいる人はご存じだと思うが、『進化思考――生き残るコンセプトをつくる「変異と適応」』[2] (見やすさと分かりやすさの観点から、本稿ではこれ以降『進化思考』と省略して記述する) は創造的な思考法を進化になぞらえて語った本である。しかし、生物学的な記述に多くの誤りが見られたため、学術界隈から激しい突っ込みがなされ、一時話題になっていた。
それで私はその当初から、『進化思考』に怪しい記述があることは確かであるが、批判者側の指摘にも的外れなところが多いと感じていた。そしてその後批判者側から『進化思考批判集』という書籍が出され、特に読まずにスルーしていたのだが、最近になってX (旧Twitter) にて進化思考批判集の一部を見る機会があり、その一部に怪しい記述があったため本文を確認してみたらやはり指摘に誤りあることが分かった。しかもそのX上に挙げられていた部分というのはp.21なのだが、そこでは「非常に単純で深刻な間違いをいくつか紹介すると」「このような初歩的な事実誤認」といったように間違い (と著者らが思っているもの) が紹介されていたのである。したがって、このように誤りだと豪語している部分ですら間違った指摘であるのならば、批判集全体を通しての正確性もかなり怪しいと思い、チェックしてみようと思った次第である。
とはいうもののチェックしようと思った当初は、初めに見つけたミスは本当に偶々で、実際には誤りはあって10個程度だろうと思っていたのだが、読み始めると誤りのあまりの多さに驚いてしまった (その誤った指摘の中には林氏が「当書の最大の誤り」(p.26) と称するものも含まれている)。販売サイトにおける内容紹介では「単なる糾弾に留まらず、進化学、デザインと進化の関係性、創造性教育に関する正しい理解を得られる一冊となっています。」[3] と書かれているが、残念ながらそう言えるほどの仕上がりにはなっていない。またビジネス本を博士号持ちが正すという性質上、一般人はその内容を無批判に受け入れてしまう可能性が高い。また販売サイトの内容紹介に書いてあるような「自分の得にはならない、だが誰かがしなければならない、雪かきのような重労働」[3] というような功労的文脈も批判集の内容が正しいと思わせるバイアスを働かせると思われる (本文中でも「「学者」すなわち研究者にとって、擬似科学を相手にするのは「雪かき」[13]に近いもので、誰かがしなければならないけれど、やったところで得をするわけではない、面倒な重労働です。」 (p.8) と同様のことを言っている)。したがって、誤りを訂正することにそれなりの社会的意義があると思い、この長々とした文書を作成した。
なお「批判」というよりは評価する点も含めて「批評」という形にするのが最も望ましいとは思うのだが、あまりにも指摘必要箇所が多すぎるのでそれは文量的にあきらめた。したがって、指摘してしない部分については概ね同意していると見做してよい。
また『進化思考』は2023/12/23に増補改訂版が発売されており[4]、そのため旧版について語っている『進化思考批判集』を批判することにあまり意味はないのではないかと思う人もいるかもしれないが、私が本稿で行いたいのは太刀川氏の主張が正しいか否かというよりは、『進化思考批判集』という批判本が妥当なものであったのかどうかであるので特に問題はない。また、旧版と増補改定版で変わらない部分については批判集の内容がそのまま通用するため増補改訂版においても批判集を副読本とする人はいるだろうし、かつて批判集を読んで内容に全面的に納得してしまった人も多数いると思われるので、本稿はそういった人の理解の構築・見直しの助けともなるだろう。
批判集に存在する誤りは大きく分けて、生物学などの専門的知識に関する誤り、論理的誤り、誤読の3つである。また、引用部分の少なさによる批判の論理的妥当性の判別不可能性や、引用対象の一部改変の疑い、自身にとって都合の悪い情報を無視している (ように見える) などといった問題も存在している。
なお、批判集本文にも以下のような記述があるので、特に忖度なく批判する。もちろんこの本稿に対する批判も絶賛受け付けている。
当書の記述に対する、より科学的に厳密な検討はもとより、本稿で我々が指摘した各論点に関しても不備を見つけた方にはさらなる批判をお願いしたい。
本書がどなたかの文献リストに信頼できる参考図書として掲載されることを夢見ているが、文献リストに限らず、本書の内容に疑問や認識の間違い、改善を要する点があれば批判をお願いしたい。
なお、私は『進化思考』を読んでいない上で本稿を書いている。したがって文脈を読み切れていない部分がある可能性もあるのだが、仮にも一冊の批判本として上梓するのならば、その本のみで論理的には完結するべきであり、引用及び説明不足で誤読を誘うようであれば、それは単に批判集に問題があると私は考えている。とはいえ、やはり適切な理解のためには『進化思考』についても読んだ方がいいのは確かなので、暇があれば中古で買って読もうとは思っている。
本稿は、『進化思考』に対する批判本である『進化思考批判集』に対する批判という構造のため非常に読みにくいものになっていると思われる。『進化思考批判集』の該当部分を全文引用すれば意味的には分かりやすくなるものの、そうすると文量が膨大になり逆に読みにくくなると思ったので、できるだけ要点を絞って引用した。したがって、正確な文脈を掴む意味で『進化思考批判集』を別窓で開いて並行して読んでいただくことをおすすめする。本書は『進化思考批判集』の初めのページから順に批判していく構成となっているのでその辺は追いやすいと思う。なお実際に執筆段階においても批判集を前から読んで逐次指摘していったので、文章そのものもそういった体で書いてあるが、その後の推敲段階において後の部分を読んでる体で書き直したところもいくつかあり、故に指摘箇所間でそういった点での相違が発生していることもあるが、あまり本質ではないので特に気にしないで欲しい。
また本文における、「この本」・「批判集」は『進化思考批判集』を、「本稿」はこのnote記事である「『進化思考批判集』批判」を指す。『進化思考』については『進化思考』以外の呼び方はしていない。
以下、見出しの太大文字は批判集における部名・章名を表す。また各章のタイトルには括弧書きでその『進化思考批判集』における執筆者名を添えた。
また『進化思考批判集』においては、『進化思考』からの引用は書体が通常と変えられており、かつ2行以上の場合には字下げした上でさらに左に縦傍線が書かれているのだが (『進化思考』以外からの引用は字下げだけ)、『進化思考批判集』を引用するのに際して、書体はnoteにおいて変更することができないので省略し、字下げと縦傍線だけを再現した (なお『進化思考批判集』では縦傍線は全て繋がっているのだが、それもnoteでは再現不可能なので、行ごとに「|」を置いて代用している)。1行以下の引用に関しては傍線が付かない、かつ書体の再現ができないことより、特に追加の対処をしない限り『進化思考』からの引用であるのか否かの判別ができないのだが、①そもそも批判集においても書式差は見えづらくあまり機能していないように思える (実際私は書式の違いを一切認識せずに読んだ) のと、②多くの場合文脈的に『進化思考』からの引用であるかどうかを判別できるため、本稿ではこの情報は落としている。また、本稿の引用部位 (noteの引用システムを利用した部分。背景が灰色) 以外の地の文における、「「見本」(p.12) 」といったようなページ番号のみが付けられたカギ括弧は全て『進化思考批判集』からの引用及びそのページを指す。他、分かりづらい部分は適宜補足した。
また『進化思考批判集』には下線が存在することがあるが、noteにおいて下線を引くことは基本的にできないようなので「🔻」で代用した。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。また複数の下線が存在する文章では、どの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいので、もう一つの下線記号「🔷」を持ち出し、「🔻🔻」と「🔷🔷」を交互に使った。なお途中から読み始める読者のことも考慮して、下線のある部分では逐一このことを述べる。なお、この下線が引用元に存在していたものなのかどうかには疑義がある。すなわち、批判集の著者ら (具体的には林氏と伊藤氏) 独自のものである可能性があると私は思っている (詳しくは後述)。
ルビに関してはnote上では再現不可能だと思っていたので省略していたのだが (ちゃんとするならば、引用箇所で逐一、ルビが本来振ってあった箇所を補足すべきなのだが、ルビの有り無しで理解が大きく変わることはないと思われるし、ただでさえ下線の補足で引用部がごちゃごちゃしてて見づらいのでそれはしなかった)、本稿の最終チェック段階においてnoteにルビ機能があることを知った。しかし、20万字超えの記事において改めてルビの有無を一つ一つ確認して付記するのはだいぶ骨の折れる作業なので (批判集の文章をチェックする大変さが主な理由だが、ここまで文字数が多い記事になるとnote編集画面が極めて重くなるのも理由の一つ)、ルビの有無で理解が大きく変わることはないことも踏まえて、大変申し訳ないがとりあえず省略することにした (時間があれば今後の更新で修正するかもしれない)。
また、一段落以内の引用における段落初めの字下げは見やすさの観点から省略した。
なお、批判集は書籍版とPDF版の二つがあり、私が読んだのはPDF版のバージョン1.1.2である。PDF版は以下のページで無料公開されている[5]。したがって本稿と並行して批判集を読む場合、バージョン差には注意して欲しい。ただ現状最新版の1.1.2はだいぶ前 (2023/12/21) に更新されたものなので、少なくともしばらくの間は普通に最新版を読んでれば特に問題は起こらないだろう。
またあまりに指摘必要箇所が多く、本稿は20万字超えの大文書になってしまった。できれば全文読んでもらいたいのだが、読む気が失せる人も多いと思うので、誤りの質や程度、内容の重要度などの観点から私が特に読んで欲しいと思った指摘部分に💛💜という二段階の記号を付けた。💛のほうがより読んで欲しい度が「高い」。なおハートマークにしたのは読んで欲しいという意図を表現するのに適した記号だと思ったからであり、特に他意はない (色分けできる星マークがあればそれが良かったのだが残念ながらなかった)。
まえがき(伊藤 潤)
「エラー的な変異」(p.43)と書いた直後に「変異によるエラー」(p.44)と書いて循環定義をするなど、論理も破綻しています。
ここでの「エラー」というのは単に誤り一般を指しているのではないだろうか?その場合やや同語反復っぽくもなるが、特にそれほど違和感はないだろう。また後者の「変異によるエラー」における「エラー」は形質のことを言っている可能性もなくはなさそうである。また、ここでの「エラー」というのは変異の中でも適応度に寄与するようなものを特に指しているということも考えられる。その場合も特に問題はないだろう。
またそもそも、「エラー的な変異」と「変異によるエラー」を変異とエラーの定義文と見なす伊藤氏の解釈にはやや無理やり感がある。
とはいえ分かりづらいのは確かなので、訂正した方が親切ではある。
日本で出版される本には「図書コード」が設定されています。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
『 進化思考』は「34」を選んでいるので、「ビジネス書です」と自ら宣言したことになります。その一方で、「学術賞」を受賞し「文理を超えた学術的な評価をいただ」[3]いた書である、というスタンスを取っています。喧嘩屋が「ストリート最強」を自称するのは自由ですが、あらゆる格闘技の頂点に立った、みたいなことを言いだしたとしたらどうでしょう。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
それと同じで学術的に認められたかのように喧伝するのであれば、学術の民の目が光ることは避けられません。
「文理を超えた学術的な評価をいただいた」というのは文字通り文理を超えた学術的な評価をいただいたというだけの話であり、学術界の"頂点"に立ったとまでは言っていない。例えが不適切。また最後の文に関してはある程度同意するものの、ビジネス書に対して必要以上に科学的正確性や論証の適切性などを求める行為は行き過ぎであるとも感じる。
「重箱の隅を突ついてどうする」という批判も想定されますが、ミース・ファン・デル・ローエの言葉(とされる[11])「細部に神が宿る」(p.244)を太刀川さん自身が引用しているので、細部までの入念な検証はむしろ推奨される筈です。
元の文脈がよく分からないが、太刀川氏は自分の主張に関して「細部に神が宿る」と述べていたのだろうか?そうでなければ「細部までの入念な検証はむしろ推奨される筈」というのは伊藤氏の勝手な解釈に過ぎないと思う。また何らかの創作物に関して細部まで追及することと、本筋とは特に関係ない部分まで不必要に突っ込むことは別物である。実際、批判集には本筋からかけ離れた突っ込みも存在するが (例: p.111の猫型ロボットの話)、突っ込みの必要性について今一度よく考えて欲しい。
また、ここで伊藤氏が言っている重箱の隅というのが、そういった非重要な突っ込みのことではなくて、単に知識的・推論的誤りへの細かい突っ込みであるならば、それそのものの必要性についてはそれほど否定はしない。しかし、中には太刀川氏の主張の本筋からは少し外れた点を否定することを以って、太刀川氏の主張全体が大きく誤っているかのように見なしている部分もこの批判集には多くあり、そういった批判の仕方に関しては問題があると私は感じる。詳しくはこの先述べていくが。
「正しいかどうかなんて学者が騒いでいるだけではないか」という批判(と呼べるのかわかりませんが)もあるかもしれませんが、一般的に「学者が騒いでいる」場合はかなり問題がある状況だと考えていただく必要があると言えるでしょう。
学者が一般人に比べて特にある分野に精通しており、的を射たことを言っている場合が多いのは確かではあるが、個人的には「一般的に「学者が騒いでいる」場合はかなり問題がある状況だと考えていただく必要がある」とまでは別に言えないと思う。学者が詳しいのはその専門分野に関してであって、その社会的関連や別分野に関しては大して詳しくないことも多く、畑違いのことについてズレたことを述べているのはSNSでも多く見られる。またそもそも今回の批判が適切かどうかは当の議論の中身で判断するべきであり、一般的に学者の主張が適切であることが多い、といった一般論で擁護するのはどうなんだろう。実際、批判集における批判には太刀川氏の主張の本筋とはそれほど関係ないものも多くあり、それらに関して「かなり問題がある状況」にあるとは私は思わない。これも詳しくは後述するが、批判集の著者らは太刀川氏の主張をよく理解できていないように見える。そして理解できていないからなのか、または逆に不理解が起こる原因であるのかは定かではないが、太刀川氏を「典型的な進化への不理解」という型に当てはめようと論を立てているように見える。もし仮にそうであるならば、そういったバイアスのかかった分析は研究者としては致命的なものだろう。
最後に、批判に対する大きな誤解を解いておきたいと思います。次の文は、「『進化思考』を読み解く問いのデザイン」というイベントにおける太刀川さんを含む鼎談(3人でのトークのこと)でのやりとりの一部だそうです。
続いて編集長の安斎が、「天の邪鬼な質問なんですけど…」と言いな
がら掲げたのが、「めちゃくちゃ嫌いな人が書いたと思って、『進化
思考』をあえて批判するとしたら?」というテーマでした。[22]
批判というのは好き嫌いでするものではありません。好きの反対は嫌いではなく無関心。編著者の伊藤は太刀川さんとは特に利害関係はありません。好きの反対は嫌いではなく無関心。編著者の伊藤は太刀川さんとは特に利害関係はありません。仕事やクライアントを取り合ったこともなければ、デザイン賞の審査をする側/される側となったこともありません。JIDAにも入っていません。太刀川さんのことを知ったのは、まだNOSIGNERの名のみで活動されていた頃で、東京ビッグサイトでの展示会などでユーモラスな干瓢のキャラクター「かぴょ丸くん」が描かれた干瓢うどん[23]をよく目にしていました。また東日本大震災後のwikiサイト「OLIVE」[24] の素早い立ち上げはリアルタイムで見ながら感銘を受けたもの です。ただ、それとこれとは話が別。是是非非謂之智、ダメなものはダメです。
好き嫌い関係なく批判が存在すると言っているのであれば、それはさすがに世の中の様相が見えてなさ過ぎる気がする。また、「批判というものは好き嫌い関係なく行われるべきだ」という規範性の主張だったとしても、後述するように「好き嫌い」というのは興味関心を含意しており、また興味関心がある多くの場合においては程度の幅はあれ好き嫌いが存在すると思われるので、主張としての妥当性はあまり無いように思われる。
「好きの反対は嫌いではなく無関心」とのことだが、これは「好き」というのを「興味関心」として定義した場合の話に過ぎず、別に一般論ではないし、普通「好き」の反対は「嫌い」である。また所謂「好き嫌い」は「興味関心」を含意しているとも言えるので、そういうことからも「好き」を興味関心と定義し、その反対として「無関心」を対置することはあまり自然な理解とは思えない。また文章を通して見ると、「批判というのは好きか無関心かで行われる(べき)ものである」と主張しているようにも見えるが、上記の理由からこの主張にも大した説得性はない。
または批判集の著者らが太刀川氏のことを嫌いであるから批判しているという訳ではないということを言いたくて「批判に対する大きな誤解を解いておきたい」と言っているのであれば、そもそも安斎氏の云う「めちゃくちゃ嫌いな人が書いたと思って、『進化思考』をあえて批判するとしたら?」というのは、嫌いな人だと思わない限り態々今持ち上げてるものを普通批判をしないとか、一応ゲストとして呼んでる人の本な訳だから悪い意味で取られないようにクッションを入れているだけだと思う。引用元[6]も確認したが、少なくとも太刀川氏は自己の主張が批判される可能性が高いことを理解している発言をしており、別に嫌いな人だから批判するということを彼が一般則として考えているということはないと感じられた。
なお、嫌いだから批判している訳ではないということに関してだが、真っ当な批判については問題ないのだが、批判集における重箱の隅を突っつくような本筋とは大して関係ない指摘や人を馬鹿するような態度からは、太刀川氏のことが嫌いなのではないかと読み取られても仕方がないと思う。
Ⅰ 進化学と『進化思考』
ここでの問題点は、生物学を知らないほとんどのおとなは進化理論の基本概念を理解することがほとんどできないのではないかということだ。進化の概念が複雑すぎる〔中略〕ことが問題なのではない。もっと基本的なこと、たとえば、種内には変異があるとか、ある種の全個体に共通する属性はないとか、〝人種〟というヒトの群は実在しないという点が彼らには理解できないということだ。
———Gelman SA The Essential Child: Origins of Essentialism in Everyday Thought. 訳出は三中信宏 『分類思考の世界』
※本稿執筆者注: 本来「The Essential Child: Origins of Essentialism in Everyday Thought」の表記はイタリック体なのだが、note内でイタリック体にする方法が分からなかったので、ここでは標準体で表記した。また「———Gelman SA The Essential Child: Origins of Essentialism in Everyday Thought. 訳出は三中信宏 『分類思考の世界』」は本来は右寄せであるが、noteでは引用内の一部だけ右寄せにすることは不可能なので、ここでは他と同様に左寄せになっている。
これは第Ⅰ部のエピグラフなので、批判集への批判という訳ではないが、「ある種の全個体に共通する属性はない」と「〝人種〟というヒトの群は実在しない」というのは今一よく分からない。
前者に関しては、ここでいう「属性」の定義がよく分からないが、一般的に言って共通する属性はあると言ってよいのではないだろうか (例えばカンガルーは有袋類という属性を持つと言っていいだろう)?そもそも種というのはあくまで人間の認識論的な概念な訳なので何らかの属性というか特徴がなければそのような恣意的な仕切りは不可能であるように思える。それとも種の全てを確認できる訳でもないから本当に全ての個体がその属性を持っているかは証明できないということを言っているのか?
後者に関しても人種というのがそもそも人間の認識論的な概念な訳なのでそれに対応する人の群は存在すると言ってもよいのではないだろうか?それともここでいう「実在しない」というのは、そういった恣意的な括りそのものは人間の認識の話であって、客観的に存在する訳ではないということだろうか。
1 『進化思考』批判 – 学会発表梗概(松井 実・伊藤 潤)
遺伝子に突然変異がランダムに生じ、突然変異がDNAを介して継承され、突然変異によって引き起こされた個体の形質の差が多少の生存性や繁殖性の差を生み、不利な形質を生み出す遺伝子が淘汰され、遺伝子の頻度が変化する(進化する)。この「変異」「継承」「選択」の三条件が揃っていれば、生物非生物を問わずなんであっても進化する。人間の作り出す文化もまた、個体学習〜変異、社会学習〜継承、バイアスのある伝達〜選択の前述の三条件が揃っているため、進化する。
これは別に誤りというほどのことでもないが、「変異」「継承」「選択」の順ではなくて、「変異」「選択」「継承」のほうが分かりやすいのではないだろうか。すなわち「突然変異がDNAを介して継承され」は「不利な形質を生み出す遺伝子が淘汰され」と「遺伝子の頻度が変化する」の間、もしくは「遺伝子の頻度が変化する」の後に置くのが適切ではないだろうか?(前者の場合世代間に渡る遺伝子頻度の変化について、後者の場合世代内における遺伝子頻度の変化について述べていることになる。とはいえ一般に進化は世代間に渡る遺伝子頻度の変化のことを言うことが多く、「遺伝子の頻度が変化する」に「(進化する)」という補足が付いていることから前者のほうが適切であろう。また繁殖性についても述べているのでやはり前者のほうが適切だと思われる)。文化進化についても同様。
裏表紙の「進化の螺旋」図(以下「螺旋図」)は著者の進化論の理解の程度を極めてよく表した図である。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
螺旋図は変態主義の図解と非常に類似している。当書p.60によると、螺旋図は「あらゆる創造」が「変異と適応の往復から生まれる」という「進化論のプロセスの図示そのもの」らしい。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
ダーウィンが葬ったはずの、生物の変化に定向性があるという考えは、螺旋図では中心を貫く「最適に向かう」「コンセプト」として蘇っている。連綿と続くある一つの幹が世代を追うごとに「最適」に「収束」(p.60)する螺旋図は、着実に「高みに」「未踏へと」(p.468)向かう梯子を登る生物という、変態主義的な創造論の時代の進化理論の理解を忠実に図示している。
💛ここでの「変態主義」とは、工場の灰に覆われた環境に生息する蛾が黒化していった理由を「環境に溶け込むために、体色を黒っぽくする必要があったから」 (p.19) と説明することに相当するのだが、この変態主義と螺旋図を「非常に類似している」と見なすのは不適切ではないだろうか?変態主義そのものには高みへ向かうという意味は特にないし、螺旋図には生物そのもの(または神?)が目的的意志を持って形質を変化させているという意味はないので。
また文脈がよく分からないので明確なことは分からないが、高みや未踏へと向かうといった螺旋図の進歩性に関しては、環境がある程度不変である場合、すなわちある特定の環境における適応について述べているのであれば特に問題はないと思う。環境が変化するような非常に長いスパンの話をしているのであれば誤りであるが。
生物進化においては獲得形質の遺伝は否定されている一方で、文化進化においては誘導された変異(もしくは個体学習、非社会的学習)という個人が行う試行錯誤をもととしたラマルク的変異と、ダーウィン的な、文化的変異という偶然に生じた意図しない改変の両方が頻度に影響を及ぼすとされている。 これら二種の変異の区別はデザインの分野でも明確になされてきた。ノーマンは、エラーは目標や計画の設定と、その遂行の二段階で発生し得るとした[4]。前者が個人の試行錯誤によるものなので誘導された変異で、後者が文化的変異に相当する。
文化進化については特に詳しい訳ではないのだが、「偶然に生じた意図しない改変」というのが何のことか今一分からない。この後の部分で玉入れを例えとして「あてずっぽうでも玉を投げまくる」(P.20) ことが誘導された変異、「正しくカゴの方向に向かって投げたつもりがコントロールが悪く違う方向に飛んで行ってしまった」(P.20) ことが文化的変異に相当すると述べているが、具体的にはどういったものが「偶然に生じた意図しない改変」に該当するのだろう。ペニシリンの発見とかだろうか。でもこれは意図しない”改変”ではない気がする。正しい方向に投げた訳ではないので。それともここでの「改変」というのは何か既存のモノに対して意図的にアクションを取ることではなく、単にモノが変わっていくことを意味するのだろうか。しかし、その後の部分でノーマンにおける「スリップ」が文化的変異に相当すると言っているように見えるので、おそらくここでの「改変」は意図的なアクションのことを意味するように思える。しかし、この分類ではペニシリンの発見のような偶発的な環境要因に起因する文化進化や「ラプス」による文化進化を説明できないのではないだろうか (なお、前者についてはスリップとミステイクの合わせ技と見なすこともできなくはないかもしれない。カビの混入を十全に防ぐ動作をし損ねたとも言えるし、そのような混入がありうるような実験方法を選んだミスとも言えるからである)。
またそもそも誘導された変異(個体学習)を意図的なものと考える必要はあるのだろうか?確かに変異の"中身"を見たときにはそこに意図は存在するだろうが、決定論的に考えるならば、個体学習による変異は遺伝と環境に関するランダム性によって決まるため、生成される変異の個体差を考える上では意図は必要ない。とはいえ、変異の中身すなわち変異のメカニズムを探ることも文化進化の理解において重要であるのは確かであり、生物学になぞらえるならば、このように(意図的な)変異のメカニズムを見ていくことは分子遺伝学に、意図を排して単に変異らの頻度的様相を見ていくことは集団遺伝学に対応するのではないかと思った。これはただの感想。
二大テーマのもうひとつ「適応」も間違って使われている。自然選択と適応は密接に関連するが別のプロセスで、自然選択によって適応が生じるが、当書では二者が混同されているうえ、変異とも混同されている。
💛「適応」には歴史的定義(祖先集団において有利に働き自然選択の産物として残ってきたかどうか)と非歴史的定義(その時点の環境において生存や繁殖可能性を向上させるかどうか)という二つの定義が少なくとも存在し[7]、著者らが今述べているのは前者の歴史的定義である。後者においては自然選択は必要ではない (また後で述べるが、自然選択の過程として適応を定義することもある)。
また変異との混同に関しては具体的にそれが分かる引用がされていないので判断ができない。
非常に単純で深刻な間違いをいくつか紹介すると、『種の起源』はダーウィンとウォレスの共著ではない(p.44、p270、 p274、p.476)。ベイツ型擬態は「強いふりをする」ことではないし(p.107)、チンパンジーには尻尾はないしコアラはクマの一種ではない (p.119)。「水平遺伝子の移行」(p.192)は遺伝子の水平伝播の誤りだろう。セントラルドグマは統合的な進化論を意味しない(p275)。ランナウェイ説は行き過ぎた進化を意味しない(p326)。このような初歩的な事実誤認が平均して一見開きに一つ程度の割合で出現するため、当書は、デザインと進化の関連に興味があるもののこの分野に明るくない読者は避けるべき誤情報源となっている。
💜これは本稿の初めの方でチラッと触れていた部分である。詳しくは後述するが、ベイツ型擬態に関しては明確に誤った指摘であり、ランナウェイ仮説についても理解が間違っている可能性が高い。
このように「非常に単純で深刻な間違い」や「初歩的な事実誤認」と自信満々に言っておいて間違っているのならば、残念ながら本全体の信頼性は大きく落ちる。
当書を改善するには二通りの道があるように思う。ひとつは進化学とのアナロジーを諦め、題名をたとえば『太刀川の思考』に、「進化」の記述を「進歩」に、「変異」を「新しいアイディア」にするなどして進化学の学術用語を避ける道だ。当書の紹介する「進化との類似性を創造に活かす具体的な方法」(p.51)の大半は、実際には進化に無関係で既存のフレームワークの焼き直しだ。たとえば当書の変異と適応は、いわゆるデザイン思考におけるダブル・ダイアモンド[6]の発散と収束に相当するし、アイディア発想支援のツールとして提示している9パターンの「変異」は、SCAMPER(SCAMMPERR)として知られるオズボーンの「チェックリスト」に相当する[7]。
💜私は『進化思考』を読んでおらず、またこの批判集に関してもまだ途中までしか読んでいないのでどれほどの問題が存在しているのかははっきりとは分かっていないが、SNS等含めこれまで得てきた情報からは、果たして本のコンセプトをまるっきり変えるほどの問題があるのかついては現状疑問符が付く。上にも書かれていたが本書はビジネス書であり、学術書ではない。進化に関する科学的記述の誤りは直してもらうとして、進化思考という思考法そのものについては仮にその新規性がガワだけであってもそれを捨てる必要は果たしてあるのだろうか。そういった具体的なガワやアナロジーというのはアイデア発想法の実践について割と重要であるように個人的には思うが。
もうひとつは現代的な進化学を学び直し、科学的に妥当な表現に書き直すという道だ。著者の進化の理解は残念ながら全面的かつ完全に間違っているため、科学的な妥当性への疑念は我々が指摘した[5]ような変更を施しさえすれば解決できる水準では決してなく、当書のほとんどを書き直すことになるし、客観的な事実のみをもとに論を構築すれば第一版のような個人的なメッセージを伝えるのは難しくなるだろう。
💜詳しくは後述するが、太刀川氏の進化理解に誤りが存在するのは確かだが、「全面的かつ完全に間違っている」とまでは言えないと私は思った。伊藤氏と松井氏がこのように言えるのは、彼らも進化についてよく理解していなかったり、また単なる読解力不足による誤読だったりが原因であるように見える。例えば上でも説明したように「適応」の定義の複数性を伊藤氏と松井氏は理解していない。
ドブジャンスキーの「生物学においては、進化の光で照らさなければ何もわからない」という格言を借りれば、現時点での当書は、進化の光で照らされていない、断定的な物言いを好む読者むけの疑似科学本であると評さざるを得ない。
ドブジャンスキーのその格言は"生物学"に対するものであって、進化思考という思考法の話とは特に関係ない。生物学には分子生物学や生態学など様々な研究分野があるが、進化的背景を考慮して初めて個々の研究分野における深い考察及び分野をまたがる生物への統一的理解が得られるというのがその格言の意図であって、思考法を進化の光で照らしたところで特に意味はない。
2 『進化思考』における間違った進化理解の解説(林 亮太)
まずはAmazonの販促画像から見ていきたい。
| 生物の進化は、🔻エラーを生み出す変異の仕組みと、自然選択によ
| る適応の仕組みが往復して発生🔻する。[2]
進化は変異の仕組みと適応の仕組みが往復して発生するわけではない。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
自然選択(変異・淘汰・遺伝)の3ステップで複数世代を通して顕現する性質が「適応」だ。「適応」は進化の結果生じた性質のことを指すのに、それが必要条件のように書かれているのが当書の最大の誤りである。
※本稿執筆者注:「🔻」挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。
💛前章でも指摘したが、「適応」には少なくとも歴史的定義(祖先集団において有利に働き自然選択の産物として残ってきたかどうか)と非歴史的定義(特定の環境において生存や繁殖可能性を向上させるかどうか)という二つの定義が存在し[7]、ここで林氏が述べているのは前者の歴史的定義である。前者の定義では適応は適応進化の十分条件だが、後者の非歴史的定義では適応は適応進化の必要条件である。したがって「当書の最大の誤り」でもなんでもない。
とはいえ、「生物の進化は、エラーを生み出す変異の仕組みと、自然選択による適応の仕組みが往復して発生する」という記述を見るに太刀川氏は歴史的定義と非歴史的定義を混用している可能性がある (ただ個人的にはここでの「自然選択による」というのは「自然選択に関する」や「自然選択における」といったことを言いたいような気がする)。こういった混用はないに越したことはないので、もし仮に混用しているのならば気を付けた方がよい。しかし、本稿執筆者の個人的意見を言わせてもらえば、適応の定義をどう取ったところで科学コミュニケーションにおいて問題はあまり発生しないとも感じる。確かに論文や書籍内で統一されていると分かりやすいかもしれないが、混用されていたからといって本旨が理解できないとか何かしら重大な勘違いが生じるといったことは別に起こらないのではないだろうか?というのも、まず基本的に文脈からどういう意味で適応と言っているかは判断できるからである(歴史的定義と非歴史的定義を混用されるとさすがに分かりづらいがそのような混用はほぼないと思われる。混用されるときは、歴史的定義とプロセス的定義、非歴史的定義とプロセス的定義といった組み合わせがそのほとんどだろう)。また適応はそれそのものが生物学的な直接の研究対象である訳ではなく、あくまで生物の進化的形質について語る上での便宜的な認識概念に過ぎないので、実際に科学コミュニケーションにて支障が出ない程度であればその意味の違いに過度に拘る価値はあまりない (科学の本質ではない) と感じる (早い話、歴史的定義と非歴史的定義とプロセス的定義 (後述) といった異なる「生物学的概念」に異なる名前を与えてやればそれで問題は解決する訳だが、なまじ「適応 (adaptation)」という日常用語を使ったばかりに、それぞれの研究者が持つ日常語としての「適応 (adaptation)」の感覚と自身の興味のある研究対象が関係し合って、皆が好き好きに適応の定義を語っているように私には見える (もちろんその定義に沿った個々の「適応」を認識論的に把握可能かどうかといった実践的な観点もあるだろうが、結局「適応」という1つの椅子を取り合うことに意味があるのかは疑問である))。とはいえ、先ほども言ったように混用しないに越したことはないのは確かである。なお、いま上で少し述べたように単なる便宜的な観点を超えた話として、何を「適応」と見なしてきたか (or見なそうとしてきたか) というのは生物学者における認識論の話にもなり、科学哲学的に興味深い研究対象であるように思われる。
また、引用部分では「エラーを生み出す変異の仕組みと、自然選択による適応の仕組みが往復して発生」に下線が引かれているが、Amazonの販促ページを確認したところ該当部分に下線は引かれていない[8]。つまりこの下線は林氏独自のものである。しかし少なくとも私が読んだ限りでは下線が林氏によるものであるという補足情報はどこにも書いておらず (「強調」「線」「ライン」でページ内検索をかけたがそれでも見つからない)、もし本当に書いていないのならば、これは一般的な引用ルールに反している。引用に無断で改変を与えることはやってはいけないことである。学部生でも知っているレベルのことである。些末な点の改変というか便宜的見逃しなどであれば問題ないとも思うが、「下線」という強調の記号を他者が勝手に加えるのは割と問題だろう。
またこれ以降の引用部分についても下線が多く引かれているが、それらについては元書籍等が手元にないので厳密な確認はできていない。しかし、下線の引かれている部分を見るに林氏独自のものである可能性が高い気がする (元著者がそこに下線を引く意図があまり見えないため)。また別の章で伊藤氏や松井氏が同じところを引用していることもあるのだが、比較したとき伊藤氏と松井氏のそれには下線が引かれていないので、そういった点からも林氏独自のものである可能性が高い。
最近訳本が出版されたWilliams GC『適応と自然選択』では
進化的適応は特殊で誤解されやすい概念であり、必要なく用いるべき
でない。[3]
適応は、真に必要なときだけに使われるべき専門的でわずらわしい概
念である。[4]
と、「適応」がわかりにくい単語であることが冒頭で宣言されている。また、訳者注として、
本書では、適応(adaptation)を自然選択を受けて発達した形質、す
なわち進化の産物という意味で使っている。しかし、日本語の“適
応”は、動詞の適応(していない状態から適応している状態へ変化す
ること)の意味合いが強いので、訳では適宜(的形質)を追加した。
[5]
と注意書きがされている。ここでも、やはり適応は進化の産物、つまり結果としての性質であり、進化の要因ではないことがきちんと宣言されている。そして、この解釈は進化生物学分野における「適応」の理解として進化生物学者たちの合意を得ていると言っていいだろう。
💛先ほど述べたように適応の定義には少なくとも歴史的定義と非歴史的定義の二つが存在し、ここで林氏が言っている歴史的定義が「進化生物学分野における「適応」の理解として進化生物学者たちの合意を得ている」とは別に言えない (歴史的定義が「適応」の定義の一つとして受け入れられているという意味で言っているのであれば問題ないが、ここまでの文脈からしてそうではないだろう)。また『進化思考』の増補改訂版の監修を行った進化生物学者の河田雅圭氏が「進化における「適応」という言葉をめぐって」というnote記事を書いているが[9]、そこでも適応の定義が進化生物学において複数存在することが述べられている (記事内では既に説明した二つの定義の他に、「高い適応度に貢献する性質が自然選択によって進化していくプロセス」というプロセス的な定義が挙げられている)。
また、河田氏の記事内で引用されている論文 (Reeve & Sherman 1993) [10] においても、「Reviews by Leigh (1971), Krimbas (1984), D. C. Fisher (1985), ENdler (1986), Brandon (1990), and Baum and Larson (1991) reveal that there are numerous, often conflicting definitions, and no consensus about what operational criteria should be used to identify a phenotypic trait as an adaptation.」というように様々な適応の定義が存在し、ある一つの定義のみが正しいという合意は特に取れていないということが書かれている。
加えて、そもそも『適応と自然選択』の原著初版は1966年刊行とだいぶ古い本であり、この本だけを以って現在における語の用法を評価することの適切性には疑問符がつく (前述の河田氏の記事でも、進化要因の中で自然選択の重要性が強調され過ぎた時代においては自然選択によって進化した形質のみを適応とすることに価値があったのではないか、といった考察がされている)。また、訳者注ではあくまで「本書では」と書かれており、「日本語」の対置として決して「進化生物学」を置いている訳ではない。その辺の意味をよく読み取って欲しいものである。すなわち、少なくとも引用されている範囲では「ここでも、やはり適応は進化の産物、つまり結果としての性質であり、進化の要因ではないことがきちんと宣言」などされていない。
| 私たちは道具の創造を通して🔻「進化」を達成してきた🔻。〔中
| 略〕こうした創造は🔷疑似的な進化🔷そのものだ。[6]
それは進化ではない。進化は常に現在進行形で走っている現象であり、達成するものではないからだ。また、「疑似的な進化そのものだ」に至っては完全に個人の感想だ。
※本稿執筆者注:引用部に縦傍線が付いているが、この引用部は『進化思考』からではなく、『進化思考』のAmazon販促画像からである。
また「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
💛「達成」という表現に全く問題が無いかと言われればそうではないと思うが、別に否定されるものでもないと思う。例えば「”ここまでの”「進化」を達成してきた」と補足すれば十分許容され得るものだろう。現在までの進化の達成はこの先の進化を特に否定する訳ではない。
また太刀川氏の意図ははっきりとは分からないが、「「進化」を達成してきた」においては「進化」にかぎ括弧が付いており、これを学問的に正確な意味で進化と言っている訳ではないと読み取ることは十分可能である。
なお、この引用部分における下線も林氏独自のものである (一応原文では「「進化」」と「創造は疑似的な進化そのもの」に黄色のマーカーが付いているが、林氏の下線とはリンクしていない)。そして下線が林氏独自のものであることを示す記述は特に見当たらない。
| 「創造性は、人間という生物が起こしている自然現象だ」という信念
| が僕の中ではあります。なので、🔻この本が生物学的に矛盾がない
| ことはとても大事なんです🔻。同時にそれはすごく高いハードルを
| 自分に課したことになるのですが、新しい創造性教育の根幹を目指す
| には、そうありたい。それに、僕が嫌いな人であれば非科学性をまっ
| さきに突っ込むだろうし、まず科学好きの僕が、デザイナーの僕に一
| 番ツッコミを入れてる存在でありたいと。僕は創造性という自然を探
| 究したかったので、そういう🔷科学的な客観性を備えた本にしよう
| 🔷とは思っていました。[9]
なぜこうも自信をもって言い切れてしまうのだろうか。
※本稿執筆者注:「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
💜太刀川氏の発言のどの部分を「言い切り」と見なしているのか謎である。下線から考えるに、「この本が生物学的に矛盾がないことはとても大事なんです」と「科学的な客観性を備えた本にしよう」のことを言っているのだろうか?しかし、前者は単なる事実であり、後者も筆者の願望に関する発言であるため、それに対して「なぜこうも自信をもって言い切れてしまうのだろうか」という自信の正当性に関する指摘を行うことはおかしい。それとも太刀川氏がこういう発言を態々外に向けてするということは、それが十分に達成されていると太刀川氏は自信を持って思っているに違いないということなのだろうか?だとすればそういう推論をしていると林氏はきちんと説明するべきである。今のままでは何を言いたいのかよく分からない。
しかし、著者がお墨付きを得たと主張する長谷川眞理子氏の著作では、進化のメカニズムについて以下のように解説されている。
自然淘汰は、次の四つの条件が満たされているときに生じる自然現象
です。🔻その前提とは、①生物は、たとえ同じ種に属していても、
それぞれ個体ごとにさまざまな性質が異なる、つまり種内には個体差
がある、②そのような個体差の中には、遺伝的なものがあり、遺伝的
に決められている個体差は親から子へと遺伝する、③そのような遺伝
的な差異の中には、生存と繁殖に影響を及ぼすものがある、④生まれ
てきたすべての子が生存して繁殖するわけではない、の四つです
🔻。
〔中略〕
さて、この四つの条件が満たされているとすると、どんなことが起こ
るでしょうか。うまく生き残って繁殖できるような性質が、どんどん
集団の中に広まっていくことになります。たくさん生まれてきた個体
の中には、生存と繁殖に関して、うまくいく性質を持ったものと持っ
ていないものとがあり、当然ながら、うまくいくものがよく生き残っ
て子孫を残すのですから、世代を重ねるにつれて、そのような子孫の
数が増えていくでしょう。そうすると、その生物の集団は、誰もがそ
の環境においてうまく生存して繁殖するような性質を身につけること
になります。だからこそ、水の中を泳ぐ魚は、泳ぐために理想的なか
らだのつくりをしており、空を飛ぶ鳥は飛ぶために理想的なからだの
つくりをしているのです。このように、🔷生物が、そのすんでいる
環境に対して非常にうまくできていることを「適応」と呼びます
🔷。[12]
ここでは4つのステップとされているが、③と④は意味的には実質同じだ。やはり①変異、②遺伝、③淘汰と3つのステップが自然淘汰のプロセスとして紹介されている。また、「適応」については、うまくできていること、つまり進化の結果として「適応」という単語を使っており、進化の要因として「適応」という単語を用いてはいない。
※本稿執筆者注:「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
💛長谷川氏の云う③と④は別に同じものではない。一見④が③の必要条件であるようにも見えるため④は不要であるようにも思われるが、④のポイントは「すべての子」がというところにおそらくある (そして③と④は包含関係にはない) 。すなわち集団内の全ての個体においてある形質が共有されるような自然淘汰について長谷川氏は述べているように見える。そして実際後の部分で「そうすると、その生物の集団は、誰もがその環境においてうまく生存して繁殖するような性質を身につけることになります」と述べている。一般には「自然淘汰」は集団内の全ての個体においてある形質が固定される (または消失される) ことを意味する訳ではないが、ここで言うような狭義的意味もそこまでおかしなものではない。(または単に④でないような場合は集団内の遺伝子頻度の変化が緩慢になるし、実際に自然界では多くの種において④が当てはまるので、④を入れたのかもしれない)。
なお繰り返しになるが、「適応」という語の定義については、長谷川氏がここで述べている (と林氏が思っている) 定義が歴史的定義であるというだけであって、進化生物学において歴史的定義がただ一つの正しい定義として認められているということを証明している訳ではないし、実際そうではない。
またそもそも「生物が、そのすんでいる環境に対して非常にうまくできていることを「適応」と呼びます」という長谷川氏の文章は、そこでの「適応」の定義が歴史的定義であることを含意しない (「うまくできていること、つまり進化の結果として「適応」」という林氏の推論はおかしい)。むしろこれは非歴史的定義と解釈するのが自然である。この文章が歴史的定義を一意に意味していると林氏が思ってしまうのは、おそらく彼が「あらゆる適応的形質は適応進化によって生じたものである」という誤った理解をしているためであるように思われる。
当書では、生物の「変異」のパターンを学ぶことでアイデアの創出に活用することができると主張されているが、生物進化における「変異」はここに解説されている通り、環境とは無関係にランダムに生じるものだ。パターンはない。このように、著者がお墨付きを得たと主張する長谷川眞理子氏の書籍でも『進化思考』の中で説明される「変異」や「適応」、「進化」の使われ方はよくある誤解として説明されており、残念ながら著者が言う「科学的な客観性を備えた本」には遠く及ばない内容になっている。
💛文脈がよく分からないが、太刀川氏の云う「生物の「変異」のパターン」というのは変異の時系列的な発生パターン (次にどのような変異がくるか) ではなくて、単に変異の類型的な種類についてではないだろうか?おそらく林氏は、生物における変異はランダムに発生するのだから意図的な行為であるアイデア創出には活かしようがないと言いたいのだろうが、太刀川氏は単に変異の類型的パターンを学ぶことで意識的にも無意識的にも広範なアイデア創出に役立つといった話をしているだけな気がする。
またここまでの所感として、太刀川氏の理解に一部怪しい部分があるのは確かだが、「「科学的な客観性を備えた本」には遠く及ばない内容」とまでは現状言えないと私は感じる。既に何回も述べたように少なくとも「適応」については林氏もよく理解しておらず、誤った知識で批判に成功した気になっているだけである。
| 進化論の構造は単純明快で、四つの現象を前提としている。
|
| 1 変異によるエラー:生物は、🔻遺伝するときに個体の変異を繰
| り返す🔻
| 2 自然選択と適応:自然のふるいによって、🔷適応性の高い個体
| が残りやすい🔷
| 3 形態の進化:世代を繰り返すと、🔻細部まで適応した形態に行
| き着く🔻
| 4 種の分化:住む場所や生存戦略の違いが発生すると、種が分化し
| ていく(p.44)
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
「遺伝するときに個体の変異を繰り返す」というのも意味が分からない。次世代を残すときに様々な変異が生まれ、選択を受け、その一部の性質がさらにその次世代に遺伝していくものである。「個体の変異を繰り返す」というのも主体がわからない。ヘッケルの反復説的なことを言いたいのだろうか?
※本稿執筆者注:「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
💛おそらく太刀川氏は「生殖細胞の生成及び受精のプロセス一般」という意味で「遺伝」を解釈してしまっているか、または変異が発生するタイミングを知らないかのどちらかであると思われる。
また「個体の変異を繰り返す」というのは、単にそれぞれの個体において変異が発生し、それが世代内・世代間に渡って繰り返されると言いたいのではないだろうか。実際、これ以降の部分で「卵から毎回違う個が生まれる「変異」の仕組み」という『進化思考』の記述が引用されており (p.31)、それを見るに「個体の変異を繰り返す」に関しては上記の解釈で合っていると思われる。「主体がわからない」のが気になるのであれば、「個体の変異が繰り返される」と読めばよいだろう。分かってて敢えて突っ込んでるのか、本当に分からないのか判別が付かないが、これくらいは太刀川氏の意図を読み取って欲しいものである。少なくとも文脈的にヘッケルの反復説のことでないのは明らか。
| 2 自然選択と適応:自然のふるいによって、🔷適応性の高い個体| が残りやすい🔷
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
「適応性の高い個体が残りやすい」というのもよくわからない表現である(頭痛が痛い、というような違和感)。生き残りやすい有利な性質を持つことを「適応的」と呼ぶのに、これでは「残りやすい個体が残りやすい」という同語反復で何も説明できていない。「自然のふるいによって、生き残りやすい個体と生き残りにくい個体が選別される」くらいの表現が適切ではないだろうか。このあたりが初学者の方にはわかりにくいニュアンスかもしれないが、Williamsが「進化的適応は特殊で誤解されやすい概念であり、必要なく用いるべきでない」[3] というようにめんどくさい単語なので、このようにいいかげんに使ってほしくないところだ。
※本稿執筆者注:「🔷」挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔷見本🔷」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。
💛生物学において「適応性」というテクニカルタームは特に存在しないので、非生物学的な意味で環境に適応していることを言っているとも読めなくもないが、文脈から考えて太刀川氏の頭の中には生物学的な意味でのそれがあったように思われる。ただその場合も、好意的に読んであげればこの文章に特に問題はない。まず林氏は「生き残りやすい有利な性質を持つことを「適応的」と呼ぶ」と言っているが、「適応」は自然選択だけでなく性選択も絡む概念なので、生き残りやすさだけに言及したこの発言内容は端的に誤りである。そしてこの発言に沿うならば、同語反復と称するこの後の「残りやすい個体が残りやすい」という発言は「生き残りやすい個体が生き残りやすい」を意味していることになる。そしてこの場合は確かに同語反復であり、無内容である。しかし一方、ここで太刀川氏が述べているのは「適応性の高い個体が残りやすい」であり、ここでの「残りやすい」を「生き残りやすい」ではなくて、「次世代にその子孫が残りやすい」や「世代に渡って集団内での頻度が増えていく」などと好意的に解釈してあげるならば文の意味は普通に通る (適応度の高い個体の子孫が次世代集団で相対的に増えるということ)。
というように太刀川氏が「適応」の意味を割と正確に理解している可能性は存在する上に、林氏は「適応」に性選択が絡むことをよく理解していないように見える。そして前述してきたように林氏は適応を歴史的定義でしか理解できていない。果たして「初学者の方にはわかりにくいニュアンスかもしれない」「いいかげんに使ってほしくないところだ」と他人に言っている場合なのだろうか。
なお性選択の不足については、2番の項名が「自然選択と適応」であるから、 狭義の自然選択だけを意識してしまったのだという弁明も予想されるが、ここまでの文脈では「自然選択」は広義の自然選択 (狭義の自然選択と性選択を合わせたもの) として使われてきており (先ほど引用された長谷川氏もこの広義の意味で言っているし、林氏自身も同様の意味で使っていた)、またここで太刀川氏が狭義の意味で言っていると読み取れる情報も少なくとも私には見つけられないので、その場合は林氏の広義の自然選択と狭義の自然選択の使い分けの意識が薄いと言えるだろう。また単なるケアレスミスだととしたら、申し訳ないがシンプルに理解が浅いだろう。まともに理解していれば、どれほどうっかりしていても「生き残りやすい有利な性質を持つことを「適応的」と呼ぶ」とは普通言わない気がする。また、もしここで林氏が云う「生き残りやすい」というのが、上で私が言ったような「次世代にその子孫が残りやすい」を意味しているのであれば、シンプルに不適切な表現と言えるだろう。「生き残る」というのは普通一個体の一生についての話なので。
| 3 形態の進化:世代を繰り返すと、🔻細部まで適応した形態に行| き着く🔻
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
また 、「世代を繰り返すと、細部まで適応した形態に行き着く」ともあるが、細部まで適応した形態に行きつくことはない。進化は現在も走っている現象だからである。終着点があるわけではない。今、完成形のように見えるさまざまな生物たちも進化の途上にいる。もちろん我々Homo sapiensもそのひとつだ。
※本稿執筆者注:「🔻」挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。
また、本来「Homo sapiens」の表記はイタリック体なのだが、note内でイタリック体にする方法が分からなかったので、ここでは標準体で表記した。
💛「細部まで適応した形態に行き着く」という記述が進歩史観的な進化の終着点を含意するということは特にない。確かにそう読むこともできなくはないが一意に読み取れる訳ではない。林氏はおそらく「行き着く」という表現から条件反射的に進歩史観的な終着点を想起してしまったのだと思われるが、「行き着く」ことはその先全く動かないことを含意する訳ではない。例えば「生物の進化はここまで行き着いてきた」という表現は特に問題ないだろう。もっと一般的な例で言えば、東京から広島へかけての旅行中に「大阪まで何とか行き着きました!」とツイートすることに何も問題はない (林氏の論理に従うならば「まだ広島に着いてないのだから「大阪に行き着いた」という表現はおかしいだろう」という突っ込みを入れることになる)。また別のところで似たようなことを既に述べたが、もしある一定の環境における進化的安定戦略を考えているのならば、少なくとも近い未来はこの先動かないという意味で行き着くと言ってもそれほど問題はないだろう。
なお、これについては後でも説明するが、林氏には太刀川氏を「典型的な進化への誤解パターン」に安易に当てはめようとしている節があるように私には見える。そういう認知バイアスが初めからあるのか、または読解力が足りないゆえに最終的に見知った線に行き着いてしまっているのかは分からないが、文章をちゃんと読めば太刀川氏の主張がある程度見えるところでもそれが見えてなかったり、今回のように表現の意味を勝手に一意に決定してしまっていることが多い。
| 4 種の分化:住む場所や生存戦略の違いが発生すると、種が分化し| ていく(p.44)
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
4つ目の種の分化に関する説明だけは間違ってはいないが、これは種分化に関する説明であり「進化論の構造」としてここで挙げるものでもないだろう。
「進化論」は単なる「進化」とは別物であるので、種分化についても説明することに特に問題はないと思う。
| 自然界では、この「変異×適応」の仕組みがつねに働いている。(p.45)
今後も何回もこの「変異×適応」という記述が出てくるが、「変異と適応」ではなく「変異・淘汰・遺伝」である。著者の進化理解には形質が遺伝して集団内に固定されていくというプロセスがまるまる抜け落ちている。
💛林氏が先ほど引用していた太刀川氏の進化論の説明1, 2, 3, 4を見れば、「形質が遺伝して集団内に固定されていくというプロセス」を太刀川氏が全く理解していないとは言えないだろう。太刀川氏の理解ははっきりしないものの一応「遺伝」という用語を使っているし、世代を繰り返すことで適応的形質が変化していくことも明らかに理解しているように見えるからだ。ではなぜ太刀川氏が「変異×適応」という表現にこだわっているかというと、おそらく「遺伝」の部分は進化思考という行為論を論ずるにあたり重要性が低いからだろう。すなわち遺伝というのはこの地球に存在するDNA (およびRNA) を基にした生物らにおいては必然的に生じるものであり、生物進化において変異と選択が世代間に渡って連鎖していくための土台みたいなものだからではないだろうか?そしてこれは進化思考においても同様で、思考における遺伝というのは記憶・記録が相当すると思うのだが、この記憶・記録も意識して態々するようなものでもなく(脳において基本的に記憶は行われるし、紙や電子媒体への記録、また創作物としての記録も特にそれが意識されることなく行われている)、土台のようなものとして進化思考という行為論とは関係が薄く存在している。こういった点から進化思考という行為論を論ずるにあたり、分かりやすさを重視するために土台となる遺伝の部分が省かれているのではないだろうか?(一応、記憶・記録方法を意識的に改善していくことで「変異×適応」をより強力に効かせることはできるだろうが、太刀川氏の中ではその重要性は相対的にあまり高くないということなのだろう)。
なお先ほど指摘した林氏の認知バイアス云々はここにも当てはまる。ここまでの太刀川氏の主張をちゃんと読めば太刀川氏が「形質が遺伝して集団内に固定されていくというプロセス」を全く理解していないとは言えないはずなのに、なぜか「著者の進化理解には形質が遺伝して集団内に固定されていくというプロセスがまるまる抜け落ちている」と明確に言い切ってしまっている。それまでの文脈を無視し、「変異×適応」という表面的な表現だけを以って太刀川氏が「遺伝」について全く理解していないと見做す林氏の態度からは、太刀川氏が進化についてよく理解していないことにしたいという強い認知バイアスの存在が窺える。「「進化思考」を提唱するという「目的」が「手段」で ある「進化学」や「生物学」あるいは「正確な文章」よりも優先されてしまっている」(p.119) という伊藤氏の発言を借りるならば、「太刀川氏が進化をよく理解していないことにしたい」という目的が、手段である「適切な読解」や「建設的な議論」よりも優先されてしまっているように見える。単なる読解力不足 (少し前に読んだことをすぐに忘れてしまうなど) という可能性もあるかもしれないが。
| こうした変異と適応を、実に38億年続けてきた結果、世界は無数の種 | 類の生物で覆われることになった。つまり生物の進化もまた、卵から| 毎回違う個が生まれる「変異」の仕組みと、それが🔻途中で死んだ
| り性競争に負けたりしないで無事に次世代に遺伝子をつなげられるか
| という「適応」の仕組み🔻を長期間繰り返している。このきわめて
| 単純なプロセスを前提とすれば、気の遠くなるような時間をかけて、
| 🔷個体の変異と自然選択による適応🔷を繰り返すことで、しぜんに| 美しいデザインが生まれるというわけだ。(p.45)
これは「適応」ではなく「選択(または淘汰)」の仕組みである。当書で著者が「適応」と表現するところを全部「選択(または淘汰)」に置換して読めば多少は違和感なく読み進めることができるかもしれない。また、「個体の変異」は自然選択のプロセスの中に含まれるものであり、自然選択と対をなす単語として用いられるものではない。
※本稿執筆者注:「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
💛「これ」というのはおそらく下線の引かれた「途中で死んだり性競争に負けたりしないで無事に次世代に遺伝子をつなげられるかという「適応」の仕組み」のことを指しているのだと思われる。確かに「「適応」の仕組み」という表現に何も問題がないかと言えば微妙だが、「適応」を非歴史的定義やプロセス的定義として取れば特に問題はないだろう。ここでも歴史的定義としてしか適応を理解していないという林氏の不理解が読解のネックになっている。
また「個体の変異」云々についてはどちらかというと「自然選択」という語の用法に問題があると思われる。すなわち太刀川氏は単に生存や繁殖において有利な個体が相対的に多くの子孫を残すこと (変異・選択・遺伝における選択) を自然選択と言ってしまっているのだと思われる (こういう勘違いが生まれ得るので「変異・選択・遺伝」の「選択」は「適応度差」などと言ったほうが良いと個人的には感じる)。
| 進化は、🔻遺伝によるミクロな現象としての「変異」🔻と、🔷状況
| によるマクロな現象としての「適応」🔷の往復から自然発生する創
| 造的な現象だ。
| 〔中略〕
| では、これらの事実に通底する普遍性は何を示しているのか。それ
| は、あらゆる知的構造は、「変異」と「適応」の往復が生み出すとい| うことだ。変異と適応をめぐる自然の構造を深く理解すれば、そこか| ら創造性の法則を体系化できるかもしれない。(p.50)
この文からも著者が遺伝の意味を理解できていないことがわかる。発生したさまざまな「変異」の中から適応的なものが「選択」され、その形質が「遺伝」していく。「遺伝」によって「変異」が生まれることはない。
※本稿執筆者注:「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
💛太刀川氏が「遺伝」の正確な意味を理解していないのは確かだと思うが、「発生したさまざまな「変異」の中から適応的なものが「選択」され、その形質が「遺伝」していく」というプロセスそのものはおそらく理解していると思われる。これは先ほども述べたが、それが分かるような説明が上の方に存在しているからだ。太刀川氏が理解していないのはそういったプロセスそのものではなくて、「遺伝」という言葉が何を指しているかではないだろうか?すなわち指示対象 (referent) そのものを理解していない訳ではなくて、記号 (sign) と指示対象の結合が間違っているだけではないだろうか?私には太刀川氏が「生殖細胞の生成及び受精プロセス一般」を「遺伝」として理解してしまっているだけのように見える。
先ほどから述べているがこの部分に関しても、林氏には太刀川氏が進化をよく理解していないことにしたいがあまり、太刀川氏の意図を読み取ろうとせず、表面的な瑕疵を見てそれを全て進化に対する不理解に繋げている節があるように私には感じられる。
また、ここでも著者は「適応」の意味を理解できていないことが示されている。進化の結果である「適応」が、なぜか進化の必要条件になっている。遺伝的でない「適応」は存在しないし、「適応」がなくても「進化」は起こる(図1)。 それが冒頭で触れた「遺伝的浮動」というメカニズムによる中立進化である。
💛我ながらしつこいとも思うが、批判集のどの部分から読んだ人でも、その妥当性について本稿が検討の参考になるように、同じようなことでもできるだけ繰り返し述べていく。既に何回も指摘した通り、ここで林氏が言っている「適応」は歴史的定義に過ぎない。適応には他に非歴史的定義やプロセス的定義が存在する。歴史的定義においては適応は適応進化の十分条件だが、非歴史的定義やプロセス的定義においては適応は適応進化の必要条件である。したがって「進化の結果である「適応」が、なぜか進化の必要条件になっている」というのは林氏の不理解による誤った指摘である。
なお中立進化についてはその通りではあるが、文脈的にここまで「適応進化」として「進化」を見てきているのだから、今更それに突っ込むのは野暮というものである。太刀川氏に突っ込むならば、先ほど適応進化を「進化」として説明していた長谷川氏の書籍に対しても同様に突っ込むべきである。とはいえ、中立進化について一度説明した上で、この本では今後適応進化のみについて話していくといったような断りを入れておいた方が良いのは確かである。
そもそも「進化」とは、『遺伝的な性質の変化』のことを示す単語である。つまり、一個体の中で完結する現象ではなく、複数世代を通して顕現する現象だ。そこには「自然選択」によって変化することもあるし、ランダムな「遺伝的浮動」によって変化することもある。この中で、「自然選択」によって得られた性質を進化生物学では「適応(的性質)」と呼ぶ。
💛繰り返しになるが、「「自然選択」によって得られた性質を進化生物学では「適応(的性質)」と呼ぶ」という部分については、それは歴史的定義としての適応の話に過ぎない。非歴史的定義においては、仮にある形質が過去に適応的であったため自然選択によって残ってきたとしても、今現在それが適応度増加に相対的に寄与しないのであれば今のそれは適応とは呼べない。
また「適応(的性質)」というように括弧でぼかしているように見えるが、「適応的性質」と言った場合には、そこでの「適応」は非歴史的定義やプロセス的定義でのそれを普通意味しないだろうか?
自然淘汰と遺伝的浮動については、『生き物の進化ゲーム』から引用しよう。
自然淘汰による進化が起こるには以下の3つが必要である。
変異:個体間である性質に違いがある。
淘汰:性質が異なる個体間では、残す子の数の平均や子の生存率が違
う。
遺伝:その性質は多少とも遺伝する。
〔中略〕
一方、ランダムな浮動による進化には淘汰という過程は必要ない。
〔中略〕
変異・淘汰・遺伝の3つが揃ったときに起こるのが自然淘汰による進
化、変異・遺伝があれば起こるのがランダムな浮動による進化であ
る。
また、放送大学教材『生物の進化と多様化の科学』からも自然選択(自然淘汰)と遺伝的浮動に関する解説を引用する。
自然選択が起こるには、以下の3つの要件が必要である。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
もともとは少数の個体にのみ見られた性質が、世代を重ねる中でその
生物種全体がその性質を持つように変化する。🔻これを自然選択に
よる適応形質の進化という🔻。形質とは生物に見られる形や性質の
ことをいう。
このように、進化生物学における「適応」とは、自然選択による進化で得られる『結果』のことであり、当書で書かれているような進化の必要条件を指す単語ではないことがわかる。
※本稿執筆者注:「🔻」挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。
💛繰り返しになるが、ここで林氏が述べているのは適応の歴史的定義に過ぎず、非歴史的定義やプロセス的定義においては適応は適応進化の必要条件になる。またそもそも放送大学教材『生物の進化と多様化の科学』における「自然選択による適応形質の進化」という記述が歴史的定義のことを言っているとは別に一意には読み取れない。非歴史的定義としての適応 (形質) も当然自然選択によって進化しうるからである。また仮に歴史的定義のことを言っていたとしても、これは放送大学教材『生物の進化と多様化の科学』では歴史的定義を採用していたというだけの話であって、進化生物学一般において歴史的定義が「適応」のただ一つの正しい定義であると認められていることを別に意味しない。
また、これは批判集に対してではなく、かつだいぶ重箱の隅を突っつく指摘になるが、『生き物の進化ゲーム』における「性質が異なる個体間では、残す子の数の平均 ~ (中略) ~ が違う」という記述はやや不適切であるように見える。これがもし一腹や繁殖シーズンごとの子の平均について述べているのならば問題ないが、もし単にその個体が一生に産む子の数のことを言っているのであれば、「残す子の数の平均」と言う必要はなく、単に「残す子の数」と言えばよい。おそらくではあるが、この著者の頭の中には同じ遺伝的形質を持つ個体グループごとの平均があったのではないだろうか?しかしそうであるのならば「性質が異なる個体間では」という記述は不適切なのである。諸々を混同していたためにこのような記述になっているように私には見えた。
当書では「変異と適応によって進化する」と説明されるが、進化のトリガーとなる「変異」の多くは中立であり、適応的かどうかを問われない、自然選択による選別を受けない確率的なプロセスだ。
💜何を批判したいのか今一分からない。「進化のトリガーとなる「変異」の多くは中立であり、適応的かどうかを問われない、自然選択による選別を受けない確率的なプロセスだ」の部分は概ね正しいのだが、そうであったところで「変異と適応によって (適応) 進化する」という説明は特に否定されない。単に中立進化もあるよってことを言いたいのであれば、先ほども指摘したが太刀川氏はここまで明らかに適応進化について述べてきており、しかも批判集のここまでの文脈でも進化=適応進化として扱われてきたのに、それ今更言うか?という感じである。確かに進化=適応進化が厳密には誤りなのはそうだが、『進化思考』の主旨と中立進化は特に関係なく、一回指摘するならまだしも本筋と関係ないことをここまで繰り返す必要はないように思える (中立進化については既に一回指摘している)。
またこれは重箱の隅を突っつく指摘であるが、「適応的かどうかを問われない」という表現はおかしい。適応的かどうかは問われるものではない。適応的であるか、そうでないか、それだけの話である。
| 二つの思考の繰り返しから、創造的な発想が自然発生する。変異の思| 考では、🔻生物の進化に見られる変異のパターン🔻を学び、いつで
| もバカになれる偶発的な思考を手に入れる。🔷生物や発明には、あ
| る種の共通する変異パターンが存在している🔷。(p.59)
生物進化において、変異は意味のあるものからないものまで幅広く存在する。そこにパターンはない。そのパターンを学べると思っているところが完全に誤った進化の理解だ。長谷川眞理子氏の著作でも、
進化理論自体は、それほど難しい話ではないのですが、根本的な部分
でいくつか誤解されがちな点があるので注意が必要です。
まず一つ目の誤解は、自然淘汰が「目的を持って」働いていると考え
られやすいことです。🔻自然淘汰が働く大前提は、生き物に遺伝的
な変異があることですが、変異は環境とは無関係にランダムに生じま
す🔻。現れた変異がたまたま環境に適していて、生存や繁殖の上で
有利となる場合に自然淘汰が働き、その変異が継承されるのです。現
在では、変異は遺伝子の配列の変化によって生じることがわかってい
ますが、🔷すべての変異は偶然の産物なのです🔷。[18]
として、変異に共通のパターンがないことがきちんと説明されている。パターンがあるとしたらそれは変異ではなく、進化的制約、あるいは進化という現象そのものだろうだろう。
※本稿執筆者注:「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
💛何を言いたいのかよく分からない。「変異は意味のあるものからないものまで幅広く存在する」ことは「パターンはない」を含意しない。長谷川氏の文章を引用して「変異に共通のパターンがないことがきちんと説明されている」と言っているが、ここまで引用されている範囲では太刀川氏は「全ての変異に共通するパターンがある」などとは一言も言っていない。
また先ほども似たような指摘をしたが、もし林氏の云う「変異のパターン」というのが「時系列的な変異の発生パターン (次にどのような変異がくるか)」のことであるのであれば、確かに次にどのような変異が発生するかそのものは予測できない。しかし、太刀川氏はそんな話はしておらず、単に変異の類型的分類の話をしているだけのように見える。
| アレグザンダーの気持ちはよくわかる。なぜなら私は、創造という現| 象もまた、生物の進化と同じように、🔻適応に導かれて自然発生す
| る🔻と考えているからだ。(p.290)
ここまで解説してきた通り、自然選択による進化で得られる結果を「適応(的形質)」と呼ぶ。「適応」に導かれて進化は自然発生しない。進化生物学における「適応」の意味を理解できていない。
※本稿執筆者注:「🔻」挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。
💛繰り返すが、林氏が述べているのは適応の歴史的定義に過ぎず、非歴史的定義やプロセス的定義においては適応は適応進化の必要条件であり、ある形質が適応であるためにはそれが適応進化してきた結果である必要は特にない。
なお、創造という現象が適応に導かれて自然発生するかどうかについては、この辺は進化生物学というよりは認知心理学とかその辺の話になってくるだろう。
ここで挙げられた「適応」という単語の使い方はまさにWilliams『適応と自然選択』の冒頭に添えられた訳者注で指摘されている誤用そのものだ[3][4][5]。
💛ここでいう訳者注というのが、既にP.26で引用されていた「本書では、適応(adaptation)を自然選択を受けて発達した形質、すなわち進化の産物という意味で使っている。しかし、日本語の“適応”は、動詞の適応(していない状態から適応している状態へ変化すること)の意味合いが強いので、訳では適宜(的形質)を追加した。」(『適応と自然選択』, xxii) のことを言っているのであれば、少なくともこの部分を見る限りは、訳者は別に適応の誤用を指摘している訳ではない。ただ『適応と自然選択』においてWilliamsが用いている「適応」の意味と日本語でのそれには違いがあると言っているだけである。
また「ここで挙げられた「適応」という単語」というのは、直前に挙げられている (全体は長いので省略) 「状況に適応すること」(『進化思考』p.206) や「適応しようとしなければ」(『進化思考』p.437) といった太刀川氏の発言がそれに該当するのだが、確かにこういった目的志向的ニュアンスは生物学的には不適切であるものの、適応の意味そのものについては、これは非歴史的定義やプロセス的定義と解釈できるものであり特に問題はない。
当書における間違った進化理解の主要なポイントはここまで指摘した通りだが、本章では「変異」と「適応」の使い方以外にも見られるさまざまな間違った進化理解について指摘していく。
💜ここまで読んできた感想として、確かに太刀川氏の理解に全く問題がないかと言えばそうではないが、大筋としてそこまで問題があるようには私には見えなかった。少なくとも「適応」については林氏自身の不理解による誤った指摘がほとんどであり、また「変異」についても林氏は太刀川氏の意図を勘違いしているだけのように見える。とはいえ、仮にも博士号持ちの生物学者ですら読み違う内容であるのならば、一般人はさらに様々な解釈をする可能性があるので、単なる科学的記述の修正に加えて、太刀川氏独自の主張そのものについても誤解を受けやすい部分等に関して適宜修正を行った方が良いと思われる。
| あらためて創造性の正体を探求するために、自然のなかにある知的構| 造に目を向けてみよう。生物科学的な観点で脳のなかに宿る創造的な| 知性や、🔻種が生き残るための知的な習性🔻をひもといてみると、
| そこにはバカと秀才の構造との興味深い一致が見られた。(p.37)
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
「種が生き残るための知的な習性」とはなんだろうか。これまで多くの政治家や活動家たちによって誤用されてきた進化の用法そのものである[20]。「変化が早いものが勝者」「相手よりも早く進化したものが生き残る」「周囲のライバルよりも早く進化する」…これらの記述はいずれも『種の起原』を読んだアメリカの経営学者メギンソンによる「It is not the strongest of the species that survives, nor the most intelligent that survives. It is the one that is most adaptable to change. (生き残る種とは、最も強いものではない。最も賢いものでもない。変化に最もよく適応したものである。)」という誤った解釈を未だにダーウィンの言葉であると信じていることによるものと思われる。このメギンソンの誤った解釈については、2020年6月に自由民主党広報部による憲法改正の正当化キャンペーンとして4コマ漫画の中でも取り上げられ、日本人間行動進化学会から即座に『「ダーウィンの進化論」に関して流布する言説についての声明』が出されたことでも注目された[21]。この一連の内容については松永(2021)に詳しい[22]。いずれにせよ、2020年には既にこうしたメギンソン流の進化理解は進化生物学における進化理解とはまったく異なるものであるという声明が進化生物学分野から出され、複数のメディアでも取り上げられる事態となった[23][24][25]。「 科学的な客観性を備えた本にしよう」と述べた上でこのように誤った進化理解の記述を残したまま出版してしまうのは著者の不勉強と言わざるを得ない。
※本稿執筆者注:「🔻」挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。
💛「種が生き残るための知的な習性」という表現は群淘汰的な意味がちらつかなくもないが、単にその種の適応的形質について述べていると解釈すればそこまで問題はないのではないだろうか?「これまで多くの政治家や活動家たちによって誤用されてきた進化の用法そのもの」と林氏は言っているが別にメギンソンのそれは一意には読み取れない気がする。気がする、というか少なくとも引用されてる情報だけでは、そのようには私には読めない。文脈が今一分からないのではっきりしたことは言えないが。
また「未だにダーウィンの言葉であると信じていることによるものと思われる」に関しては、もし仮に太刀川氏がメギンソン流の解釈を正しいものとして理解していたとしても、そのことと太刀川氏がそれをダーウィンの言葉であると信じているか否かは特に関係ない。なぜダーウィンの言葉であると信じていることによるものと思うのか謎である。
「変化が早いものが勝者」「相手よりも早く進化したものが生き残る」「周囲のライバルよりも早く進化する」といった太刀川氏の主張に関してはメギンソン流の解釈が見えるのは確かである。しかしこれらの発言は全て人工物の創造に関する話であり、生物進化そのものについて語っているものではない。また言ってることを好意的に弱めたり修正してあげれば全くの誤りと言えるものでもないだろう。とはいえ、生物進化の厳密な様相とはいくらかズレがあるのは確かなので修正した方がよいと思われる。
なおメギンソンの主張は一般に批判されることが多いが、全くの誤りと言われるものでもないような気がする。上で引用されている通り、彼はmost adaptable to changeと言っており、単に変化すれば生き残れると言っている訳ではない。その点で件の自民党の漫画はそもそもメギンソンの主張からさらに外れたものなのである。
なお余談だが、『「ダーウィンの進化論」に関して流布する言説についての声明』[11] には、「これは「⾃然の状態」を、「あるべき状態だ」もしくは「望ましい状態だ」とする⾃然主義的誤謬と呼ばれる「間違い」です」という記述があり、こういった意味での「自然主義的誤謬」という用語の使用は一般にも多く見られるが、正確にはこれは誤用である。このような意味での自然主義的誤謬は正確には「自然に訴える論証 (appeal to nature) 」、より一般にはヒュームの法則やヒュームのギロチン、またはis-ought problemと呼ばれるものであって、本来の意味での自然主義的誤謬とは別物である。なお本来の意味でのそれはメタ倫理学においてムーアによって提唱されたものである。
| それにしても、考えれば考えるほど、🔻進化と創造は双子のように
| 似ている🔻。あまりにもそっくりなので、ダーウィニズムの登場か
| ら160年を経た今では、「製品が進化した」「組織を進化させる」の
| ように、「新しいモノが生まれたり改善されたりすること」の意味で
| 「進化」が使われているくらいだ。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
「それにしても、考えれば考えるほど、進化と創造は双子のように似ている。」とは、進化学徒が持つ「創造」という単語へのイメージは想像したことがないのだろうか? もちろん著者の言う「創造」がいわゆる聖書から生まれた「創造論」の「創造」とは異なるものであろうということはさすがにそうであってほしいと期待するが、この文はかなり進化学徒にケンカを売っている。もしその理由がわからないというのであれば『空飛ぶスパゲッティ・モンスター教』が生まれた背景を調べてみてほしい[26]
※本稿執筆者注:「🔻」挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。
💛一体林氏は何と闘っているのだろう。なぜ進化学徒がどういうイメージを持つかを想像しなければならないだろうか。そもそもここまでの話から「創造」というのが創造論のそれを指していないのは明らかだし、客観的に見てケンカなど特に売っていない。先ほども似たようなことを指摘したが、林氏は相手の主張の意図を読み取ろうとせずに、書いてある表面上の意味だけを見て反射的に「典型的な進化への誤解」という型に当てはめて批判する傾向が強いように見える。すなわち、「文章を評する」のではなくて、「文章を利用して自分が言いたいことを言っているだけ」のように見える。そしてそれは批評態度としては明らかに不適切である。またそういった批評態度の問題ではなく単なる読解力不足の問題であるならば、尚更評者として力不足だろう。
| 当初、🔻「進化」と「創造」を同じ意味で使うことは誤用だったは
| ず🔻だ。それがもはや何の違和感もない自然な表現として、世界中
| に広がってしまった。🔷ダーウィンが進化論を発表した当時でも、
| 人は「進化」ということばを聞いて、道具や社会の創造にも同じシス
| テムが働いていると考えたようだ🔷。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
また 、「 当初、「進化」と「創造」を同じ意味で使うことは誤用だったはずだ。」ともあるが、進化生物学の分野においては現在でも誤用である。日常的に用いられる「進化」という日本語に進歩史観が含まれていることを残念に思うが、それはそれとして、少なくとも進化生物学の分野でこの単語を用いるときに「新しいモノが生まれたり改善されたりすること」の意味で「進化」を使ったらそれは全く間違いであるという指摘を受ける。自己啓発本の中で進歩の意味で進化を使うのであれば別に何も言うことがないが(そんな本はたくさんありすぎるので)、「生物の進化」を謳いダーウィンの名前まで出してくる本の中でそれを誤用し、生物学的正しさを標榜した上で公教育への導入まで主張されれば、それは当然批判されるものだ。
※本稿執筆者注:「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
💜林氏には文章をよく読んでもらいたいのだが、太刀川氏は「「新しいモノが生まれたり改善されたりすること」の意味で「進化」が使われているくらいだ」や「それがもはや何の違和感もない自然な表現として、世界中に広がってしまった」というようにそのような用法に対してやや否定的な見方を取っている。またここまでの文脈から考えても太刀川氏が生物進化における「進化」を単に「新しいモノが生まれたり改善されたりすること」の意味で理解しているようには見えないし、少なくとも生物進化の文脈ではそのような単なる進歩の意味で「進化」とは言っていないように見える。なお部分的に単なる進歩の意味で「進化」と言ってしまっている部分もあるかもしれないが、太刀川氏は別に生物の専門家ではないのでミスすることはあるだろうし、文脈によっては大して問題ない場合もあるだろう。とはいえ、間違った部分や分かりづらい部分を訂正したほうが良いのは確かである。
さらに「ダーウィンが進化論を発表した当時でも、人は「進化」ということばを聞いて、道具や社会の創造にも同じシステムが働いていると考えたようだ。」とあるが、これは優生学の考えそのものである。社会のあり方にも進化の考えを無理やり応用しようとした試みが優生学であり、第二次世界大戦中に行われたホロコーストの論理的根拠とされた、誤った進化論理解そのものだ[27]。我々は歴史からその理解が完全に誤りであり、人類の大きな過ちであったことを強く認識しなければならない。
💛私はダーウィンの進化論が発表された当時の社会の反応について詳しくは知らないが、ここでの「道具や社会の創造にも同じシステムが働いていると考えた」を「優生学の考えそのもの」とするのは誤りだろう。前者は単に進化システムが働いているだろうという客観的事実についての思考に過ぎず、「社会においては自然選択が適切に働いていないので意図的に修正すべきである」というような意図的な介入を考える優生学とは話が違う。前者は後者の必要条件だが十分条件ではない。
先ほどから似たような指摘を何度もしているが、林氏は文章をよく読まずに、見えている単語から想起される「よくある間違い」を反射的に述べているだけのように見える。
| 🔻創造という知的現象もまた、それがヒトという生物によって自然
| に起こっているのだから、何らかの自然現象であるはずだ🔻。なら
| ば、進化論の構造を理解し、進化と創造の類似を探求することは、創
| 造という現象を知る大きな手がかりになるだろう。(p.46)
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
また、「創造という知的現象もまた、それがヒトという生物によって自然に起こっているのだから、何らかの自然現象であるはずだ。」とは何を言っているのか意味がわからない。当書では「~~だから or ~~だとすれば、~~であるはずだ。」という、特に根拠の示されない著者の仮定に対して特に根拠のない断言が続くことがとても多い。
※本稿執筆者注:「🔻」挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。
💛主張に納得できるかどうかは置いておいて、本当に何を言っているのか分からないのであれば、申し訳ないが単にそれは林氏の読解力不足ではないだろうか。「創造という知的現象もまた、それがヒトという生物によって自然に起こっているのだから、何らかの自然現象であるはずだ。」という主張は、「創造」という行為そのものは学習的行動ではないので (個々の具体的な創造をするためにはある程度学習経験が必要だが、創造という行為そのものは非学習的であるということ)、何らかの一定のメカニズムを持ったヒトの形質の一つであるということを言っているように思われる。
なお具体的にその「創造」を「進化」と絡めて理解することの妥当性についての議論がここでは抜けているが、類似が多少あるのは事実なので全くの見当違いというものでもないだろう。またあくまで創造活動の方法論として進化をアナロジー的に使うのであればそれほど厳密に議論する必要はないが、もし創造という思考現象に厳密な意味で進化的な性質があると言いたいのであれば認知科学的な観点から研究していく必要がある。
| 道具とは何か。それは🔻疑似的な進化🔻だ。道具はたいていの場
| 合、🔷それまでできなかったことを可能にするため🔷に発明され
| る。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
「疑似的」とつければ何を言ってもいいわけではない。道具が進化するか?という問いには「進化する」と答えてもいいだろう。たとえば、バイオリンの形態の進化に関する研究などがある[28]。
しかし、我々が「道具を使ってこれまでできなかったことができるようになる」ことを進化とは言わない。進化は、自然選択か遺伝的浮動によって、複数世代を通して結果として可視化される現象だからである。
※本稿執筆者注:「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
💜道具は「延長された表現型」のようにも見れるので、「道具を使ってこれまでできなかったことができるようになる」ことを「疑似的な進化」と見なすことにそこまで問題はないだろう。あくまで「疑似的」と言っているので。なお、一般に人間の道具に関しては個々の道具そのものが遺伝子型と対応している訳ではないので、人間の道具を延長された表現型と見なすことは厳密には誤りではある。
また「進化は、自然選択か遺伝的浮動によって、複数世代を通して結果として可視化される現象だからである」における「可視化」というのはよく分からない。何を視ることを言っているのだろうか。人間が認識しようがしまいが進化の存在・不存在には関係ないし、もし形質として顕現されることを言ってるのであればそれは形質としては特に現れない分子進化を無視している。
| 🔻卵の産卵数が多いほど生存可能性が上がる🔻のと同じく、大量の
| 変異的アイデアを短時間で生み出すスキルは、新しい可能性にたどり
| 着く確率を上げる。(p.59)
「卵の産卵数が多いほど生存可能性が上がる」、「 生物でも、たくさん卵を産めば生存確率が上がるように、ここでは数が重要となる。」(p.89)とあるが、生物では産卵数が多くても個体の生存可能性は上がらない。数で勝負する戦略なのでむしろ個体の生存可能性は下がるだろう。
※本稿執筆者注:「🔻」挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。
💛「大量の変異的アイデアを短時間で生み出すスキルは、新しい可能性にたどり着く確率を上げる」という文脈から推測するに、太刀川氏がここで言っている「生存可能性」というのは子一匹あたりの生存確率ではなく、親一匹に対して繁殖年齢まで生存する子数 (またはもっと一般的にある相対経時時間における生存子数) の期待値のことだろう。確かに表現としては不適切であるので訂正は必要だが、これくらいの意図は読み取って欲しいところである。
またそういった文脈以外にも、そもそも太刀川氏が述べているのは「卵の産卵数が多いほど生存可能性が上がる」というように即時的な因果関係についてであって、これは林が云う「数で勝負する戦略なのでむしろ個体の生存可能性は下がるだろう」という進化的戦略の話とは質の違う話である。そして普通、産卵数 (産子数) の増加が生存確率にプラスに寄与することはない (血縁利他行動の存在や被捕食選択率の低下などでプラスに寄与することもありうるが、太刀川氏がそういった込み入った話をしているようにはあまり見えない。また餌資源の有限性の観点からは生存率にマイナスに働きうる) ことも踏まえれば、太刀川氏が本来の意味での生存可能性ではなく、親一匹に対して繁殖年齢まで生存する子数 (またはもっと一般的にある相対経時時間における生存子数) の期待値について語っている可能性が高いのは普通に読み取れる。意図を読み取った上で敢えて表面上の瑕疵のみを指摘している可能性もなくはないが。
| 生物の進化は、魔法のようなデザインを生み出す。しかしそれは誰か| による設計ではなく、🔻自然発生する現象だと証明してみせたのが
| 『種の起源』という伝説的な本🔻だ。今を160年ほどさかのぼった
| 1859年に、🔷チャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ウォレスが
| 発表した驚異的な論文🔷である。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
『種の起原』はダーウィンの単著である。さらに、論文ではなく書籍だ。この点については、松井と伊藤による指摘のあとに著者による「それは誤植である」との主張があったが、以下に示す3ヶ所も含めると、全く同じ内容の間違いが4回も繰り返されている。
※本稿執筆者注:「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
単著かどうかについては特に否定しないが、書籍か否かについては一文目で「本だ」と言っているので単なるケアレスミスと見なして良いのではないだろうか?
それと一般に「論文」というと学問雑誌等における所謂「学術論文」を指す傾向があるが、そもそも「論文」の意味は「1. 論議する文。筋道を立てて述べた文。2. 学術的な研究の結果などを述べた文章」(デジタル大辞泉, [12]) であり、この場合は2の意味がより適切だが、ここには文章の発表形態に関する指定の意味は特に存在しない。したがって、太刀川氏がいわゆる学術論文を指して「論文」と言っていた訳でないのであれば特に問題はないだろうし、そういった意図抜きに単に客観的な結果として見た場合も太刀川氏の記述が間違っているとは別にならない。とはいえ、普通「論文」というと「学術論文」を想像する人が多いのは確かなので、誤解がないように訂正した方が良いかもしれない。
また、「自然発生する現象だと証明してみせたのが『種の起源』という伝説的な本だ」、「種の起源から分化を繰り返して自然に発生したことを論理的に証明した」とされているが、『種の起源』は進化を論理的に証明したものではない。現在見られる多様な生物がどのように生まれたのか、どう解釈すれば整合性のある理解ができるのか、膨大な資料と実例を元に説明を試みたもので、ダーウィン自身はその証明に参加していない(そもそも「証明」という単語が適切でないと思う)。たとえば『種の起原』第5章「変異の法則」では、大西洋に浮かぶ海洋島、マデイラ島に生息する甲虫類を例にダーウィンは以下のような説明をする。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
ここでダーウィンは、一年中強風に晒されるマデイラ島に生息する多くの甲 虫の翅が退化して飛べなくなっていることに注目する。その要因として、ヘタに飛べてしまう個体は風で飛ばされて海に落ちて死んでしまうからだろう、と考察しているにすぎない。ここでは仮説を述べているだけだ。そして、未だに我々はこの仮説よりも説明力のある解釈を提案できていない。ダーウィンのこの仮説を実証したのは誰か、といえば、たとえば最近発表されたニュージーランドに生息するカワゲラの仲間を対象にした研究などがそれにあたるだろう[31]。森林の残る地域ではもともとの翅が発達したカワゲラが生息しているが、森林伐採され地表面近くに風が強く吹く環境に変化してしまったところでは、翅があると吹き飛ばされてしまい死んでしまう。そのため、森林伐採によって環境が変化したこの数十年という短期間で翅が消失する方向に進化してしまった、という内容だ。これはダーウィンが提示した仮説を実証したものだと言っていいだろう。
💜カワゲラの研究を以って、ダーウィンの仮説が実証されたと林氏は述べているが、私にはとてもそうは思えない。カワゲラと甲虫類では体や羽の大きさや形態、行動様式などが異なるため、仮にカワゲラのそれが実証されたとしてもそれを甲虫類に簡単に適用できる訳ではない。また仮に甲虫類においても強風が翅の退化に寄与していることが正しかったとしても、強風で飛ばされて海に落ちて死ぬのではなく、適切な生息域から離されることによる餌不足や繁殖相手との遭遇率低下が繁殖成功率を下げている可能性もあるので、海に落ちて死ぬからというダーウィンの仮説が実証されたとは別に言えないだろう。(ここで引用されている以上の情報を林氏が持っていたのであれば問題ないかもしれないが)。
| 進化論で言えば、🔻古典的ダーウィニズムでは生存闘争というマイ
| ナスの適応関係の繰り返しによって自然選択が起こると言われてきた
| 🔻。しかし現在の進化論の観点では、生存競争による残酷な世界だ
| けが自然選択を引き起こすわけではなく、それとは対象的に生物同士
| が利他的に互いを支え合うプラスの共生関係も、また進化の重要な鍵
| だと考えられている。 進化論も進化し続けているのだ。(p.344)
これも著者の思い込みの先入観による勝手な引用だ。ダーウィンは生物の共生関係についても『種の起原』第三章「生存闘争」の中で以下の通り触れている。
私は〈生存闘争〉という言葉を、ある生物が他の生物に依存するとい
うことや、個体が生きていくことだけでなく子孫をのこすに成功する
こと(これはいっそう重要なことである)をふくませ、広義に、また
比喩的な意味に、もちいるということを、あらかじめいっておかねば
ならない。飢餓におそわれた二頭の食肉獣は、食物をえて生きるため
にたがいに闘争するといわれてよいことは、たしかである。しかし、
砂漠のへりに生育している一本の植物も、乾燥にたいして生活のため
の闘争をしているといわれる。だが、これは正しくいえば、湿度に依
存しているのである。年ごとに千粒の種子を生じ、平均してそのうち
一つだけが成熟する植物では、すでに地上をおおっている同種類また
は異種類の植物と闘争しているということが、前の場合よりもたしか
にいえるであろう。ヤドリギは、リンゴやそのほか数種類の樹木に依
存して生活しているが、しいていえば、これらの樹木と闘争している
ともいえる。おなじ木にヤドリギがあまり多く生育しすぎると、その
木はしおれて、枯れてしまうからである。しかしおなじ枝に密生した
ヤドリギの多くの芽ばえが、相互に闘争しているということは、いっ
そうたしかにいえるであろう。ヤドリギの種子は鳥によって散布され
るから、ヤドリギの存続は鳥に依存しているわけである。それゆえ比
喩的には、ヤドリギは果実をならせる他の植物と、他のものより多く
鳥をひきつけ果実をくわえて種子を散布させるために闘争していると
いうことができる。私は、🔷たがいにつうじるところのあるこれら
いろいろの意味で、便宜のために生存闘争という共有の言葉をもちい
る🔷のである。[32]
このように、ダーウィンは生存闘争という単語を用いながらも、それが字面 通りの闘争を示すだけでなく、さまざまな生物間相互作用を含めたものであることを『種の起原』の中できちんと説明している。
※本稿執筆者注:「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
💜林氏は「利他」という文字を読んでないのか、またはその意味を理解できないのかどちらなのだろう。太刀川氏は「生物同士が利他的に互いを支え合うプラスの共生関係」というように明らかに利他的関係について述べており、少なくとも引用されている範囲内ではダーウィンはプラスの共生関係については特に述べていない (鳥の種子散布に関しては確かに鳥と植物間にプラスの共生関係があるが、ここでのダーウィンの主題はそれではなく植物間の闘争である)。
| 進化の一つの前提は、完璧な生物は存在せず、🔻どんなものでもさ
| らに良くできる🔻、ということだ。(p.60)
やはりここでも「さらに良くできる」という、進歩史観を前提としている。「進化」の誤った用法そのものだ。
※本稿執筆者注:「🔻」挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。
💛「さらに良くできる」というのは別に進歩史観を含意しない。本当にほとほと疲れてきたが、林氏の批判には彼の文章読解力不足による不適当なものが多過ぎる。林氏はおそらく「可能性」と「目的・意志」と「可能性の唯一性」を混同している。
なお一応「どんなものでもさらに良くできる」という全称命題について突っ込むならば一理あるが、環境変動への対応可能性のことを言っているのならば別にそこまでおかしくはないだろう。また固定的な環境を考えたときも、ある形質に関与する遺伝子をどの範囲まで取るかは恣意な訳なので、いわゆる進化的安定戦略においても何らかの点で良くなる可能性が全くのゼロとは別に言い切れない気がする。
ただ「進化の一つの前提」という太刀川氏の表現も不適切であり、正しくは「進化の前提」ではなくて「進化 (理論) から導かれること」である。一応「進化理論を考える上で前提とすべき (考慮すべき) 事実」という意味であれば、前提の話でも良いような気もするかもしれないが、「どんなものでもさらに良くできる」という全称命題は進化論抜きに証明されているものではないので不適切である。あくまでそういった例がいくらか見られているというだけであるので。
| 事実として人類史が始まって現在まで、完璧な道具が一度たりとも発| 明されたことはない。🔻これは地球史上に完璧な生物が存在しない
| ことと、 まったく同じことだ🔻。すべてのものは変わり続けている
| し、まだ、見つかっていない他の方法はいくらでもある。(p.69)
この文からも、「完璧な」という実に主観的な評価が生物にも応用しうるのだと考えていることが強く伺える。そもそも進化の過程で生まれてきた生物と、人間が作成する道具を同列に語る必要がないし、そのように並べるべきではない。
※本稿執筆者注:「🔻」挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。
💛「完璧な」というのは別に主観的な評価とは限らないだろう。確かに「どの観点で完璧か」などの具体的意味が曖昧なので表現に何も問題がないかと言えばそうではないが、文脈から考えるにここで太刀川氏が言っている「完璧」というのは単に「変わり続ける余地がない」程度の意味であるように思われる。また道具も文化進化する訳なので、生物と道具を同列に語ることが全く誤りであるかのような主張もおかしい。
なお、p.132で松井氏が「最適をめざすのであって最適であるわけではない。進化は完璧な生物を産まないというのは当書の指摘する通り」と述べているが、「完璧」という表現を生物に使うことに否定的であるならば、松井氏の発言にも突っ込むべきだろう。本書は一応執筆者3人で相互チェックしているらしいが (p.11)、読み落としていたのか、読んだけど問題だと感じなかったのか、または問題だと感じたけどスルーしたのか、どれなのだろう。いずれにしても一冊の本として一貫性がない。
さらに、眼状紋の機能についてはアフリカで行われたユニー クな研究が知られている[35]。アフリカではライオンが家畜であるウシを頻繁に襲う。そこで、ウシのお尻に眼状紋を描いて放牧したところ、ライオンによる被害が劇的に低下したことが報告されている。また、漁業で用いる刺し網の目印にするブイに、目玉模様のある風船をつけることで、海鳥の混獲が減少したという報告も知られている[36]。このように眼状紋自体が対捕食者効果を持つため、フクロウチョウが実際にフクロウをモデルにしているのかどうかは未だに議論が続いているところである(肯定的な研究もあるが[37]、かなり強引にこじつけた解釈で、眼状紋自体が持つ対捕食者効果の方が強いのではないかと評者は考えている)。
💛「眼状紋自体が対捕食者効果を持つ」というのがよく分からない。顔を模したような配列でなくとも、効果があるということを言いたいのだろうか?しかし、ライオンと海鳥の例だけを以って「眼状紋自体が対捕食者効果を持つ」というように眼状紋が普遍的に対捕食者効果を持つかのように語るのはおかしいだろう。
そういう訳で、挙げられている論文 (批判集における[35][36]) をざっと見たが、そこでは眼状紋は顔を模したように配列されている (一つだけだったり、二つ以上が非水平的に配列されている訳ではない) ので[13][14]、チョウ類の眼状紋がフクロウの顔を模している可能性の否定には大してなっていない。だが林氏の主張を見るに、彼はライオンと海鳥の例だけを以って「顔を模したような眼状紋配列には対捕食者効果が普遍的に存在する」と結論を出し、またその対捕食者効果はチョウ類においてフクロウの顔を模すことによる効果とは全く別物であると考えているように見える。もしそうであるならば、まず「顔を模したような眼状紋配列には対捕食者効果が普遍的に存在する」という結論を出すことは明らかに誤りであるし、そして大して根拠もないのにそのような対捕食者効果一般とフクロウへの擬態に関係がないと見做すことにも無理がある。もしライオンと海鳥が顔を模した眼状紋配列に何らかの生態的意味を感じて忌避しているならば、それとチョウ類の眼状紋をフクロウの目と誤認して忌避することは関係し得るだろう。そしてライオンと海鳥において特に生態的意味はないけど顔を模した眼状紋配列をなぜか忌避しているという可能性は低いだろう。顔を模した配列でない眼状紋による実験なのであれば、百歩譲って林氏の主張も分からなくはないが (ただその場合も眼状紋単体が「眼」と似たものと認識されているかどうかは結局不明) 、少なくともこのライオンと海鳥の研究はそういうものではない。
また具体的にフクロウをモデルとして進化したのか否かについて引っ掛かっているのだとしたら、少なくともライオンや海鳥の例を以ってそれを否定することは別にできないだろう。例えば「顔を模した眼状紋配列を顔一般と認識することで忌避反応が生じており、具体的にフクロウの顔である訳ではない」と林氏が考えている可能性はあるが、ライオンや海鳥においても何らかの特定の生物種・生物グループが忌避反応に関係している可能性は十分にある。確かにフクロウのみをモデルとしているかどうかは微妙ではあるが、フクロウを一部モデルとしているという程度であれば、それはここでのライオンや海鳥の例で否定され切るものではない。なおあまり突っ込むとめんどい議論になってくるが、顔を模した眼状紋配列がどの生物種・生物グループへの忌避反応に主に対応して進化してきたのかと、進化の結果としてどの生物種・生物グループへの忌避反応を引き起こしているかは異なる話である。ある特定の生物種・生物グループへの忌避反応を誘発することが適応的なために初め進化してきたとしても、結果として途中からその眼状紋がそれ以外の生物種・生物グループへの忌避反応をも誘発する可能性はありうる。したがって、フクロウチョウの眼状紋が進化の経緯的に主にフクロウをモデルとして進化したものであるかどうかは、単に現在の機能を見るだけでは分からないような問題なのである。また複数種に関する忌避反応を誘発するとしても、その効果の程度というのも様々である可能性があり、そういった点でもどの種を主にモデルとして進化してきたかというのは複雑な問題と言える。
ここまで解説してきたとおり、ダーウィンの『種の起原』、リンネの『自然の体系』やウィルソンの『社会生物学』など、この著者は本に書かれてもいない内容を勝手に都合よく捏造して引用することに注意しなければならない。当書では生物学分野において正当な引用はないと言っていい。
💛「捏造して引用」ではなく、「本を読んだものの引用せずに誤解釈」ではないか?林氏の云う「捏造して引用」では、太刀川氏が本の文章を改変して、その改変後の文章がそのまま元の本に書いてあったかのように引用していることになってしまう。なお、以上は「人の言葉や文章を、自分の話や文の中に引いて用いること」 (デジタル大辞泉, [15]) という本来の意味での「引用」に基づく指摘であるが、内容の紹介という広義の「引用」に拠るならば「捏造して引用」という表現も妥当にはなりうる。しかし、そもそも「捏造」というのは意図的な事実改変を意味し、太刀川氏が意図的に事実改変していることは引用されている範囲内では特に読み取れないので、やはり「捏造して引用」という表現は不適切だろう。(なお既に指摘したが、林氏は少なくとも二つの引用部分において、特に断りなく勝手に下線を引くという改変行為をしている。もちろんこれは引用におけるルール違反である。改変の質が上の話とはやや違うが、引用のあれこれについて人を批判できる立場なのだろうかと思う)。
また「当書では生物学分野において正当な引用はないと言っていい」というのはあまりにも言い過ぎであり、もし本当に正当な引用が一切存在しないと思うのならばそれは林氏の深刻な文章読解力不足であり、そうではなく単に誇張して言っているのだとしたらそれは研究者としての倫理観が疑われるような不適切行為である。実際のところはおそらく「正当な引用はほとんどない」程度のことを言いたかったのだろうが、そこで「ほとんど」で抑えられずに「全て」という意味で言ってしまうという、客観性よりも自己の感情を優先した発言をしてしまう者は研究者としての信用を大きく失うだろう。なお敢えて誇張して言うことで一般人が『進化思考』を読む上でできるだけ文章を鵜呑みにすることを防ぎたいという意図があったという弁明も予想されるが、そうであるならばそういう意図を多少を書いた方が良い気がするし、これはあくまで私の主観だが彼にそういう明確な意図があったようにはあまり思えない (なぜなら「太刀川氏が進化をよく理解していないことにしたい」という認知バイアスがかかっているかのように感じられる批判がここまで山ほどあったからである)。
| 🔻もし進化が自然発生しているなら、デザインやアートなどの創造
| 性もまた、自然発生する現象と考えられる🔻のではないか。だとす
| れば、創造性を発揮する仕事が、偉大な天才だけに可能だと諦めがち
| な私たちにとって、これこそ大いなる福音となるだろう。
〔中略〕
| 🔷ダーウィンが言う通り、変異と適応が繰り返されれば、そこに誰
| かの意図がなくても、進化は自然発生する。それと同じように、変異
| と適応の往復によって、私たちは創造性を発生させられるという考え
| 方が、進化思考だ🔷。(p.276)
ここでも「もし進化が自然発生しているなら、デザインやアートなどの創造性もまた、自然発生する現象と考えられる」と何の根拠もなく自説が展開される。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
しかし、ここまで説明してきた通り、ダーウィンはそんなことを主張していない。変異と適応の繰り返しで進化は起こらない。Williams『適応と自然選択』や長谷川眞理子『ダーウィン 種の起源. 100分de名著』でも繰り返し説明されている通り、「適応(的形質)」は進化の結果であり、進化の原動力ではないからだ。
※本稿執筆者注:「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
💜「「もし進化が自然発生しているなら、デザインやアートなどの創造性もまた、自然発生する現象と考えられる」と何の根拠もなく自説が展開される」については、確かに「進化が自然発生している」ことは「デザインやアートなどの創造性もまた、自然発生する現象」であることを特に含意しないので論理構造としては不適切である。一方、進化と創造性にある程度類似性が見られることから創造性をも自然発生する現象として捉えようとする見方そのものは全く見当外れと断定できるものでもないだろう。
また「変異と適応の繰り返しで進化は起こらない」「「適応(的形質)」は進化の結果であり、進化の原動力ではないからだ」に関しては、本当に繰り返しになるが、それは適応の歴史的定義における話に過ぎず、非歴史的定義とプロセス的定義においては適応は適応進化の必要条件である。
| ではもし生物が進化に呼応して、本能的な欲求を進化させたのだとし
| たら、人間だけでなく他の生物種とのあいだにも同じ欲求が自然発生
| していることになる。(p.293)
まったく意味がわからないのだが、これは用不用のことを言っているのだろうか? ダーウィンの『種の起原』はまだ用不用の考えが完全に否定されていない時代の本なので用不用の記述が一部残っているが、現代の進化理解にこのような考えを持ち込むのはまったく筋違いである。
先ほども述べたが、当書ではこの文章のように「もし~~~だとしたら」という著者の仮定・仮説に対して「~~~であるはずだ。」という断言が来ることが非常に多い。そして、その仮説の根拠が示されることは決してない。著者の思い込みが出発点なので、結論もまた思い込みによる断言にしかなっていないものばかりである。
太刀川氏は単に本能的な欲求が適応進化したものであるならば、同様の適応的意義を持つ欲求は種間に渡って同じ欲求と見なすことができるということを言っているだけではないだろうか?「進化に呼応して」の意味が曖昧なのはそうだが、「適応進化の過程で」などというように読んでやれば、上で説明したように読むことは可能である。少なくとも用不用ではない気がする。用不用を言いたいならば「進化に呼応」ではなくて「必要性 (or目的) に呼応」などと表現するはずである。
なお厳密に同じものと見なせるかどうかは微妙で、もし系統的に過去から共有されてきたものであるならばある程度同じものであると見做せるかもしれないが、そうでないならば単なる相似と見なすのが妥当であるように思われる。しかし「欲求」を「生理的・心理的状態に応じた何らかの行動を促す精神作用」といったように機能的に定義するならば、細かいメカニズムは欲求の同一性にそこまで重要ではないかもしれない。
| 「欲求の系統樹」の思考は、私たちが自分ごとのように自然を理解
| し、自然との共生のために不可欠な視点を持ち得るものだ。たとえ
| ば、私たちは🔻ペットに対して慈しみの愛情を感じる🔻が、これは
| 自分とペットに共通する欲求による共感的な感情と考えられる。
何を言いたいのかがまったくわからない。著者はペットに対して慈しみの愛情を感じるのかもしれないが、みんながみんなペットを飼っているわけでもない。個人的な感情を勝手に普遍的なものとしてとりあげるばかりで生物進化に何一つ関係がない。
※本稿執筆者注:「🔻」挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。
人間が他生物種に対して慈しみの感情を持つ傾向にあるのは、その生物種と共通する欲求を介して共感的感情が生まれているからというのは誤りであると思うが、ペットを例示することそのものについては特に問題ないだろう (なお他生物種の赤ちゃんに対する人間の庇護欲はその動物の親のそれと似たものである可能性はあるが、これは別にその動物の親と共感しているからではないだろう)。林氏は「みんながみんなペットを飼っているわけでもない」と言っているが、人間が他生物種に対して慈しみの感情を持つことは一般的な傾向として十分認められることであり、それが顕著なペットを例示したというだけの話であろう。
| 🔻有性生殖の生物はすべて「モテたい」で共感できる🔻し、哺乳類
| はすべて「一人ひとりの未熟な子どもを大切に可愛がりたい」で共感
| できる。だからこそ、こうした視点で自然界の生態系を見直すことで
| 私たちはペットなどに共感できるように、🔷人間以外の種の「気持
| ち」を理解🔷し、共感関係を結ぶことができないだろうか。(p.295)
有性生殖の生物は繁殖のため、自らの遺伝子を残すために異性を獲得しようとはするだろうが、それを「モテたい」と表現するのはあまりに擬人化が過ぎる。このように擬人化された視点で自然界の生態系など見直すことができるはずもない。また「人間以外の種の「気持ち」」とはなんだろうか。生物多様性保全のアプローチに共感関係は不要だ。生態学の教育を受けていない方々からの外来生物の駆除事業に対する「かわいそう」という声も少なくない。このような安易かつ無責任な擬人化はむしろノイズにさえなるだろう。
※本稿執筆者注:「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
💜「モテたい」という表現に何も問題がないかと言えばそうではないと思うが、別に「擬人化が過ぎる」と言うほどのことでもないだろう。
また「このように擬人化された視点で自然界の生態系など見直すことができるはずもない」とのことだが、これも別にそうでもないだろう。人類はこれまで長い間、人間以外は高度な知性を持たず、他の生物は反射的・機械的に行動しているだけという考え方を保持してきたが、昨今そういった考え方が誤りであることが分かってきている (例えば魚類であるホンソメワケベラが意識を持つ可能性が示唆されている[16])。そういった観点で生態系を見直すことそのものは当たり前だが可能であるし、それに全く価値がないということもないだろう。
また「生物多様性保全のアプローチに共感関係は不要だ」とのことだが、なぜいきなり生物多様性保全の話が出てきたのかよく分からない。引用外の部分で太刀川氏がそれについて語っているのだろうか?もしそうであるならばそれが分かるように引用すべきである。また「安易かつ無責任な擬人化はむしろノイズにさえなる」とも言っているが、そういったマイナス面だけでなくプラス面があることも無視できないだろう。共感的感情が生物多様性保全に必要であると一意には言えないが、実際のところ共感的感情に起因している部分もあるのは確かである。
| たとえば、🔻ギガンテウスオオツノジカは、50キログラムにもなる
| 重さの角を持っていたが、その角の形成にカルシウムを消費しすぎ
| て、 7700年前に絶滅したといわれている。また、ユミハシハワイミ
| ツスイという鳥は、特定の花に合わせて、とても長いくちばしを発達
| させたが、その花の生息地が消滅したと同時に絶滅してしまった。こ
| うした行き過ぎた進化は、現在の進化生物学ではランナウェイ現象と
| 呼ばれている🔻。(p 326)
ギガンテウスオオツノジカの絶滅に関する記述は明確に誤りだ。もし、その角が原因で絶滅するようならそのような形質はそもそも進化しない。
※本稿執筆者注:「🔻」挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。
💛「もし、その角が原因で絶滅するようならそのような形質はそもそも進化しない」という林氏の主張は誤りである。ある特定の環境において適応的だった形質がその後の環境の変化で非適応的となる可能性はありうる。これは性選択に限らず自然選択においても同様である。また環境の変化が絡まなくとも、進化的自殺 (evolutionary suicide) においては後に集団の絶滅に絡む形質が進化しうるとされている。
Anderssonは、一部のオスの尾羽を切り取り、別のオスに接着剤で取り付けさらに長い尾羽のオスを人為的に作り出した。その結果、尾羽を切られたオスの繁殖成功は下がる一方、余計に長い尾羽を手に入れたオスは通常の長さの尾羽を持つオスたちよりもさらに高い繁殖成功を示した。このように、自然下では長すぎてかえって邪魔になり存在しないレベルの尾羽に高い繁殖成功が見られたことは、メスが尾羽の長い個体を選ぶという性選択の効果が示されたものだ。
💛重箱の隅を突っつく指摘になるが、「メスが尾羽の長い個体を選ぶという性選択の効果が示された」という記述は誤りである。「メスが尾羽の長い個体を選ぶという”配偶者選択 (または選好性)”の効果が示された」または「メスが尾羽の長い個体を選ぶことを通じた性選択の可能性が示された」が正しい。「性選択」は繁殖機会を巡る競争を通じて生じる選択 (selection) のことであり、配偶相手を選択 (choice) することを意味する訳ではない。また配偶者選択は性選択という進化プロセスの一要素であって、性選択の部分集合 (サブセット) ではない。
| 地球史に登場した一〇〇〇万種類の生物のなかで、🔻人間だけが膨
| 大な道具を発明できたのは、人類のみが言語を発明できた🔻からで
| はないか。デザインと言語の類似性を研究していた私にとって、この
| 仮説は深く腹落ちする。(p.79)
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
また、「人間だけが膨大な道具を発明できた」というのは間違いだ。道具を使う生物は人間以外にもいる。Animal Tool Use(動物の道具利用)というテーマで一つの学問分野があるくらいだ。また、「人類のみが言語を発明できた」も誤りだ。シジュウカラの鳴き声には文法があることが最近明らかにされているし、その文法を異種間でも共有して理解しているようだ、という研究成果が日本から発表されている[53]。
※本稿執筆者注:「🔻」挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。
💜道具を使用する生物が人間以外にも存在するのは確かだが、”膨大な”道具を発明できたのは人間だけだろう。何も問題はない。林氏は本当に文章をよく読んだ方がいい。
またデザインと言語の類似性云々に関しては、個人的にはデザイン (創造性) と進化の類似性以上に隔たりがあると思うが、言語が人間における道具の発明に関係していることそのものは確かだろう。なお、「人間だけが膨大な道具を発明できたのは、人類のみが言語を発明できたから」に対してシジュウカラの囀りの話を持ってくるのはやや不適当である。確かに鳥類の囀りと人間の言語の類似性についての研究は存在するが、鳥類のそれは結局人間の言語とは大きく異なる。なぜなら学習によって際限なく語彙を増やすこともできないし、記号と指示対象の結合を自由に行うこともできないし、文構造を自由に拡張することもできないからだ。確かに「言語」の定義によっては鳥類等のそれも言語に該当しうるが、少なくとも膨大な道具の発明に必要な程度の高度な言語を発達させたのは現状人間のみである。
| 生物の解剖と家庭科の料理の材料を並べる思考プロセスは同じだ。
| (p.212)
著者は生物の解剖も料理もしたことがないのではないだろうか。両者はまったく異なるものだ。料理は並べた材料を組み合わせ、処理して一つの目的物を作成していくプロセスだが、生物の解剖は切り分けてそれぞれの部位を観察、場合によっては標本として固定していくプロセスである。これを同じと考える人は多くないだろう。
なぜ料理で例えようと思ったのか、また具体的にどのように同一なのかの文脈が今一分からないが、少なくとも引用範囲を見る限りでは、太刀川氏は「料理の材料を並べる思考プロセス」と言っており、それは林氏の云う「料理は並べた材料を組み合わせ、処理して一つの目的物を作成していくプロセス」とは別物である。「並べる」とだけ言っているところに、なぜ「組み合わせ、処理して一つの目的物を作成していく」ことを足したのだろう。見えた単語から適当に意味を想像するのではなく、文章全体をよく読んで欲しい。
当書のような根拠薄弱な思い込みによって教育に口を出し、ここまで解説してきた通り完全に間違った進化の理解を広められることに生物学者として強い危機感を覚える。
💛ここまで批判集を読んできたが、部分的な誤りはそれなりに存在するものの、太刀川氏の進化への理解が完全に間違っているとは特に思わなかった。何度も指摘した通り林氏は「適応」についてよく理解していないし、「変異」についても太刀川氏の主張を読み取れていないだけのように見える。また他にも生物学的・論理的・読解的に誤った記述が多く見られ、こういった誤りの量・質は批判本において一般に許容されるそれを優に超えている。しかもこの第二章は批判集の中でも特に生物進化について詳説するパートであり、そうであるのにこの誤りの多さとなれば、残念ながらその目的は十分に果たせていないと言ってよいだろう。
またここで自身で言っているように林氏は博士号持ちの生物学者であり、それとデザイナーが書いたビジネス本を批判するという文脈も踏まえると、林氏が述べていることを無批判に受け入れてしまう人は多いだろう。だからこそそういった批判本の作成には高い正確性が求められるのである。批判集を読んで納得したつもりになってしまった人が本稿を読んでその妥当性を再検討していただければ幸いである。
また、著者は松井と伊藤(2022)による批判が公開されたあとも、指摘された間違いを修正することなくセミナーを開催して高額の参加費を徴収しているようだ。このような科学的な誤りに満ちた内容をセミナーやメディアを通して拡散し続けるとして続けるのは似非科学を用いた詐欺的商法であると批判されても仕方のないことだろう。
💛一応ここで述べられている「『進化思考』批判–文化進化学と生物学の観点からの書評と改訂案–」[17]を確認したが、そこで言われている指摘の大体は本稿で無効化されている (ヒューマンエラーの分類については適切な指摘だと思うが、これは別に太刀川氏の主旨を大きく否定するものではない)。またそもそも林氏はセミナーの内容を確認したのだろうか?もし特に内容を確認せずに、「進化思考」のセミナーを開いているということだけを以って「間違いを修正することなくセミナーを開催して」と言っているのであれば、それはだいぶ問題があるだろう。
また先ほど進化思考関連の経緯をいろいろ調べていたところ、『進化思考』を批判する林氏のブログ記事「『進化思考』における間違った進化理解の解説」[18] (この第二章はこのブログ記事を加筆修正したものであると思われる) に関して太刀川氏に「とある心優しい進化生物学者」からコメントが来ていたことを確認したが[19]、そこでは以下のように「適応」の定義について本稿で指摘したこととほぼ同様の指摘がされている。
本書の一番の問題は、扱いが難しい「適応」という単語をその場その場で都合よくいいかげんに使用していて、進化生物学における「適応」の意味で使われていないところです(このことは後述します)。本書における「適応」を「選択」と読み替えればそれなりに読めないことはないのですが(それでも間違っているけど)、この単語のブレブレ具合が本書の進化理解の致命的なところです。
>>> 適応と言う概念は、進化学的には難しい概念であることはそのとおりです。ただ、批判者、適応を結果としてとらえる定義(それは間違いではありません)を採用しているので、プロセスとしてとらえる定義を採用していません。以下は、外国で使われている進化の教科書での定義です
集団における遺伝的変化のプロセスで、自然選択の結果、集団が何らかの環境に適した状態になったと考えられること。
(Futuyma, D. & Kirkpatrick, M. Evolution (forth edition). Oxford University Press, 2018).
とあります、この定義だと遺伝的変異が自然選択によって集団中に広がっていくプロセスを適応としています。この定義だと「変異と適応」でも必ずしも間違いとはいえません
※本稿執筆者注:第一段落は林氏のブログから引用したもの。それ以降の「>>>」に続く部分が「とある進化生物学者」による指摘
そしてそのコメント集を確認した趣旨の発言を彼は以下のようにX (旧twitter) にて行っているが [20]、その1年以上後に出版された批判集において「適応」に関する彼の主張は一切変えられていない。
進化思考著者のSPAMメッセージによれば国立大進化生物学教授らしいのですが、査読のレベルに達してません。僕に誤解があると勝手に読み取られていますが、こちらの解釈では「オレサマ定義をどこかに書いておけば問題ない」としかフォローできておらず、僕の指摘への反論になっていないと考えます。 pic.twitter.com/DIHvVqPnem
— かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所 (@kamefuji) July 30, 2022
私にはどう考えても林氏に誤りがあるように見えるのだが、彼は自分の主張は間違っていないと考えているのだろうか?彼は誤りを指摘したのに訂正せずに有料セミナーを行うことを詐欺的商法と言っているが、それで詐欺的商法と言われるならば、私からすれば林氏も同様に「詐欺的商法」をしているように見える。自らの主張の誤りを訂正せずに、それを「当書の最大の誤り」(p.26) など含め、多くの箇所で繰り返し誤りであると述べる本を出版している (ように少なくとも私からは見える) からである (一応林氏はゲスト参加的な立ち位置ではあるが)。また適応の定義以外にも私には十分に納得できる指摘が「とある進化生物学者のコメント」にはいくつも存在するが、それらに関しても訂正されていないものが多い (例えば、p.40の優生学云々に関して本稿で行ったものと同様の指摘がされているのに、その後の批判集において松井氏の主張は一切変わっていない)。
なお「適応」の定義云々については、松井氏と伊藤氏も同様に自身に不都合な情報を見て見ぬふりしている可能性がある。詳しくは本稿最後の「終わりに」を参照。
この調子で一つ一つの事例について指摘していくと本当にキリがないのだが、
• 「変異」になんらかのパターンがあると考えている
• 「適応」を「選択(または淘汰)」の意味で使っていることが多く、場
面によって意味がバラバラ
• 「進化」なのに「遺伝」のプロセスがまるまる抜け落ちている
• 「進化」と「進歩」の区別がついていない
というところが当書の「進化」の理解に関する主な問題点である。
💛これらについては既に上で反論してきたが、改めて説明する。
一つ目の「「変異」になんらかのパターンがあると考えている」に関しては、変異の類型的パターンは存在するし、林氏がもし時系列的な発生パターン (次にどのような変異が発生するか) に関して言っているのであれば、それは太刀川氏の主張を読み違っているように思われる。
二つ目の「「適応」を「選択(または淘汰)」の意味で使っていることが多く、場面によって意味がバラバラ」に関しては、既に何回も指摘したが、林氏が「適応」の定義として歴史的定義の一つしか知らないことによるものであり、非歴史的定義やプロセス的定義を取るならば太刀川氏の主張に特に問題はない。
三つ目の「「進化」なのに「遺伝」のプロセスがまるまる抜け落ちている」ということに関しては、太刀川氏の文章を読めば彼が遺伝のプロセスを全く理解していないとは言えないことは容易に分かる。林氏がただ「変異×適応」という表面的な表現に捉われているだけである。なお太刀川氏が「変異×適応」という表現を使っているのは、「進化思考」という行為論において遺伝という土台的前提の重要性が相対的に低いため、説明の分かりやすさを重視した結果の省きであると思われる。
四つ目の「「進化」と「進歩」の区別がついていない」に関しては、これも林氏の勘違いであり、太刀川氏は進化と進歩の区別は一応ついているように思われる (とはいえ一部怪しい部分があったり、また表現的に誤解を招きかねない部分があるのは確かなのでその辺は訂正することが望ましい)。
以上のように林氏の主な指摘はどれも不適切性をもつ。
| 私たちはだれしもさまざまな経験を積み重ねるなかで、徐々に固定観
| 念を積み重ねていく。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
| 創造的であるには、世の中に張り巡らされている見えない本質を観察
| して、自分だけの思い込みを外す方法を培う必要がある。(p.207)
ここに書かれたように、著者が積み重ねてきた進化に関する固定観念を見直 し、「自分だけの思い込みを外す」ために進化生物学をきちんと学びなおしてほしいと切に願う。学生時代を終えてしまい、なんだかんだと忙しい立場の学び直しには、本稿でも紹介した放送大学の「生物の進化と多様化の科学」の受講をお勧めしたい。普通の大学の講義であれば1コマ90分だが、放送大学ではなんと1コマ45分という半分の時間によく練られた講義が用意されている。動画での受講なので1.5倍速再生でもストレスなく聞くことができる。短時間で学び直しを目指すには最高の教材であると自信をもってお勧めする。
ここまで指摘してきた通り、林氏も生物学に関して理解していないことが多くあるので、彼も学び直した方が良いと私は思う。
| 本当に創造的な人は、より良い方法があれば自分のアイデアを即座に
| 捨て去り、他者のアイデアであっても躊躇なく採用する。こうした創
| 造的成長は、適応の判断に客観的自信を持てるかと、変異的思考によ
| って代案をすぐ出せる自信を持てるかにかかっている。(pp.72-73)
「この本が生物学的に矛盾がないことはとても大事」[11]という著者のコメントには強く同意する。しかし、本稿で解説してきた通り当書に書かれている「進化」は生物学における進化とは全く異なる「太刀川進化」とでも表現すべき特殊概念である(よくある誤解ともいう)。「今西進化論」や「千島学説」など、これまでも提唱者の名前を冠した主張はある。そこで、当書における進化を「太刀川進化」、変異を「太刀川変異」、適応を「太刀川適応」とし、生物学とは全く異なり矛盾もしない新たな概念『太刀川思考』として提唱するのが最適な改訂方法ではないかと代案を提案して本稿の結びとしたい。
💛よくここまで馬鹿にできるなと思う。ここまで指摘して来た通り林氏の指摘には、進化に関する不理解・論理の誤り・文章読解力不足に基づく不適切なものが多く含まれる。また既に似たようなことを指摘したが、林氏がここで「よくある誤解」と言っているように、彼は太刀川氏の主張を読み取ろうとする努力をせずに、表面的な言葉だけを拾って、太刀川氏を「典型的な進化への不理解」の型に当てはめている節が強いように見える。そしてそれは研究者が持つべき姿勢とは真逆のものである。
なお、今直近で引用した二つの林氏の文章は「以上、ここまで『進化思考』の進化理解について間違っているところを指摘し解説してきたが、本文中にいくつかいいことを言ってるところがないわけでもないので、最後にその部分を紹介したい」(p.62) という非常に皮肉的な文章から始まっている。これを見ても林氏がどのような目的でこの論稿を書いたのか色々察しがつくものである。そして少なくともそれが「対話」ではないことは確かであろう。(後半は林氏への人批判が多くなってしまったが、あまりにも彼の態度が酷かったので敢えてそういう批判をした)。
3 山本七平賞選評を読む (伊藤 潤)
私は、生物の進化という現象を研究する進化生物学者の一人である。
本書の著者は、そのような進化生物学者ではない。つまり本書は、題
名から思い浮かぶものとは違って、進化生物学の書そのものではない
のだ。そうではなくて、著者が著者なりに「進化」という現象の意味
を理解し、その本質を抽出して、それを、人間が生み出す技術の発展
やイノベーションの創成に応用しようとした考察である。
人間は生物であり、生物は進化の産物である。生物が見せる現象のす
べてには進化が関わっている。だから私は、人間がやることのすべ
て、つまり、人間の社会の仕組みも個人の意思決定も文化の変遷も、
すべては、進化的思考で解析する余地があると考えている。経済学
も、社会学も、法学も、文学も、進化で分析してみてわかることはた
くさんあるにちがいないのだ。実際、そのような進化◎◎学という新
分野は、今やどんどん創設されている。
本書は、そのような試みの一つではあるのだが、そこにとどまらない
ところがユニークである。技術的、芸術的創作という人間の活動が、
進化に照らしてどのように解釈できるか、というのは基本であるのだ
が、その先に、その仕組みを利用して、より新規な創作をするには、
進化的な考えをどのように使おうか、という提案がなされている。ヒ
トの活動は進化の産物なのだが、今度は、進化の法則を積極的に利用
して、新たなものを生み出そうという提案であるところが新しい。[9]
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
第3文は「進化」の語が通常想起させるであろう内容と本の内容が異なっている、と指摘しており、題名に「進化」を使っていることについて不適切だと捉えていることが窺われる。
※本稿執筆者注:引用部は『Voice』2022年1月号に掲載されたの長谷川眞理子氏の山本七平選評である。
不適切であると捉えているとはそれほど言えない気がする。少なくとも私はそうは思わなかった。二文目からの繋がりを踏まえると、単に進化生物学について詳説した本ではないということを言いたいだけな気がする。「つまり」という繋がりから、単にそのような専門家レベルのことが書ける力量はないと言ってるのではないかということである。そしてそれは「進化」という語を使うことの不適切性を含意しない。
人間は生物であり、生物は進化の産物である。生物が見せる現象のす
べてには進化が関わっている。だから私は、人間がやることのすべ
て、つまり、人間の社会の仕組みも個人の意思決定も文化の変遷も、
すべては、進化的思考で解析する余地があると考えている。経済学
も、社会学も、法学も、文学も、進化で分析してみてわかることはた
くさんあるにちがいないのだ。実際、そのような進化◎◎学という新
分野は、今やどんどん創設されている。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
次に第2段落であるが、第5文から第8文にかけては『進化思考』のコンセプトにやや好意的な書きぶりであるが、第七文で敢えて「進化的思考」という「進化思考」と1文字異なる語を用いている。ここにも『進化思考』に対する否定的なスタンスが見え隠れする。第9文も難解な文である。「進化◎◎学」に対して肯定的なのか否定的なのかよくわからない。肯定的であるならば、具体例をひとつくらい挙げても良さそうなものだ。
※本稿執筆者注:引用部は『Voice』2022年1月号に掲載されたの長谷川眞理子氏の山本七平選評の第二段落である。
第7文で「進化的思考」というように「的」を入れたのは単に「進化的思考」と言いたかっただけであろう。ここで長谷川氏が言っている「進化的思考」と太刀川氏が言っている「進化思考」は別物である。長谷川氏は単に進化の観点で解析をしていくという客観的分析の話をしているが、太刀川氏の云う「進化思考」は進化をアナロジーとして思考法に活かすという応用的実践の話をしている (実際、第三段落において単なる進化的思考とは違うことを説明している)。つまりむしろここで長谷川氏が「進化思考」と述べるのは否定的なスタンスの有無に関係なく誤りなのである。したがって、「『進化思考』に対する否定的なスタンスが見え隠れする」という伊藤氏の解釈は誤りであると思われる。
第9文に関しては別に難解とは感じない。それ以前の文章の流れから見れば、肯定寄りの主張であることは明らかではないだろうか?「私は、人間がやることのすべて、 ~(中略)~ すべては、 進化的思考で解析する余地があると考えている。 ~(中略)~ 進化で分析してみてわかることはたくさんあるにちがいないのだ。実際、」という文章の流れで否定的と取るのは不自然であるように感じる。
本書は、そのような試みの一つではあるのだが、そこにとどまらない
ところがユニークである。技術的、芸術的創作という人間の活動が、
進化に照らしてどのように解釈できるか、というのは基本であるのだ
が、その先に、その仕組みを利用して、より新規な創作をするには、
進化的な考えをどのように使おうか、という提案がなされている。ヒ
トの活動は進化の産物なのだが、今度は、進化の法則を積極的に利用
して、新たなものを生み出そうという提案であるところが新しい。[9]
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
最終段落のはじめの第10文の「そこにとどまらない」という言い回しも褒めているのか皮肉なのかわからない。第10文では「ユニーク」、最終文では「新しい」と評して締めくくっている。例えばプロアスリート―仮に大谷翔平選手としよう―がファンから「こんな握りの独自の変化球を考案したんですけどどうですか?」と訊ねられたとしたら「ユニーク」で「新しい」ですね、くらいは言うだろう。ただこれをプロのお墨付きと言うのは無理があると思う。
以上、全体としてあまり是認しているとは感じられない文章であった。
※本稿執筆者注:引用部は『Voice』2022年1月号に掲載されたの長谷川眞理子氏の山本七平選評の第三段落である。
私は普段選評など読まないのだが、選評というのはこのように難解な皮肉を含めて書くことがよくあるのだろうか?私には不必要な深読みとしか思えない。むしろどのように書けば是認している文章と解釈するのか気になる。新規性の理由に関してはちゃんと説明されている訳で、これを態々皮肉的に取る必要はあるのだろうか?
進化にはさまざまな法則が認められている。著者はそれらを参考にし
て、いわゆるイノベーションの参考資料にしようとする。
各論については、本書を読んでいただくしかないが、進化における諸
法則を応用して考えるという着想の新しさは、たんなるノウハウ本の
域をはるかに超えている。各項目に関して述べられる事例も生き生き
としていて、読み物としても面白い。この点は、著者が絶えず思考を
止めないことを示している。地球上での三十五億年の生物進化の解答
が現在のわれわれであって、その過程がわれわれを創りあげてきた。
それならその過程を左右した法則が、今後の過程の進行の参考になら
ないはずがない。著者の方法は基本的にはアナロジーであり、動物行
動学者のコンラート・ローレンツはノーベル賞受賞講演のなかで、自
分の方法はアナロジーだけだ、と述べた。いわゆる「独創性」を重視
する学問研究の世界では、これをいう人は少ない。しかしイノベーシ
ョンのように「独創性」が重視される局面では、アナロジーのもつ意
味は重要で、本作品はその意味で貴重であり、山本七平賞に値するも
のといえよう。[10]
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
第4文の「述べられる事例も生き生きとしていて」というのは表現としてよ わからない。当書に生き物の事例が多いのは確かだが、「生き生きと描写する」というような場合も基本的には生き物を対象として使う語だと思うのだが。
※本稿執筆者注:引用部は『Voice』2022年1月号に掲載されたの養老孟司氏の山本七平選評である。
伊藤氏は言葉や比喩表現に疎いのだろうか。私には突っ込む必要性が全く感じられない。「生き生き」は「活気があふれていて勢いのよいさま。また、生気があってみずみずしいさま。」 (デジタル大辞泉, [21]) を意味し、「生き生きした筆致」と言ったように非生物にも使用される。今回における「生き生き」は、事例を目新しく感じたとか、説明の仕方に活気が感じられたとか、そんなところだろう。
次は「Y染色体の刻印」[13]として、蔵琢也や竹内久美子らを引用しながら神武天皇のY染色体が引き継がれることが重要だと唱える八木秀次による選評である。もしY染色体に突然変異が起きた場合は神武天皇と同じY染色体ではなくなってしまうがどうするのか、という素朴な疑問への答えに詰まるような論なので(神武天皇より「進化」した天皇になったから良い、とでも言うのだろうか)、その提唱者の選評が進化学的に重要だとは思わないが、一応読んでみる。
💜先ほどの章の林氏もそうだが、人を馬鹿にしないと気が済まないのだろうか?果たしてこの部分はこの本に入れる必要があったのか自問して欲しい。仮にどうしても必要なのであれば、もう少し言い方を変えるべきである。また、今は厳密な科学的記述ではなく単なる選評についての話ではあるものの、何を言ったかよりも誰が言ったかをまず重視するかのようなこの伊藤氏の発言は研究者としていかがなものだろうか?
なお、そもそもY染色体が引き継がれることが重要という主張は、常識的に考えて遺伝的に全く同じものが引き継がれることが重要と言っている訳ではないと思われる。その辺はいわゆるテセウスの船であろう。
知的刺激に満ちた著作だ。読み進めるごとに目の前が開かれ、新しい
世界を見る思いがした。
デザイナーとしてすでに名を知られた著者は学生時代からの長い経
験・思索の末に「進化思考」という独自の発想に辿り着く。
「創造(イノベーション)」に似た現象が生物の進化にあると気付
き、独学で生物学や進化学を学んで得たのは、生物の進化も創造も
「変異」と「適応」の繰り返しで生じているという結論だった。
「変異」は「変量」「融合」など九つのエラーのことで、たとえば
「変量」では「超大きく」することで全長二四メートルの「シロナガ
スクジラ」、商店を大きくした「スーパーマーケット」が生まれた。
「超小さく」することで最小の哺乳類「コビトジャコウネズミ」、ラ
ジカセを小さくした「ウォークマン」が生まれたなどとする。
「変異」だけでは自然界で生き残れないことから、「適応」が必要に
なる。 「適応」には「解剖」「系統」など四つがあるとする。
三十五億年の生物の進化を体系化する試みには、選考委員会でも細部
に異論があるとの指摘もあったが、それをおいても、生物の進化と創
造の近似性の指摘、生物の進化から自然と調和する創造を導き出そう
とする試みは著者の発明発見であり、「進化思考」を教育に応用した
いとの志を含めて、他に代えがたい優位性があるとされた。
多くの人に読んでほしいとの思いによる丁寧な本づくりも評価され
た。本書の内容が広く共有され、「創造」に寄与することに期待した
い。[12]
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
ちょっと驚くのは最後の「丁寧な本づくり」である。装丁が評価されたのだろうかと思ったが、授賞式の八木の講評によると「図や写真を多用したわかりやすい説明や、巻末に詳細な目次をつけているなどの工夫」[14]のことだという。図や写真を用いるのはごく普通のことだと思うのだが…。
※本稿執筆者注:引用部は『Voice』2022年1月号に掲載されたの八木秀次氏の山本七平選評である。
伊藤氏には「多用」の文字が見えないのだろうか?単に図や写真を用いていると言っている訳ではないと思うのだが。
創造ということは、いろいろな分野の人たちがそれぞれの視点で考え
るテーマだ。ただ、自分の領域を超えて創造や創造性のあるべき姿に
ついて考える機会は少ない。ましてや創造について体系化して考えよ
うという人はもっと少ないだろう。その意味では本書は野心的な試み
である。本書では、生物の進化の考え方に基礎を置いて、創造のある
べき姿について徹底的に詰めた議論をしている。
「生物は〝変異による挑戦〟と〝自然選択による適応〟の繰り返しに
よって進化してきた」が、創造は「『どうできるか(HOW)』試し
続ける偶発的な変異と『なぜなのか(WHY)』に基づいて選択し続
ける適応を往復する進化ループ」から生まれると著者は主張する。そ
うした主張が説得的であるのは、変異を九つのパターンに、適応を四
つの特徴整理し、著者の専門であるデザインの分野での事例などを使
って具体的に説明しているからだ。変化の九つのパターンは生物の変
異の事例を使って説明しており、そうした変異を描いた挿絵や写真で
の描写が説得的である。
生物学の進化を論じた本としてみると専門的な知見と異なることがあ
るのかもしれない。ただ、生物の進化のプロセスに徹底的に拘りなが
ら創造や創造性について論じた点が本書を魅力的にしている。本書を
読みながらあらためて創造や創造性とは何か真剣に考える読者も多い
はずだ。それも他人事としての創造ではなく、自分がどう動いたら良
いのかというHOWの部分に拘こだわ っていることが本書の魅力で
もある。[15]
第2文、第4文の「創造や創造性のあるべき姿」や「創造のあるべき姿について徹底的に詰めた議論」が本のどの辺りを指しているのか不明である。創造の方法論については書いてあるが。本当に当書を読み通したのかやや疑問が残る。
※本稿執筆者注:引用部は『Voice』2022年1月号に掲載されたの伊藤元重氏の山本七平選評である。
伊藤元重氏がこう言っているのはおそらく自然に訴える論証 (appeal to nature) 、もしくは人は効率的な行動を取るべき、といったような考え方を彼が持っているからではないだろうか?
本年度の山本七平賞受賞作となった『進化思考』は、日本文化と「創
造性の方法」をめぐる戦略という、長年にわたる私自身の関心に有力
な示唆を与えてくれた作品です。
歴史や国際関係を専門とする私の立場からは、もとより専門的な視点
からの評価をするだけの自信はないのですが、著者の強い問題意識に
裏打ちされた本作は、今日の日本を取り巻く諸状況を考えるとき、た
いへん重要な知的貢献を行なっている試みと感じました。
創造性の源泉を探る試みには多くのアプローチがあり得るが、日本人
には伝統的に感性に傾斜しやすい特性のゆえか、いわゆる「ひらめ
き」を重視する傾向がとりわけ強いように思われます。つまり直感、
それもたいへんに個人的あるいは属人的なものによってこそ真に価値
ある知的創造がなされるのだ、という考え方です。
こうした発想の背景にはとても深遠で高邁な精神の志向が横たわって
いて、これはこれで高く評価すべきアプローチだと思います。ただ、
そこには多くの人が追随したり応用したりすることができる方法論が
欠如しており、ともすれば職人的な「縮み志向」が壁となって、〝創
造性の普及〟が阻まれている実態があるように思います。
本書はこうした隘路をぶち破るため、われわれ人間界の周囲に広がる
自然界に眼をやり、生物進化のなかに見出しうる「匠の技」の構造を
果敢に解明することで、創造性の根幹に関わるロジックに光を当てよ
うとしている。専門的な見地からは、おそらく多くの留保や異なる評
価もあり得るでしょうが、世代や分野を超えた関心と現下の社会的課
題に答えようとする試みとしても、受賞作として価値ある一作ではな
いでしょうか。[16]
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
中西は15年ほど昔の著書『本質を見抜く「考え方」』(2007)で「「直感」を大事にすることです」[17]と書いているのだが、この選評では直感重視は第6文で「多くの人が追随したり応用したりすることができる方法論が欠如して」いるとして批判的な見解を示している。しかし第2文後半で「たいへん重要な知的貢献を行なっている試み」と「感じ」て評価をしているのだから、結局のところ「考えるな、感じろ」派なのだろうか。
※本稿執筆者注:引用部は『Voice』2022年1月号に掲載されたの中西輝政氏の山本七平選評である。
💜「「直感」を大事にすることです」というかつての記述については文脈が今一分からないが、『本質を見抜く「考え方」』という本における言葉なので、仮にこれが「本質を見抜くためには直観が大事である」という趣旨の文章であるとすると、それと今回のような発想法の話を比較するのは不適切ではないだろうか?またそもそも今回の選評の「多くの人が追随したり応用したりすることができる方法論が欠如して」というのは直観そのものが大事ではないと言っている訳ではなく、直観を重視し過ぎる考えた方だと属人的になり裾野が広がらないので社会的にはイマイチという話である。であるのでそういう点を以ってしても伊藤氏の比較評は不適切であるように思われる。
また、「第2文後半で「たいへん重要な知的貢献を行なっている試み」と「感じ」て評価をしているのだから、結局のところ「考えるな、感じろ」派なのだろうか」に関しては、本当に驚くばかりなのだが、伊藤氏はこれが本当にまともな批評だと思っているのだろうか?「~と感じました」という文を以って「考えるな、感じろ」派にされるのであれば、ほとんどの人はそうなる。
専門的な見地からは、おそらく多くの留保や異なる評価もあり得るで
しょうが、世代や分野を超えた関心と現下の社会的課題に答えようと
する試みとしても、受賞作として価値ある一作ではないでしょうか。
[16]
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
最終文には「世代や分野を超えた関心と現下の社会的課題に答えようとする試みとしても」価値がある、とあるが、「高邁な精神」で「隘路をぶち破るため」という目的が「試み」にすぎない手段を正当化してしまっている。
※本稿執筆者注:引用部は『Voice』2022年1月号に掲載されたの中西輝政氏の山本七平選評の最終文である。
💜これについてはだいぶ意味不明である。中西氏が「高邁な精神」と言ったのはこれまでの直観頼りの属人的な創造性言説の根底に潜む精神志向に対してであり、一方「隘路をぶち破るため」というのはこうした属人的な創造性に関する考え方が創造性の普及を妨げる壁となるのでこれを突破しようという話である。したがって「「高邁な精神」で「隘路をぶち破るため」」ということは中西氏は"一切"言っていない。よって「という目的が「試み」にすぎない手段を正当化してしまっている」についても何も妥当性ない。ちゃんと文章を読んでいないのか、読んだ上で理解できなかったのかは分からないが、申し訳ないが選評を読んで評価するレベルに達していない。
また「世代や分野を超えた関心と現下の社会的課題に答えようとする試みとしても、受賞作として価値ある一作ではないでしょうか」における「試み」の目的はどう見ても「世代や分野を超えた関心と現下の社会的課題に答えよう」であり、この部分を引用して「とあるが、「高邁な精神」で「隘路をぶち破るため」という目的が ~(後略)~」と続けるのはおかしいだろう。一応「試みとしても」というように「も」と言っているので「隘路をぶち破る」目的についても言及はしてはいるのだが、それについて言いたければ、その前の部分を引用すべきだろう (ただ先ほども述べたように「「高邁な精神」で「隘路をぶち破るため」」という伊藤氏の理解がそもそも間違っているのだが)。
進化学会で聞いた人の話では、長谷川・養老両博士は『進化思考』の選出に大反対したが、他の審査員が聞く耳持たなかったとのことである。また、これも筆者松井を通した伝聞の伝聞なのだが、長谷川博士ご本人が「過去の失点なので考えたくない」と言っているらしい。本書の企画にあたり、長谷川博士に本書への寄稿依頼の文書をお送りしたのだが、特に返答は頂けなかったため、確証は得られていないが、以上のように、彼女が進化生物学者の観点から『進化思考』を高評価した、ということはなさそうなのである。
確かにこのような前情報を持っていれば、あのように皮肉的に深読みするのも頷ける。
「書籍は情報源として信頼性が高いと一般的に思われている」[22]し、過去の多くの著者や編集者の良心によって積み上げられてきた出版の文化がそれを担保している。そこに賞という「お墨付き」まで加わったとなれば、よほどの強い関心がない限り、無批判で受容してしまうのも無理からぬことである。
💜「賞」ではないが、このような権威性・信頼性はこの批判集に対しても言えるだろう。デザイナーが書いたビジネス本を博士号持ちの3人の学者が批判するという構図は、読者がその内容を無批判に受け入れるバイアスを与える。書籍の内容紹介でも「山本七平賞を受賞した巷で話題の本『進化思考』の疑似科学を徹底的に検証。日本インダストリアルデザイン協会最年少理事長の衒学的物言い、論理の破綻、目に余る不勉強に対してデザイン界と進化学界から3人の博士が立ち上がり、一刀両断。自分の得にはならない、だが誰かがしなければならない、雪かきのような重労働。話題の検証本『土偶を読むを読む』の著者・松井実が博士論文を携え本格参戦。単なる糾弾に留まらず、進化学、デザインと進化の関係性、創造性教育に関する正しい理解を得られる一冊となっています。」[3] というように説明されている。「自分の得にはならない、だが誰かがしなければならない、雪かきのような重労働」という功労的文脈も批判集の内容が正しいと思わせるバイアスを働かせるだろう。
したがって、このような批判本は通常の本に比べてより正確性が求められる。しかし、残念ながらここまで指摘してきたようにこの本はそのような出来にはなっていない。「進化学、デザインと進化の関係性、創造性教育に関する正しい理解を得られる一冊となっています」というように情報の正確性について豪語しているが、そういう本にはなっていない。批判集の内容を無批判に受け入れてしまった人に対して、本稿がその内容の妥当性を再検討する助けとなれば幸いである。
4 『進化思考』を校閲する (伊藤 潤・松井 実)
この章の引用内における地の文の、文章初めの「I」と「M」は伊藤氏と松井氏どちらのコメントであるかを意味する。
| あらゆる種のなかで、私たち人間だけが特にモノを作れるのは、いっ| たいなぜなのか。〔中略〕そんな人類がある日突然、約五万年ほど前| に爆発的に道具の創造を開始している。(p.21)
M: その後自ら書いているがチンパンジーやゴリラ、カラスも道具は使うし、鳥は巣を作るし、ビーバーはダムを作る。ハチの巣、ニワシドリの求愛用の飾り付けは太刀川の考えでは作られた「モノ」ではないのか?ここで太刀川の提示する疑問「なぜ石器を作っていた私たちがこうなったのか」の回答は『繁栄』の冒頭[11]にあるので、そちらを読めばこの本を読む必要はないように思う。人類はある日突然爆発的に道具の創造を開始したわけではない。人類はある日突然人類になったわけではない。
💜「特にモノを作れる」と言っているので (単に「モノを作れる」と言っている訳ではない)、人間のモノを作る能力が他種に比べて優れている、といったように単なる道具の使用や構造物の作成以上の意味が込められているように見える。そして人間の作るモノの種類・量・質が他の生物種のそれを遥かに超えていることは誰もが同意するところだろう。
また人間だけが道具を作れるということを言いたい場合は、「特に人間だけがモノを作れる」というように「人間」の前に「特に」を置くのが普通である。
要するに松井氏の文章読解力不足による誤読であろう。
| 狂人性と流動性知能性の一致をここに見ることができる。(p.31)
I: 狂人性は犯罪を犯すことと同義となってしまう。p.30の定義「人のやらないことをやること、すなわち常識からの変異度を指している」と違う。
💜文脈が今一分からないが、これは太刀川氏がこれ以前の部分で「流動性知能性=犯罪の犯しやすさ」と定義していたということなのだろうか?おそらくではあるがそのような定義はしていないような気がするが。あくまで想像だが、精々、流動性知能と犯罪の犯しやすさに相関があるとかその程度のことを言っていたのではないだろうか?その場合であれば、そういった説明のあとに「狂人性と流動性知能性の一致をここに見ることができる」と言ったところで、それは狂人性と犯罪を犯すことが同義であることを意味しない。
| こうした考察を通して、私はひとつの結論に達した。
| 創造性とは、「狂人性=変異」と「秀才性=適応」という二つの異な| る性質を持ったプロセスが往復し、うねりのように螺旋的に発揮され| る現象である、という考えだ。(p.39)
I: これが『進化思考』における独自の「創造性」の定義であろう。とすると
「創造性」=「螺旋的に発揮される現象」ということになり、
一般化すると
「○〇性」=「××する(される)現象」
ということになってしまう。だが、言葉の定義として
「○〇性」≠「××する(される)現象」
であろう。この時点で定義が破綻しているため、はっきり言ってしまえばこの後の議論はすべて無駄である。
💛太刀川氏が真に言いたいのは「創造性とは、、(中略)、、螺旋的に発揮される性質またはそういった能力」であると、文脈的に普通分かると思うのだが、些細な表現ミスをあげつらって「定義が破綻しているため、はっきり言ってしまえばこの後の議論はすべて無駄である」とまで言い切るはどうなんだろう?これは前章の林氏もそうだったが、太刀川氏が言いたいことを理解しようとせずに、表面的な瑕疵を批判して満足している印象を受ける。そしてそれは評者の仕事ではないだろう。
またそもそも「~性」は「[接尾]名詞の下に付いて、物事の性質・傾向を表す」(デジタル大辞泉, [22]) という意味を持つが、人間の思考や行動における性質や傾向というのは心理的・認知的現象と見ることもできるので、文字通り「現象」と解釈したところで特に問題はない。特にひらめきといったような「創造」は一般には意図的な制御が難しいものとされており (ひらめこうと思ってすぐに思い通りにひらめくものではない)、そういった点でも「現象」というように客観的に捉えることはおかしなものではないだろう。
| そして化学走性の原理はバカと秀才のたとえと同じような構造を持っ| ている。つまり 「ランダムに動く不規則性(狂人性=変異の思
| 考)」と「周囲の食物に対する知覚(秀才性=適応の思考)」の二つ| のプログラムにおける、最小の組み合わせとして説明できる。(p.42)
M: 個人の頭の中での発散と収束を変異と適応に言い換えているようだが、生物での変異も適応も集団的な現象であることがまるまる抜けている。
💜アナロジーなのだから別に問題ないのではないだろうか?また他の人やチーム間で比べることを考えれば集団的な現象であるとも見れるし、個人内で考えたときも各アイデアを個体とすれば集団的なものと見ることは可能である。
| あらゆる生物は、不思議なほど、形態や行動、身体機能などが、その
| 生存戦略とうまく合致している。
| 〔中略〕
| 生物学ではこの合致を指して「適応」と呼ぶ。(p.42)
M: 適応はその生物が環境の提供する諸条件への合致であり、生存戦略との合致ではない。また、あらゆる生物のあらゆる形質が適応的であるわけではない。
💜この辺の指摘はその通りである。私は太刀川氏が「適応」の意味を全く理解していないとは思っていないが (なぜなら正しく理解していることが読み取れるところもあるからだ)、誤った理解との境界分けが雑であるのは確かである。
なお、ここで松井氏が云う「適応はその生物が環境の提供する諸条件への合致であり」というのが「適応とは (その生物が) 環境の提供する諸条件への合致"に関する概念である"」という意味で言っているのであれば特に問題ないが、もし「適応とは環境への合致である」という意味で言っているのであれば、これは日常的な意味での適応やプロセス的定義としての適応に近いものである。もし後者の意味で言っているのであればそれはp.20で述べられていたことと食い違う。P.20を含む第一章は伊藤氏と松井氏によるものであるが、もし松井氏当該部分を認知していたとしたら、松井氏の中で定義が揺れている可能性があるだろう。
| では進化とは何なのか。まさに進化とは、エラー的な変異と自然選択
| による適応を繰り返す、生物の普遍的な法則性のことなのだ。(p.43)
I: 「変異」は進化学以前からある語であり、variationのことを指していた。「バリエーション」はほぼ日本語として通じるであろう。一方、進化学では多くの場合「突然変異」mutation を意味する。この生物学と遺伝学での「変異」の語が意味するものの違いは問題視されている[13]。どちらの意味で「変異」を用いているのかを明確に宣言する必要があるが、「エラー的な変異」と言うからにはどうやら著者は遺伝学の立場に立っているようではある。ところが次ページには「1 変異によるエラー」(p.44)と書いている。これではエラーと変異の循環定義(無限ループ)である。詳細は次章参照。
💜「進化学以前」「一方、進化学では」「この生物学と遺伝学での」のいずれかにおそらく誤字があると思うのだが、このせいで伊藤氏がどのようなものを遺伝学的or進化学的と考えているのかよく分からない。引用されている「「Variation」の訳語として「変異」が使えなくなるかもしれない問題について: 日本遺伝学会の新用語集における問題点」[23] を読んでみたが、そこではむしろ「進化学ではvariationが重要な概念であるが,この用語はダーウィンの『種の起源』においても表現型の変異を示すために使われている用語である(Darwin1859).日本においてダーウィンの進化論は石川千代松の 『進化新論』によって紹介された.1891年に出版されたこの本の中で石川は「変異」という訳語をvariationに当てており(石川1891),1897年の訂正増補再版版では巻末の「進化論ニ関係アル原語ノ訳」という項目で,variationの訳が変異であると明示されている(石川1897)」や「つまり,時系列的にはまずvariationの概念があり,その日本語訳である変異が使われはじめ,その後に地球上でmutationの概念や遺伝学が誕生したといえる.」や「現行の数研出版,東京書籍,第一学習社3社の高校生物の教科書をチェックしたところ,『遺伝単』で扱われているそのほかの遺伝学用語と異なり, 変異は遺伝分野ではなく,生物の進化の項目で扱われている.数研出版と東京書籍では「変異(variation)」「遺伝的変異」「環境変異」等を太字の重要用語としてクローズアップしており,第一学習社では「環境変異」のみを太字で記載している.」というように、進化学では変異がvariationの意味で用いられることが多いかのような記述がされている。これは伊藤氏の「進化学では多くの場合「突然変異」mutation を意味する」とは食い違う内容だが、上で述べたようにおそらくここでは誤字が存在しているように思われるので、、伊藤氏の主張の真偽についてはスルーしておく。
また伊藤氏は「エラー的な変異」と「変異によるエラー」で循環定義になっていると主張するが、私としてはこの二つを定義文と見なすのは無理やり感が強いと感じる。前者の「エラー的な変異」における「エラー的な」というのは単なる修飾語ではないだろうか?確かにエラー的な変異 (mutation) というのは重複表現のようでもあるが、一般的に言って特に問題はないように見えるし、この場合少なくとも変異の定義文ではない。また後者の「変異によるエラー」に関しても、これも重複表現的なものであるが、エラーの定義文には見えない。またそもそも「「エラー的な変異」と言うからにはどうやら著者は遺伝学の立場に立っているようではある」と伊藤氏は主張するが、ここでの変異をvariationの意味で取ることは十分可能である。「エラー」という語は「1 やりそこない。失策。2 理論的に正しい数値と、計算・測定された値とのずれ。誤差。」 (デジタル大辞泉, [24]) という意味を持ち、伊藤氏は1の意味でしか取っていないようだが、2の意味を取るとき集団の既存のメジャーな形質とのズレという意味で変異 (variation)と合わせることは可能である。
| 生物の形態は神がデザインしたものではなく、種の起源から分化を繰
| り返して自然に発生したことを論理的に証明した、まさにコペルニク| ス的転回である。(p.44)
M: 「自然発生することはないと証明した」(p.122)「白い光になることを証明した」(pp.174, 175)「パターン形成仮説が分子生物学的にも証明された」(p.250)「間違いが証明されてしまう」(p.274)「ダーウィンらは、論の構成とその証明に慎重を期して」「ダーウィンらの進化論を証明する科学的証拠は」(p.275)「進化論の証明に繋げていく本なのだ」(p.460)というふうに科学的仮説に対して証明という言葉を多用しているが全て間違いだ。証明は数学のような形式科学において命題に対してなされる。検証されたとか確かめられた、であれば問題ないだろう。この区別は非学術系の読者にはどうでもよいかもしれないが、どうでもよくない者にとっては、シリコンとシリコーンの混同、JavaとJavaScript の混同、ガソリンと灯油をごちゃまぜにするようなものだ。そして、人はたいていガソリンと灯油をごちゃまぜにするバス運転手のバスには乗りたくないものだし、もし乗ろうとしている人がいれば止とめたくなる。
💜「証明」の意味は「1. ある物事や判断の真偽を、証拠を挙げて明らかにすること。2. 数学および論理学で、真であると認められているいくつかの命題(公理)から、ある命題が正しいことを論理的に導くこと。」(デジタル大辞泉, [25]) であり、ここで松井氏が述べているのは2番の意味に過ぎないように思える。確かに1番に関しても真偽がある程度はっきりしたものでないと証明とは言わないと思うが、一般に数学的な意味での厳密に一意な導出のみが「証明」とされている訳ではない。
また松井氏は「検証されたとか確かめられた、であれば問題ないだろう」と述べているが、それらは証明とどう違うのだろうか?確かに「確かめられた」に関しては一般に「証明」より広い意味であるとは思うが (前者が後者の必要条件) 、「検証」に関しては「1. 実際に物事に当たって調べ、仮説などを証明すること」(デジタル大辞泉, [26]) である。したがって検証は証明を含意している。
なお最後のガソリンと灯油については上手いことを言ったつもりなのだろうが、ガソリンと灯油を混ぜることと、「証明」の意味の混同はその問題性の程度が明らかに異なるので例としては不適切だろう。
| 1 変異によるエラー:生物は、遺伝するときに個体の変異を繰り返
| す
| 2 自然選択と適応:自然のふるいによって、適応性の高い個体が残
| りやすい
| 3 形態の進化:世代を繰り返すと、細部まで適応した形態に行き着| く
| 4 種の分化:住む場所や生存戦略の違いが発生すると、種が分化し| ていく(p.44)
M: ルウォンティンは変異-適応度の差-継承の3条件が揃えば必ず自然選択が生じるとした[15]。1−3はこれらの3条件をそれぞれ大幅に改悪したものに対応するように思う。まずはこれらをルウォンティンの示した自然選択の3条件と同内容に書き換えたほうがよい。1の改善:生物は遺伝しない(遺伝するのは遺伝子)し、個体は変異しない(変異するのは遺伝子)し、系統が世代を更新しない限り、変異は繰り返すことはできない。「変異:生物の遺伝子は変異することがあり、その結果集団内の個体は多少異なる特徴を備えることがある」とすべきだろう。
💛この辺については第二章の林氏のそれでもコメントしたが、太刀川氏の云う「個体の変異を繰り返す」というのは、単にそれぞれの個体において変異が発生し、それが世代内・世代間に渡って繰り返されるという意味ではないだろうか?実際、それ以降の部分で「卵から毎回違う個が生まれる「変異」の仕組み」(『進化思考』p.45) と言っており、したがってこの解釈で合っていると思われる。
また太刀川氏はおそらく「遺伝」の意味を「生殖細胞の生成及び受精のプロセス一般」と勘違いしており、したがって以上をまとめると、彼の云う「生物は、遺伝するときに個体の変異を繰り返す」というのは、「生物においては、生殖細胞の生成及び受精のプロセス一般を通して、それぞれ個体において変異が発生する」ということを意図していると思われる。そしてこの真意そのものは特に問題ない。とはいえ、表現に誤りがあるのは確かなので訂正は必要である。
また「系統が世代を更新しない限り、変異は繰り返すことはできない」とのことだが、多回繁殖の種では世代を更新しなくても変異の繰り返しは起きる。おそらく松井氏は一回繁殖の種しか想定できていない (またそもそも上で述べたように太刀川氏の云う「繰り返し」というのは同腹の子の間での相違についても述べているように思える。要するにただ単に各個体のゲノムは違いうるということを述べているだけな気がする)。
| 2 自然選択と適応:自然のふるいによって、適応性の高い個体が残| りやすい
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
2の改善:自然選択というより適応度の差を説明すべきだろう。「残りやすい」ということがそもそもふるいなので、トートロジーのような表現になっている。「適応度の差:そのような変異の中には、個体の適応度を高めるものや、逆に低くするものがある」ならよいと思う。適応度という表現を使いたくなければ、生存率や繁殖率ともいえる。
💜これも松井氏のコメントである。先ほどの続きであるが、長く続くと見にくいので分けた。以降の3, 4についても同様。
概ね同意だが、太刀川氏の云う「残りやすい」というのが「次世代にその子孫が残りやすい」や「世代に渡って集団内での頻度が増えていく」を意味している可能性もあるので、トートロジーであるとは一意には言えない。とはいえ、表現が分かりづらいのは確かなので訂正はしたほうが良い。
| 3 形態の進化:世代を繰り返すと、細部まで適応した形態に行き着| く
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
3は残念ながらどう好意的に解釈しても意味がわからない。削除し、遺伝/継承についての記述にしたほうがよいと思う。たとえば、「継承:遺伝子内の変異は次世代に引き継がれることがある」などとする。
💜記述そのものに関しては特に問題なく解釈できると思う。どこに引っかかっているのかよく分からない。ちなみに林氏はこの部分について進歩主義的な意味が読み取れるとして批判していたが、それに関しては別にそうは読み取れない (そう読み取ることも可能ではあるが少なくとも一意ではない) と反論済み。「行き着く」という語はそれ以降一切動かないことを含意しない。
遺伝的変異が次世代に継承されることそのものについて説明した方が良いのはそうだが、「形態の進化:世代を繰り返すと、細部まで適応した形態に行き着く」というのはそれをおおよそ含意するので、そこまでズレた記述ではないだろう。なお個人的には「形質」を「形態」にだけ限定してるところが気になった。
| 4 種の分化:住む場所や生存戦略の違いが発生すると、種が分化し| ていく(p.44)
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
4の記述じたいは受け入れられるが、「進化論の構造」の一部とすべきではない。種の分化は進化の結果であって、進化に必須の条件でも「構造」でもないというのが私の理解だ。種の分化は至近要因としては遺伝子距離の乖離によってうまれるし、究極要因としては地殻変動などの環境変動があげられると思う。「種分化:住む場所や生存戦略の違いが発生すると、種が分化することがある」ならまだ受け入れられるが、4は削除して、1−3について「進化論の構造」ではなく「自然選択の3条件」として上記のように書き換えて提示したほうがよい。p.30 「「変異」と「適応」の使い方に見られる誤った進化理解」 でも林が同じ箇所を批判しているため参照してほしい。
💛ここに関しては林氏も同様の批判をしていたが、「進化」と「進化論」は別物である。進化論は単に「複数世代に渡る遺伝子頻度の変化」についてのみ述べるものではない。
それと「種の分化は至近要因としては遺伝子距離の乖離によってうまれるし、究極要因としては地殻変動などの環境変動があげられると思う」とのことだが、こういった意味での「至近要因」「究極要因」の使用にはやや違和感がある。ここでの「至近要因」「究極要因」というのはティンバーゲンの4つの問いに関して言っているのだと思うが (ティンバーゲンの4つの問いが有名だが、「至近要因 (proximate factor)」「究極要因 (ultimate factor)」という言葉を初めに使ったのはA. L. Thomsonであるとされる[27])、ティンバーゲンの4つの問いはそもそも生物の行動に関する分析法である。行動以外の形質について適用するくらいならまだ頷けるのだが、種分化といったように形質以外の現象について当てはめるのは本来の使用法からだいぶ離れている。とはいえ、本来の使用法から離れていようと価値のある使用がされるのであればとやかく言うことでもないだろう。しかし、今回の「種分化」に関してはあまりそうは思えない。まずそもそも「種分化」というのは「種が分化していく"プロセス"」である。したがって、種分化に関して至近要因と究極要因を分ける意味はあまりないように思える。確かに地殻変動などの環境変動は遺伝的距離の拡大の遠因ではあるが、結局時系列的に連続した大きなプロセスの一部に過ぎないからである。一方行動形質においては、ある行動の至近要因 (メカニズム・発生) ・究極要因 (機能・進化) は個体レベル・進化 (系統) レベルという異なる次元の話であり、そうであるから分けて議論することに価値がある。そういう訳で、種分化に対して至近要因・究極要因を当てはめることが全くの無意味であるとは言わないが、あまり価値はないように思える。(また松井氏はp.139でも至近要因・究極要因に関しておかしな適用をしており、そちらに関しては明確に誤っている)。
なお松井氏は「至近要因としては遺伝子距離の乖離」と言っているが、「遺伝子距離」は染色体上の異なる遺伝子間の距離を表す用語なので、松井氏のこれは誤用である。文脈的に個体間や集団間の遺伝的分化の程度に関して言いたいのだろうが、その場合「遺伝的距離」と言うべきである。
また「「種分化:住む場所や生存戦略の違いが発生すると、種が分化することがある」ならまだ受け入れられる」とのことだが、これは太刀川氏が提示している「種の分化:住む場所や生存戦略の違いが発生すると、種が分化していく」とほぼ同一である。「分化することがある」という可能性 (非必然) の部分が重要ということだろうか?しかし、そもそも松井氏は一番初めに「4の記述じたいは受け入れられる」と言っているので、「~ならまだ受け入れられる」という記述は矛盾しているように思われる。
| 道具とは何か。それは擬似的な進化だ。(p.47)
M: デザイン〔人工物の仕様〕は進化するが人工物は進化しない[16]。人工物はデザインというアイディアの乗り物(ヴィークル)と考えたほうがよい。道具は人工物だから、道具は進化の主体ではない。擬似的なものでもない。「パソコンが進化する」とか「ヴァイオリンの形状が進化する」といっても問題ないと思うが、たとえば「耳が進化する」といっても耳の形質が親の耳から子の耳に受け継がれて進化するのではなく耳を生じさせる遺伝子が受け継がれて進化するように、パソコンもパソコンじたいが自己複製するのではなくパソコンを作れるような人工物の仕様=デザインが自己複製し進化する。本書7章で同様の内容を詳述しているので参照してほしい。
💛「人工物は進化しない」と言いつつ、その後で「「パソコンが進化する」とか「ヴァイオリンの形状が進化する」といっても問題ない」と言ったり、今一言っていることに一貫性がない。そう言っても一応受け入れられるけど、厳密には違うと言いたいのだろうか?しかし「パソコンもパソコンじたいが自己複製するのではなくパソコンを作れるような人工物の仕様=デザインが自己複製し進化する」とのことだが、「人工物の仕様=デザイン」も別に自己複製はしない。もし自己複製するのならば一度発明された人工物にはもうデザイナーは必要ないだろう (例えば冷蔵庫という人工物にはもはやデザイナーは必要なくなる。勝手に冷蔵庫の仕様が自己複製するらしいので)。それに「人工物の仕様」も紛れもなく「人工物」である。したがって「人工物は進化しない」ならば人工物の仕様も進化しない。彼の主張は色々矛盾しているように見える。
要するに、人工物か否かで進化するか否かを判別することは彼が真に言いたいこととマッチしていない。「人工物はデザインというアイディアの乗り物(ヴィークル)と考えたほうがよい」という発言から見るに、おそらく彼は何らかの還元的な設計図 (遺伝子や人工物の仕様など) の世代に渡る変化のみを「進化」と見なしているのだろう。しかし、「進化」の定義はそれだけではない。昨今は「世代に渡る遺伝子頻度の変化」を生物進化の定義と見なすことが多いが、ここで挙げられている「耳の進化」といったように遺伝的形質の世代間変化のことを進化と見なす用法も一般的である。
| 創造とは、言語によって発現した『疑似進化』の能力である。(p.48)
M: 創造は疑似進化ではない。疑似というタグをつければ科学的に妥当でない牽強付会のアナロジーを展開しても問題ないことにはならない。「もし言語が文化の進化のカギを握っており、ネアンデルタール人が言語を持っていたとしたら、彼らの道具はなぜ文化的な変化をほとんど見せなかったのだろう?」[17]
I: 唐突な「言語」の話はどこから出てきたのか? また 「能力」はむしろ「創造性」ではないか。次章で詳細に述べるが、「創造」と「創造性」の用法が破綻している。
💜別に疑似って言ってるなら良くないだろうか?また「「もし言語が文化の進化のカギを握っており、ネアンデルタール人が言語を持っていたとしたら、彼らの道具はなぜ文化的な変化をほとんど見せなかったのだろう?」」は何がいいたいのかよく分からない。引用するならどういう意図で引用したのか説明するのが読者及び被引用者へのマナーではないだろうか?なおネアンデルタール人が人間と同様レベルの言語を持っていたとは特に分かっていないので、それを仮定した議論には何も意味がない。松井氏はネアンデルタール人は多少言語を持っていたけど文化的な変化が無かったから言語は関係ないと言いたいのだろうか?でももしそうだとすればそれは言語能力の程度を無視している。
「創造」と「創造性」の用法について伊藤氏は先ほどから熱心だが、これはそんなに重要な部分なのだろうか?ただの語用ミスだと思うのだが、「破綻している」と言うほど何か重要なのだろうか?次章で詳細に語られるらしいので期待しておくが。
| おまじないレベルの発想法が横行していて、創造性の仕組みは天才的| な人の暗黙知のなかにあり、今もまだ魔法のままだ。(p.53)
I: 既存の「発想法」を「おまじないレベル」 とし 、「創造性の仕組み」は「天才的な人の」「 魔法」としていることから、おそらく「おまじない」は子供だましのもの、「魔法」は不思議なすごいもの、という使い分けをして揶揄しているのだと思うが、本来 「呪い」は「魔法」と同じような言葉である。「横行している」と具体的な批判もなく罵倒するのは感心しないし、既存の「発想法」には当書では存在が隠蔽されている「オズボーンのチェックリスト」ことSCAMPERのように優れたものは多数ある。
太刀川氏の云う「おまじない」の意図を「子供だましのもの」と解釈する妥当性は特にないような気がする。普通に願掛けとかそういった意味だと私は理解した。後半の既存の発想法の有効性については概ね同意。しかし隠蔽かどうかは言い切れるものではないのではないだろうか?それこそ「横行」という事象に対する事実的評価を語るよりも「隠蔽」という主体の故意性を語ることのほうがよっぽど具体的な理由が求められると思うが。
| 創造は、進化と同じく変異と適応の繰り返しによって生まれる。
M: 生物進化のことを単に進化と呼んでいるのだとしたら、略さず生物進化と書くべきだと思う。生物の進化は進化というクラスの1インスタンスである。
ここまで明らかに生物進化として進化の話をしてきているのに、態々そんなことを言う必要はあるのだろうか?それとも松井氏は、例えばここまで説明してきたような話を対面でしているときに、途中でいきなり「ん?その進化ってのは生物進化のことなの?生物進化のことを言いたいのならば略さず生物進化って言って?」とか言うのだろうか?「進化」という用語が『進化思考』において初めて出てきた辺りで突っ込むならまだ分かるが、ここまで長々議論してきた中でする指摘ではない。
| 進化思考では、進化における生物の知的構造と同じように、(p.54)
M: 「進化における生物の知的構造」という語が何を意味しているのかを理解している自信がないが、遺伝子じたいは当然考えることができないので進化する生物の遺伝子に知的構造を認めなくても、遺伝子は進化する、というのが進化学の考え方だ。そのため、完全に間違った記述としか解釈できない。私のこの解釈が完全に誤解であるか、著者が進化を全く理解できていないかのふたつにひとつである。
この辺については擬人的表現がいただけないのは確かではあるが、太刀川氏はおそらく「知的に見える構造」と言いたいのだろう。すなわち自然選択を通して環境にフィットしていくことが外部からは知的に見えると言いたいのだろうということ。
| 創造とは、変異によって偶発的な無数のエラーを生む思考と、適応に| よって自然選択する思考の繰り返しであり、自然に則った形でその構| 造を捉えられるのだ。(p.54)
M: 意味がわからない。進化学における適応は自然選択の結果生まれる環境への適応のことであって、適応によって自然選択する、というのは…何を意味しているのだろう…? よくいって怪文である。
💛繰り返しになるが、ここで松井氏が言っているのは適応の歴史的定義の話に過ぎず、非歴史的定義やプロセス的定義においては適応は自然選択の必要条件である。「意味がわからない」とか「怪文」とか言う前にまずはちゃんと勉強してから批判するべきではないだろうか?
またそもそも「進化学における適応は自然選択の結果生まれる環境への適応のこと」というのは循環定義のようになってしまっている。文脈よりおそらく松井氏は歴史的定義について述べているつもりなのだろうが、後半の「環境への適応」における「適応」は生物学におけるadaptationではなく、日常語における「適応」となる。そしてこれはp.26, 37において林氏が批判していた用法そのものである。
というように、あれだけ「適応」の定義について拘っているのにこういった穴が放置されている。これはおそらく松井氏の中で定義が揺れているからだろう。松井氏は生物の専門家ではないのでおそらく林氏が言っていることを鵜呑みにして従っているのだと思うが、真に理解している訳ではないのでこういうところでボロが出るのだと思われる。また本書は一応執筆者3人で相互にチェックしているらしいが (p.11)、もしこの部分をちゃんと読んだ上で瑕疵を見つけられなかったのであれば、結局伊藤氏と林氏の中でも理解が曖昧なのだと思われる。
| この進化思考の変異と適応の往復を説明するとき、私はよく「暗闇で| の玉入れ」 を例にあげる。(p.55)
M: 適応と自然選択と変異に関する暗闇での玉入れアナロジー。懐中電灯で照らすのが適応で、玉投げが変異、自然選択は適応が「わかる」とおのずと発生するらしい。理解が追いつかない。ここではカゴではなく、進化学でよく用いられる適応度地形 fitness landscape を使ったほうがよいのではないだろうか。適応度地形のようにすでに非常によく使われ、有用であることが知られている考えを借用するのではなく、より不正確で理解の浅い自前の考えを使うことで読者を一層混乱させているという意味で、車輪の再発明よりもたちが悪い。Framework is like a toothbrush; everyone has one, but nobody wants to use anybody else’s.*
💜玉入れの例が今一分からないのは同意ではあるが、適応度地形を持ってくるのもよく分からない。適応度地形では変異と適応の往復を説明できないのではないだろうか?適応度地形はある形質の変異度とその適応度の対応を示しているだけなので、集団の中にたくさんの変異が生まれ、それらが選択を受けるという過程を表現することはできない気がする。
| このときの懐中電灯が『適応』を、玉投げが「変異」を表している。
| 〔中略〕しかしこのゲームは、新しい玉を無数に投げてエラーを起こ
| しつづけなければ絶対に達成できない。 (p.57)
M: この記述が筆者のいう「適応の思考」であるとしたら、適応の思考は進化学で言うところの適応とは無関係である。デザインの淘汰には、生物進化とはやや異なる淘汰のフェーズがある。大きなスケールでは市場などの資源をめぐる大規模なシェア争いがある。これはダーウィンのいう「生存闘争」と類似する。あるスマホのモデルが他社のスマホモデルのシェアを奪うといったケースがこれにあたる。これはデザインにとっては「本番」の淘汰環境である。野に放たれたデザイン案の成否を握るのは多数の、財布を握った消費者によるドル投票であったり、ある部署が提案したものが社内の他部署に拒絶されるような企業内などでの淘汰もあるだろう。あるプロジェクトである人が提案した案ではなくもうひとりの同僚の提案した案が採用されるようなデザイン室での淘汰もありえる。これは実験的な淘汰であり、品種改良する際などに行われる非社会的学習のプロセスである「誘導された変異guided variation」に相当する。意識的に行われるなかではおそらく最も小さな実験室による耐久試験が、個々人のなかにある。ここではいくつものアイディアが生まれるが、実現性や面白さ、伝えやすさ、他人に伝えたときに得られる評価など様々な要素が勘案され、問題がないと判断されたときのみ、口や手などを伝って体外に漏れ出る。アイディアが体外に漏れ出るだけでなくそれを同僚や上司、友人などの他人に伝えようとすればもう少し大きなスケールに移行する。そのため、もし「意志をもって、意図をもって、方向性をもって独力で新しいデザイン案を考えつく」ことを懐中電灯でたとえているのならば、それは誘導的な変異である。
💛一般に頭があまりよろしくない人の例え話というのは往々にして本質からズレた不適切なものであるので、例え話の適切性をもってその人の理解度を測るのはあまり良い方策とは私は思わない。なお「頭があまりよろしくない人」と言ったが、実際には世の中の大半の人はそうで、例え話の作成というのは物事の抽象的構造を把握する非常に高度な技術が要求されるものであると思う。したがって、別に馬鹿にしてるとかそういうのではなくて、難しい技術であるのでできなくて当たり前ということである。
そういう訳で、確かにここでの玉入れの話はかなりズレたことを言っていると思うが、それ以外の部分で太刀川氏が適応についてある程度理解していることは分かるので、「適応の思考は進化学で言うところの適応とは無関係」と見なすのは早計であると思う。
また、私は文化進化について詳しくないので、松井氏が言っていることを適切に理解できているかは微妙なのだが、「これは実験的な淘汰であり、品種改良する際などに行われる非社会的学習のプロセスである「誘導された変異guided variation」に相当する」というのはおかしい気がする。この文章をそのまま読むならば「Aという淘汰はBという変異に相当する」という意味になると思うが、淘汰が変異に相当するというのは明らかにおかしいだろう。もしかしたら「実験的な淘汰では、対象となる変異は「誘導された変異」のみである」ということを言いたいのかも知れないが、それが適切に読み取れる文章にはなっていない。
| 逆に変異的に玉を投げ続ける人は、いつのまにかコントロールが良く| なり、偶発によって答えを発見するかもしれない。(p.57)
I: 「コントロールが良」いかどうか、はエラーの発生率の問題であるが、あらゆる可能性を試す、あるいはパラメーターを変化させる、のが「当てずっぽうでも玉を投げまくる」ことである。
M: 変異するだけでなぜコントロールがよくなるのかよくわからない。
玉入れの例全体がきちんと引用されていないので正確な判断はできないが、文脈から察するに太刀川氏はおそらく「命中率」の意味で「コントロール」と言っているのではないだろうか?コントロールにそのような意味はないので誤用ではあるが、命中率と言いたかったのであれば言ってることそのものは誤りとは言えない気がする。偶然に命中率が高くなることはありうるし、暗闇でかごが見えなくとも、かごに入ったまたは当たったことが音などの何らかの要因で把握できるならば、命中率を上げることはできるからである。しかし「いつのまにか」という表現を見るに、単に偶然命中率が高くなることだけを言っていそうではある。
なお本来の意味での「コントロール」であっても、上記のようにかごへの命中を把握する術があるならば、コントロールを増加させることは可能だろう。またこれは微々たるものだろうが、そういったフェードバック情報がなくとも、玉を投げ続ければ理論的には多少はコントロールが高くなるだろう。玉入れの玉を投げるという動作への慣れが起こるので。
| 創造的な人の脳内ではこの往復が暗黙的に行われていて、吟味された
| 発想が飛び出すから、いきなり的を射ているように思えるのだ。
| (p.57)
M: 非常に惜しいところまできていると感じる。ここで著者が「吟味」と表現するプロセスはたしかに生物進化における自然選択に比することのできる、文化・アイディアがフィルター=ふるいにかかるプロセスのひとつだ。しかし真に進化的に思考するなら、もっと集団的思考を織り込んだほうがよいと思う。いくつもの対立するアイディアの集団がある人の脳内にあるとしよう(集団)。脳内にあるアイディアたちのうち、実際に人に伝えたり(伝達、社会学習)、より磨き上げたり(個体学習)することのできるアイディアは少数だ。どれを選択してお話しようか/磨き上げようか、という吟味をして選ばれてから、次のステップ(他人に伝達したり、個体学習として試行錯誤するプロセス)に移る(継承)、というような説明ができるだろう。
この吟味は、アイディアが市場で成功するかとか、アイディアが社内で承認されるかとかの適応度地形上の争いではなく、個人の頭の中での適応度地形上の争いなので、文化小進化よりもさらにミクロなすステージでの進化であり、ミーム学以来ろくにとりあげられていない分野でもある。こここそがまさにデザイン・創造性の観点から文化進化にアプローチする際の独自性になるのではないかという気もする(し、そうでないかもしれない…。ノーエビデンス)。
💛「非常に惜しいところまできていると感じる」というように随分上から目線だが、私にはむしろこの部分こそが松井氏が太刀川氏の意図を読めていない部分であると思われる。まずそもそもここでいう集団的思考を太刀川氏は意図しているように見えるし、太刀川氏の主旨はここで「暗黙的」と言っているように無意識的なアイデア吟味にあるように思われる。一方松井氏が言っている「吟味」は「いくつもの対立するアイディアの集団がある人の脳内にあるとしよう(集団)。脳内にあるアイディアたちのうち、実際に人に伝えたり(伝達、社会学習)、より磨き上げたり(個体学習)することのできるアイディアは少数だ。どれを選択してお話しようか/磨き上げようか、という吟味をして選ばれてから、次のステップ(他人に伝達したり、個体学習として試行錯誤するプロセス)に移る(継承)」というように、個人内レベルでも集団レベルでも意識的なものである。「どれを選択してお話しようか/磨き上げようか、という吟味」というのを無意識的なそれと取ることもできなくはないが自然な解釈ではないし、また先ほど「意識的に行われるなかではおそらく最も小さな実験室による耐久試験が、個々人のなかにある。ここではいくつものアイディアが生まれるが、実現性や面白さ、伝えやすさ、他人に伝えたときに得られる評価など様々な要素が勘案され、問題がないと判断されたときのみ、口や手などを伝って体外に漏れ出る」(p.93) と似たようなことを言っているので、おそらく意識的なそれという解釈で合っているだろう。
太刀川氏が無意識なそれについて述べているだろうことは「暗黙的」という記述から十分読み取れると思うのだが、松井氏がそれを読み取れず長々と自説を開陳しているのは、おそらく太刀川氏の主張を読み取ろうとする気がないからであろう。すなわち、太刀川氏の言っていることがそもそも検討する余地もない的外れなものであるという思い込みがあり、いかに自分の領域である文化進化一般の話に持ち込むかという態度で文章を読んでいるのではないかということである。そしてそういったバイアスの入った読み方は批評者及び研究者として極めて不適切なものである。または単に読解力が不足しているために意図が読み取れなかっただけかもしれないが、その場合も結局評者としては力不足と言っていいだろう。
なお一応「暗黙的」というのを「口に出さず」という意味で松井氏が取っていた可能性もあるが、ここでは「脳内ではこの往復が暗黙的に行われていて」と言っており、これは無意識的なそれと読み取るのが自然だろう (脳内で非暗黙的に行われる思考が意識的思考であるので、脳内で暗黙的に行われる思考は無意識的なそれと読むのが自然)。「口に出さず脳内だけで思考すること」を「暗黙的」と表現していると解釈することもできなくはないが、あまり自然ではないと感じる。そういう意図ならば「脳内で暗黙的に思考」ではなくて単に「脳内で思考」や「何も言わずに思考」「黙って思考」「私秘的に思考」などと表現をするのが普通だろう。
また『進化思考』5ページの「では創造とは何なのか。それはとても不思議な現象だ。」からも太刀川氏が創造を意識的に制御し切れない無意識的要素を持つものと考えていることが窺えるし、62ページの「創造性のことを、二つの思考を往復しながら生み出す螺旋的な現象として捉えれば、頭のなかで何度も作り直し、世代を発展させるように創造の強度を高める視点に慣れてくる。このプロセスを体得すると、はるかに効率的に創造的な仮説に辿り着けるようになるのだ。そして何より肝心なこととして、このプロセスは誰でも一つ一つ丁寧に学ぶことができる。つまり創造性は暗黙知ではなく、学べるものになるだろう。」まで読めば、創造は通常無意識的に行われるものであるが、鍛錬を積めばそれをある程度意識的に行う (または無意識的過程を意識的にドライブする) ことができる、というのが『進化思考』の本旨であろうことが読み取れる。
| 卵の産卵数が多いほど生存可能性が上がるのと同じく、大量の変異的
| アイデアを短時間で生み出すスキルは、新しい可能性にたどり着く確| 率を上げる。(p.59)
M: もしこの記述が真ならば、なぜ人間の女性は毎年1億の子を産まないのだろう?めちゃくちゃな記述である。進化思考よりMCMC*思考のほうが近いのでは…試行、評価関数による吟味(ただしこの評価関数がとてもノイジー)、確率的な移動、また試行、吟味、確率的な移動などの概念が説明できる。そのサイクルが速いほうが「新しい可能性にたどり着く確率を上げる」のは確かだ。
💜もし松井氏が個体の生存確率について語っているのだとしたら、「大量の変異的アイデアを短時間で生み出すスキルは、新しい可能性にたどり着く確率を上げる」という文脈から推測するに、太刀川氏がここで言っている「生存可能性」というのは子一匹あたりの生存確率ではなく、親一匹に対して繁殖年齢まで生存する子数 (またはもっと一般的にある相対経時時間における生存子数) の期待値のことだろう。確かに表現としては不適切であるので訂正は必要だが、これくらいの意図は読み取って欲しい。(そういう文脈抜きにしても、そもそも普通、産卵数 (産子数) の増加が生存確率にプラスに寄与することはない (血縁利他行動の存在や被捕食選択率の低下などでプラスに寄与することもありうるが、太刀川氏がそういった込み入った話をしているようにはあまり見えない。また餌資源の有限性の観点からは生存率にマイナスに働きうる) ことを踏まえれば、太刀川氏が本来の意味での生存可能性ではなく、親一匹に対して繁殖年齢まで生存する子数の期待値といったことについて語っている可能性が高いのは普通に読み取れる)。
またそうではなく、「親一匹に対して繁殖年齢まで生存する子数の期待値」といった意味で取ってるけど、じゃあ人間も1億人産む方が適応的である、と言っているのであれば、それは人間 (及び哺乳類) の繁殖形式を全く無視した暴論であるのでお話にならない。
| これはまさに進化論のプロセスの図示そのものだ。(p.60)
| 図1-8 進化の螺旋(p.61)
M: 「進化の螺旋」図においてなぜ適応側でも枝分かれしているのかわからない。同様に、変異側でもバツ印はついていないにしても剪定が起きている。単に、枝分かれ=変異、剪定=適応なら非常にわかりやすい。しかしこの図はそうなっておらず、適応側でも変異側でも枝分かれと剪定が起きている。
「最適に向かうデザインの収束」が生物進化とはかけ離れている。(さまざまな局所)最適に向かうデザインの発散、枝分かれが進化と理解しているが。これでは樹状になっているとは言い難く、ダーウィン以前の、梯子を登っていくかのように単純→複雑に、よりよくなっていくというチェインモデルの側面を強調したもののように思える。
進化とは「どんなものでもさらに良くできる(p.60)」ことらしいのだが、それは進化ではない。生物を死に至らしめる有害変異も進化の重要なプロセスの一部だ。著者は全体的に「進化とは進歩で、よりよくなっていく梯子を登る行為」というダーウィン以前の考えで創造を説明している。cf. p.468への指摘
I: なぜ「振り子」ではなく螺旋なのか? 中心軸からの距離は何を表しているのか?なぜ縦軸のGenerationが等間隔でないのか? 仮にこの「Generarionが進むにつれてコンセプトが上昇(?)する」というモデルを受け入れるとしても、進化においては変異の発生確率は変わらず、横軸方向への動きが狭まっていくのはおかしいのではないか? いずれにしても単位が何なのか不明である以上、この「なんかそれっぽい図」を読み解きようがない。
💜まず松井氏のコメントについてだが、適応側でも枝分かれしていたり、変異側でも剪定が起きているのは、別に明確なターン性ではないということが言いたいのではないだろうか?また『進化思考』が手元にないので、ネット記事上 (「世界的デザイナーがやさしく解説「誰でもつかめる、創造的なアイディアを生む進化思考」~太刀川英輔氏」[28]) の同様のものと思われる図を見た上での話になるが (画像1)、少なくともこの図のおいては変異側ではバツ印はついておらず、ただ枝分かれしたものが止まっているだけである。これは別に剪定ではないのではないだろうか?アイデアというものは意識的にも無意識的にもたくさん出てくるけどそれを全て意識的に精査している訳ではないということだと思う。
また「最適に向かうデザインの収束」に関してはある特定の環境に対する話としては特に問題ないように思える。松井氏は樹状であることを求めているが、それは系統樹全体を見たときの話に過ぎない。系統樹においてある一つの種から遡るように見ていくとそれは一直線のものになっている。また私が見ている記事を見る限りでは、この進化の螺旋の図はあくまで進化思考の図であって、生物進化について語っているものではないように見える。したがてそこまで厳密性を求める必要はないように思われる。
また「どんなものでもさらに良くできる」に対して、有害変異の存在を以って突っ込んでいるが、ここで太刀川氏が言っているのは明らかに適応進化における適応的形質の話なのだから的外れではないだろうか?厳密にはその通りだが。また太刀川氏が本当に「進化とはどんなものでもさらに良くできることである」というような定義的主張をしているのであれば、上で述べたように厳密には誤りとなりうるが、もし仮にそうではなくて「進化はどんなものでもさらに良くできる」というようにただ単に進化の性質の一部を述べる主張をしていたのであれば、ここでの松井氏の指摘は不適切だろう。
振り子にすべきというという伊藤氏の主張もよく分からない。振り子にしたら縦の次元が無くなるので言えることがほとんど無くなるのでは?また中心軸からの距離や縦軸 (generation) の幅に関して突っ込んでいるが、中心軸からのズレはコンセプトからのズレであるとごく普通に読み取れるし、縦軸の幅の変化は更新スピードの変化 (初期は頻繁にプロトタイプを作って試して改良していくといった感じ) を示しているのではないだろうか?したがって「Generarionが進むにつれてコンセプトが上昇(?)する」という伊藤氏の解釈は彼の読解力不足による単なる誤読であり、正しくは「Generarionが進むにつれてコンセプトに適切に収束する」という図である。
また「進化においては変異の発生確率は変わらず、横軸方向への動きが狭まっていくのはおかしいのではないか?」とのことだが、まずこれは生物進化そのものではなく、進化思考の話なので変異の発生確率はプロダクトの精錬具合によって変わり得るだろう。意識的にも無意識的にも最終段階で出てくる新規アイデア数はプロトタイプ段階に比べて減るのが普通である。またそもそも横軸方向への動きの大小は変異の発生確率というよりは、変異の質や程度に依存するものだろう。そして質の差異や程度についても段々と小さくなっていくのが普通である。
| 変化はエラーが引き起こす(p.70)
I: 「エラー」を十把一絡げに扱い議論をしているので、破綻が生じている。 ドナルド・ノーマンの『誰のためのデザイン?』[20]に従い、「エラー」を計画段階での「見当違い」である「ミステイクmistake」と、実行段階での「し損い」である「スリップslip」に分けるとする。創造性で必要とされる「エラー」は様々な可能性を試し、正解以外を選んだ「ミステイク」である。一方、DNAの変異は複製を正しく遂行できなかった「スリップ」である。本文中の「エラー」を正しく「ミステイク」と「スリップ」のどちらかに置換すると相当読みやすくなり、また論理の破綻もより明らかになるだろう。詳細は次章参照のこと。
「エラー」を2種類に分けて考えることは世間一般的とは言い難いかもしれないが、質的に異なることは明らかであるし、著者の提唱する「解剖」の視点を「エラー」に適用しさえすれば達することのできる視点であろう。少なくともデザイナーがノーマンのベストセラーを読んでいない、では不勉強の誹は免れられまい。
一般にエラーついて詳細に分類することの価値そのものは否定しないが、それは今の話においてそれほど重要なものなのだろうか?次章で詳しく述べられるそうなので楽しみにしておくが。
なお「少なくともデザイナーがノーマンのベストセラーを読んでいない、では不勉強の誹は免れられまい」とのことだが、『誰のためのデザイン?』ではアフォーダンス理論という私が前々から疑義を呈している科学理論をさらに誤解釈して援用しているらしく、そういった点から私はあまり読む気にならない。後になって誤解釈を訂正した改訂版が出版されたらしいが、問題は未だ存在すると思われる。彼はドアノブをアフォーダンスの例として出しているらしいが[29]、ドアノブ及び扉を開くといった極めて非自然的な対象すら拾うようにアフォーダンス理論における直接知覚が進化してきたとは私はとても思えない。私はアフォーダンス理論にだいぶ疑義的だが、生態的に瞬時の判断が要求されるような知覚に限定すれば、正しい可能性もあるかもしれないと思っている。しかし、ドアノブ程度であれば既存の知覚理論における学習で十分説明が可能だ。したがって、そんな例を紹介する本を私は信用できない。とはいえ、アフォーダンスの提唱者であるギブソン自身が「郵便ポストのアフォーダンス」なるものがあると言っているらしいので[30]、そういうのに納得していればドアノブの例を出すことに特に疑問を持たないのかもしれない。私にはギブソンは不適切にアフォーダンス概念を拡張しているように見えるが。
| では、何が創造を洗練させるのか。欠陥があるものや需要のないもの
| は自然淘汰される。物を作る人はエラーしつづけることで創造を🟢| 前進🟢させるが、創造を🟢洗練🟢させるのはユーザーや市場への適| 応なのだ。(p.72)
M: この記述はほぼ同意する。当書での数少ない集団的思考への言及である。市場こそが自然淘汰の舞台だ。とはいえ色々と改善できるのではないかと思う表現はある。創造を洗練させる、というのはやや主観的な表現だし、適応が洗練「させる」という表現はピンとこない。自然淘汰という言葉は生物進化にとっておいてほしい(自然naturalという言葉が、人為的でもhigher entityによるものでもないことを意味するので)。また、創造という言葉選びも当書を通して同意しがたい。デザインもしくは設計のほうが私はしっくりくる。
※本稿執筆者注:実際の引用部では🟢で挟んだ「前進」「洗練」の上に傍点が付いているが、noteでは再現不能なのでこのように示した。
「創造を洗練させる、というのはやや主観的な表現だし」とのことだが、別にそこまで問題ないだろう。「この厳しい環境が彼の能力を洗練させるだろう」というように非主体的対象を主語とした「させる」という表現が単に客観的な因果性を述べる意味で使われることは一般に受け入れられている。また「適応が洗練「させる」という表現はピンとこない」とのことだが、これも「適応」をプロセス的定義と取るならば特に問題ないだろう。
なお「デザインもしくは設計」というのはp.90の話のことだと思うが、これは松井氏が進化の定義を狭く取っていることによるものであり、松井氏独自の主張なので一般に言えることではない。
| そもそも失敗=変異的エラーがなければ、成功=創造的進化もないの
| だ。(p.73)
M: ここでの失敗・成功の定義が曖昧だが、適応度の上下につながる変異をすべて変異とするのなら、失敗の要因⊂変異だし、成功の要因⊂変異となる。有害変異は失敗である、というのであれば、有害変異がなければ成功しないという論は成立しない(実際には有害変異なしで有益な変異ばかり作り出す、という)ので、この記述は間違いになる。
💜文脈が分からないので、太刀川氏がどういった意図で「失敗」と言っているのかはっきりとは分からないが、単に突然変異 (mutant) の意味で「失敗」と言っているのだとしたら特に問題はないだろう。また有害変異の意味で「失敗」と言っていた場合、確かに有害変異が必ず成功に必要であるという記述そのものはおかしいものの、有益な変異が出てくるまでには有害な変異が出てくることも多いという意味で「失敗がなければ、成功もない」と言っているのであれば、その内容そのものは一般に受け入れられるものである。
| 部下の発想は論破するのに代案を出せない残念な上司のような、非創
| 造的な人が社会に増えてしまう。(p.73)
M: この上司は「非創造的な人」か? 変異と適応が両輪だというのなら、部下の提出した変異を適応(というか吟味による棄却)するのはたいへんに創造的な人だと思う。また部下の(実現すればたくさんの複製を産めるようなポテンシャルを秘めた)有益な変異をもってきていたとして、それを棄却するのもまた進化のプロセスの一部だろう。
変異と適応の両輪が必要なのはそうだが、それを両方持ち合わせている人が「創造的な人」であるというのが太刀川氏の趣旨ではないだろうか?部下の案を吟味をすることのみを以って「たいへんに創造的な人」と見なすのは明らかにここまでの太刀川氏の趣旨から外れているし、一般的感覚から言ってもおかしい。
| 進化という語感は、前よりも良くなる進歩的現象だと誤解されてい
| る。しかし 実際の進化は必ずしも進歩ではなく、ランダムな変化の
| 連続だ。(p.74)
M: こういう進化学にとって基礎的で重要な記述は確かに当書に登場するのだが、それが全文に反映されていないのは残念だ。ただし、自然選択は非ランダムなプロセスなので進化はランダムな変化の連続だという表現は適切ではない。*
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
* 以下林からのコメント。「ここは「適切でない」と断言するほどのと
ころでもないと考えます。変異はランダムだが選択は非ランダム、とい
うのはその通り。ランダムな「変異」が含まれるので「自然選択はラン
ダムな変化である」というのは生物学者としてそれほど不自然な記述で
はなく、僕も流してしまったところ。一方で、「進化は無目的である」
という意味での「ランダムな変化の連続だ。」という解釈はありうる
し、僕はそのように受け取ったのでここは流しています。「自然選択は
非ランダム」と「進化は無目的」の間の説明がないとイチャモンに見え
ます。当書では珍しく「進歩ではなく」と留保がついていますし、少な
くとも僕はここは「適切でない」と一言で断じるところでもないと考え
ます。」
※本稿執筆者注:「*」以降の字下げされた記述はp.98下部の注釈文である。
💜太刀川氏が周辺知識含め進化を完全に正確に理解している訳ではないことは確かだが、批判集の執筆者らが言うほど理解してない訳ではないと私は感じる。ここまで指摘してきたように、この批判集には執筆者らの生物学的知識の不足や単なる読解力不足による勘違いが多く存在する。
また、「ランダムな変化」に関しては補足にて林氏からも突っ込まれているが、変異がランダムであることから「進化はランダムな変化の連続」と表現することにそれほど違和感はない。また「進化は無目的である」という意味でのランダム性である可能性が林氏から提示されているが、「前よりも良くなる進歩的現象だと誤解されている」という文脈を踏まえれば、ここは単に常に有益な変異が起きる単線的なものではないという意味で太刀川氏はランダム性を持ち出しており、「目的」といった意志性については特に言及していないと思われる。
| 進化思考的に今考えてみれば、ボケは変異、ツッコミは適応だ。
| (p.76)
I: それをいうなら「ツッコミ」は「淘汰圧」(p.83)である。
ここまで読んできたことから察するに、伊藤氏も「適応」を歴史的定義のみで理解していると思われるが、非歴史的定義やプロセス的定義で考えれば、ある形質が適応的か否かという意味で適応をツッコミと表現することはそれほど間違いと言えるものではない。確かにそのツッコミは還元的には環境の淘汰圧に由来するのだが、そのような観点で見るならば「淘汰圧じゃなくて環境がツッコミだろう」と言うこともできる訳なので、要するに大した問題ではない。
| 人類は爆発的なスピードで道具を発明し、発展してきた。(p.78)
I: 当書の論旨に沿えば、ここは道具を「創造」し、であるべきではないのだろうか。と思ったら既に「発明」と「創造」はあちこちで混用されていた。読みやすさのために同じ語の繰り返しを避け、類義語を使う、という文章の技法はあるのだが…。
💜別に「発明」でも良くないだろうか?その本の趣旨に沿った単語のみを使うべきというのはおかしい。またその後「だが…」という語尾を取っているが、「だが…」じゃなくてはっきりと自分の主張を述べるべきだろう。伊藤氏限らずこの本にはこういった皮肉的表現が数多く存在するが、そういうのを見るに彼らは建設的議論をしたい訳ではないように思われる。
| この言語と遺伝子の類似性こそ、言語によって人が道具を発明し、自
| らを進化させられた理由だと考えると、創造と進化が類似している謎
| が氷解する。(p.80)
M: 言語そのものが進化するので、この記述は「人間の進化と遺伝子の進化の類似性が、人間がこんなに複雑な人工物を発展させた理由だ」と言っているようなものだ。原因と結果がめちゃめちゃになっている。
I: 「謎が氷解する」、「この仮説は深く腹落ちする」(p.79)、「創造性という人類だけに起こった奇跡に合点がいく」(p.83)。このように論証なく独り合点で論を進めてしまうのには閉口する。小学生でなくとも「それってあなたの感想ですよね?」*と言いたくなる。
言語と遺伝子の類似性 (と太刀川氏が称するもの) は、言語によって道具を発明してきたことと特に関係ないので、ここでの太刀川氏の主張が誤りであるのは確かだが、もし仮に関係があったならば、それが創造と進化が類似している理由になりうるので、松井氏の指摘はズレている気がする。
また「このように論証なく独り合点で論を進めてしまうのには閉口する」とのことだが、一応仮定について議論はしているようなので、「論証なく独り合点で」というのは少し言い過ぎな気がする。ただその議論が足りてないのは確かであるが。
| 〈創造にとっての言語≒進化にとってのDNA〉(p.82)
M: この記述じたいはなるほどとは思う。しかし図面は?楽譜は?手にとって触れる実物は?言葉がないビーバーにとってのダムづくり遺伝子は?となり、言語以外にもDNAの座の候補はいくらでもある。一言で言えば、「メディア」はすべてDNAの座の候補だ。
私はあまりなるほどとは思わない。確かにこの記述単体で見れば、見るところはあるかもしれないが、先ほど彼が単語や文法を言語とDNAの類似性として挙げていることから見るに、ここでもそういう話をしている可能性が高く、太刀川氏は言語が他者とのコミュニケーションや個人内の思考の道具となるという点で道具の創造において重要であるということを意図している訳ではないように見える。
またビーバーに大して詳しい訳ではないが、ビーバーのダムはここで言っている「創造」とは特に関係ないのではないだろうか?ダム作り行動が多少社会学習されるものである可能性はあるが、基本的には行動の幅は遺伝的に決まっており、人間における道具の創造といった非遺伝的な人工物作成 (個々の具体的な道具と対応する遺伝子が存在する訳ではない) とは異なるものであると思われる。
| これらの会話がDNAの交配に相当するなら、(pp.82-83)
M: 会話はたしかに言語に変異を生む重要なメカニズムのひとつではあると思うが、ひとつにすぎないし、交配という有性生殖のメカニズムとは関連が薄い。「会話はアイディアのセックスだ」という言葉のキャッチーさはわかるし主旨にも同意するが、それを科学的に妥当な仮説だと捉え、科学的に検証するには非常に長い道のりが待っている。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
I: 相当しないだろう。DNAの交配は物理的に交換されるが、会話における言語のやりとりは「交配」あるいは「交換」ではないだろう。日本語と英語の交配はルー大柴の「ルー語」みたいになるとでも言いたいのであれば別だが。言葉の誤解の例としては「sewing machine」の「sewing」が「欠失」した「ミシン」だろうか。
💜文脈が今一分からないが、ここで太刀川氏が言っている「相当」というのが具体的にどういうことを指しているのか分からないので、何を検証すべきなのかが分からない。もし単に「二個体それぞれから由来する対象 (今でいう会話やDNA) が関係し合って新しい何かを生む」という意味での類似性について言っているのであれば、その相当性は正しいだろう。そしてそれ以上の相当性は個人的に思いつかない。もしそれ以上のことを言おうとしているのであれば、それは明確な誤りか、もしくは科学的対象ではない可能性が高い。松井氏は「会話はアイディアのセックスだ」が科学的に検証が可能であるかのような発言をしているが、少なくともこの文をそのまま見ただけでは、これは科学的に検証可能な対象ではない。しかしここでの「セックス」の定義を上手いこと定めてやれば科学的検証対象となれる可能性はなくはないだろう。
「交配」は個体に関する言葉であるという松井氏の指摘はその通り。一方「DNAの交配は物理的に交換される」という伊藤氏の指摘はよく分からない。前述の通り交配はDNAに関する言葉ではないし、個体の交配においてDNAが個体及び生殖細胞の間で交換されることはない。相同染色体間で組み換えが起きることはあるが、「交配」というワードピックからはそれを意図しているようには見えない。なお一応、遺伝子プールといった集団レベルの話においてはまるで交換されているかのように振る舞うと言い得るが (AB集団とCD集団 (アルファベットは対立遺伝子を示す) からAC個体とBD個体が出来ることはAB集団とCD集団が対立遺伝子を交換しているように見える)、伊藤氏がここまで考えているかは不明である。
| 言語から創造につながる変異の発生数は、進化より桁違いに多くな
| る。(p.83)
M: 意味がわからない。比較できるものではない。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
言語の進化が生物の進化よりも早い、という主張であれば同意できる。
「言語の進化が生物の進化よりも早い」というのは一般的にはそうかもしれないが、具体的にはそれぞれの進化対象に拠るだろう。中略した部分で松井氏自身が挙げているが、細菌などのように世代交代が早い種では進化速度は速い。
| 結果として、文化の進化は自然の進化よりもはるかに速く、進化に比| べて淘汰までの時間が短い。(p.83)
M: 「淘汰までの時間」とは何を指すのだろうか?生まれて数分で死滅する細菌は淘汰までの時間が短いのではないのか。もし人間進化のみを比較対象にしているならそのように書くべきだ。たとえば、ここ数十万年の人類にとっては表現型の進化よりも文化の進化のほうが重大な影響を及ぼした、という記述であれば同意する*。
淘汰と進化の話は若干別物ではあるが、結局速いかどうかがそれぞれの進化 (淘汰) 対象に拠るということは一緒なので、松井氏は言ってることにいまいち一貫性がないような気がする。1つ前の指摘で「言語の進化が生物の進化よりも早い、という主張であれば同意できる」と言っていたのだから、淘汰の速度についても同意できると言うのが自然ということ。言語の進化と生物の進化においてもここで松井氏が言っているような細菌の進化速度は反例となりうるので。
なお以上は「進化に比べて淘汰までの時間が短い」における「進化」を生物進化として解釈したもので、文脈的におそらくこの解釈で合っていると思われるが、文字通り「進化に比べて淘汰までの時間が短い」と読むと、だいぶよく分からない文章になっているので訂正したほうが良い。
| 地球上で人間以外に言語を操る生物が確認できていないことを見れ
| ば、創造性という人類だけに起こった奇跡に合点がいく。(p.83)
I: そんなことはない。すぐ後に著者自ら書いている鳥の鳴き声の言語性については中学国語の教科書にも取り上げられている。本書p60も参照。「言語」ではなく「文字」と言いたいのではないかと思うが、人間においても文字の発明と言語の発明は明らかに異なる事象である。
💜これは既に別のところ (p.60) でも指摘したが、「言語」の定義によるだろう。確かに鳥類などで人の言語に近いものが見られるのは確かだが、学習によって際限なく語彙を増やすこともできないし、記号と指示対象の結合を自由に行うこともできないし、また文構造を自由に拡張することもできないので人間の言語には遠く及ばない。中学国語というのはおそらくシジュウカラのことを言っているのだろうが、シジュウカラの鳴き声は基本的に非学習性のはずなので、もし仮にシジュウカラがモノを言葉で命名でき、かつそれを他個体と共有できたとしても (実際はそんな自由な命名は不可能であると思われるが) 、何らかの対象に付ける名前のストックには限りがあるので、書き文字関係なく人間のように口伝で文化を再帰的に発展させ続けることはできない (他の言語的能力を持つ種も何らかの不完全性を持つ)。したがって道具といったような人工物を自由に創造及び発展させるのに必要なレベルの言語を持つのは人間のみである (確かに文字は言語コミュニケーションをより円滑にするものであるが、理論的には口伝のみでも道具の創造・発展は可能である)。
| 創造におけるエラーのパターンの根源には言語的性質がある。だから
| こそ言語にそっくりな構造を持ったDNAが引き起こす進化上の変異
| も、同じパターンを生み出すのではないか。こうした考察から、言語
| 構造がもたらす変異的エラーが、創造と進化の本質に共通するパター
| ンを形成しているという仮説に至った。(p.86)
I: 著者の「言語的」の定義は、「たとえ話や誇張やイントネーションのような言語的性質があり、また言語的に伝達しやすいアイデアを、明快なコンセプトとして捉えているようだ。」(p.76) ということらしい。だが上述した通り、言語的性質というよりヒューマンエラー、あるいは認知の問題である。従って、創造におけるエラーと進化におけるDNAの変異がどちらも言語的である、という論は誤りである。創造と進化を結びつける根拠は棄却された。創造と進化は残念ながら無関係なのだ。
💛太刀川氏の云う「言語的性質」によって創造と進化を結びつけることが誤りであるのはそうなのだが、両者が無関係ということは別にないのではないだろうか?「言語的性質」云々は創造と進化の結び付けに尤もらしさを出すためのオマケみたいなもの (はっきり言ってしまえば蛇足) に過ぎず、太刀川氏の主張の本質ではないような気がする。創造と進化が現象の発生メカニズムとして完全に同一であるということはまずありえないのだが、類似性に関しては検討する余地がない訳でもない。太刀川氏がこれまで説明してきたように少なくともアナロジーとしては多少似ているところはあるし、実際に創造 (アイデア発想) という認知現象が疑似進化的 (発散・収束的) な性質を持つ可能性もなくはない。もし仮にそうであったとしたら、それを意図的に引き起こすという観点で進化のアナロジーを使うことに多少は価値があるだろうし、もしそうでなくとも進化のアナロジーの使用にはある程度が価値があるのではないだろうか?
科学的には保留が付くけど、方法論としては有用ということは割とあり、例えば、J. J. ギブソンが本来言っていた意味での「アフォーダンス理論」(環境に意味が存在していて、主体は環境に存在する意味をピックアップするだけ) というのは、私は疑わしいと思っているが、そういったようにモノが主体に意味を与える (例: 適度な高さ・大きさの頑丈な物体が座ることをアフォードする) という比喩的な考え方はモノのデザイン等で役立つことはあるだろう。私の知る限りではギブソンが本来言っていた意味でのアフォーダンス理論は現状実証されていない訳だが、それでもまるでアフォーダンス理論が科学的に正しいかのような論調で、世の中のデザイン界隈ではアフォーダンス理論が広まっているように見える (美大など、アフォーダンス理論の講義が行われている大学もある) 。私はかつてはこの現状に非常に否定的だったが、あくまで方法論として使われるなら別に良いかもしれないと最近は思うようになった。それで、これと同様に進化のアナロジーを使うことにもある程度価値はあるように思われる。
| 創造が生まれるとき、偶然にあとから理由がつくのか、それとも論理| を積み上げた先にあるのか。この問いに対して私は、つねに偶然の変| 異が先にあると考える。歴史上の発明や法則の発見の多くは、偶然起| こってしまったエラーや、計算式のなかのわずかなエラーの発見をき| っかけに起こっている。(p.88)
M: この問いに対して「偶然の変異が先にある」が答えである、というのは対応しない。偶然にあとから理由がつく、というのと偶然の変異が先にあるというのは同じことを言っていない。さらに続けて、「歴史上の発明や法則の発見の多くは、偶然起こってしまったエラーや、計算式のなかのわずかなエラーの発見」から来ているとするが、その2つのエラーは別物だ。前者はアクシデントとしてのエラー、後者は測定と理論の差としての誤差(エラー)だ。多義的に用いられる語を定義せずに曖昧なまま記述しているために論理が破綻している。「エラー」や「進化」のように一般的に広く用いられる語はどうしても多義的になりがちだ。「適応度」のような専門用語ですら定義が錯綜するので、「あれもこれもエラーだよね」と独り合点する前に一度立ち止まって、語の用法を見直したほうがよいように思う。また、天動説(というか地動説)も相対性理論もエラーの発見というよりも実測値と旧理論がずれるという後者の「誤差としての」エラーに関する議論をもとに構築されており、それはまさに「論理を積み上げた先にある」創造だ。アクシデントをきっかけに起きた創造として有名なペニシリンやポストイットを例にあげればよかったと思う。
I: 重要なパートだが、ここも「エラー」が問題である。「偶然の変異が先にある」「偶然起こってしまったエラー」はスリップである。一方、創造性を高めるための「エラーへの挑戦の数」はミステイクである。上で松井が言う「多義的」とは、この「エラー」の語のように質の違う意味を複数包含していることを指している。
💜「この問いに対して「偶然の変異が先にある」が答えである、というのは対応しない。偶然にあとから理由がつく、というのと偶然の変異が先にあるというのは同じことを言っていない」とのことだが、「偶然の変異が先にある」は「偶然にあとから理由がつく」の必要条件であるし、「(偶然なしに) 論理を積み上げた先にある」ことと排反なので別に大して問題はないのではないだろうか?
それと「その2つのエラーは別物だ。多義的に用いられる語を定義せずに曖昧なまま記述しているために論理が破綻している。」とのことだが、エラーを詳細に分類できるのは確かであるものの、だからといって別物としないなら論理が破綻しているというのはよく分からない。「測定と理論の差としての誤差(エラー)」に基づく創造は「偶然にあとから理由がつく」のではなくて「論理を積み上げた先にある」に該当すると言いたいのだろうか?しかし、測定と理論の誤差というのは言うなれば予測の外れな訳なのでそういう意味でアクシデント (偶然) 的な要素は多少はあるのではないだろうか?ある測定法とある理論が与えられたとき、それの数値差がどうであるかは客観的には必然である訳だが、そもそもその測定法と理論を与えたのは人間であるし、何らかの予測を持って人は実験するものなので、誤差が無いと予測して誤差があったり、予測誤差とのズレがあったりすればそれはアクシデント的である。要するに太刀川氏が言いたいのは何らかの想定外のことが元となって創造が生まれることが多いということではないだろうか?確かに「つねに偶然の変異が先にある」というような全称性については言い過ぎだと思うが、傾向的な話をしているのであればある程度納得できなくもない話であるし、この観点においてはエラーの詳細な分類にあまり意味はないように思われる。なおさっき何も言わずに補足したが、「偶然にあとから理由がつく」と「論理を積み上げた先にある」は別に排反ではないので、後者について「"偶然なしに"論理を積み上げた先にある」というように訂正したほうが良い。
また伊藤氏曰く「「偶然の変異が先にある」 「偶然起こってしまったエラー」はスリップである。一方、創造性を高めるための 「エラーへの挑戦の数」はミステイクである。」とのことだが、そもそもそのように一意には分類できないと思われるし、そういった分類の如何は太刀川氏の主張を論理破綻として無価値化するものではないと思う。どちらの種類のエラーも結局創造に行き着く可能性がある訳で、どちらも重要であるということではいけないのだろうか?
| ノーベルやオズボーンが語るように、肝心なのは成功確率ではなく、
| エラーへの挑戦の数だ。(p.89)
M: そうではなく、成功確率も試行回数と同様に重要なのだが、成功確率は試行回数のようには線形には伸ばせず、訓練によってある程度伸びるにしても頭打ちであるが、試行回数は誰でも伸ばせるからがんばろうねということだと思う。
ここで太刀川氏云うオズボーンの語りというのは、その直前で引用した「創造的な成功は通常、案出した試案の数に正比例する。」 (『進化思考』p.89) のことだと思うのだが、太刀川氏の言ってることは別に誤りと言えるものでもないだろう。太刀川氏は要するに成功率の高いような挑戦を時間をかけて吟味して1つだけやるよりは、成功率が高くなくてもよいのでたくさん挑戦したほうが結果的に成功度の期待値は高いと言っていると思われる。松井氏は太刀川氏の話を、成功確率一般よりも試行回数一般のほうが重要という話として解釈したようだが、現実的な実践の話をしているのだから期待値について述べていると解釈するのが適切ではないだろうか?なお、個人的には太刀川氏の主張のほうがオズボーンの意図と合致している気がする。オズボーンは成功確率は成長率が低いからなんてそんな話はしていないように見えるからである。
| 生物でも、たくさん卵を産めば生存確率が上がるように、ここでは数| が重要となる。(p.89)
M: あるひとつのサケの卵が生存する確率≫ある一頭のゾウの子の生存確率ではないので、たくさん卵を産んでも生存確率は上がらない。むしろたくさん卵を産めば産むほどひとつひとつの卵の生存確率は下がるというのが一般的な傾向だろう。
💜似たようなことを既に別のところ (p.43, p.95) でも指摘したが、オズボーンの「創造的な成功は通常、案出した試案の数に正比例する」という発言を引用し、アイデア出しの量について話している文脈を踏まえれば、ここで太刀川氏が言っている「生存確率」というのは、子一匹あたりの生存確率ではなく、親一匹に対して繁殖年齢まで生存する子数 (またはもっと一般的にある相対経時時間における生存子数) の期待値のことだろう。確かに表現としては不適切であるので訂正は必要だが、これくらいの意図は読み取って欲しい。(意図を読み取った上で敢えて表面上の瑕疵のみを指摘している可能性もなくはないが)。
またそういった文脈以外にも、そもそも普通、産卵数 (産子数) の増加が生存確率にプラスに寄与することはない (血縁利他行動の存在や被捕食選択率の低下などでプラスに寄与することもありうるが、太刀川氏がそういった込み入った話をしているようにはあまり見えない。また餌資源の有限性の観点からは生存率にマイナスに働きうる) ことを踏まえれば、太刀川氏が本来の意味での生存可能性ではなく、親一匹に対して繁殖年齢まで生存する子数 (またはもっと一般的にある相対経時時間における生存子数) の期待値について語っている可能性が高いのは読み取れるだろう。
もちろん親一匹に対して繁殖年齢まで生存する子数が産(卵or子)数の増加に対して延々と増加することはほとんどないだろうし、具体的なラインは種によって異なるとは思うが、一般的に言ってある程度の産(卵or子)数までは増加傾向にあるとは言えるだろう。特にここで太刀川氏は「卵」と言っているし。
| 宇宙飛行士の毛利衛氏は「宇宙からは国境線は見えなかった」と語っ
| ている。(p.100)
M: とても良い言葉だと思うと同時に、好むと好まざるとにかかわらず、国境線は大きな文化の差を近距離で保持しうるため環境の差異を産みうる。北朝鮮と韓国は採用しているシステムが非常に異なり、その差は宇宙からも明るさの差として国境線沿いにくっきり見えたはずだ[30]。統合して久しい東西ベルリンについても未だに言える[31]。均質な環境で似たような遺伝子をもっていた生物の集団が地理的隔絶[32]により種分化することがある。国境線もまた文化的な断絶と種分化(と表現するには非常にためらいがあるが)を生む重要な要素だといえる。
文脈が分からないので、太刀川氏がどういった意図でその言葉を言っているのかは分からないが、少なくとも引用されている範囲では松井氏の指摘は的外れのような気がする。言っていることそのものは正しいのだが、それは太刀川氏の発言とは特に関係ないように思われる。引用外で何か関係あることを言っているのであれば、それが分かるように引用すべきである。
| さらに遡れば数万年前、人類も国家やコミュニティを作るよりも前か
| ら、動物の声真似をしていたと考えられている。(p.104)
M: 動物の声真似をしていたことが言語の起源であるとする、ダーウィンも採用した19世紀の「ワンワン説」[33]と呼ばれる学説からそう言っているのだとしたら、少なくともその説は現在は支持されていない。模倣する能力じたいは言語の進化に影響を与えていたにしても。また、そのはるか前からヒトは集団で生活していたと思うのだが、それはコミュニティではないということだろうか。
文脈が明確には分からないが、少なくともその文章において太刀川氏が言っているのは、動物の声真似をしていたというだけであり、別に言語の起源が声真似であったかどうかは今は特に関係ないのではないだろうか?
またここで太刀川氏が云う「コミュニティ」というのは単なる生物集団とは異なるものではないだろうか?
| 相手の目を欺く擬態は、生物の生存戦略にとって主流な方法として観
| 察される。 (p.106)
M: 主に視覚的なものが多いのはたしかだが、擬態はそれだけにとどまらない。音を真似するもの、化学的なもの、触覚的なもの、はてには電気的なものさえあるらしい[34]。
これは「相手の目を欺く」というのを非制限用法として解釈したために出てくる批判であり、制限用法として解釈する場合は特に問題はない。太刀川氏がどっちの意図で書いたかは分からないが。
| このように、自身の天敵にとって嫌な相手に化け、強いふりをするタ
| イプの擬態はベイツ型擬態と呼ばれている。(p.107)
I: ベイツ型擬態の「嫌な相手」は「有毒」あるいは「食べると不味い」ということであって、「強いふり」ではない。強いふりは直前の「トラカミキリは強力なアシナガバチにとても似た外観を獲得している」のmimicry(標識的擬態)の例が妥当だったのに、何故余計なことを書いてしまったのか理解に苦しむ。
💛これは本稿の冒頭で触れたもので、p.21では「非常に単純で深刻な間違い」「初歩的な事実誤認」と評されているが、全くの的外れの批判である。前半の「ベイツ型擬態の「嫌な相手」は「有毒」あるいは「食べると不味い」ということであって、「強いふり」ではない」という部分だけ読むと、「強いふり」における「強い」を「戦闘的強さ」として捉え、それで「有毒」や「食べると不味い」種への擬態は「強いふり」ではないと批判しているようにも見えるが、後半を見るとそうでもないらしい。後半では強いふりの例としてトラカミキリの標識的擬態を挙げているが、ベイツ型擬態は標識的擬態の一部であるし、そもそもトラカミキリの例は紛れもなくベイツ型擬態である。伊藤氏はベイツ型擬態が標識的擬態に含まれることを理解していないように思われる。一体彼の中で両者がどのように定義されているのか非常に気になる。
またアシナガバチへの擬態が強いふりの例として妥当と言っているが、アシナガバチへの擬態が有効なのはその有毒性による。しかし伊藤氏は「ベイツ型擬態の「嫌な相手」は「有毒」あるいは「食べると不味い」ということであって、「強いふり」ではない」とも言っており、明らかに矛盾している。ここで伊藤氏が言っているベイツ型擬態の「有毒」というのが、捕食後に効いてくる毒のみを言っている可能性もあるが、その場合その後の「食べると不味い」と合わせて、伊藤氏は捕食後に対抗策を持つ種に関してのみベイツ型擬態を定義しているように見える。しかし、それはベイツ型擬態の理解として間違っている。
なお、「有毒」あるいは「食べると不味い」種の特定の非有害的形質を模倣することで有害能力にタダ乗りするベイツ型擬態を「強いふり」と表現することは一般的にそこまで問題ないだろう。
| フクロウチョウは、その名の通り、羽の上に目を開いたフクロウそっ
| くりの模様が描かれている。(p.107)
M: フクロウチョウは人間から見れば確かにフクロウの頭部っぽいが、フクロウを模しているかはわかっていないようだ。また、目のような模様は非常にポピュラーだが、それが「驚かせるため」「強そうに見せるため」ではなさそう、というのが最近の学説 だったと記憶している。むしろ、お腹を攻撃されるよりは、羽の端っこが破れるほうがまだマシだという囮としての役割が確認されている。つまり、羽の辺縁部に目のような目立つ模様を設け、そこを攻撃されてもお腹への攻撃に比べればクリティカルなダメージを避けられるということだ。
💜これもこの引用部分を見る限りでは特に問題はない。「フクロウチョウは、その名の通り、羽の上に目を開いたフクロウそっくりの模様が描かれている」という文章は単にフクロウチョウの模様がフクロウの目に似ているということを述べているのであって、その模様が実際にフクロウの目玉として鳥類等に認識されているだとか、その結果忌避反応が起こるだとか、そういった機能については全く述べていない。ただ実際には第二章で林氏が同じ部分を引用しており、そこで太刀川氏が目玉模様の機能についても語っていることが読み取れるので、松井氏の指摘そのものは適切である。しかし、そういうことを言いたいのであれば、ちゃんとそれが分かるように引用して欲しい。初めに断ったように、仮にも一冊の本として上梓したならばその本単独で論理的に完結させるべきではないだろうか?
また「目のような模様は非常にポピュラーだが、それが「驚かせるため」「強そうに見せるため」ではなさそう、というのが最近の学説だったと記憶している」というのも校閲と云う割にはだいぶ曖昧な情報ですねという感じなのだが、内容に関しても一応述べておくと、確かに囮としての機能に関する研究は存在するが、チョウ類の目玉模様に関してはまだはっきりとしたことは分かっていないと記憶している (正直私も一々文献を調べるのは面倒なので「記憶」で失礼させていただく (特に、まだよく分かっていないということを引用して説明するのは中々骨が折れるので))。例えば、チョウ類の目玉模様にはフクロウチョウのように主に大きな目玉模様が1つだけ存在する種と、ヒメウラナミジャノメのように中くらい以上の目玉模様が複数個存在する種がおり、また目玉模様の位置に関しても前翅・後翅また表裏等で様々な種差がある。したがって、種によってその機能が異なる可能性は十分にありうる(類内及び種内において忌避反応説と囮説の二者択一であると考える必要はない)。
| あらゆる形態には理由が宿っている。(p.113)
M: 生物のあらゆる形質はすべて適応的であるといったん仮定(いわゆる作業仮説を設定)して、そのメカニズムを究明しようとするアプローチを適応主義という。この記述はそれに近い姿勢であり、非常に賛同できるものなのだが、わずかな変更が必要で、「あらゆる形態には理由が宿っているはずだという姿勢で臨もう」であれば賛同できる。偶然によって形態が決まっている(遺伝的浮動、中立進化など)ことも十分にあるし、理由が解明できないものもある。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
すべての形質が適応である、あらゆる形態には理由が宿っている、というのは汎適応主義の誹りを免れない。
💜松井氏が言いたいことには概ね同意ではあるが、これは「あらゆる形態には理由が宿っている」における「理由」を「単なる理由一般」ではなく「適応的な理由」と解釈したときの話に過ぎず、そのように解釈する必然性は別にない。単なる理由一般として取れば太刀川氏の文章には何も問題はない。中立進化による形質も遺伝的浮動という確かな理由を持つし、なんなら別に進化的な理由に限らず、発生的理由を述べても良い (そしてその場合全ての形態において理由は簡単に宿り得る)。
しかし、実際のところはおそらく太刀川氏も「理由」というのを「適応的な理由」として言っていたと思われる。ではなぜ「適応的な理由」と書かなかったのか (また、なぜ松井氏はそれを適応的な理由として疑いなく読み、そしてそれ以降の部分で「理由」を適応的な理由の意で使っていたのか) というと、おそらくではあるが目的論的な視点が多少存在していたからではないだろうか?すなわち「適応的」という情報が見かけ上落ちていたのは、単に文脈的に適応進化の話をしていることが自明だから (「適応」という情報を”省いた”) というよりは、「理由」という語に目的論的な意味を無意識に見てしまったために、目的論的な理由となりうる適応的理由が「理由」に"既に内包されている"と自然に取ってしまったからではないだろうか (遺伝的浮動や発生メカニズムは目的論的な理由とはならないので)?これはあくまで私の主観的想像に過ぎないが、これ以前の部分で目的論的に見えるような記述をいくらかしていた太刀川氏においてそう思われるのはもちろんのこと、また松井氏に関しても、言葉の使い方に厳密であろうとする批判をここまで山ほどしてきたのにこの部分では珍しく語の使用法が雑なので、その可能性があるのではないかと思った。結局人間は「理由」に目的論的な意味を見てしまう傾向があるのではないかということである。とはいえ、多少は文脈からの自明性による省略もあるとは思われる。
| 地球史を遡ってみると、闇夜を照らしつづけてきた最も明るい光は、
| 月にほかならない。つまりあらゆる照明は、すべて月をコピーしたも| のだ。(p.114)
I: 何故ここで「擬態」ではなく「コピー」という新しい語を用いるのか理解に苦しむ。これまでの話ではこここそ「擬態」と言うべきなのではないか。「コピー」には「模倣」の意味もあるが、語源は「たくさん」であり[38]、日本語訳としては「複製」が第一義である。『進化思考』第二章的には「増殖」で使うべき語ではないか。
別に違う言葉を使っても良いのではないだろうか?「べき」とまでは言えない気がする。少なくとも「模倣」の意味もある訳なので。
| 擬態的な思考は現在まで、「見立て」や「メタファー」など、人類史
| の数千年にわたってさまざまな文化領域で発想の手法として用いられ
| てきた。(p.116)
I: その通り。既に名前の付いた概念に新たに別名(「擬態的な思考」)を与えるのは単なる無駄である。「見立て」と「メタファー」でおそらくほとんどの日本人に通じるのだから。
💜新たな名前を当てても別に良くないだろうか?学術的な用語の話をしている訳でもないので。特にアイデア発想においてはガワというのは割と効いてくると思うので、新たなガワを与えることにはそれなりの価値があると思われる。今は思考法の話をしているのでメタ的ではあるが、思考法における新たなガワを立てることを否定することは、例え話を否定することに近い気がする (思考法レベルにおける例えを否定しているということ)。またこれは可能性の話に過ぎないが、人間における個々の具体的な状況での思考プロセスというのは抽象的な思考プロセスを状況に応じて逐次応用したものであるとは限らないことが言われており (心のモジュール性) 、「擬態」という生態的要素を含む思考プロセスが単なる「見立て」や「メタファー」とだいぶ質が異なる可能性もなくはない。
また「擬態的な思考」とすることで進化思考における他の「変異」をセットで感覚的に掴める効果もありそうではある。
| たとえば猫型ロボットを考えているなら、猫についてしっかり観察し
| ていないロボットはうまくいかない。(p.117)
I: 「 猫型ロボット」が最適な例なのだろうか。文中で既に「犬型ロボット」を揶揄しているので猫にしたのかもしれないが、クマとかブタとかでも良かったのではないだろうか。世界中で最も有名な「猫型ロボット」は耳がなく、青い。2足歩行が基本だし、爪もない。擬態という点ではどちらかというと不出来な方であろう。逆に「猫型ロボット」を考えろと言われて「耳がなく青い」ロボットはまず思い付かない筈であり、藤本弘*の天才ぶりをこれ以上ないくらいに示しているとも言えよう。
あまりにもしょうもなさすぎる難癖である。猫は愛玩動物として人間と関わりが深く、犬と並んで動物としてかなりメジャーであるため、何かしらの動物型ロボットの例示として別におかしな点はない。某猫型ロボットを想起させ、その場合は正確な観察云々の記述とリンクしないと言いたいのだろうが、仮に当記述を読んで頭の隅に某青い狸がよぎったとしても、それによって話の意図が読み取れないということはほぼありえないだろう。
| またクマの一種であるコアラも同じようにクマにはある尻尾がない
| し、トカゲに近接する種であるはずのヘビには足がない。(p.119)
M: コアラはクマの一種ではなく有袋類だ。
I: 「近接する種であるはず」の「はず」の意味が不明だが、トカゲやヘビという「種」は存在しない。同じ有隣目に分類され、トカゲはトカゲ亜目、ヘビはヘビ亜目である。亜目の下には科、属、種の3階級がある。この「八段階のフォルダに分けて分類されている」(p.267)という認識は太刀川も有しているようだ。例えると、東京都(有隣目)23区内(ヘビ亜目)中央区(科)銀座(属)四丁目(種)と東京都23区外(トカゲ亜目)武蔵野市(科)吉祥寺本町(属)一丁目(種)くらいの感じである。「近接する」とは言い難い。
いや、トカゲとヘビは一般的感覚として近接していると言ってよいだろう。地名によって種まで例えることで近接していない感を出しているつもりなのかもしれないが、そもそも今は「種」で比較していないので話がズレているし (太刀川氏の種発言はただのミス (蛇足) であり本質ではない)、仮に種を比較していたとしても「東京都(有隣目)23区内(ヘビ亜目)中央区(科)銀座(属)四丁目(種)」と「東京都23区外(トカゲ亜目)武蔵野市(科)吉祥寺本町(属)一丁目(種)」は関東レベル (爬虫類)、日本レベル (脊椎動物門) で見れば十分近い。
| 形ばかりでなく色が欠失することもある。多くの種では一定の確率で
| 色素を持たない個体、アルビノが生まれてくる。(p.119)
M: アルビノは色が欠失した個体ではなくメラニン色素の生成に障害をもつ個体であり、このふたつは同じではない。小人症が身長が欠失する障害ではないように。
💜「色が欠失した」という表現は別に問題ないのではないだろうか?通常存在する色が無いということなので。また、身長の話を例示として出しているが、色というのは厳密には連続的であるものの、実際には赤、青、緑などある程度カテゴリー化されて認識されており、そういった点で連続的性質の強い身長は比較として不適切であるように思われる。また、色は混ぜたり足し引きできるような対象であるが身長はそうではない点を踏まえると、やはり例として不適切だろう。
| ダイソンは羽根のない扇風機を発売しているし、共鳴胴(振動音に共
| 鳴する胴)を持たないサイレントギター、バイオリン、チェロがヤマ
| ハから発売されている。(p.121-122)
M: 既存のものから不合理な部分を取り除くのは人工物における退化(という言葉をここでは使う)なのか? 一見合理的に見える足をなくしてしまったヘビ、バランスとるのに有利そうな尻尾をなくしたApe、顎を小さく弱くした人間、そういう大胆なトレードオフをあげたほうがいいのではないだろうか。
今一文脈が分からないが、別に退化と言っても良いのではないだろうか。別の観点が重視されたために元々は合理的であった部分が無くなるor弱化することは、人工物でも生物でも同様に退化と言えるだろう。何を以って「大胆なトレードオフ」と言いたいのか今一分からない。羽根のない扇風機もサイレント楽器も十分大胆だと思うが。
| あるのが当たり前だと思っていた概念がないことを仮定したときに、
| 科学や社会が一気に進むこともある。たとえば〇(ゼロ)という数字| もそうだ。(p.121)
M: ゼロの概念が欠失だというが、ゼロという概念はむしろ付け加えられたことによって数学を進歩させたので、それは欠失でも退化でもないのでは…。たとえばなにかを仮定して解けないはずのナヴィエストークスを解けるようにする、とか、モアレフィルターなくして画質向上なら退化かも。いや、前者は違うな…。
💜松井氏はゼロという概念が既存の数字概念に対する欠失であったことと、ゼロという概念を導入したことそのものを混同している。引用されている文章を見る限りは太刀川氏は前者について述べているように見えるし、ここまでの発想法という文脈から考えても前者の意味で取るべきだろう。
| 当然のように起こっている差別もまた、存在する必要はないはずだ。
| (p.122)
M: お気持ちは大変そのとおりだと思うのだが、差別のメカニズムと著者のお気持ちは関係がない。進化の看板を掲げるなら差別はなぜ起こるのか?のメカニズムを進化的に説明すべきで、差別をすることが適応的であるからこそ根が深く厄介なのであって、「差別は悪いですね、存在する必要がないからやめましょうね」というのは中学の道徳の授業である。よそもの差別の適応的メカニズムについてはヘンリックの『文化がヒトを進化させた』[24]、ミラーの『消費資本主義!』[39]が詳しい。
💜「必要」というのは個々の観点において言えることであり (ある集合に対してどの集合が含まれるのか)、太刀川氏がここで云う「必要はないはず」というのは単に「人間社会一般」としては別に必要ではないということを述べたいのではないだろうか?松井氏は「適応度」の観点しか見えておらず、それのみで必要か否かの全てを語ることができると勘違いしているように見える。
また「差別をすることが適応的である」というのがもし全称命題であるならば、それは誤りではないだろうか?例えば昨今SNS等で過熱している不毛な男女論争ではお互いの性が他方を差別している節が多くみられるが、ここにどのような適応的意義があるのだろう。集団間の忌避に関する一般論は多少当てはまるかもしれないが、総合的に見て適応的にプラスに働いているようには私には見えない。単に差別的行動が適応進化の影響をいくらか受けているということを述べているのであれば問題ないかもしれないが、そういうことを言い始めると、人間の行動のほぼ全ては大小何らかの点で適応的であるはずなので、そういった薄い意味での適応性に大した意味はないだろう。
また「「差別は悪いですね、存在する必要がないからやめましょうね」というのは中学の道徳の授業である。」という発言は差別を道徳的に否定する姿勢を馬鹿にしているようにも見えるが、道徳というトップダウン的および実践的価値付けは人間社会においてそれなりに意味のあるものである。「メカニズムを進化的に説明すべき」という発言も踏まえると、松井氏は皆がメカニズムを理解できれば差別はなくなると考えているようにも見えるが、まず現実的に皆が差別のメカニズムを理解するのは無理である。加えてメカニズムを理解したところで実際のところ大した手立てはない。研究者としてはメカニズムの理解に高い価値を置きたくなるのだろうが、社会実践的には道徳的説明をした方がよっぽど役に立つのではないだろうか (別に二者択一という訳ではないが)。これは自戒を込めてだが、この話に限らずメカニズムを理解することで何か他人より優位性を得た気になって、それで満足して終わるようにはなりたくないものである。
| 牛、羊、山羊などは反芻動物と呼ばれ、四つの胃を持っている。消化
| しにくい草を食べるので、第一胃に飲み込んだ食べ物を、第二胃を使
| ってまた口に戻し、何度も咀嚼しながら食べる。そして十分に咀嚼し
| たものを第三胃と第四胃で栄養に変える仕組みだ。どうやら四つの胃
| のうち三つは正確にいうと食道を変形させたものらしいが、その様子
| を見れば明らかに胃袋が増えている様子がわかる。(pp.129-130)
I: 反芻動物の四つの胃は草のセルロースなどを分解吸収するための仕組みであるが、「三つは正確にいうと食道を変形させたものらしい」という由来もさることながら、役割も異なっている。焼肉としてもミノ(第一胃)とハチノス(第二胃)だけを比べても色も形状も触感も全く違うことが一目瞭然であろう。同じものを増やすのが当書の言う「増殖」ではないのか。内臓(焼肉)で言うならば肺(フワ)や腎臓(マメ)が左右2つあることの方がまだ「増殖」の例と言えるように思う。
文脈がはっきりとは分からないが別に増殖といっても良いのではないだろうか?似たような機能のモノを増やしたという意味で。また胚と腎臓の方が増殖の例としてふさわしいとのことだが、「腎臓」に関しては進化の初期からの二つあったはずなので増殖の例としては相応しくない気がする。
日本人としてアボリジニの皆様にかたじけない気持ちである。(p.142)
I: 「かたじけない」(忝い)は現代語では感謝の意を表す語である。さすがに編集者もこれくらいは気付いて欲しい。確かに古語では「面目ない」の意味もあるが…。
古語ではあるが、そういった意味の用法も割と見るような気がする。それこそが誤用だと言われればそうかもしれないが。時代劇とか時代設定が昔の漫画とかそういった中での使用が現代において古語の意味での使用が残っている原因かもしれない。
| イチイヅタは急速に大量発生し、毒を持っていたため数年のうちに在
| 来種の海藻を死滅させ、地中海の生態系に壊滅的なダメージを与えて| しまった。 (p.143)
I: この書き方だとイチイヅタがアレロパシー(Allelopathy、他感作用)を持っているように読める。だが、イチイヅタの「毒」であるコーレルぺニン(Caulerpenyne)は捕食者(つまり動物)に対する「毒」である。イチイヅタだけ生存能力が高く、結果的に繁殖したと解釈するべき現象である。
確かに太刀川氏の主張はアレロパシーを想起させるものであるので表現として不適切であり、また実際おそらく太刀川氏はそのように理解してしまっているように思われる。一方、伊藤氏の云う「イチイヅタだけ生存能力が高く、結果的に繁殖したと解釈するべき現象である」というのもやや片手落ちであり、イチイヅタが地中海でこれほど生息域を拡大させた要因としては、単に生存能力が高い(毒による捕食圧の低下、海底基質の非選択性や波浪への抵抗性)だけではなく、繁殖形態が主に栄養繁殖であることや生活環の噛み合いで他種との競争で有利を取っていることなどが挙げられる [31]。
| 手段がなければ目的は達成されないが、目的は手段よりも常に優先さ
| れる(p.161)
I: この本を貫く哲学と思われる。「進化思考」を提唱するという「目的」が「手段」である「進化学」や「生物学」あるいは「正確な文章」よりも優先されてしまっている。
💜既に別のところでも書いたが、この批判集では「太刀川氏が進化についてよく理解していないことにしたい」「太刀川氏の主張を既存の文化進化の話に落とし込みたい」という「目的」が、「適切な文章読解」という「手段」よりも優先されてしまっているように感じる。そうでなければあれだけの誤読は発生しないように思われるからだ。単に文章読解力が低いという可能性もあるが。
| 生物進化における「分離」(p.165)
M: 進化のプロセスの話をしているのだから、単に形質としての分離だけではなく、集団の分離として地理的隔離をはじめとした生殖的隔離を紹介してほしかった。
💜これは好みの範疇の話ではないだろうか?松井氏はこの引用部分以前から集団の分離に強いこだわりがあるような発言をしているが、集団の分離について特に話さなければならない訳ではない。なお、p.31で林氏が「種分化に関する説明であり「進化論の構造」としてここで挙げるものでもないだろう」、p.89で松井氏が「「進化論の構造」の一部とすべきではない。種の分化は進化の結果であって、進化に必須の条件でも「構造」でもないというのが私の理解だ」というように種分化は進化論の構造に含まれないと言っていたのに、ここでは種分化が進化のプロセスに含められているように見える。松井氏個人としてはもちろん、一冊の本としても一貫性がない。
| その結果として、私たち人間の六人に一人は左利きとなって左右が逆
| 転するし、一三人に一人がLGBT(性的マイノリティ)として性自
| 認が逆転し、二万二〇〇〇人に一人が内臓逆位、つまり体内のすべて
| の内臓が鏡のように左右を反転した状態で生まれてくる。こうした反
| 転は特別なことではなく、ただ一定の確率で生まれるし、進化のため
| に必要なエラーでもある。(p.177)
M: 左利きは左右が逆転しており、LGBTは性認識が逆転しているわけではない。「正常」から逆転しているのではなく、単なるバリエーションだ。LGBTはエラーという立場なのだろうか。確かに「染色体異常」とかも異常・エラーなのかという話はあるとは思う。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
逆転の生物をあげるならハルキゲニアが最もよいと思う。彼らは何も逆転していないが、人類は彼らの前後ろや上下をさかさまに勘違いし続けていた。「逆」という感覚そのものが人間の固定観念由来の主観な気がする。
LGBTのBに関しては当てはまらないと思うが、左利きとLGTに関しては別に逆転と言っても良いのではないだろうか?。「「正常」から逆転しているのではなく、単なるバリエーションだ」とのことだが、そのバリエーションの一つとして逆転的な性質を持つと言える訳なので。また「個体 (個人) は逆転していない。皆それぞれ一人の人間 (バリエーション) である」というようなことを言いたい可能性もあるが、今ここで太刀川氏が言っている「逆転」というのはあくまで「利き手」や「性」についてであって、「個体 (個人) 」について言っている訳ではないだろう。
また、ハルキゲニアを逆転の適切な例として挙げているが、これは人間が勘違いしていたというだけの話であり、むしろ不適切な例だと思われる。「「逆」という感覚そのものが人間の固定観念由来の主観な気がする」とも言っているが、二者択一的または対称性のある尺度において片方側から見てもう片方は逆である。これは主観ではない。一方ハルキゲニアにおいては主観的に逆だと勘違いしていたのであって、そもそもそこには客観的な逆はない。(「そもそも「逆」という概念が存在することが主観に拠る」という反論が予想されるが、そういった現象学的な話とは別に「逆」というのは客観的に定義可能なものであるので、その反論は無効化される)。
| イノベーションを提唱したシュンペーターも「郵便馬車を次から次へ
| とつなげるようなことをしても、鉄道は決して生まれてこない」と語
| る。つまり融合から発想するには、足してもなおシンプルな状態を保
| つ工夫、すなわち最適化を目指すデザインが不可欠だ。(pp.197-198)
I: シュンペーターの郵便馬車の話の原文を確認したわけではないが、同じものを「増殖」させるのではなく、異質なものを新たに結合することがイノベーションには必要だというような文脈だと推測する。それが著者のシンプル云々という見解とどうつながるのか全く理解ができない。
シンプル云々は冗長性や統一性に関して言っているのではないか?最適化とも言っているし。ただ足しただけでは機能に冗長性があったり、統一性に欠けるところがあるので、足したものが「一つのモノ」 (というシンプルなもの) になるためには、そういった部分への工夫が必要という話であるように思われる。
| 進化は、偶然だ。(p.200)
M: キャッチコピーかなにかか? 生物の変異や中立進化はたしかに偶然といってもいいが、文化の変異(特に誘導された変異)、自然選択、バイアスのある伝達は偶然ではない。「あらゆる生物進化は、偶然からはじまる」であればまあ問題ないと思う。進化をはじめとした難しくて巨大な概念を、よく読むと意味のわからない、短くてそれっぽい言葉で断定的に決めつけることに魅力を感じる読者むけの本であることは重々承知しているが…。
💜変異が偶然であるのならば、それを基とする進化は当然偶然の現象であるのだからそれほど問題はないだろう。「麻雀は運ゲー」というのとだいたい同じようなものである (プレイそのものはランダムではないが、プレイの基となる配牌はランダム) 。
また後半のような皮肉的な文は本当にやめた方がいい。ここから松井氏がどういったモチベーションでこの批判集を書いているかがだいたい分かるものだ。少なくとも真面目に対話する気はないのだろう。
| 無数の変異的挑戦による、壮大な結果論なのだ。(p.200)
M: 結果論とは、結果がわかってからあとづけで結果のみを根拠に説明することだと思っているのだが、違うのだろうか。進化理論じたいは後付けではないし、適応主義にしても結果のみを根拠にするアプローチではなく、結果をもとに原因まで逆流する推論で、リバースエンジニアリングに近いものだ。
💜引用範囲が狭すぎて太刀川氏の文章における主語が何なのかよく分からないが、彼は単に「目的があって進化した訳ではない」(ある適応的形質の存在は偶然に基づく結果であって何らかの目的を持って形成されたものではない) というよくある説明をしているだけではないだろうか?目的論ではないという意味で結果論と言っているだけだと思う (「結果論」の適切な語用からは多少ズレているとは思うが)。「進化は無数の偶然的変異に基づく、壮大な結果だ」とすれば特に問題ないだろう (「結果論」が意図していたと思われる非目的性を「偶然的」の部分で表現した)。
| そして変異のパターンとは、結果を恐れずに偶然に向かおうとする挑
| 戦のパターンそのものでもある。(p.200)
M: 偶然に向かおうとする挑戦のパターンとはなにものをさすのか理解できている自信がないが、生物の変異は挑戦ではなくエラーである。文化の変異についても、挑戦であるとは限らず、偶然によってうまれたコピーミスだったりする。デザインにおいて新しいアイディアを創造することは挑戦だ!と著者が閃くことは自由に表現していただければと思うが、そのひらめきを説明し正当化するのに「変異」という学術的な用語を使ってよい妥当性はないと私は思う。
💜文脈が分からないのではっきりしたことは言えないが、「結果を恐れずに偶然に向かおうとする挑戦のパターン」というのは成功率の高い挑戦を吟味してごく少数だけ実行するのではなくて、失敗を恐れず多くの挑戦を試してみるということについて言っているのではないだろうか?
そういう訳で「そのもの」というのはさすがに言い過ぎだと思うが、類似性があるくらいであれば特に問題はないだろう。生物進化における変異についても上記のような「失敗への恐れ」は存在せず、多くの変異が自然に起きる訳なので。
| 失敗するくらいなら、やらないほうがましだ。(p.206)
M: 変化の回避は創造性を阻害する、ということらしい。それはそうかもしれないが、進化は(基本的には)変化を嫌う。そのため、失敗するくらいならやらないほうがましだという判断は進化によって得られた形質ともいえる。ヒトの進化においても、進化適応環境EEAではrisk aversion的なバイアスを進化の途上で獲得したらしい。それが生存などに関わらない起業などでも発揮されてしまっているため、もっと起業すればいいのにという意味でrisk takingな行動を勧めることがある。つまり、本能的に勘定するリスクは過大評価しがちなので、努めてその感覚に抗って、「怖く思えるけれど、実際のリスクは今私が感じているものよりも矮小なはずだ」と思えるかが成功の鍵となる、という研究がある。
💜「それはそうかもしれないが」とのことだが、太刀川氏の言っていることには同意した上で、その後言ってることは全部ついでの話ということで良いのだろうか?実際その後言ってることは太刀川氏の言ってることを一切否定しないので。
また似たようなことを何回か言ってきているが、この本は引用が少なすぎて太刀川氏が何を言いたいのか分かりづらいことが多い。「変化の回避は創造性を阻害する、ということらしい」と後から補足してあるが、初めに引用している文だけでは、太刀川氏自身が「やらないほうがまし」と考えているように一瞬見えるので紛らわしい。
| 思い込みの発生だ。思い込んでしまうと、わかったつもりになって、
| 実はわかっていない自分に気づかなくなる。だから自分とは違うもの
| の見方をする人を見ると、相手が間違っていると考えてしまう。
| (p.207)
I: 第2章で林も絶賛しているが、同感である。この文で締め括りたい。
💜ここまで説明してきたように、この批判集にも多くの誤りが存在する。例えば、適応の定義が歴史的定義だけだと思い込み、非歴史的定義に基づく説明を誤りと断じ、「当初の最大の誤り」「意味がわからない」「よくいって怪文である」とまで言ってしまっている。さらに少なくとも林氏は本書の執筆の一年ほど前にこの点について指摘されていたのに、それを訂正しないままである。まさに自分が正しいという思い込みが発生しているように思える。(なお、実は伊藤氏と松井氏に関しても「とある進化生物学者」からのコメントを確認していた可能性が高い。詳しくは本稿最後の「終わりに」を参照)。
| 動物行動学(ethology)を確立したニコ・ティンバーゲンは、動物の
| 関係性を理解するために「四つのなぜ」を提唱した。
|
| 1 解剖生理学(内部の機構がなぜ、どのように機能するのか)
| 2 発生学(どんなプロセスで生物が生み出されるのか)
| 3 系統学(どんな歴史的経緯をたどって進化してきたのか)
| 4 行動生態学(生態系のなかで生物がどんな適応的関係を持ってい
| るか)(p.208)
M: 個体発生学を解剖として統合するのは無理がある。発生生物学は解剖の一分野ではない。適応はティンバーゲンの4つのなぜにあてはめれば静的な究極要因にあたる。適応を観察するために予測を加えるのはどういう理由で? ティンバーゲンの4つのなぜは動物の行動を対象にしていて、適応は「この行動にはどのような繁殖・生存上の利益があるのだろうか、という適応の観点からある行動を分析(リバース・エンジニアリング)する」ということであって、「この適応を解剖しよう」とか「この適応を系統にあてはめよう」ということではない。ほとんどあらゆる動物行動は適応の結果であるからといって、ティンバーゲンの4つのなぜが適応を対象にしているということにはならない気がする。学習learningをあてているが、ティンバーゲンの4つのなぜは探究studyingのほうが近いのではないか。時空観とは? 結局、著者の提案する「時空観マップ」とティンバーゲンの4つのなぜには関連はあまりないといわざるをえない。用語の借用と、用語の奥にあるコンセプトの援用には深い溝がある。別物として捉えなければいつまでもティンバーゲンの4つのなぜの表との対応を見出せず苦しむことになる。
I: 「 四つのなぜ」に関してだが、参考文献に挙げられている長谷川眞理子氏の『生き物をめぐる4つの「なぜ」』[44]では「至近要因」「究極要因」「発達要因」「系統進化要因」とされている。そもそも参考文献(p.503)に挙げられているニコ・ティンバーゲンの『動物の行動』[45]には「四つのなぜ」も書いていないように思うが…。
💜引用部分が少なすぎて、何について批判しているのか全く分からない。これまでもそういう傾向が結構あったが、この部分はかなりひどい。批判内容そのものはそれなりに一理ありそうだが、当の太刀川氏の主張が全く分からないので、批判そのものへのコメントは控えることにする。
なお、引用されている部分に関してコメントすると、まず初めの「動物の関係性を理解するため」というのが曖昧でよく分からない。何と何の関係性について考えているのかよく分からないし、そもそも一般にニコ・ティンバーゲンの4つのなぜとは動物の「行動」について理解するためのものである。また4つ目の行動生態学における「生態系のなかで生物がどんな適応的関係を持っているか」についても同様に怪しく、「適応的関係」というのが具体的に何と何の関係を考えているのか分からない。単に環境へのフィットを語るならば適応的"関係"と言う必要はない。
| そして四つの観点が揃うことで初めて、現在の事象を網羅的に理解で
| きるのだ。(p.209)
M: 進化生物学は基本的には未来をうまく予測しないので、現代の生物学は生物を網羅的に理解できないということだろうか。
これに関しては松井氏が何を言いたのか全く分からない。なぜなら、まずそもそも太刀川氏は引用されてる範囲では「予測」については何も語っていないし、「現代の生物学は生物を網羅的に理解できない」を意味するようなことも全く述べていないように見えるからだ。たぶんこの部分も引用不足ではないかと思われる。
| 時空観マップ:時空観学習の4つの観点(p.210)
I: 外部―内部、過去―未来の2軸自体は良いと思うので、生物学の援用は全く必要ないだろう。「予測」は生物学ではない。
これも引用が少なすぎて太刀川氏の主張がよく分からない。4つの観点そのものは分かったが、ここでも「予測」とは何のことなのか全く述べられていない。
| 私の目標の一つは、時空観学習の四つの軸を、現在の義務教育のカリ
| キュラムに導入してもらうことだ。(p.212)
M: ぼくのかんがえたさいきょうの教育法だ。EM菌、江戸しぐさ、水の記憶の類だ。当書のように完全に間違った進化学の理解を子どもに教えるのだけはやめてほしい。自己啓発スピリチュアルデザインセミナーはそれ相応の聴衆が(主に企業などに)いるはずだ。疑似科学は20歳になってから。
💛太刀川氏が進化を完璧に理解している訳ではないのは確かだが、完全に間違っているとは別に言えないだろう。ここまで指摘してきたようにこの批判集には著者らの理解不足に基づく誤った指摘が数多く存在する。したがって「完全に間違った進化学の理解」というのは松井氏のただの思い込みである。例えば「適応」の定義に関しては、批判集の著者らが歴史的定義しか知らないだけの話であり、そうであるのに「当初の最大の誤り」「意味がわからない」「よくいって怪文である」などと自信満々に批判してしまっている。果たして「完全に間違った進化学の理解」などと他人に言ってる場合だろうか?(「適応」や「進化」に関して、その定義の複数性を無視して自分の考える定義以外は誤りとする批判集の著者らは、私からすれば「ぼくのかんがえるさいきょうの適応・進化」に拘泥しているように見える)。
またそもそもここで太刀川氏は進化学そのものではなくてあくまで思考法について言っている気がする。したがって「完全に間違った進化学の理解を子どもに教える」という指摘は不適切ではないだろうか?
| 生物学における解剖は、次の三つの考え方に大別できる。(p.223)
I: 根拠が不明。形態学的な解剖に尽きると思うが。少なくとも「3 要素がどのように発生するのかを理解する―発生学的な解剖」は時間軸に沿った「形態学的な解剖」では。
ここも引用不足である。批判の妥当性を検討できるようになっていない。「根拠が不明」と主張するならば、最低限どう三つに大別しているか引用すべきだろう。なお若干引用されている3番を見るに、太刀川氏がここで言っている「解剖」は生物学で普通言う意味での解剖ではないような気がする。また「発生学的」と言うとあれだが、一般にある事象をそれがどのようにして形成されてきたかという観点で見ていくことを「発生論的」(または「発生的」) と言うことは割とあるので (哲学方面でよく見る)、そこまでズレたことは言っていないような気がする。
| 生物も無生物も共通して、それぞれの膜ごとに要素がコンポーネント
| になっているので、臓器移植やコンピューターのメモリ交換のよう
| に、それらを交換することができる。(p.226)
M: 生物も無生物もコンポーネントを交換できるということになっているが、交換可能なモジュールの単位として臓器をだしてくるのはさすがに無理がある。臓器は自然科学の発展によって人工的に無理やり交換できるようになったのであって、生物全般でいえば臓器は交換できないものの代表である。逆になにであれば交換可能なのかといえばたとえば体細胞があげられるだろう(とはいえ色々条件が揃わないと正常に交換できないが)。造血幹細胞などでは細胞というモジュールを壊してはまた新しい細胞を作っている。臓器は不全に陥れば基本的に死あるのみだ。蟻の足は要素がコンポーネントになっているが、一度失えば二度と生えてこない。
臓器も交換可能であることは確かなので、「さすがに無理がある」と言うほどではないだろう。別に「非人工的に」とか「簡単に」とか言ってる訳でもないので。なお最後の蟻の話は何を言いたいのか分からない。前後の文との繋がりが薄いことを考えると、太刀川氏が蟻の足について何か言ってるのだろうか?そういう引用はないが。
| つまりテーブルと食事は、目的のベクトルで繋がれている。(p.230)
M: 目的のベクトルとは? 目的のベクトルで繋がるとは?
「つまり」の前から引用してもらわないと文脈がよく分からない。おそらくだが、太刀川氏は「目的 (機能) の観点で関係している」というようなことが言いたいのではないだろうか?
| すこし抽象的な話になるが、目的にも入れ子構造があることを補足し
| ておきたい。たとえば、テーブルの天板の目的が「モノを置くための
| 平らな平面」なら、その奥に広がる意味をさらに問いかけてみよう。
| (p.230)
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
I: 目的に「入れ子構造」という語を使うところに筆者のオリジナリティを感じる…。こういった「顧客が欲しいのはドリルではなく穴」[46]的な話の場合、「上位目的」や「メタ思考」のように、上あるいは外という感覚を用いることが多いように思う。またその際に一般的に用いられるのは「入れ子」ではなく梯子だろう。長谷川眞理子氏がよく「入れ子構造」の語を使う[47][48]から使いたかったのだろうか。
💜文脈がはっきりとは分からないが、別に入れ子構造で問題ないのではないだろうか?「顧客が欲しいのはドリルではなく穴」というような話は今関係ないような気がする。「「モノを置くための平らな平面」なら、その奥に広がる意味をさらに問いかけてみよう」と言っているのだから、何のために置くのかとか、そういったより詳細な目的についての話だと想定される (実際、中略した部分で松井氏が「なぜこの人工物 (テーブル)はこういう機能(「平面を提供するため」「モノを置くため」「食事を便利 に扱うため」)があるのか?」という記述を引用している)。もしそういう話であれば入れ子構造で問題ないし、むしろ「上位目的」や「メタ思考」は不適切なようにも思える。また長谷川真理子氏が使っているかどうかは私は知らないが、「入れ子構造」は一般に普通に使用される言葉である。
なお、伊藤氏のコメントの前に松井氏のコメントも存在しているが、松井氏のそれには全面的に同意だったので、ここではカットした。
| こうしてモノに秘められた目的は、入れ子構造の内側から外側へ向か| って広がっていくのだ。(p.231)
I: やはり「外側へ向か」う感覚だったようだ。入れ子構造nestingは「ファイルシステムのディレクトリ構造」(p.226)のように下位や内側に意識の向かう表現である。「重くなる」ことを「軽さが減る」とわざわざ表現しないように、「内側から外側へ向かって広がっていく」ことを述べるのに内向きの方向性を持つ「入れ子」の語を用いる必要はあるまい。「多層の構造」(p.231)もしくは「多層構造」で十分な筈だ。
そもそも「入れ子構造」という語が多義的である。元々の「マトリョーシカ人形」(p.225) のように物理的な「入れ子構造」は相似形(正確にはオフセットした形状)を重ねるものだが、プログラミングでは再帰的な構造を指す。長谷川眞理子の言う「入れ子構造」[47]は「コンポーネント」(p.231)や関係代名詞のように、関係する複数の要素をひと括りにするものだ。こうみるとあまり良い語ではない気がしてきた。
💜これに関しても引用部の前がないので、「こうして」というのがどういうものなのか分からない。引用は適切に行って欲しい。また入れ子構造が「下位や内側に意識の向かう表現」であるというのは個人的には特に同意できるものではない。普通に単に似たようなものが多層的に包含されているという意味で私は理解しているし、普通そうではないか?どういう理由で下位や内側に意識が向かうと考えているのか分からない。マトリョーシカを考えてもそうではないだろうか?また代案として「多層構造」を提示しているが、多層構造は単に多層であること (上下関係) を言っているだけなので包含関係 (内外関係) の意味は特に持たず、したがって不適切ではないか?
また「「入れ子構造」という語が多義的である」に関しては、原義がマトリョーシカ的なものであるのだから、普通はその意味で取る。特にそういう文脈でもないのにプログラミングでの意味を気にする必要はないだろう。
| 自然選択 張力――それは関係と形が一致するか(p.236)
M: 自然選択としての張力などというものはない。物質や構造が十分な時間をかけるとある安定な形状に落ち着くことは確かにあるし、それが自然によるデザインであるということができるということに関してはよいと思うが、それと進化学における、集団を篩にかける自然選択を結びつけるのは無理がある。皮肉でもなんでもなく、この「自然選択」アイコンはなんのためにつけているのだろう? カッコつけだろうか…。学術用語を適当に散りばめればカッコつくとは私には思えないのだが。
これに関しても引用が少なすぎる。これだけでは太刀川氏の言いたいことがほぼ何も分からない。太刀川氏の云う「張力」というのが自然選択において環境にフィットする方向に形質が進化していくことを述べているならばそこまでおかしなことではない気がする。
| 私は、デザイナーには暗黙知としての張力感があると感じている。
| (p.240)
I: 「張力感」という感覚を否定はしないが、さすがに文字のカーニングとカーデザイナーの空力に対する感覚を一緒にするのは無理がないか。そもそも科学的な泡やカテナリー曲線などの記述に続けて「張力観」という視覚的な感覚の話を続けてしまうことで、一気に擬似科学感が発生してしまっている。
「「張力観」という視覚的な感覚の話」とのことだが、視覚的な感覚の話とは別に一般に言えない気がする。この辺の太刀川氏の泡の話がよく分からないことそのものには同意するが。
| 自然選択 最適化――それは徹底的に無駄がないか(p.241)
M: 自然の世界での最適化(エネルギー最小化)と、自然選択による最適化と、人工物の改善プロセスでの最適化(なにかの、多くの場合数値的な評価基準を改善するための方策)は似ている点よりも異なる点のほうが多い。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
しかし当書ではこれらは明確に区別されておらず、「自然界には最小になろうとする小さな圧力がまんべんなく働いている」という曖昧な説明がされる。何が最小化されるのだろうか?たとえば煙は放っておけばどんどん拡散する。星は引力により大きくなる。生物も自然界に含めるのであれば、子どもは大きくなるし恐竜のなかには極めて大きくなるよう進化したものがいる。先述したように、無生物自然界であればエネルギーを最小化する方向にダイナミクスが働くという説明がされることが多いと思うが、生物・遺伝子の場合は自身の適応度を最大化するようなダイナミクスが働くというべきだろう。
太刀川氏がこの前後でなんと言ってるのか分からないが、必ず最適化すると言っている訳ではなく、あくまで最適化に"向けて"進化すると言っているのであれば特に問題ないのでは?あと、自然の世界での最適化、と自然選択による最適化、と人工物の改善プロセスでの最適化が挙げられているが、これらを太刀川氏が挙げているということなのだろうか?そうなのであればその辺も引用してもらわないと批判の評価ができない。
また最小云々については単に無駄な部分を省くという意味で言っているだけな気がする。ここで言っている「自然界」というのが生物以外も含めた話なのかどうかが引用範囲が狭すぎて分からないが、少なくとも生物に関しては無駄を省くように進化するというのは別に間違ってはいないだろう。「自然界には最小になろうとする小さな圧力がまんべんなく働いている」というのは自然界のあらゆる力が最小方向に向かっていると言っている訳ではなく、自然界のあらゆる (?) 対象に対して何らかの最小方向の力がかかっているということな気がする。すなわち「自身の適応度を最大化するようなダイナミクス」を否定してる訳ではないということ。
| 進化のなかでは、不要な部位はいつかなくなる。(p.241)
M: 誤り。何をもって不要とみなすのかも曖昧で、なるべく正確に表現すれば「適応度の向上に直接貢献する部位をさしおいてその部位をつくるにはコストがかかるのに、その部位はコストに見合う適応度の向上が見られない場合、その部位を不要な部位とよぶ」ということだろう。そうだとしても、不要な部位はいつかなくなるには「不要な」部位をなくすような変異が起き、しかもその変異がその個体の適応度を顕著に害さない必要がある。その両方を進化プロセスは保証しない。直後に例示されるヒト(より正確にはヒト上科か?)にはもうない尻尾は「不要だから」ではなく、いわばコストパフォーマンスが悪かったために(つまり尻尾の提供するベネフィットが尻尾を持つことによる適応度低下リスクを下回ったために)たまたま起きた変異に十分な正の自然淘汰圧がかかったと考えるほうがよいのではないだろうか。
💜「何をもって不要とみなすのかも曖昧で、なるべく正確に表現すれば「適応度の向上に直接貢献する部位をさしおいてその部位をつくるにはコストがかかるのに、その部位はコストに見合う適応度の向上が見られない場合、その部位を不要な部位とよぶ」ということだろう」というように長々と述べているが、ここで太刀川氏が言っている「不要」というのは普通に考えれば「その生成コストに見合うだけの適応度増加が得られない」という意味だろうし、それで特に問題はない。
また「不要な部位はいつかなくなるには「不要な」部位をなくすような変異が起き、しかもその変異がその個体の適応度を顕著に害さない必要がある」とのことだが、松井氏は「不要な」というのを「コストに見合う適応度の向上が見られない」こととして定義しているのだから、単に不要な部位をなくすような変異が起きれば個体の適応度は増加するだろう (不要な部位を無くす遺伝子変異が不要な部位以外の形質にも絡んで来る場合のことを言っているならばそうとも限らないが)。
また「直後に例示されるヒト(より正確にはヒト上科か?)にはもうない尻尾は「不要だから」ではなく、いわばコストパフォーマンスが悪かったために(つまり尻尾の提供するベネフィットが尻尾を持つことによる適応度低下リスクを下回ったために)たまたま起きた変異に十分な正の自然淘汰圧がかかったと考えるほうがよいのではないだろうか」というのもだいぶ意味不明で、この部分だけを読んでも引っ掛かるのだが、そもそもここで松井氏が言っている「尻尾の提供するベネフィットが尻尾を持つことによる適応度低下リスクを下回ったために」というのは、自身がすぐ上で言っていた「その部位はコストに見合う適応度の向上が見られない場合」という「不要」の定義と明らかに同じ話に見える。それとも「適応度の向上に直接貢献する部位をさしおいてその部位をつくるにはコストがかかるのに」という辺りからするに、松井氏は単にある形質単独に関して「不要」を定義しているのではなく、複数の形質間での相対的なコストパフォーマンス (どの形質にどれくらいコストを回すのが最も適応的か) に関して「不要」を定義しているのだろうか? そうであるならば、確かにここで言っている尻尾単独のコストパフォーマンスと「不要」は違う話であるが、太刀川氏はそのような意味で「不要」とは言っていない気がするし、一般的に言ってもそのような意味での「不要」の定義はマイナーなものだろう。
| 生物の形態進化の過程には絶えず、減らす負圧がかかりつづけてい
| る。(p.241)
M: それはそうかもしれないが、より強く、より大きく、より多い子孫を残し、と「増やす」正圧も場合によってはかかりつづけているので、負圧のみを取り上げることにさしたる意味はないように思う。
💜文脈がよく分からないが、太刀川氏がここで言っているのは、何らかの形態の形成には常にコストがかかっておりタダで作れる訳ではない、ということではないだろうか?そうであれば、別にその負圧だけを語ることに特に問題はないように思われる。太刀川氏が言っている「負圧」と松井氏が言っている「正圧」は圧の質が異なるもの (同じ尺度上の正負ではない) なので、片方だけ語ることに不自然さはないのではないかということ。
またそもそもここで太刀川氏は「形態」の進化について語っているのだから、「強く」や「子孫を残し」といった観点は的外れだろう。形態だけについて語る妥当性はとりあえず置いておいて。
| デザイン的観点から見れば、どちらが優れているかは明白だろう。
| (p.242)
I: オリーブの木と扇風機はそもそも機能が異なるので比較対象とすること自体無理がある。「ただ風を発生させるだけのために」と言うが、それならオリーブの木は何のために存在すると言うのだろうか。
引用部分が少なすぎて、両者のどのような機能をどのような観点で比較しているのか全く読み取れない。
| 人工物は無駄に満ちあふれている。(p.245)
| こうした無駄が発生する要因の一つに、過剰供給がある。「量が心配
| だから多めにしておこう」とか「安く作れるから作れるだけ作ろう」
| といった考えだ。(p.245)
I: この本の無理やりな生物学の援用がまさに「過剰供給」であり、かつ不適切な例が多いため「無駄」だと言わざるを得ない。
M過剰という言葉じたいに「多すぎて無駄」という価値判断が含まれているためややトートロジーぎみだが、これをその人工物の本来想定されている機能に必要とされる最低限までコストをさげることを最適化というのならば、まあそれは無駄ではある。しかし生物の進化はこういった無駄をたくさん用意している。たとえばヒトの平均寿命(繁殖が不可能になる年齢を大きく超えて長生きする)や生理での出血、有性生殖のコスト、同性愛など。そしてこういった一見無駄に見える機能を適応の観点からよく調べていくことによっておばあさん仮説のような興味深い考察がうまれる。生理の出血はいくつか説がでているがよくわかっておらず、有性生殖のコストの説明には有力な説がいくつかあるがコンセンサスには至っておらず、同性愛についても同様だと聞く。比較のために想定した「人工物の本来想定されている機能に必要とされる最低限」という閾値の想定がそもそも主観によるものであり、本質主義的だと感じる。
💜まず伊藤氏の指摘に関しては、確かに過剰供給と言えるような記述もあるのは事実だが、ここまで指摘したように批判集における批判には彼らの生物学的知識不足や読解力不足による誤ったものも多く、伊藤氏が「無駄」だと思っている程度よりはその無駄は実際は少ないだろう。
松井氏の指摘に関しては、引用されている部分が狭いため、「こうした無駄」の「こうした」というのがどのようなものを指しているか分からないため批判を評価することができない。供給に関する無駄について言っているのであればたしかにトートロジーだが、製品の機能や形態などに関する無駄について言っているのであればトートロジーではないだろう。
また「比較のために想定した「人工物の本来想定されている機能に必要とされる最低限」という閾値の想定がそもそも主観によるものであり、本質主義的だと感じる」に関しては、確かにやや主観的な曖昧さは否めないが、実際のところそういった最低限の機能を基に消費者の購買行動が行われていることは多いので、他の製品との生き残り競争においてコストパフォーマンスが悪いものを「無駄」と定義したとき、太刀川氏のそれとある程度の関連はあるだろう。また製品は段々と進化していくのにただ一つの「変わらない本質」を設定することは不適切であると批判しているのであれば、「本質」は段階的・漸進的に変化しうるものと定義すれば特に問題ないだろう。時代によって標準・当たり前といったものが変化するように。
中盤の生物の記述に関しては特に問題ない。
| いつのまにかそのモノは贅肉だらけの美しくないモノになってしま
| う。(p.245)
M: 美しくないからと言って何が悪いのか? たとえば文字通り贅肉だらけのオットセイ(厚さ15cmにもなる[54])は美しくないということか? ここでいう贅肉は比喩であってそのものではないということだろうけれど…。無駄があれば美しくない、というのと無駄があると競争に勝てず淘汰される、というのは別の問題だ。淘汰されないことが善であると仮定すれば様々な無駄があるにもかかわらず淘汰されずに繁栄しているデザインはいくらでもあげられるし、むしろ私が無駄であると感じるものがむしろ誰かにとっては価値のあるものであるからこそ繁栄している楽天のサイトのようなものもたくさんある。ここでいう「無駄」や「美しい」がなにを指すかわからないまま、「無駄」や「美しい」などの主観に依存する価値観をもとに議論しているため説得力のないものになっている。このように、「作りすぎるべきでない」とか「ミニマルな見た目にすべきだ」とか「美しくあるべきだ」といった著者がもつ「人工物の創造のプロセスにおいて創造する者はこうすべきである」という自論と、生物進化や設計の進化との関連はどんなに甘く見積もってもほとんどない。
💛初めの「たとえば文字通り贅肉だらけのオットセイ(厚さ15cmにもなる[54])は美しくないということか? ここでいう贅肉は比喩であってそのものではないということだろうけれど…。」については、明らかに (10000万人中9999人がそう考えるレベルで) ここでの「贅肉」は比喩であるし、松井氏自身も「ここでいう贅肉は比喩であってそのものではないということだろうけれど…」と思っているのだから、態々言う必要はなくないか?ただオットセイに関する知識を見せびらかしたいだけのように見える。p.240で伊藤氏が「本書では『進化思考』著者の衒学的な姿勢 ~(中略)~ を批判してきた」と、また批判集の商品説明 [3] において「日本インダストリアルデザイン協会最年少理事長の衒学的物言い」というように、太刀川氏が衒学的であると批判しているが、私からすればよっぽど伊藤氏や松井氏のほうが衒学的であるように見える (詳しくはP.240のところで説明した)。太刀川氏の例示的説明は (その内容の適切性は置いておいて) 彼自身は本筋に関係があると思って言っているものであるが、ここでのオットセイの話は松井氏自身が「ここでいう贅肉は比喩であってそのものではないということだろうけれど…」と言っているように話の本筋に全く関係ない。よってただの知識の見せびらかし (衒学的行為) である。もしかしたら比喩でない意味で「贅肉」と言っている可能性がまともに考慮するレベルであると思っていた可能性もあるが、そうであるならばそれは松井氏の読解力がさすがに低すぎるだろう。
また「どんなに甘く見積もってもほとんどない」はさすがに言い過ぎだろう。過剰なデザインが淘汰されていくことと生物進化におけるコストベネフィットの話にある程度関連はある。
| スズメバチや唐辛子のように赤や黄色の危険色をしている商品はアピ| ール性が強い。〔中略〕私たちの色彩感覚が、自然界がそもそも持っ| ている模様や色彩の意味と重なるのは興味深い。(p.251)
I: 「危険色」でも通じるが、aposematismは「警告色」と訳すべきであろう。例えば 地球外生命体の色彩感覚が地球の自然の色彩の意味と重なるのであれば「興味深い」 と思うが、地球で暮らす「私たち」にとっては「自然」なことのように思うのだが。
💜途中で中略されているせいで、ここでいう「色彩感覚」の意味が今一分からない。もし引用されているような赤や黄色のアピール性が強いことに関して言っているのであれば、それは確かに人間における警告的認識そのものと関連している可能性が高いので、それほど興味深いものでもないかもしれない。ただ、警告色に対する忌避反応は一般に学習によるものであると考えられており、人間においてそれが進化的に生得化した可能性はいくらかあるかもしれないが、学習起因のものもいくらかは残っているのではないだろうか。そして人間が普段そういった赤や黄を見るときに起こる感情と純粋な意味での警告色への忌避感情は異なる気がするので、そういった学習も絡めての警告色に関する色彩感覚一般の個体発生にはある程度興味深さがあると言っても良いだろう。
| これは、身体内部の圧力と、外部の水圧とのせめぎあいによって、形| 態がおのずと決定されたからなのだ。(p.253)
M: 進化は試行錯誤の連続であって「おのずと決定」しない。本章を通して、著者は自然選択をひとつの最適解をまっしぐらに目指し、そこに落ち着くプロセスであるかのような説明を繰り返しているように思えるが、自然選択はそのようなプロセスではない。そうではなく、「無駄」な探索を繰り返し、「無駄」死にを繰り返し、あるものは局所最適解に陥って衰退し、あるものは自滅するという極めて惨たらしい無駄足を踏みながら、長期的には極めて優れた機能を形作る可能性のあるプロセスであるという説明が欲しかった。生物は決して最適化された体を持っていない。それどころか我々は最適化されていない体の、放置された問題箇所に苦しみながら生きている。痔になる肛門は無理な直立歩行の突貫開発が遺したといわれているし、前述のとおり目の網膜の上に毛細血管を置いてしまったものだから常に脳での画像処理でそれをキャンセルしなければならない。
💜もしここで太刀川氏が云う「おのず」というのが、ただ唯一の最適解に辿り着くという意味ではなく、単に「目的論的なものではない」や「適応度が高くなる方向に向かう」という意であれば特に問題はないだろう。松井氏は唯一解のことを言っていると解釈したようだが。
また「生物は決して最適化された体を持っていない」というのはさすがに言い過ぎだろう。全ての生物の全ての形態がそうでないのは当たり前だが、一般的に最適と思われるような形態を持っている種は多く存在する。そもそも「最適」という概念はだいぶ曖昧であり、仮に環境を固定したとしても、どの範囲までの進化的・形質的条件を所与のものとして最適を定義するかは恣意的であるので、最も最適 (局所最適ではない最適) かどうかにこだわり過ぎることにあまり意味はない。例えば「鳥類は飛行するのに最適な体を持っている」という文章は一般的に言って十分に受け入れられるものである。
| この収斂進化と同じ現象は、モノでも確認できる。(p.253)
M: スポーツカーやミニバンというジャンルで切り分けて収斂進化の例とするのは無理がある。スポーツカーはいわば「種」や種のグループに相当するカテゴリーなので、「まったく違う進化をたどったはずの種同士」とはいえないだろう。ある文化形質が収斂進化の成果である可能性を指摘するには、ほとんど交流のない文化圏で独立に発見された事実や発明された人工物をあげたほうがよい。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
また、ここでスポーツカーのような人工物に種の概念を持ち出す意義が果たしてあるのかは一言ではいえない。ここでの種の概念の借用は「ポルシェのスポーツカーでできることはだいたいベンツのスポーツカーでもできるだろうけれど、ホンダのミニバンにはポルシェのスポーツカーではできないことばかりだし、逆にミニバンしかできないことも多い」という大雑把な交換可能性の高さでくくっている。曖昧と言われる生物種の概念よりもさらにその垣根は曖昧で主観的だ。
解剖の文脈で収斂進化をとりあげるのも適切とはいえないだろう。ある機構(たとえば水中生物に共通する流線型)がどのように(HOW)機能しているか(流線型が抵抗を少なくし、同じスピードで泳ぐ際のエネルギー消費を抑える効果がある)という機構的な観点と、なぜ(WHY)そうなっているか(エネルギー消費を抑えることで繁殖にまわせるエネルギーを増やせるし、漁に行く回数を減らせるので漁に伴う生存に関わる怪我などのリスクを減らせる、行動時間が長くなるのでよりたくさんの魚を捕らえられる、など)という適応的な観点をわけるのが4つのなぜのキモとなる考えのはずだ。
💛これも引用部分が少なすぎて、具体的に太刀川氏が何と何において何が収斂進化していると言っているのかが分からない。あと「スポーツカーはいわば「種」や種のグループに相当するカテゴリーなので、「まったく違う進化をたどったはずの種同士」とはいえないだろう」というのが今一よく分からない。引用が少なすぎてそもそも何の話をしているかがさっぱりなのだが、「スポーツカー」という括りは様々なメーカーに見られる多系統的なものであるから云々みたいな話だろうか?
また、「ここでスポーツカーのような人工物に種の概念を持ち出す意義が果たしてあるのかは一言ではいえない」「曖昧と言われる生物種の概念よりもさらにその垣根は曖昧で主観的だ」とのことだが、機能的な観点からの分類ということで別にそこまで問題はないのではないだろうか?引用が少なすぎて太刀川氏が正確にはなんと言っているか分からないが、分類そのものにはそれなりに価値はあると思われる。「種」を言いたいならば、ポルシェ、ベンツではなくて、ポルシェ901、ポルシェ930といったようなレベルで定義する必要があるとは思うが、どのレベルを「種」「属」などと見なすかはあまり太刀川氏の話の本質ではないだろう。
また最後のティンバーゲンの4つの問いについては残念ながら完全に間違っている。HOWとWHYというのは至近要因と究極要因のことを言っていると思われるが、「ある機構(たとえば水中生物に共通する流線型)がどのように(HOW)機能しているか(流線型が抵抗を少なくし、同じスピードで泳ぐ際のエネルギー消費を抑える効果がある)」は至近要因ではなくむしろ究極要因 (WHY) である。敢えて至近要因 (HOW) を言うならば流線型形態の発生メカニズムが言えるだろう。しかし気付いた方もいるかもしれないが、この場合、ティンバーゲンの4つの問いにおける至近要因のうち「発生」についてしか言えておらず、「メカニズム」については言えていない。そして「メカニズム」に該当するものはどうやらなさそうである。これを以ってティンバーゲンの4つの問いの考え方が万能ではないかのように思った人もいるかもしれないがそうではない。そもそも「形態」についてティンバーゲンの4つの問いを用いたのが問題なのである。ティンバーゲンの4つの問いは本来「行動」に関する分析法であり、その場合「行動の (即時的) メカニズム」と「行動の発生 (メカニズム)」はどちらも必ず存在する。しかし、形態について考えようとすると、多くの形態は一度完成すると変化しないので「メカニズム」については言えないのである (例外として換毛や角の生え変わり等はメカニズムと発生の両方の観点で見れるかもしれない。だが確かにこれは「行動」ではないものの、結局「形態そのもの」に関する分析ではなく、「形態の変化」に関する分析である)。こういったことをよく理解していないために、松井氏は形態に対してティンバーゲンの4つの問いを無思慮に使い、そして形態の力学的機能をHOW (至近要因) としてしまったのだろう。「どのように(HOW)機能しているか ~(中略)~ という機構的な観点と、なぜ(WHY)そうなっているか ~(中略)~ という適応的な観点をわけるのが4つのなぜのキモとなる考えのはずだ」というように自信満々に指摘しているが、残念ながら盛大なブーメランとなってしまっている。
なお私は行動以外に対してティンバーゲンの4つの問いを用いることそのものを否定している訳ではない。今回の「メカニズム」のように一部が無いような場合もありうるが、観点を詳細に分けて考えることそのものは有用である。私が否定しているのは、単によく意味を理解せずに使用し分析観点を混同することである。
| ものを作るには膨大な工程が必要だが、その工程の一部に過ぎないこ| の図面からも、美しいプロセスを生もうとする愛情を感じないだろう | か。(p.257)
M: 生物進化とデザインの進化のアナロジーと応用を語っているのかと思って当書を読み進めてきた読者は、ここに至って愛を持ち出した説明に頭を抱える。生産性と愛を結びつけるのは自由だが、この「生産性」というセクションには自然選択と関係のある部分は一文もない。私の理解では、ティンバーゲンの4つのなぜは「いま興味を持っている疑問は、どの立場から投げかけているのか」を明らかにするものであって、4つとも揃っている必要があるわけではない。こどもに「どうして目はものが見えるの?」と聞かれたときに、4つの非常に異なった答え方ができてしまう。当該質問には4つのなぜがオーバーラップしており、どの観点からの質問であるかが指定されていないからだ。同様に、「どうしてこのボタンを押すと写真が保存されるのか?」について4つの観点から答えることができる。それらを理解するのは重要だと私も思うが、はたして人工物に投げかけられる4つのなぜが、生物の4つのなぜのそれぞれに相当するほどに重要なのかは疑問がある。また、たとえばメスーディは研究が進んでいない分野として文化的進化発生学をあげている[58]。
💛これも引用部分が少なすぎて太刀川氏がどういった意図で愛情について話を出しているのか今一分からない。愛情を進化思考への補強として持ち出しているのならば不適切であると思うが、単にここで愛情について語りたかったというだけならば何も問題はないだろう。
また「私の理解では、ティンバーゲンの4つのなぜは「いま興味を持っている疑問は、どの立場から投げかけているのか」を明らかにするものであって、4つとも揃っている必要があるわけではない」とのことだが、これに関しては間違っていると言っていいだろう。確かに自己の分析の視点を整理する意味合いもあるが、ティンバーゲンの4つの問いは生物の行動を包括的に理解するためには4つの視点からの分析が必要であることも言っている。つまり究極的には4つとも揃っている必要があるのだ (「究極的には」というのは個々の研究において4つの観点を全て入れろという話ではないということ)。
また先ほども述べたが、ティンバーゲンの4つの問いは本来動物の「行動」に関するものである (彼が4つの問いについて初めて語った論文のタイトルは「On the aims and methods of ethology」[32]である)。行動以外の対象についても使用することそのものは否定しないが、出てくる例に一つも行動がないのは問題だろう (流線型、目でものが見える理由、ボタンを押すと写真が保存される理由)。(なお松井氏はp.89において「種分化」というもはや形質ですらないものにも至近要因・究極要因を適用していた)。
というように基本的な部分をよく理解していないために、先ほどの流線型の話での分析観点の混同も起きたのだろう。
| こうした進化の歴史における時間的な繋がりを理解し、進化図に描く
| 学問を、生物学では系統学と呼ぶ。(p.269)
M: 「進化図」とは系統樹のことだろうか。また次の行には「個体のランダムな変異」とあるが、変異するのは遺伝子である。
💜これも前後が引用されていないので、太刀川氏が正確になんと言っているのかが分からない。もし文字通り「個体がランダムに変異する」という意図で言っているのだとしたら、それは確かに誤りであるが、もし「個体の遺伝子のランダムの変異」または「変異個体のランダムな発生」といった意図で言っているのだとしたら特に問題はないだろう。また「変異するのは遺伝子である」とのことだが、ここで松井氏が言っているのは厳密には「突然変異 (mutation) するのは遺伝子である」である。「変異」という用語はvariationの訳語としても古くから使われており (むしろこっちの意味での方が古い[23])、この場合「形質が変異する」というように形質のバリエーションを示すこともある。なお、しばらく前にmutationのみを「変異」とし、variationの意味でのそれは「多様性」とするという用語の訳し方の改定案が日本人類遺伝学会から出されたが、既に定着している呼び方に関連した不便の発生可能性が高く、同時に出された「顕性・潜性」よりも浸透していないように思われる。
| もし進化が自然発生しているなら、デザインやアートなどの創造性も| また、自然発生する現象と考えられるのではないか。(p.276)
M: 自然発生という言葉が何を指すのかわからない。進化は確かに条件が揃えば自ずと発生するメカニズムと言って差し支えないと思うが、創造性が自然発生するとはどのような状況を指すのか? 自然発生しない創造性とはなにか? 直後の記述にあるように創造的な仕事は偉大な天才だけに可能であるという意味であれば、そう信じている人はあまり多くないのではないだろうか。そうではなく、積極的な創造性を想定しなくても、製造された人工物に差異があり、見た目が少しだけ好まれたり、機能が少しだけ優れていたり、ユーザーが大変に魅力的だったり、その他いろいろな要因で好まれるときに、その変異体は他の競争相手に比べてよりコピーされやすいため、何かしらの変更が蓄積していくはずで、個々人に特筆すべき創造性がなくとも、文化は進化しうるということであれば私は全く同意する。残念ながらそういう文脈ではないようだ。「誰もが人工物にまつわる文化を進化させる一端を担える」という主張には私も同意できる(あなたがあるプロダクトのメーカーAとメーカーBで悩んでAの製品を選ぶとき、明らかにその一端を担っている)が、「誰もが積極的な創造性を発揮して人工物を意図通りに改善できる」という著者の提案する文脈は進化理論とはあまり関係がなく、進化理論によって裏付けられる主張ではない。
💛「進化が自然発生している」と「デザインやアートなどの創造性もまた、自然発生する現象 (である)」の間に論理的ジャンプがあるというのはそうだが、進化と創造性にある程度類似性が見られることから創造性をも自然発生する現象として捉えようとすることそのものは全く見当外れと断定できるものでもないだろう。既に似たようなことを何回か述べたが (例えばp.94への指摘部分とか)、太刀川氏は創造を無意識的な要素をもつ認知的現象として見たときの話をしているように見える。すなわち、創造という無意識的な要素をもつ認知的現象に進化的な要素があるならば、進化的観点を取り入れて研鑚を積むことで創造を意識的に行ったり、または無意識的過程を意識的にドライブしたりすることができるのではないかということである。
というような話をしていることは太刀川氏の文章をちゃんと読めば普通分かると思うのだが、「ということであれば私は全く同意する。残念ながらそいう文脈ではないようだ」という松井氏の発言にも表れているように、松井氏は太刀川氏の主張を読み取ろうとする気があまり無く、いかにいわゆる文化進化の文脈に持ち込むかという姿勢で読んでいるように見える (ここまでもいわゆる文化進化的な話に持ち込もうとする姿勢や、太刀川氏が文化進化的な話をすると積極的に同意するということが多く見られた)。そしてそういったバイアスの入った読み方は評者としても研究者としても不適切なものである。単なる読解力不足のために自分の見知った理論に安易に当てはめているだけの可能性もあるが、その場合も結局評者としては力不足と言えるだろう。
| それと同じように、変異と適応の往復によって、私たちは創造性を発
| 生させられるという考え方が、進化思考だ。そう、進化思考の挑戦
| は、創造が自然発生するプロセスを解き明かし、多くの人に創造性を
| 伝えられる教育を生み出すことだ。(p.276)
I: 発生させられる、なら人工発生とでも言うべきで、自然発生ではないのではないか。意味が全く逆だと思うのだが。相変わらず「創造」「創造性」の定義が不明だ。
💛本来自然発生するものを意図的に発生させるということを言っているのであれば別に問題ないのではないだろうか?また無意識的な自然発生プロセスを意図的にドライブするという話をしているように見える。
また「相変わらず「創造」「創造性」の定義が不明だ」とのことだが、おそらく太刀川氏は「創造行為、及びその結果」の意味で「創造」を、「創造を生み出す能力・性質」の意味で「創造性」を使用しているように思われる。
| このように、あらゆる創造は、共通の目的を持つ原始的な創造を起源
| として世の中に出現する。(p.277)
M: キーボードのキーキャップを外すクリップ[60]はどんな共通の目的を持つ原始的な創造があるのだろうか?
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
共通の目的を持たなくても、たとえばピンセットのようにキーキャップを外すクリップそのものには影響を与えたであろう道具があるから、そこに直接の継承関係を見出すことはそこまで不自然ではない。
これは話の本質とはかなり関係ない重箱の隅を突っつく指摘になるが、「ピンセットのようにキーキャップを外すクリップそのものには影響を与えたであろう道具がある」いうのには全く同意できない。ここで松井氏が言っているのは所謂キーキャッププラーのことだが、二つの針金の輪をキーキャップ下に引っかけて抜き取るそれに、ピンセットの影響は全く見えない。ピンセットの本質はモノを挟むというところあるが、キーキャッププラーは特に挟むという動作行為とは関係ない。たしかに二つの針金の輪が挟むように引っ掛かって機能するが、それは元々近接している針金が弾性によって元に戻ることによるものであり、ピンセットのように指の筋力で挟むという動作とは関係ない。
ちなみにキーキャッププラーには環状のプラスチックに足が生えた、形状的にはややピンセットっぽいものもあるが、これも結局指の筋力で挟む訳ではないし、松井氏が[60]で引用しているのは上で説明した針金状のものである (画像2, 3) [33]。
| 系統樹に正解はない。(p.284)
M: 正解と正確は違う。真の系統樹(仮にそれがあったとして!)に達することはできなくても、新しいデータや精密なデータを追加したり、過去の解析の誤りを正したり、より精密な仮定をおいたアルゴリズムの開発などにより、より正確にすることはできるはずだ。
引用部分が少なすぎて太刀川氏の主張がよく見えない。もし太刀川氏が現在の科学理論では系統樹を完全に正確に生成することはできないという意味で現状認識論的な正解はないと言っているのだとしたら特に問題はないだろう。
| つまり系統樹による分類の細部は、自然科学ですらも絶対的ではな
| い。(p.285)
M: 自然科学に絶対などあるのだろうか。「ですら」とあるが、自然科学ほど「絶対」から遠い理念もない気もする。反証可能性のない絶対的な分類が自然科学で受け容れられることはないと思う。
ここも引用範囲が狭すぎて太刀川氏が生物系統樹の他にどういう系統樹について言及しているのかが分からないが、ここで太刀川氏が言っているのは単に自然科学において用いられる科学的アプローチを以ってしても絶対ではないと言いたいだけではないだろうか?何らかの総合的命題の真偽を判別する上では客観を重視した科学的アプローチは現状最も優れていると言えるので。
| 実際の発明者が、他から強い影響を受けていたとしても、それが客観| 的な記録に残されていなければ、その発明の先祖を正確に定義するこ| とは不可能といえるだろう。(p.285)
M: ここでの「定義」という言葉の意味がわからないが、単純な誤植かもしれない。系統学でいうところの祖先推定のことだと仮定する。前述の生物の進化系統樹と同様、より精密で信頼のおけるデータの追加や推定アルゴリズムの改善などによって、発明の先祖をより正確に推定する試みは不可能ではない。たとえば人工物のコード化であれば、椅子の差異を印象からコード化する方法(日光浴にむいていると思うか、ワクワクする気持ちになるか、3万円なら欲しいと思うか、など)よりも、形状や部品の有無によってコード化する方法(背もたれがあるかどうか、背もたれはフカフカか、背もたれの材質は布か、など)のほうが客観的で信頼がおけるだろう。そしてそういった方法を使えば、もしかすると東京オリンピックのロゴのようなパクリ疑惑が生じた際に、それらが相同なのか相似なのかが議論できる…と思っているのだが、そういった研究は寡聞にして知らない。
💜ここで太刀川氏が言っている「定義する」というのは単に「知る」とか「決定する」とかそういう意味だろう。また松井氏はそれ以降の部分で「より正確に推定する試みは不可能ではない」という程度 (degree) の話を延々と語っているが、太刀川氏が言っているのは (認識論的に)「正確に定義すること」 (定義を祖先推定としても同様) が可能かどうかであるので話が全くズレている。
| そこで開きなおって言えば、創造の系統樹は、私達が納得のいくまで
| 調べて、間違いを恐れず忠実に描けばよいのだ。(p.285)
M: あまりに非科学的で、ダーウィン登場以前の博物学と大差のない思い込みに感じる。文化系統学を使わない理由はどこにあるのだろう。当書は進化学に関連する本であると謳っているが、進化学が提供する既存の手法や考えをとりあげずに、しばしば自らの思うところを述べるのみにとどまっており、進化学との関連は基本的にない。
I: 何に対して「忠実に」描け、と言っているのかよくわからないが、次の文に「肝心なのは正確さではない」とあるので、「事実」に対して忠実に描け、というわけではなさそうだ。「こうかもしれない」「こうであってほしい」という己の「願望」や「妄想」に忠実に描け、ということだろうか。そして正確ではないものを「系統」と呼べるのだろうか。要はトニー・ブザンの発想法である「マインドマップ」に時系列を取り入れたもの、ということだろうか。
💜これも引用部分が少なすぎて太刀川氏の主張がよく見えない。文化系統学を使わないということを太刀川氏は明確に主張しているのだろうか?一つ上の指摘部分の話を踏まえると、太刀川氏は単にDNA情報に相当するものがない分、創造の系統樹は生物の系統樹に比べて正確性が落ちざるを得ないという話をしているだけに見える。太刀川氏が文化系統学の手法を知らない可能性はあるが、その場合もここでの彼の発言は別に十分な科学的手法を用いないという主張ではなく、単に相対的限界があると言っているだけではないだろうか?
「「肝心なのは正確さではない」とあるので、「事実」に対して忠実に描け、というわけではなさそうだ」というのも、引用の前後が抜けているので太刀川氏がどのような意図で言っているのかが分からず評価不能である。科学的に十分突き詰められるレベルの正確性すら求めないと言っているのであれば確かに問題があると思うが、単に科学的な限界に思い悩む必要はないということを言っているのであれば特に問題はないだろう。
またここで伊藤氏がいう「事実」というのが何のことなのかよく分からない。真の系統樹といったことだろうか?しかしその場合真の系統樹は認識論的に把握不可能なので、それに忠実に描くということは不可能である (「それを目指して描く」ならば問題ないが)。また客観的なデータという意味で「事実」と言っている可能性もあるが、その場合「忠実」という表現には違和感がある。なぜなら客観的なデータから一意に単一の系統樹が得られる訳ではないからだ。
| 実際は、近い遺伝子プールを共有した生物間にだけ生殖的交配が成立
| する(p.286)
M: 遺伝子プールの定義が「繁殖可能な個体からなる集団が保有する遺伝子すべて」なので、「近い遺伝子プール」が何を指すのかよくわからない。また、通常「交配」は人為的なものをさす言葉なので、「繁殖」としたほうがよいと思う。交配は生殖的なので生殖的交配とは同語反復ではないか。生殖的でない交配は存在しないと思う。交配という言葉の濫用は「交配的思考による創造のプロセス」(p.462)などにも見られる(「交配、すなわち有性生殖の獲得」など?)
💜ここでの太刀川氏の主張が誤りなのはその通りだが (おそらく太刀川氏はゲノムのことを指して遺伝子プールと言っている気がする)、「交配という言葉の濫用は「交配的思考による創造のプロセス」(p.462)などにも見られる」については別に問題ないのではないだろうか?前後の文脈はよく分からないが、何か異なる二つのモノからお互いの良いところをいいとこどりした新しいモノを作ることを「交配的」と表現することはそこまでおかしくはないと思う。
| 遺伝子の変異では、数百万年かけて適応してきた遺伝子を未来につな
| ぐほうが生存確率が高いので、既存の遺伝子を保存する仕組みが働く| ようになったのだ。(p.286)
M: なんの生存確率だろうか? もし遺伝子であれば、生存確率ではなく継承される確率ではないか? 遺伝子に生存・死滅の概念はないからだ。保存・絶滅であればよいかもしれないが、そうであれば保存確率よりは継承される確率のほうがやはりよいだろう。もし遺伝子ではなく個体であれば、適応してきた遺伝子を未来につなぐというのは生存には関係ない。サケは遺伝子を未来につなぐ行為によって生存確率をゼロにする。もしここでの著者の主張が、交雑によって大きく遺伝子を変異させるくらいなら古から受け継がれてきた秘伝のタレたる遺伝子をそのままコピーしたほうが適応度が高まる可能性が高い、ということだったらそのように記述すべきだろう。実際には交雑によって適応度が大きく下がる場合もあれば*、生まれるまでに死ぬとか受精しないなどで交雑がそもそも成り立たないとか、適応度にたいした差が生じない場合も**、適応度が大きく伸びる場合もわずかながらあるだろう。いずれにせよ、この記述はよくわからない。
「既存の遺伝子を保存する仕組みが働くようになった」という記述もよくわからない。遺伝子が大きくかけ離れたヒトとイヌの間で繁殖が成り立たないのが自然選択による適応であるという主張だとしたら誤りではないだろうか。たとえば天変地異により一つの繁殖可能な集団が地理的に分断され長い時間が経ち、その2群からつがいを作ろうとしても遺伝的な乖離が大きすぎて繁殖できない場合、その乖離自体には自然選択が貢献していた*としても、自然選択がその2群を遺伝子的に乖離させようとしたわけではない**。ただ、生殖的隔離自体は適応的なシチュエーションは考えられると思う。たとえば虫Aのうちの一部がある特定の花Xの形にあわせて口吻を変化させBに進化したが、ほかの花Yの形にあわせて進化したCと交雑すると口吻の形がXにあわなくなってしまい適応度が下がるとする。そのためCとは交雑しないように性器の形を独自のものに変えたりすることはありえたのではないかと記憶している。このあたりは専門家ではないので確かではないが。
💜おそらくここで太刀川氏が述べている「生存確率」というのは、個体の生存確率または親一匹に対して繁殖年齢まで生存する子数 (またはもっと一般的にある相対経時時間における生存子数) の期待値のことだろう。松井氏の云う「交雑によって大きく遺伝子を変異させるくらいなら古から受け継がれてきた秘伝のタレたる遺伝子をそのままコピーしたほうが適応度が高まる可能性が高い」がそれにあたる。
また「適応してきた遺伝子を未来につなぐというのは生存には関係ない。サケは遺伝子を未来につなぐ行為によって生存確率をゼロにする」というのはよく分からない指摘である。適応してきた遺伝子が生存に寄与するものであれば、それを未来に繋がなければ次世代の個体の生存確率が落ちる可能性は十分にある。まあおそらく松井氏はここで繁殖行為そのものがその行為主そのものの生存確率を増加させるかどうかという話をしているのだと思われるが、仮にその観点で話を進めたところで「生存確率をゼロ」という表現にはおかしさがある。確かにサケは産卵や放精の後に急激に老化するが、すぐに死ぬ訳でもないのでこれは別に生存確率をゼロにする訳ではない。ただ死期が早まるだけである。これを生存確率ゼロと表現するならば、究極的には全ての生物が遺伝子を未来につなぐ行為によって生存確率をゼロにしていると言える。
また中間の交雑云々も今一よく分からない。太刀川氏が交雑を絡めて引用部分の内容を述べているのだとしたら、それが分かるように引用すべきである。批判の評価が不可能。
後半の「既存の遺伝子を保存する仕組みが働くようになった」に対する批判もよく分からない。太刀川氏は単にメタ的な進化一般の話をしているだけではないだろうか (一般にそういう議論が存在するかどうかは知らないが)。ある特定の2種や2グループで生殖隔離が進むことが適応進化だったかどうかという話は特にしていないように見える。
| このように異種交配は、自然界では稀にしか発生しない。(p.286)
M: それはそうだが、ポピュラーな種の定義においては、生殖が可能な個体どうしに同種と考えるので、まず種が思ったほど明確な分割を提供しないことを念頭に置く必要がある気がする。同時に、人為的な交雑であれば自然界ではまず起こらないような交配も起こせることを説明したほうがよい気がする。
💛この指摘もよく分からない。引用部分の前後に述べていることに関連しての指摘なら問題ないかもしれないが (そうだとしてもちゃんと引用すべきだが)、引用部分のみへの指摘としては不適当だろう。引用文そのものには「交配」の語用以外は特に突っ込まれる点は存在しない。
また「種が思ったほど明確な分割を提供しない」というのも何を言いたいのかよく分からない。種の定義は多くあり、種というものは一般の人が思うより曖昧なものであるというのは確かだが、松井氏は生殖可能性に関する種概念"のみ"を挙げて、そうであるから「種が思ったほど明確な分割を提供しない」と言っているので、種概念の複数性に基づく論理は当てはまらない。生殖可能な個体どうしを同種とするならば、生殖可能性に基づいて種がクリアに定義されるというただそれだけである。何がどう明確な分割を提供しないのか謎である。可能性としては、生殖可能であるかどうかそのものの判断が曖昧であると言っているか、または生殖可能性に基づく種概念のみを以って曖昧性を語っているように見えるが実は頭の中では他の種概念との整合性も踏まえて曖昧性を導き出していたか、のどちらかが考えられる。
また松井氏がここで言っている種概念はおそらく「生物学的種概念」のことだと思うのだが、その場合「生殖が可能な個体どうしに同種と考える」は誤りである。生物学的種概念はその子孫も繁殖能力を持つことを必要とする。松井氏の説明ではレオポンを生むライオンとヒョウは同種になってしまう。
| それに対して、創造では頻繁に発生する。(p.286)
M: まず創造における種と異種、交配の概念を整理しなければこの主張はできないだろう。当書では「空想のなかでの犬」や「空想のなかでの人」が種であり、それらが異種の関係にあり、狼男はそれらの交配であるとしている。まず、ここでの文化的な交雑を無理やり「思いがけない、くっつきそうにもない文化的な概念がひとつの塊として新たに生成される」ことであると定義してみよう。「思いがけない」とか「くっつきそうにもない」といった判断基準が主観的で好ましくないと思う方は、「今までくっついたことのない、実践されたことのない、実装されたことのない、発話されたことのない、概念」でも構わない。すると犬と人は、生物学的には、生殖的隔離が甚だしいために「かけ離れた」種であることは一目瞭然である。それに対し、「空想のなかでの犬」と「空想のなかでの人」はそこまでかけ離れているといえないのではないか、という気がしてくる。それどころか、理念や概念に関して言えば、いくらでもかけ離れた二者をくっつけて発話し、他のひとに伝達することができそうだ。「メタルなごぼうが支配する非営利国会」。「1億年先から来た家康がノートPCを開発する」など。いくらこれらがクレイジーで意味不明であっても文としては成り立っているし、あなたの脳にはメタルなごぼうに支配された国会が思い描かれているはずだ。それに対し、持続的に、継続的にある人からある人にその新概念が伝達され、変異されるかどうか、つまり文化的な適応を獲得できるかどうかを基準に加えると、生殖的隔離ならぬ「アイディアが融合してひとつになれるかどうか」の隔離の基準になる。メタルごぼうの独裁のような意味不明なアイディアは受け入れられず、この新概念が継続的に伝達されて人々の意識や知識の片隅を占拠し続けることは難しくなる。さらに、単なる概念ではなく、実際に現実世界に存在できるか、になると一段と厳しい隔離条件となる。まずは異種交配ではなく、単体で存在できるかを考えてみよう。永久機関の考えは昔からあるものの、それが頭から漏れ出して現実世界で実現したことは一度もない。三角形の概念は小学生以上であれば誰でも持つことができるが、この世に三角形は存在せず、概念の世界でのみ存在できる。創造にも前述のような「自然条件下」の交雑と「人為的な」交雑のような区別はしようと思えばできる。たとえば前者が意図しない交雑、たとえば誤植によって「不幸の手紙」が「棒の手紙」になった事例のように、棒の概念が不幸の手紙の文脈と「交雑」するもの、後者は意図した交雑、たとえば狼男のようなものだ。
長々と述べているが、結局何を言いたいのかよく分からない。初めのほうでは「それに対し、「空想のなかでの犬」と「空想のなかでの人」はそこまでかけ離れているといえないのではないか、という気がしてくる。それどころか、理念や概念に関して言えば、いくらでもかけ離れた二者をくっつけて発話し、他のひとに伝達することができそうだ」というように、「空想のなかでの犬」と「空想のなかでの人」が別種であるという太刀川氏の主張に否定的であるように見えるが、最後のほうでは「創造にも前述のような「自然条件下」の交雑と「人為的な」交雑 のような区別はしようと思えばできる。~ (中略) ~ 後者は意図した交雑、たとえば狼男のようなものだ」というように狼男を交雑として認めている (すなわち「空想のなかでの犬」と「空想のなかでの人」が別種であると認めている) ように見える。それとも一番初めに「まず創造における種と異種、交配の概念を整理しなければこの主張はできないだろう」と言っているようにここではただ概念整理をしたかっただけであり、特に太刀川氏の主張そのものを批判している訳ではないということだろうか?そうであれば、ここで行われれている議論内容そのものには特に異論はない。
| この創造の系統樹上で頻発する再結合を、進化思考では「進化の結び
| 目(evolutionary knot)」と呼んでいる。(p.287)
M: わざわざ新語を開発しなくても進化学には水平伝播という用語があるので、そちらを使ったほうがよいと思う。
💜引用部分が少ないので太刀川氏が云う「再結合」というのが具体的にどのようなものを指しているのか分からないが、交雑に基づく進化についても言及しているのであれば、別に問題ないのではないだろうか?交雑は遺伝子の垂直伝播であり、当然水平伝播には含まれない。もし太刀川氏が交雑も含めて再結合を語っていることが自明ならば、松井氏は種間で遺伝子交流があること一般が水平伝播であると勘違いしている可能性がある。
| 頻度の差は違えども、特に原始動物を中心に、実は生物にも「進化の
| 結び目」は頻発しているのだ。(p.287)
M: 生命の歴史全体を眺めればたしかに水平伝播は頻発しているし、その進化上の意義も非常に大きい。しかし、その前のパラグラフでは「異種交配は、自然界では稀にしか発生しない」としているのが気になる。多細胞の有性生殖を行う生物の間では、異種交配は水平伝播よりも頻繁に起きているのではないだろうか(そもそも種の概念が人間による恣意的なものであるため)。どのタイムスパンを想定して「頻発」とか「稀」と表現しているのだろうか。たとえば大量絶滅は生命の歴史全体のスパンであれば頻発しているが、日常的な人生くらいのタイムスパンであれば極めて稀だというべきだ。
💛太刀川氏が云う「異種交配」というのが単なる交雑ではなくて、生殖可能な子孫を生む交雑を意味しているのならば、それはそこまで頻繁に発生するものではない (植物では割と起きるが動物では珍しい) 。
また「(そもそも種の概念が人間による恣意的なものであるため)」という理由付けもよく分からない。「異種交配」は「種」を前提とした概念であるのだから、種概念が恣意的であることは異種交配がより頻繁に起こることに特に寄与しないように思われる。松井氏は、①「複数の種概念を全て考慮すると通常思われている以上に異種交配は多く起こっている」ということを言っているか、または②「人間による種概念とは別に「存在論的な真の種」があって、その真の種のほうが人間における種概念における分類よりも細かい」ということを言っているか、または③「種概念を取っ払ってもそこには曖昧な「種モドキ」という謎の分類が存在して、それが通常の種概念よりもより細かいものである、かつその「種モドキ」にもなぜか異種交配という概念が適用できる」と言っているか、のいずれかであるように思われる (あくまで主観だが、言い回しや文脈からは③について言ってそうな気がする。なおもちろん③の考え方はおかしいし、②についても真の種がより細かい根拠は特にないだろう。①についてはその内容そのものはおかしくないが、そう考えることに特に意味はない気がする)。
| それが不都合だと気づき、解決方法を思いついた人であれば、誰もが
| それを創造し得たからだ。(p.290)
I: 恣意的になのかわからないが、アレグザンダーと違うことを書いている。この書き方だと「解決方法を思いつく」つまりある種の正解を出す力が要求されるかのように思える。アレグザンダーは「不都合に気づいたとき、何らかの変化をほどこせば良い」とし、その変化は「必ずしも」「正しくある必要はない」、またその際には「代行人には強い創造力は不要であることを理解するのが特に重要である」と言っている[64]。これは進化における遺伝子のランダムな変異変異と近いので、アレグザンダーの言葉を正しく引用しても当書にとって都合の悪いところはなかったと思うのだが。
ここでのアレグザンダーの言葉というのは、その前の部分で引用されていた「Misfit provides an incentive to change; good fit provides none.」を指すのだが、別にこのアレグザンダーの主張そのものの説明として言っている訳ではないのだとしたら特に問題はないのではないだろうか?この辺も引用が断片過ぎて太刀川氏の主張がよく見えず、批判の妥当性を判別することができない。
| なぜなら私は、創造という現象もまた、生物の進化と同じように、適
| 応に導かれて自然発生すると考えているからだ。(p.290)
M: 適応に導かれるとは一体どのような状況を指すのか? 適応というか自然選択は進化の中核をなす1プロセスなので、生物進化は適応に導かれるわけではない。
I: 創造は「代行者」(agent)を依り代に「自然発生」する「現象」、という立場をこれ以降とるのだろうか。しかし、続く文では「個人の意志」が必要なようなので、いわゆるアイディアなどが「降りてくる」と言いたいのだろうか。だとすると「次なる創造性に火をつけるのだ」という文の「創造性」という語がよくわからなくなる。「創造」の「自然発生」の確立を高める性質が「創造性」ということか?
💛「適応に導かれる」において太刀川氏が言いたいのは、単に環境にフィットする方向に進化していくとかそういう意味ではないだろうか?適応度地形を上るように。
また「適応というか自然選択は進化の中核をなす1プロセスなので、生物進化は適応に導かれるわけではない」という論理そのものも別に正しくはないだろう。プロセスの一部がそのプロセス全体を導くと表現することは必ずしも誤りという訳ではない。適切か適切でないかはプロセスの具体的内容によるが、プロセス的定義や非歴史的定義として適応を定義するとき適応進化は適応がなければ起こらない訳なので「導かれる」と表現することは別に誤りとは言えないだろう。また単に「進化=適応進化」ではないという話をしているのであれば、厳密には確かにそうだが、ここまでの文脈から太刀川氏が適応進化のことを言っているのは自明だろう。確かに指摘そのものが誤りという訳ではないが、ここまで何度もそれを指摘するチャンスがあったのに今それをここで言うか?という感じではある。
また伊藤氏の代行者(agent)云々はよく分からない。太刀川氏が「代行者」という言葉を出しているのだろうか?そうであるならばそれが分かるように引用すべきである。またそうでない場合、1つ上の批判のアレグザンダーに関する部分で代行者という言葉が出てきているものの、一般に膾炙したテクニカルタームというよりは個人的な比喩的用語法に思えるので、もしそうならば意味を説明すべきだろう。普通の人は「「代行者」(agent)を依り代に」と突然言われても意味を理解できない。
| 物質に寿命はないけれど、使われなくなるという意味では道具も絶滅
| する。系統を注意深く俯瞰し観察していけば、失敗した前例や失敗の
| 理由、あるいは本質的な願いもまた浮かび上がってくる。(p.290)
M: 絶滅を失敗と捉えているのだろうか。恐竜は失敗したのか?あんなに繁栄したのに? リョコウバトは失敗作だったのか?あんなに繁栄したのに? Bf-109は現代では全く実戦に使われなくなったが失敗作だったのか?あんなに大量生産されたのに?
💜ここで太刀川氏が「失敗」と言っているのは絶滅一般に対してではなくて、絶命したものの中でも特に失敗と思われているようなものに関してではないだろうか?かつて栄えていたものを出すのは的外れのように思える。特にリョコウバトは人間という環境的特異点によって絶滅させられたもの (リョコウバトの形質に特段環境に不適応なものがあった訳ではない (人間も環境の一部と言えばまあそうだが、生態系での強さがあまりにも異質) ) であるし、Bf-109に関しては詳しくは知らないが、単にかつて普及していた戦闘機ということであれば、その技術はその後も受け継がれているのではないか?単に技術更新で新たな戦闘機が生まれることによる不使用を失敗と見なすのは誤りだろう。
また引用範囲が狭いためはっきりとは分からないが、そもそもここで太刀川氏が言っているのが人工物のみについてならば、恐竜とリョコウバトを出すのは不適切だろう。
| なぜなら、変化しなければ進化もまた発生しないからだ。(p.290)
M: 当書の失敗を恐れず変化していこう、という文脈を考えると、進化を進歩と混同しているのではという印象が強くなる。そのような文脈からの判断なしに純粋にこの文章を読むと、そもそもこの文章はトートロジーになってしまう。(生物)進化は(遺伝子頻度)変化だからだ。進化はよいものだ、進化とは数々の失敗を乗り越えた先にある成功だ、という印象は全編を通して常に拭えない。生物進化における変異から学ぶことがあるとすれば、変化は基本的に悪である(突然変異は大半が有害だから。実際、現代社会でもほとんどの新製品は既存製品を置き換えられず淘汰されていくではないか)、現状維持は基本的に善である(既存の戦略でうまくやってこれたのだから、進化的に安定なはずだ。実際、現代社会でもほとんどの以下略)という、むしろ著者の主張の全く逆のことすら言えるのだ。同じ事実から全く逆の教訓が引き出せる場合、どうすればいいのかは私にはわからない。少なくとも無責任に「変化しないと変化できないから変化していこうよ」と焚きつけることではない気がするのだが…。
💛まず、「当書の失敗を恐れず変化していこう、という文脈を考えると、進化を進歩と混同しているのではという印象が強くなる」については確かにそういう見方もできるが、あくまで「印象」に過ぎず、断定はできないだろう。「失敗を恐れず変化していくこと」は別に進歩を含意しないし、仮に進歩の意味で取ったとしてもそれは進化と進歩が混同されていることを含意しない。太刀川氏が進歩と進化を混同しているという指摘は批判集において多く存在するが、本稿でここまで指摘してきたようにそれらの多くは根拠不十分の決めつけである (とはいえ一部怪しいものがあるのは確か)。
またトートロジー云々については、既に同様のことを指摘したが「(生物)進化は(遺伝子頻度)変化」というのは進化の一定義の話に過ぎない。確かに昨今この定義がポピュラーであるのは確かだが、例えば形質に関する進化の定義も存在する (「羽の進化」「角の進化」など)。オンライン辞書データベースの「ジャパンナレッジ」における「岩波 生物学辞典 第5版」の「進化」の項にも「生物個体あるいは生物集団の伝達的性質の累積的変化.どのレベルで生じる累積的変化を進化とみなすかについては意見が分かれる.種あるいはそれより高次レベルの変化だけを進化とみなす意見があるが,一般的には集団内の変化や集団・種以上の主に遺伝的な性質の変化を進化と呼ぶ.」と書かれている[34]。形質の変化について進化と言っている場合は、太刀川氏の記述に特に誤りはない。
また「生物進化における変異から学ぶことがあるとすれば、変化は基本的に悪である」「現代社会でもほとんどの新製品は既存製品を置き換えられず淘汰されていくではないか」「同じ事実から全く逆の教訓が引き出せる場合、どうすればいいのかは私にはわからない。少なくとも無責任に「変化しないと変化できないから変化していこうよ」と焚きつけることではない気がするのだが…」というのもだいぶ謎で、太刀川氏は創造性に関する話 (創造性が求められるような場面での話と言ってもよい) をしているのだから、変化を求める記述は別におかしくないだろう。別に太刀川氏は昔からの既存製品で大きく成功しているメーカーの社員に対して「変化しよう」と言っている訳ではない。また単なるアイデア発想や試作段階での話をしているのならば (変化させた新製品を積極的に市場に出せと言っている訳でないのならば)、失敗案・失敗作を作ることに大したリスクはない訳なので、「変化しよう」と言うことに別に無責任さはないだろう。そして『進化思考』全体の文脈から言って太刀川氏はそういうアイデア発想や試作段階での話を主にしているように見える。
| 一つは、失敗したものが次世代に遺伝しづらい自然選択の仕組みで、| もう一つは、かつてうまくいった方法をなるべく保存しようという
| DNAプールの仕組みだ。(p.291)
M: 「DNAプール」は遺伝子プールの誤りだろう。そうでなければここでのDNAプールが何を意味する言葉であって、遺伝子プールと何が違うのか説明すべきだ。そして、遺伝子プールそのものにかつてうまくいった方法をなるべく保存しようという仕組みはないと思う。むしろかつてうまくいった方法が環境の激変などにより適応的でなくなりうる。遺伝子プールが多様であれば多様であるほどそういった急激な変化には対応しやすいはずだ。
I: DNAと遺伝子の区別がついていないのか、単なる誤りなのか不明だが「遺伝子プール」である。また、遺伝子プールはある集団の遺伝子全体を考える際に人間が勝手にモデル化した「概念」である。「仕組み」ではないし、「性質」もない。同様に「メスの持つ適応的な遺伝子プールを保つ卵子」(p.452)もおかしい
💜「遺伝子プールそのものにかつてうまくいった方法をなるべく保存しようという仕組みはないと思う」とのことだが、十分な大きさの遺伝子プールにおいては死に即直結しないような程度の有害変異が遺伝的浮動によって広まりにくいことを「かつてうまくいった方法をなるべく保存しようという仕組み」的なものとして見ることは可能だろう。
また伊藤氏の「遺伝子プールはある集団の遺伝子全体を考える際に人間が勝手にモデル化した「概念」である。「仕組み」ではないし、「性質」もない」についてもおかしい。目的論的な仕組みではないのはその通りだが、性質がないというのは誤りだろう。概念であるならば性質は存在しないというならば三角形における中点連結定理や重心や内心などの性質も認められないことになる。
なお既に同様のことを述べたが (p.147の批判への指摘)、太刀川氏はおそらくゲノムのことを指して遺伝子プールと言っている気がする。ここで伊藤氏が挙げている「「メスの持つ適応的な遺伝子プールを保つ卵子」(p.452)」というのを見てもおそらくそうだろう。もちろん遺伝子プールにそのような意味はないので誤用だが。したがって、ここで太刀川氏が云う「DNAプール」というのが本来の意味での「遺伝子プール」なのか、またはゲノムという意味で勘違いした「遺伝子プール」なのかはよく分からない。
| 個体が生まれるたびに細部に変異が発生する。(p.291)
M: そうとは限らないのではないか。単為生殖ならば子は親のクローンのはずで、ひとつの変異もなくコピーされることはしばしば起きると思う。
💛いろいろとおかしい。まず「クローン」とは遺伝的に全く同一な個体を指すので、「子は親のクローンのはずで、ひとつの変異もなくコピーされることはしばしば起きると思う」というのは明らかに矛盾している。変異が起こっていたらそれはクローンではない。
また「単為生殖ならば子は親のクローンのはず」という考え方そのものも誤りで、子がクローンになりうるのは基本的に単為生殖の中でもアポミクシスのみである。オートミクシスと単為発生においては減数分裂が行われるので染色体の乗り換えは普通の受精による有性生殖と同様に起こるし、また末端融合型オートミクシスと単為発生ではその仕組みからして親の全ての相同染色体の組がそれぞれ完全に同一の塩基配列であるような個体でない限りクローンにはなりえない。
また、松井氏は全体を通しておそらく「染色体の乗り換えが起こらないような生殖では、突然変異が起こらない限り、ひとつの変異もない染色体のコピーが生まれる」と言いたいのだろうが、染色体の乗り換えによる遺伝情報の変化はmutationではない。したがって、もしここで松井氏が言っている「変異」というのがvariaitionの意味ならば特に問題ないが、mutationの意味で言っているのであれば乗り換えの有無は全く話に関係ない。なお「ひとつの変異もなくコピーされる」という表現からはmutationのことを言っている可能性が高いように見える (また松井氏はp.141で「変異するのは遺伝子である」と言っており、これもmutationの意味での変異と取るのが自然)。
| 長い時間を生き抜いてきた創造性は、成功要因の保存と、失敗や変化
| への体制を備えている。(p.292)
I: ここは「創造性」ではなく「創造」なのではないかと思うが、どうやら「創造性」は「新規性」や「新奇性」のような「クリエイティブ度合い」の意味で用いられているようである。次章p.187参照。
💜個人または集団の創造的能力について言っているのであれば「創造性」で特に問題ないだろう。また創造物として「創造」を取ったとき、「創造」が失敗や変化への体制を備えているというのはややおかしいと思う (もしここでの「体制」というのが「耐性」の誤字であれば、「創造」の意味で取っても問題はないが)。
また「「創造性」は「新規性」や「新奇性」のような「クリエイティブ度合い」の意味で用いられているようである」とは少なくとも私には読めない。ここの太刀川氏の記述のどの辺から「新規性」や「新奇性」のような「クリエイティブ度合い」」という話が出てくるのか謎である。
なお、伊藤氏は「創造性」と「創造」の定義にここ以前から非常に強い拘りを持っているが、私にはそれが太刀川氏の主張の本質と大した関係があるようには見えない。
| 何より身体の進化によって生理的な欲求が生まれたという考え方はき
| わめて興味深いものだ。(p.293)
M: それっぽい書き方をしているが、読めば読むほどどういう意味かわからなくなってくる。おそらく書いている本人も意味がわからず書いているのだろうと思うが、進化心理学ではこのような主張がなされているのだろうか。それとも単に「我々の生理的な欲求(immediate physiological needs)が進化から生まれたというのは興味深い」という意味だろうか。トイレに行きたいとかご飯が食べたいといった欲求が進化から生まれた、という考えは150年前ならともかく、21世紀においても興味深いとはさすがに思えないので、意図するところをもういちど説明し直したほうがよいと私は思う。
これも引用部分が少なすぎて太刀川氏の主張がよく分からない。単に生理的な欲求が進化によって生まれたと言っているのであれば特に問題ないのではないだろうか?ここまでの文脈からするに太刀川氏は進化を適応進化の意味で言っているのだろうが、生理的欲求が適応進化を通して生まれたという説は別に「読めば読むほどどういう意味がわからなくなってくる」というものではない。「それとも単に「我々の生理的な欲求(immediate physiological needs)が進化から生まれたというのは興味深い」という意味だろうか」とのことだが、それ以外にどういう解釈なのか今一分からない。
なおこれは私の推測に過ぎないが、おそらく太刀川氏は心身二元論的な観点を持っており、それゆえ身体の進化と生理的欲求の繋がりに興味深さを感じているのではないかと思われる。
また「150年前ならともかく、21世紀においても興味深いとはさすがに思えない」とのことだが、社会的な科学理解としては既に興味深いものでなかったとしても、あらゆる時代において全ての個人は一から学習をしていく訳なので、あくまで主観的に興味深いと思うことそのものは別に否定されるものではないだろう (今は書籍における発言なので、客観性を重視した発言と見るべきorそういう発言をすべきというのはそうかもしれないが)。
| そもそも私たちは、人間以外の生物に共感することが苦手だ。(p.296)
I: この文が言わんとすることがよくわからない。「ペットに対して慈しみの愛情を感じる」「共感的な感情」(p.295)という話は何だったのか。それとも植物とか大腸菌とかと共感できないと言いたいのだろうか。その割には「「要求の系統樹」の要点」(p.296)の最後が「異種間でも共感が生まれている」という結論なので、混乱する。最後を「共感が生まれ得る」とでもした方が良いのではないだろうか。
その前の「種が分岐を繰り返すごとに、本能的欲求も多層かつ複雑なベクトルの合成になっていく。そのベクトルの合成として本能的欲求が個体にも現れる」のあたりは何が言いたいのかよくわからない。突然「ベクトル」の概念を持ち出すのが良くないように思う。特に、ベクトルの向きをどう捉えているのだろうか。少なくともp.294の系統樹にはベクトルは描かれていない。点線のことだろうか?
「共感する (できる) 性質をもつ」と「共感することが苦手」は別に矛盾する訳でもないのでそこまで問題はないのではないだろうか?
また、ベクトル云々に関しては「本能的欲求が個体にも現れる」の辺りが今一よく分からないが、ベクトルの定義に関しては別にそんなに不思議でもないだろう。ベクトルの向きは単に欲求の質の違いを意味しているように思える。またこれは推測になるが、「本能的欲求が個体にも現れる」というのは、本能的欲求が個体の意識に現れることを言っているのではないだろうか?
| 系統樹には、不変の願いが流れつづけている。(p.300)
M: 意味がわからない。系統樹は変更の記録でもある。目を失えば著者のいうところの「ものを見たいという願い」が消えていることになる。そもそも欲求が系統樹を生み出したという考えがおかしいのだが…。「系統樹には、不滅のコイルとしての遺伝子が流れつづけている。我々の遺伝子の中にも、我々とは全く似ても似つかない生物だったころから維持されてきた根源的な欲求を生むようなものがある」であればある程度妥当だし、興味深い書き出しだと私は思う。
引用部分が少ないため太刀川氏の主張が今一よく分からないが、ここでの「不変の願い」というのを「環境にフィットする形質を得ること」と見るならば、環境は変わり得るので不変の願いが流れ続けることが必ず成り立つとは言えない。ただ「ある環境において」という補足を付ければセーフとも言える。
また「そもそも欲求が系統樹を生み出したという考えがおかしいのだが…。」という批判は不適切のように思われる。なぜなら「系統樹に不変の願いが流れ続けていること」は「系統樹が不変の願いによって生み出されたものであること」を含意しないからだ。それとも太刀川氏は引用外において欲求が系統樹を生み出したと言っているのだろうか?そうであれば誤りだが。
| 言うまでもなく、本来の願いを見失った創造は脆弱で、急速に廃れて
| いく。(p.300)
M: 本来の願いとか不変の願いとかの言葉の曖昧性を少しでも減らすため、「本来の願い」を「当初の設計意図」と読み替える。すると電子レンジの「本来の願い」は遠隔で人を煮殺すことだったし、ポストイットに使われた糊の「本来の願い」は強力で剥がれにくい糊だった。日本の古来の武術は安土桃山時代でいったん終わったが剣術や弓術は剣道や弓道として、そして日本刀は美術品としてしぶとく生き残っている。著者の意図しているのはこういうものではなく、むしろ「最初はAを目指していたのに、途中からBばかり追い求めるようになった」かもしれない。その場合の反例はGoogleだろう。当初は検索結果が歪むために検索エンジンと広告は根源的に相性が悪いので広告で稼ぐビジネスモデルは絶対に嫌でござるみたいなことを言っていた[67]のだが、こんにちのGoogleは今日も全力で広告にまみれた結果を返してくる。Googleは急速に廃れているだろうか。
💜電子レンジやポストイットはある創造が応用された例であって、それは太刀川氏が言っている話とは異なるのではないだろうか?松井氏も後に言っているが、太刀川氏の意図は「最初はAを目指していたのに、途中からBばかり追い求めるようになった」というような話であると思われる。また、太刀川氏の主張は全称命題としては確かに誤りであると思うが、そういう傾向が多少あるというのは一般的に受け入れられるものなので、googleの反例を出してそれで満足するのはどうなのだろう。全称命題か否かはここでは本質ではないような気がする。太刀川氏の意図を汲み取った生産的な批評をすることが批判本のあるべき姿ではないだろうか?
| そもそもヒトは、わかってもいないことを、わかったつもりになる生
| き物だ。(p.307)
M: ほんとうにそう。
💛松井氏のコメントはおそらく太刀川氏に対する嫌みであると思われるが、残念ながらこの批判集の著者らに対しても同様のことが言える。ここまで本稿で長々と指摘してきたように、あれだけ自身満々に批判しているのに、誤りがあまりにも多すぎる。なお、嫌みとかではなく単に自戒を込めてのコメントであるならば特に問題ない。
| 例えば、タイタニック号の沈没事故がきっかけで開発されたソナー
| (音波探知機)は海洋事故を減らした。(p.318)
M: タイタニック号の沈没事故はソナーの開発が加速したきっかけではあったが、ソナーじたいはもっと昔からある。「タイタニック号の沈没事故がきっかけで開発が加速したソナー」なら受け入れられる。
💜p.107の擬態に関するコメントに対しても同様の指摘をしたが、「タイタニック号の沈没事故がきっかけで開発された」という修飾を非制限用法として解釈すれば確かに誤りだが、制限用法として解釈すれば特に問題はない。また、「タイタニック号の沈没事故がきっかけで開発が加速したソナー」を代替案として出しているが、特に問題の本質は変わっていないように見える。松井氏はこの代替案においては制限用法を採用しているようだが、別にこの代替案を非制限用法的に取ることも可能である (「Aの開発が加速する」という文章はAが既に開発済みであることを含意しない)。
| それぞれ特殊なルールに基づいてクオリティを競争する姿がよく見ら
| れる。(p.323)
I: クオリティの語の意味するところが不明だが、前文の「形質」のことなのだろうか?また、「こうしてキリンの首は長くなり」だが、当書ではここまでは高所のエサを取るためという解釈[68]が書かれていた(「・高いところの草を食べる「キリンの首」」(p.97)、「キリンの首が長くなったのは、親が高いところにある葉を食べるために首を伸ばしたから」(p.274))。それが突然ここで性競争の例[69][70][71] として挙げられても読み手は困惑する。
💜ここでの「クオリティ」の意味は普通に考えて「質」や「品質」ではないだろうか?どういう理由で意味が不明なのかよく分からない。可能性として「形質」を持ち出しているのも謎である。「クオリティ」と「形質」は全く異なる概念である。もし仮に引用部分前後に「クオリティ」と「形質」の関連が述べられた情報があるのならば、それをちゃんと引用すべきだろう。
また後半のキリンの話については、一般に自然選択と性選択は両立するので特に論理的な矛盾はない。しかし一般人が困惑する可能性はありえるので、何か一言補足しておいてもよいかもしれない。また「キリンの首が長くなったのは、親が高いところにある葉を食べるために首を伸ばしたから」というのを太刀川氏が自らが納得している説として述べていたのならば、これはラマルク的進化であるので一般的に不適切とされるが、さすがにこのレベルのミスはしないのではないかと思った。真偽は分からないが。
| 専門分野内での競争は、こうして目的を超えて特殊化するのだ。
| (p.325)
M: 目的を超えているのではなく、目的が増えているだけだろう。当初とは違う目的ではあるにしても。誇示的消費についてはミラーの『消費資本主義!』[39]が詳しい。
引用の不足により文脈はよく分からないが、太刀川氏がここで述べている「目的」というのは普通に考えて「当初の目的」ではないだろうか?
また誇示的消費についてもよく分からない。太刀川氏が誇示的消費について述べているのだとしたら、それを直接引用するか、そういった類のことを言っているといった記述をするべきだろう。これも何回も言っているが、この批判集は引用不足のために本単体として完結していない。
| こうした行き過ぎた進化は、現在の進化生物学ではランナウェイ現象
| と呼ばれている。(p.326)
M: ランナウェイ説は行き過ぎを意味しない。性淘汰は、傍目には暴走runawayしたかのように奇妙な形質を生み出すことがあるが、彼らの遺伝子にとってはそのような形質を生み出すほうが適応度をあげるのだから、奇形のような非適応的な、行き過ぎた変異とは一線を画す進化である上に、自らの生存率を害するほどに奇妙な形質に投資しすぎ暴走した者は淘汰されるので、行き過ぎないギリギリのところまで発達させる。つまり、自然淘汰を性淘汰以外の淘汰と定義すると、自然淘汰と性淘汰が逆の方向をむいている場合、それらが釣り合うところまでモテと生き残りの両者を同時に最大化するように進化する。また、花の生息地の消滅のような環境の急変によって絶滅するからといって行き過ぎた進化と断ずることはできない。そもそも行き過ぎという言葉が主観的であり、少なくともそのような、特定の花にあわせて進化するのは適応であり、長期的にその適応のおかげでニッチを獲得できていたのなら、その当時は十分に成功した生物種といっていいと思う。しかしどんな生物種も著者がいうように完璧ではなく、しばらくは利益が大きくても、急な環境の変化に脆弱になるような変異はしばしば起きているはずだ。進化には先見性がないためだ。その後絶滅したからといって行き過ぎと評するのは後知恵だろう。
💛残念ながら非常に多くの誤りがある。まず、ここでのrunawayの意味は 「① (of a person) having left without telling anyone. ② (of an animal or a vehicle) not under the control of its owner, rider or driver. ③happening very easily or quickly, and not able to be controlled」(Oxford Advanced Learner's Dictionary 10th edition, [35]) の③であるので、「行き過ぎ」と表現することが誤りとは別に言い切れない気がする。またランナウェイ仮説の要点は選好対象の形質が正直なシグナルとは限らないところにあり、そのようにして個体の質を真に保証しない形質が進化し続けることを「行き過ぎ」と表現することはそこまで変ではない。
また松井氏は「ランナウェイ説は行き過ぎを意味しない。性淘汰は、傍目には暴走runawayしたかのように奇妙な形質を生み出すことがあるが、~(後略)~」というように1文目のランナウェイ仮説に対して、2文目で即「性淘汰」というワードを出しているが、これを見るに松井氏は優良遺伝子仮説やハンディキャップ仮説に基づく性選択形質の進化についてもランナウェイ仮説が言えると思っている可能性がある。つまり松井氏は性選択による形質の過剰的 (に見える) 進化一般をランナウェイ仮説と見なしてしまっているように見える。実際その後の「自らの生存率を害するほどに奇妙な形質に投資しすぎ暴走した者は淘汰される」という記述を見るに、彼はここで優良遺伝子仮説だけを想定してランナウェイ仮説 (もどき) を語っているように思われる。なぜなら本来のランナウェイ仮説においては生存率が下がる形質も進化し得るし、ハンディキャップ仮説についてはその定義からして生存率が下がる形質の進化について述べているからである (ただ、それ以降の文脈も合わせて考えると、ここで松井氏が云っている「自らの生存率」というのは「適応度」のことを言いたかったようにも見える。まあいずれにせよ理解が浅いのだが)。
また「それらが釣り合うところまでモテと生き残りの両者を同時に最大化するように進化する」というのもおかしい。モテと生き残りの両者を同時に最大化したらそれは釣り合いとは全く関係ないだろう。また、もしここでの「最大化する」というのが徐々にベネフィットを大きくしていくことについて述べているのだとしてもやはりおかしい。なぜなら松井氏自身が言っているように今は「自然淘汰と性淘汰が逆の方向をむいている場合」の話をしているからだ。この場合、形質がある方向に変化するとき、自然淘汰と性淘汰について片方の観点ではベネフィットが増加するが、もう片方の観点ではベネフィットは減少する。すなわち、ベネフィットが同時に大きくなるような形質変化は今の場合ありえない。
また重箱の隅を突っつく指摘になるが、「彼らの遺伝子にとってはそのような形質を生み出すほうが適応度をあげる」というのも不適切な表現である。「適応度」は”個体”の繁殖成功度を意味するものであって、”遺伝子”の継承確率を意味するものではない。一応「彼らの遺伝子にとってはそのような形質を生み出すほうが"個体"の適応度をあげる」とすればセーフかもしれないが、シンプルに日本語が分かりづらい (「遺伝子にとっては、、、適応度をあげる」の部分が)。また、以上はここで言っている形質がここで言っている遺伝子由来のものであると解釈したときの話だが、もしここでの「彼らの遺伝子」というのがその個体の遺伝子全体 (すなわちゲノム的なもの) を指しているのであれば、元の文はよく分からないものになる。確かにある適応的形質の存在によってその個体のあらゆる遺伝子の継承確率は高くなるが、それとその適応的形質が進化することはあまり関係がない。
なお補足として、個体レベルの利己的な適応進化が集団の絶滅原因になる「進化的自殺」というものも存在し、これはまた別の意味で行き過ぎた進化と言えるだろう。
| しかし、車は急に止まれないし、新しいことに挑戦しろと言われて
| も、それまでの適応圧に縛られてしまい、変化できないままでいるこ
| とも多いだろう。(p.338)
I: 無粋なツッコミであるが、車が急に止まれないのは慣性のためである。この例で言えば 、「挑戦しろと言われても」難しい「新しいこと」は「アクセルからブレーキに踏み替える」ことになるだろう。
💜伊藤氏が何を言いたのかさっぱりなのだが、太刀川氏はその車の慣性と過去の適応圧 (の幻影) に類似性があると言っているのではないだろうか?したがって何も問題は無いように見える。
また 「アクセルからブレーキに踏み替える」ことそのものは全く難しいことではないのでそういう点でも伊藤氏の指摘は的外れである (p.92の批判への指摘で述べたように、このように学者レベルの知能の持ち主でも普通に例え話に失敗するものなのである。それくらい例え話というのは難しい代物である)。ブレーキの話で例えるならば、太刀川氏が言っている「「挑戦しろと言われても」難しい「新しいこと」」は「急に止まることが求められる場面でブレーキを適切に踏んで車を止めること」に相当する (実は多くの人はフルブレーキを踏めない[36])。
また伊藤氏はこのコメントにおいて、「太刀川氏の表現には誤りがあるので、それを訂正した上で代案を示してあげた」つもりなのだろうが、伊藤氏が言っていることの大枠は太刀川氏が言おうとしていることそのまんまに見える。そして伊藤氏が太刀川氏の記述をどのように解釈したのか全く分からない。新しいことへの挑戦は中々難しいものの別に不可能な訳ではない一方、車が急に止まれないのは物理的な必然なのでどう抗おうが不可能である、という話であれば確かに一理あるが (とはいえ、新しいことへの挑戦を初めから何の一切の抵抗もなく即行うことはほとんどの人には無理だろう。したがってある程度妥当性は残る)、「「挑戦しろと言われても」難しい「新しいこと」は「アクセルからブレーキに踏み替える」ことになるだろう」というように車の例を使うことそのものには同意しているので、その線ではないようだ。
| そこで生き残るのは、激変以前の価値軸で強者だったものではなく、| 偶然にも変化に柔軟に対処できたものだ。(p.338)
M: ここにも著者の変態主義的な理解が色濃く現れている。生物の進化は環境の変化に「対処」してあるものが違うものに変わるものではない。
💜別にそれほど問題ないのではないだろうか。太刀川氏は「偶然にも~対処できた」と言っており、これは「客観的に見て対処しているように"見える"」ということを意図しているように思われる。なぜなら「対処」の意味は「ある事柄・状況に合わせて適当な処置をとること」 (デジタル大辞泉, [37]) であるが、「処置」は「その場や状況に応じた判断をし手だてを講じて、物事に始末をつけること」 (デジタル大辞泉, [38]) というように意図的な判断性を持つ訳なので、「偶然に対処できた」という表現はそもそも矛盾的であるから (それゆえ文字通りの意味で対処とは言ってないように思われるから) である。また一応「対処に必要な要素が偶然手に入った (ので対処できた)」というようにも読めるが、これも結局突然変異によって変化が起こることを言っている訳なので、対処そのものに意図的な変化の意味は存在しないように思える。またこんな詳細に考えなくとも、単なる変態主義的進化について言いたいのならば普通「偶然にも」というのは付けないだろう。
したがって、太刀川氏が変態主義的な理解をしているようにはあまり見えない。とはいえ「対処」という表現が誤解を生みうるものであるのは確かなので、「対応」などに置き換えた方がよい。
| その一例として、恐竜の絶滅後にさまざまな形で進化を遂げた、私た
| ちを含む哺乳動物があげられるだろう。(p.338)
M: 単弓類は? そして絶滅「後」という表現がまた変態主義的、チェイン的な進化の理解だ。哺乳類は恐竜が絶滅してから進化をはじめたわけではない。哺乳類は恐竜の後継者ではない。恐竜の絶滅はたしかに哺乳類にとっての環境の変化としては大きなもので、哺乳類とその繁栄に大きく影響したと思うが、恐竜がいたときも、恐竜がいるまえも、恐竜が絶滅したあとも、哺乳類は進化してきた。
💛前後の文で何を言っているのか分からないが、引用されている範囲を読む限りは全く問題ない。太刀川氏のこの文は哺乳類が恐竜の絶滅後に"初めて"出現したことを含意しない。「進化を遂げた」だけであってもそうであるし、加えてここでは「さまざまな形で」と述べており、これは単に恐竜絶滅後の環境において哺乳類が種々多様にニッチを獲得していったことを意図している可能性が高い。松井氏の論理に沿うならば、人間滅亡後に昆虫が地球を支配するというSFにおける「人間の絶滅後にさまざまな形で進化を遂げた、昆虫」という記述に対して「おい、昆虫は人間の絶滅前から存在してたんだから、この文章はおかしいだろ」というツッコミを入れることになる。
また「絶滅「後」という表現がまた変態主義的、チェイン的な進化の理解だ」というのはもはや意味不明である。「絶滅後」という言葉は「絶滅の後に」という時系列について述べているだけであり、「変態主義的、チェイン的な進化の理解」は全く関係ない。仮に「太刀川氏は哺乳類が恐竜の絶滅後に初めて出現したと言っている」という松井氏の解釈を採用したとしても、「絶滅後」は「変態主義的、チェイン的な進化の理解」を全く意味しない。批判集全編通して大体そうなのだが、ここは特に松井氏のバイアスの入った読みが表れている部分のように思われる。
| こうした変化の激しい状況下では、強いものではなく、変化しやすい
| ものこそが生き残りやすい。(p.339)
M: r-K 戦略説のことか? そうであったとしたら、変化しやすいものではなく「強く大きい、生き残りやすい子を少数ではなく、弱く小さい、生き残る確率の低い子を多数生むものの子孫こそが繁栄しやすい」であればそこまで間違っていないと思うが、変化しやすいものこそが生き残りやすい(変異率をあげると生き残りやすくなる?)というのは違う気がする。というか「強い」とか「変化しやすい」とかの言葉が定義されずに使われるのでよくわからない。
生物進化について述べているのか、一般社会について述べているのか文脈がよく分からないが、生物進化について述べているならば、ここで太刀川氏が云う「生き残りやすい」というのは個体の生存率ではなくて、繁殖可能な子孫数の期待値 (繁殖成功度) についてだと思われる。
また細かい指摘になるが、「「強い」とか「変化しやすい」とかの言葉が定義されずに使われるのでよくわからない」のはややおかしい。「強い」「変化しやすい」の意味は明らかに一般的な意味のそれであるので、「強い」と「変化しやすい」が適切に定義されていない訳ではない。そうではなく「何が」「どのように」強いまたは変化しやすいのか、というように具体的内容の欠けがあるのが問題なのである。
なお一般的にこういう文脈における「強い」「変化しやすい」というのを敢えて説明するとすれば、「強い」というのは「ある特定環境においては非常に優れた形質を持つが、その他の環境においてはそれが不適であり、また形質を変化が起きにくい (世代交代が遅かったり、形質が遺伝的に盤石過ぎたり、適応度の谷が深かったり) 」といったことを指し、「変化しやすい」というのは「ある特定の環境において非常に優れている訳ではないが及第点程度のフィットはしており、また形質の変化が起きやすい (世代交代が速かったり、形質が割と少数の遺伝子で制御されているので大幅な改変が発生しやすかったり、逆に多数の遺伝子によって制御される量的形質のため微調整が起こりやすかったり、適応度の谷が浅かったり)」といったことを意味しているような気がする。とはいえ、これは種内の個体差の話というよりは、種間におけるニッチの奪い合いの話が該当すると思うので、ここまでの話とはズレている。
| 無数の精子によるランダムさと、生態系でのオスのバリエーションの
| なかからの性選択によって、生物は偶発性を高め、生き残れる可能性| を向上させた。(p.339)
M: 有性生殖が無条件に適応度を高めるのなら、あらゆる生物が有性生殖になっているはずだがそうなっていない。性選択によって生き残れる可能性を向上させた、というのは意味がわからない。性選択されたらその時点で生き残っている。間違いだらけでほんとうにどこから突っ込めばよいのか…。
💜別にそこまで問題ないのではないだろうか?無条件であるとは明確には書いていないし、仮に無条件だったところで有性生殖への進化という大きな変化が全ての生物において起こるとは限らない。
また「性選択によって生き残れる可能性を向上させた、というのは意味がわからない」とのことだが、ここでの「生き残る可能性」は一つ上の指摘部分と同様におそらく「繁殖可能な子孫数の期待値 (繁殖成功度)」のことだろう。なお、ここでの太刀川氏の「性選択」というワードチョイスはおかしい。太刀川氏は「性選択」と「有性生殖」と「配偶者選択」を諸々混同しているように見える。また同様に松井氏の「性選択されたらその時点で生き残っている」というのもよく分からない。ここでの「生き残っている」というのは「子孫が残っている」という意味だろうか?
| 息子が引きこもりだからといって、彼が寄生者だとは断定できない。
| (p.340)
M:「進化」という語を日常会話では「進歩」の意味で使っても特段問題ないように、「寄生」という語を「あいつ、親に寄生して生きてるよな」のように用いるのは日常会話では全く許容されると思うが、寄生は生物学上の専門用語であり、もし生物学の文脈を持ち出すのなら慎重に使わなければいけない。現代の引きこもりの息子は生物学上の寄生者にはなりえない。寄生はヒトとシラミなど基本的に種間の関係だからだ。生物の親子でも競争は生じうる。親は不出来な子を殺すことがあるし、子は親が飢え死にしないギリギリのところまで資源を提供させようとしうる。しかしこれは競争であって、寄生ではない*。ここでも著者は日常会話で用いる生物学っぽい語から無理に関連を見出している。
💛「寄生はヒトとシラミなど基本的に種間の関係だからだ」とのことだが、寄生とは「ある同所的な二者関係において片方が利益を得て、もう片方は利益は害を受ける」ことであり、別種かどうかは特に関係ない。「種内寄生」という用語も存在する。例えばスズメやアメリカオオバンは種内托卵を行う[39][40] (種内托卵をする鳥種は200種を超える [41])。また社会性昆虫における同種への社会寄生も種内寄生の一種と言えるだろう [42]。
また「親は不出来な子を殺すことがあるし、子は親が飢え死にしないギリギリのところまで資源を提供させようとしうる。しかしこれは競争であって、寄生ではない」とのことだが、ここでいう意味での子殺しは競争ではないだろう。競争とは何らかの資源を巡って争うことを意味し、ここでは親と子は競争関係にない気がする (一般に養育投資量を巡る親子間競争というのは存在するが、ここでの子殺しは親から子への一方的なものである。なお今回の話とは違うがライオンで見られるような子殺しは雄間競争と言える) 。
また引きこもりに関しては親側にも多少利益があるため厳密には寄生ではないが、一般的な養育年齢を大きく超えた年齢でのそれは養育投資量のトレードオフ的に寄生に近いものであるとはいえるだろう。
| 自然界では、寄生者は宿主が死ぬと自身も死んでしまうので、宿主を| 殺すことは稀だ。(pp.340-341)
M: 捕食寄生という、卵を産みつけて孵化した子が宿主を食い殺すタイプの寄生がよくあるのだが…またそのあとに自分で「よりよい宿主を探すために、現在の宿主を殺そうとする」(p.341) ロイコクロリディウムを紹介しているではないか。
確かに太刀川氏は捕食寄生のことは知らないようなので、寄生一般について宿主を殺すことは稀であると言っているようなこの文は誤りだろう。しかし、太刀川氏が捕食寄生以外について言っているのであれば、その意図そのものには誤りは特にない。ロイコクロリディウムはその中での稀な例外を出しているのだと理解できるので。したがって「またその後で・・・ではないか」という太刀川氏の意図そのものがおかしい (自己矛盾している) と言いたいかのような松井氏の指摘は的外れに見える。
| 進化論で言えば、古典的ダーウィニズムでは生存闘争というマイナス
| の適応関係の繰り返しによって自然選択が起こると言われてきた。し
| かし現在の進化論の観点では、生存競争による残酷な世界だけが自然
| 選択を引き起こすわけではなく、それとは対象的に生物同士が利他的
| に互いを支え合うプラスの共生関係も、また進化の重要な鍵だと考え
| られている。(p.344)
M: ここでいう生物同士が、血縁関係にある者のみをさしているならば問題ない記述だが、 p.474の利己的遺伝子に関する誤った解釈から類推するにここも混乱しているのだろうと思う。このパラグラフは誤りが多すぎるので全面的に書き直したほうがいい。
💛霊長類における利他行動やチスイコウモリの血の分け与え行動は非血縁個体にも行われる。これは互恵的利他行動と呼ばれ、多くの動物行動学の教科書に載っているような初歩的な知識であるが、松井氏は知らないのだろうか?また以上は種内の話だが、種間に広げてもアリとアブラムシ、クマノミとイソギンチャクといった有名な例を初めとする利他的な共生関係は多く見られる。実際のところはおそらく松井氏もこれらを多少は知っていると思うのだが (本当に何も知らなければ相当な知識不足)、利己的遺伝子云々に関する自分の知識を自慢したい (または太刀川氏が間違っていることを咎めたい) という欲求が思考の幅を狭めているように見える (そうでなければ普通こんな視野の狭い指摘はしないからだ)。なお、私は『利己的な遺伝子』を読んでいないのだが、ネットで調べる限りどうやら互恵的利他行動についても書かれているらしい。こちらのブログ (「書評:利己的な遺伝子〈増補新装版〉Book review : Richard Dawkins, The Selfish Gene」) [43]では、「30周年記念版への序文を読み始めてまず思ったのは、ダーウィンに対する思い入れがいかに強いかということ。「本書は、ダーウィニズムにおけるもう一つの主要な利他主義の発生源である互恵的利他行動とあわせて、それがどのような仕組ではたらくかを説明している」とはっきりと書いている。」と書かれている。したがって松井氏は、ちゃんと読んでいなかった、読んだけど忘れた、上記のように知ってたけどつい間違った主張をしてしまった、または初期の版では互恵的利他行動について書かれていなかった、のいずれかに該当すると思われる (またはこのブログが間違っているか)。
またもう一つの可能性として、松井氏はここで「利他行動」というのを「その行動主である個体自身の繁殖可能性には一切プラスに寄与しないような利他行動 (例えばミツバチのワーカーの育児など) 」というように極めて狭義で取っていることが考えられる。そしてその場合は確かに「血縁関係にある者のみをさしているならば問題ない記述」というのはその通りであるが、そのような定義は一般的ではない。
またp. 474云々については、後の部分で指摘されていたので確認したが、的外れな指摘であるように私には見えた。松井氏は「かつてリチャード・ドーキンスは、個体が種全体を保存する本能(群淘汰)を否定し、個体の利己性が進化を生み出すと説いた」という太刀川氏の主張を誤りとし、『利己的な遺伝子』を引用した上で、「自己複製子のヴィークルとしての個体は、遺伝子にとって利己的である範囲内に限られるものの、利他性を獲得できる、というのがドーキンスの主張であるはずだ」と言っているが、もしこれが太刀川氏の云う「個体が種全体を保存する本能(群淘汰)を否定し」に対する反論であるならば、群淘汰と利他性は異なる概念である。群淘汰の否定は利他性の否定を含意しない。この場合おそらく松井氏は群淘汰と利他性を混同している。(他の解釈可能性についてはここでは長くなるので、後のp.474について批判しているp.171の部分で詳しく説明する)。
| 実際に、自然界の生態系は共生系によって保たれている。(p.344)
M: ここでいう共生が共生なのか相利共生なのかわからないが、どちらにせよ原因と結果を混同している。「保たれている」生態系には共生関係が多く成立しているだろうし、そのなかには相利共生関係もみられるだろうが、それはトートロジーだと思う。生態系が共生によって保たれているのではなく、生態系には共生がある。相利共生のことであれば、相利共生がなくても生態系は成立しうるのではないか。
💜別に問題ないのではないだろうか?生態系が共生を含んでたところで、それは生態系が共生によって保たれていることを否定しない。「原因と結果を混同している」とのことだが、原因と結果ではなく、部分と全体の話ではないだろうか?部分と全体の話なのに、原因と結果の話であると勘違いし、「原因と結果の混同」という「よくある間違いパターン」を誤適用しているために、よく分からない指摘になってしまっているように見える。
また、「相利共生のことであれば、相利共生がなくても生態系は成立しうるのではないか」とのことだが、菌根共生や送粉関係、サンゴと褐虫藻など多くの生態系において相利共生は存在する。したがって相利共生が存在しなくても生態系が成立しうるかと言えば、今存在する生態系じゃなくても良いならば成立すると思うが (生態系であれば何でもいいので)、既存の生態系の多くは相利共生が消えることでだいぶその様相が変わるだろう。
| ニッチの獲得競争は、環境負荷を低減させる効果もある。
| 〔中略〕
| 余剰を互いに価値化し合えば、生態系は効率化し、安定化していく。| (p.348)
M: 余剰を活かせば環境負荷が低減する、というような書き方をしているが、たとえば余剰であるプラスチックごみを埋め立てず燃やして有効活用すればそれだけCO2は 「余分に」大気中に開放されるので、そんな単純にはいかない。
💜引用部分が少なすぎて「余剰を活かせば環境負荷が低減する」というようなことを太刀川氏が本当に言っているのかよく分からないが、引用部分だけならば別に問題ないのではないだろうか?プラスチックごみの例で言うならば、燃やして有効活用されている時点で余剰の価値化が起こっているし、それで排出されたCO2もまた別の価値化に使われうるのである。松井氏はおそらく地球温暖化という観点でしか見れていないので問題あるように見えてるだけな気がする。生態系では様々な物質が循環している。
| イソギンチャクのなかにいれば外敵は攻撃してこないため、弱いクマ
| ノミにとってイソギンチャクは安全な住処になっている。(p.349)
M: むしろカクレクマノミを捕食しようとやってくる魚をイソギンチャクが捕食することもあるらしい(つまりカクレクマノミは囮、餌の役割をしている)ので、そうとは言い切れない。
💜そのような例外的話を出されても、という感じである。引用されている太刀川氏の主張そのものは一般的に特に問題ない。別に絶対に100%安全と言ってる訳でもないので。
また反例として出すならば、イソギンチャクの中にいるクマノミが食べられ得ることを直接提示すべきではないだろうか?松井氏の例の出し方では、イソギンチャク内にいるクマノミが捕食されることは含意されていない (捕食しようとやってきてるけど結局捕食できていない可能性もある)。それとも行動の適応進化または学習の観点から、捕食しようとやってくるということはイソギンチャク内のクマノミを食べることが可能という論理なのだろうか?
| 世界の全体像は、個の視点だけでは正しく捉えられないばかりか、そ
| の視点を相手に押し付ければ分断が生じるだろう。(p.354)
M: このリストじたいのことを指摘されているようで心苦しいが、我々と著者との分断は明らかであり、この分断は埋められるべきで、埋める(歩み寄る)作業はいくらなんでも我々ではなく著者がするべきだと私は思う。また、我々の視点の押し付けは、まずはこの分断を認識していただくために必要なことだと考えていただければと思う。問題を認識することが問題を解決する第一歩なので。
💛太刀川氏のこの記述は別に「このリストじたいのことを指摘」するようなものではないだろう。ただの一般論なので。「このリストじたいのことを指摘」しているように感じるのは松井氏自身が相手に押し付けをしている自覚があるからではないだろうか?
なお分断云々については、私の個人的な感想としては松井氏らの方にも割と原因があるような気がする。まずここまで私が引用してきた部分を見れば分かるように攻撃的で馬鹿にするような表現が多すぎる。普通の人はそういうことをされたら対話する気にはならない。また上でも指摘したが、文章をよく理解しようとせずに「よくある誤解パターン」に太刀川氏の主張を安易に当てはめていることも多い。文章をよく読んでない的外れな指摘をしてくる上に馬鹿にしてくるとなれば、分断が生じてもしょうがないだろう。ここでも「埋める(歩み寄る)作業はいくらなんでも我々ではなく著者がするべきだと私は思う」と言っているが、こういう態度こそが分断を生むものではないだろうか。松井氏は自分達が絶対に正しいという自信があるためこういうことを言っているように見えるが、普通そんな態度の人に歩み寄りたいとは思わない。またここまで長々と指摘してきたように、そもそも松井氏らの批判には彼らの生物進化への不理解や単なる読解力不足などによる不適切なものが多過ぎる。そんな出来でよくこんなに自信満々な態度を取れるなと思う。
| 生態系マップの中にある負荷や競争相手、あるいは寄生者など、負の
| 関係を持つものは、さらなる負の連鎖を生み出す。(p.357)
M: 生物間の競争や寄生があたかもよくないことであるかのように書いているが、理解に苦しむ。これらと人間による環境破壊を結びつけることは難しい。あえて環境破壊と結びつけたいのなら、生物の習性と生物進化の近視眼的な性質をあげたほうがよいと思う。たとえばシャーレの中の栄養を食い尽くし、自らの排泄物の毒素にやられて死滅する微生物など。“Are we better than yeast?” [72]
負の連鎖云々については概ね同意だが、環境破壊については太刀川氏がそれについて述べていることが確認できないので評価できない。ここまで何度も指摘しているが、引用範囲が狭すぎる。
| キリスト教の伝来も同じで、江戸時代にハブとなっていたイタリアの
| 聖地から遠路はるばる長崎へ、宣教師が越境している。(p.374)
I: 確かに1602年にイタリア人宣教師カルロ・スピノラ(Carlo Spinola)が来日しているが、キリスト教の伝来は1549年のフランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸からという教科書的理解が一般的であろう。確かにザビエルはローマを発ってリスボンから出航したので「イタリアの聖地から」と表現し得るかもしれないが。何故「戦国時代」ではなく「江戸時代」と書いているのか理解できない。
💛一つ上で馬鹿にしている云々の指摘をしたので、その一例をとして挙げた。指摘そのものは妥当だと思うが、最後の「何故「戦国時代」ではなく「江戸時代」と書いているのか理解できない」は攻撃的で馬鹿にしているだろう。間違ってると思うなら単にそう言えばいいのに、態々「理解できないような間違ったことを書くあなたの頭は悪いですよ」とか「もしかしたら江戸時代でも正しいのかもしれないけど私には分かりません (絶対間違ってるけどねw) 」というようなことが読み取れうる表現をしている。もし時代について突っ込みたければ、例えば「またスピノラとザビエルどちらのことを言っていたとしても、少なくともそれは「江戸時代」ではなくて「戦国時代」である」と言えば十分だろう。(なお一応、「江戸時代にイタリアがハブになっていたとは言ったが、宣教師が長崎に来たのが江戸時代であるとは言っていない」というような解釈をすれば、江戸時代という表現は擁護されうる。かなり不自然な読みではあるし、個人的にはおそらく太刀川氏は単に間違えただけだと思うが)。
他にも例えば、「間違いだらけでほんとうにどこから突っ込めばよいのか…。」(p.160) といったような三点リーダーによる煽りが批判集において数多く見られるが普通に失礼である。こういった表現は見知った仲やアカデミアでは問題ないのかもしれないが、今回のように特にそれ以前の関係もなく信頼関係が築けていない人にいきなりこういうことをしたら、そりゃ分断も生まれるだろう。
なお本稿もやや攻撃的な表現がないかと言えば否定できないが、他人を盛大に攻撃したり馬鹿にしたりしている者へお灸をすえる意味合いもあるので、多少は許して欲しい。
| その観点から、聖書・十字架・賛美歌、お経・数珠・声明といった拡
| 散の道具を観察すると、再生産数を生み出す仕組みとして実に良くで| きていることがわかる。この繋がりの構造を知っていれば、生態系の
| 全体像を把握できなくとも、共生的な繋がりを増幅させ、闘争的な繋
| がりを遮断し、ポジティブな繋がりを広げていくことができるかもし
| れない。(p.374)
M: ほかにもp.390の空海の引用、p.430の「もし私が神様だったら」p.442「適応は愛を目指す」p.472創世記引用など、スピリチュアルな表現が当書の終盤に向かうにつれて特に多くなっており、当書は学術書よりもビジネス書よりもスピリチュアル自己啓発本のカテゴリに近いのではないかと思わずにいられない。このような「共生」とか「適応」といった学術用語の濫用とスピリチュアルな概念との結びつけにあふれた記述は当書の科学的妥当性を直接に損なっているように思う。
また、デザインの進化において闘争的な繋がりが悪であって害ばかりを生む、という立場なのだろうか。資本主義経済において各社はしばしば闘争的に競争をしつつしのぎを削っていると思うのだが、共産主義的なデザインを育みたいということだろうか。私としてはこういう闘争的な共生関係も興味深い進化を生み出す原動力だと思っているので、非倫理的な攻撃(丸コピや、逆にPatent trollなど)や全体の利益にならない破壊行為(相手企業のサーバーのクラッキングやコモンズの悲劇)は法律で縛りつつ、フリーファイトがよいと個人的には思う。
スピリチュアル云々については、この引用部分だけを見る限りは特に問題はないように見える。ただ単に布教の道具・方法がその目的達成に関して優れていると言ってるだけなので。他の空海だったりの引用は、それがそのまま論の根拠とされていなければ問題ないのではないだろうか?
また資本主義・社会主義云々についても的外れの指摘のような気がする。太刀川氏は単に不要な闘争を減らすと言っているだけで、別に資本主義における競争一般は否定していないだろう。競争でいかに勝ち抜くかというような話をここまでしてきたのに、競争全てを否定するというのはありえないように思える。
| たとえば、山に生息する雑食性の野ネズミのなかには、主食にしてい
| る笹の葉の豊作具合を予測して、出産数をコントロールしているもの| がいるらしい。(p.393)
I: 引用元が示されていないので信じられない。雑食性なら笹の葉以外のものも食べるだろうから、笹の生育が悪いのなら他の動植物の生育も悪く、単純に繁殖期の栄養状態が悪いのではないか?
私も個別例としてはよく知らないが、別に信じられないというほどのことでもなくないだろうか?笹の葉の生育と出産のタイミングが分からないが、妊娠中の母体の生理的制約 (出産"可能"数の低下) 関係なく、何らかの指標 (天候や餌資源など) を基に将来的な育児環境を予測して出産数をコントロールすることは適応的であり、理論的には進化しうる。
| 図16-2 フォアキャスト
| 図16-3 バックキャスト(p.397)
I: 矢印が何を表しているのか不明な図である。勿論フォアキャストとバックキャストの違いはなんとなくは伝わるが。上段中央「未来 予測」の「予測」の語が不適当なのではないだろうか。中段から上段に向かう矢印はすべて「予測」のように思われる。また左右の「解剖」と「生態」は、「ミクロ」と「マクロ」という対になる概念で整理した方が簡潔で万人が理解可能なのではないか。1977年にイームズ夫妻が『Powers of Ten』で示したように、オーダーの大小を考えることはデザインにとって重要な視点である。
図について批判するなら図を引用して欲しい。これでは批判の妥当性が全く評価できない。一冊の本として上梓しているのに本として論理的に完結していないのはどうなのだろう。
| 相関関係と因果関係を読み取る(p.406)
| この例からも、相関関係だけを信じるのがいかに無意味かがわかるだ
| ろう。(p.408)
I: ここだけ読むと著者は相関関係と因果関係の違いを理解しているようだ。それこそ「無意味」な「相関関係」である狂人性云々(p.31)を書いたのと同一人物とは思えない。
これも批判の内容そのものは正しいと思われるが、「それこそ「無意味」な「相関関係」である狂人性云々(p.31)を書いたのと同一人物とは思えない」という文は不必要に攻撃的である。このようにこの本ではまともに対話する気がない表現が多々存在するが (p.124での想定読者層を馬鹿にする発言やp.62,63の林氏の盛大な煽りなど)、これ以上突っ込みするのも面倒なのでこの類の指摘は以上にしておく。
| たった一度、残念な結果が出ただけなのに、すぐに諦めて二度と挑戦
| しない人がいるが、この人は確率を無視している。(p.413)
M: リスク回避的な行動は進化的に身に着けたものであり、べつに確率を無視しているわけではない。コストが見合わなかっただけだろう。このような計算こそ期待値計算であり、成功に対するリターンと、失敗した場合のコストを計算しているはずだ。それを無視している著者こそ確率を無視している。つぎの指摘にも書いたリスク回避的な本能に言及して、「現代的な業務の範疇で、すぐに諦めて二度と挑戦しない人がいるが、この人の心は小さな怪我や失敗が生死に直結したころに磨き上げられたものなので、失敗したときのリスクを過大に評価している可能性が高い」であれば受け入れられる。
指摘内容はその通りだと思うが、「確率を適切に評価できていない」という意味で「確率を無視している」と言っているならばそれほど問題ない気もする。厳密には進化心理学的な観点を踏まえると確率というより確率変数を適切に評価できていないというのが実際の脳内での現象だと思うが、出てきた期待値判断を別の人が見たときに、その人が確率変数を正確に把握できているかつ元の人も当然それを理解していると思うならば元の人が確率を適切に評価できていないように見えるので。
| 一四二五年頃、フィリッポ・ブルネレスキによって透視画法が確立さ
| れると、それまで存在しなかったまったく新しい機械や建築を、あた
| かも実物のように美しく描くスキルが芸術家たちの手に渡った。
| (p.421)
I: パースペクティブ、透視図法のことを透視「画」法と書き損なう建築・デザイン関係者がいるとはにわかには信じがたい…。画法という語はそもそもあまり使われないように思うのだが、強いて言えば、点描とか塗り方とかの技法に近いだろうか…? 図法でも画法でも伝わるだろ、大差ないだろ、と言われればそうかもしれないが、例えば遺伝子を遺伝児と書く人がいたら「どちら様?」という反応をされると思う。
💜一般的には透視図法と聞くが、透視画法でも別に誤りではないのではないだろうか?ざっとネットで調べたところ一応出てくるし、ニュアンスも微妙に違ったりするのではないだろうか?少なくとも『透視画法の眼 ルネサンス・イタリアと日本の空間』(横山正, 1977, 相模書房) [44] という本も出てるようなので、「パースペクティブ、透視図法のことを透視「画」法と書き損なう建築・デザイン関係者がいるとはにわかには信じがたい…。」や「図法でも画法でも伝わるだろ、大差ないだろ、と言われればそうかもしれないが、例えば遺伝子を遺伝児と書く人がいたら「どちら様?」という反応をされると思う」と馬鹿にされるものではないだろう。浅い知識で人を馬鹿にすることほど恥なことはないので伊藤氏は気を付けたほうがよい。
なお「画法という語はそもそもあまり使われないように思うのだが」というのはもはや意味不明である。普通に一般的に使われる語である。googleで「画法」と検索して欲しい。
| しかしこうした発想がSFや空想の中では数多描かれていて、未来の誰
| かによって実現される時を待っている。(p.425)
I: SFの後の「空想」は「空想小説」のことだろうか? 「視覚的な思考力」を表現するのが文章による描写で良いのであれば、数ページ前の透視図法云々のくだりはまるで意味がなくなってしまう。逆にこの文の「描く」が文字通り絵を描くことを意味しているのであれば、p.427の図16-13のアルバトロス号の挿絵を描いたのはレオン・ベネットであり、ジュール・ベルヌ本人ではないことを指摘せざるを得ない。もちろんこういう絵を描いて欲しい、という指示はしているとは思うが。
これも文脈がよく分からない。太刀川氏は透視図法が発想の原初的創造において必須であると述べているのだろうか?そうであるならば、ここでの記述は矛盾していることになるが、必須ではなく重要程度のことであるならば別にそこまでおかしくないのではないだろうか?また発想の原初的創造ではなくて、発想の具体的顕現として透視図法を語っていたのならば、ここでのSF云々の記述には何も問題はないように思える。文章での描写は具体的顕現以前の原初的な発想であると見なせるからである。
また後半の「逆にこの文の「描く」が文字通り絵を描くことを意味しているのであれば、~中略~ ではないことを指摘せざるを得ない」というのも論理がよく分からない。ジュール・ベルヌ本人の「視覚的思考力」が優れていると太刀川氏が引用部分以前に述べていたのだろうか?
| 成功組織には強いビジョンを持った人、すなわちビジョナリーがいる
| といわれている。〔中略〕こうして視覚は思考に軸線を与える。
| (p.426)
I: 組織における「ビジョン」は比喩的なビジョンである。「視覚」すなわち網膜で知覚するものとは違う。この話と「ディープラーニングなどの先端的AI技術は、CPUよりもGPUでの処理を多用している」(p.426)というのは全く別の話である。
いわゆる「ビジョン」というのが必ずしも視覚的なものとは限らないが、そういう比喩がされるということはある程度視覚的な要素もあるのではないだろうか?人によってものを視覚的に考えやすい人とそうでない人がいるので (経験的感覚としてもそう思うし、科学的にも認知の仕方に個人差があることそのものは認められているようだ[45])、視覚的に考える傾向が強い人がビジョナリーに多いのならば、全くの的外れの話という訳でもないだろう。
| 細部に至る細かい配慮、過去から現在までの繋がりに対する敬意、相
| 手に対する思いやり、未来に対しての希望。(p.443)
I: 前半2つが当書には圧倒的に足りていない。また情報の正しさという意味での、読者に対する誠実さも。
💜太刀川氏の記述に誤りが多いのは事実だが、この批判集も他人のことを言えないほど多くの誤りを含んでいる。似たようなことを既に何回か述べてきたが、批判本かつ著者が学者という構図は一般読者に情報を無批判に受け入れさせるバイアスを与えるので、こういった本では正確性が普通より高く求められる。しかし、ここまで本稿で批判してきたようにこの批判集はそのレベルの正確性には全く達していないと言っていいだろう。
| 図17-1 精子と卵子の授精は、コンセプトの誕生と相似形をなしてい
| る。(p.453)
I: 前ページの「この「受精」と「コンセプト」には深い意味での類似性があり」は良いのだが、何故「類似性」が「相似形」になってしまうのか。形のないもの(コンセプト)と「相似形」ということなどあり得ないことは言うまでもないだろう。
💜厳密にはそうかもしれないが態々突っ込むほどのことだろうか?それに抽象的構造として似ているということであれば、別に物体としての形が存在しなくてもそれほど問題ないように思える。実際「相似」には「1 形や性質が互いによく似ていること。「—した構造の建物」」(デジタル大辞泉, [46]) というように「性質」に関する意味もあるとされている。
| 有性生殖の生物がたくさん存在しているのは、もちろんそこに適応的
| な優位性があってのことだ。(p.453)
M: 有性生殖がなぜ進化したのかは非常に興味深い進化学上の課題で、いまだに定説はないため、「もちろん」と言い切れるほどに(本来の意味での)適応かどうかはわからない。その証拠に、少なくない植物が単為生殖に移行している。生物進化は長期的なビジョンを持たない。なので、同じ趣旨のことを書くとすれば「多細胞生物の大部分がなぜコストのかさむ有性生殖を採用しているかの解明は進化学上の難問で、いくつもの仮説が提示されているが、そのどれにも共通するのは『こんなに成功を納めているからには、きっとそのようなコストを上回る適応的な利得があるからだろう』という適応主義的な作業仮説だ」だろうか。
💛確かに100%証明されたは言い切れないので「もちろん」という語は不適切ではあるが、適応的観点がある程度受け入れられているのは事実である。また有性生殖が適応的優位性を持つことへの反例として、単為生殖に移行した植物種を例として出しているように見えるが、太刀川氏は有性生殖がどの種・環境においても適応的とは別に言ってない。植物は動けないので、個体や小集団が疎にばらけており、交配相手が遠かったり送粉者の飛来数が安定しなかったりする状況では、単為生殖への移行が適応的である可能性もある。したがって、そういった点では松井氏の例はむしろ有性生殖か単為生殖かに適応が絡みうるという例となっているとも言える。
なお、「「もちろん」と言い切れるほどに(本来の意味での)適応かどうかはわからない」というのが、太刀川氏への反論なのか、または補足なのかは分からないが、一般に生物学において「適応的」と言ったとき、これは環境にフィットする性質があることを指す。したがって、これは単に「適応 (adaptation)」に「的」を付けたものではない。つまり、太刀川氏はここで「適応かどうか」については特に言及していない。また「(本来の意味での)」というのが何を意図しているのかはっきりとは分からないが、もし自然選択としての結果としての「適応」のみが「適応」なのである、ということを言っているのであれば、ここまで本稿で何度も指摘してきたように、それは適応の「歴史的定義」に過ぎない。
| 有性生殖の理由は、進化しやすくなり、環境の変化についていけるよ
| うになるためだったといわれている。(p.453)
M: これはWikipediaのSpeed of evolutionの項[73] にあるように、基本的には支持されていない仮説だと思う。有性生殖のパラドックスについては反寄生説やラチェット説など少なくとも多数の仮説が並立しており、いまだにホットな分野なので、そのうちのひとつ(しかもよりにもよって支持の薄い学説)をあげて「これのせいだといわれている」とは言うべきではないのではないだろうか。これは「交配、すなわち有性生殖の獲得は、進化のスピードを加速した」(p.462)にもあてはまる。
💛松井氏はWikipediaのSpeed of evolutionの項を本当に読んだのだろうか?そこに書かれているのは、むしろ有性生殖では進化速度が遅くなるという全く逆の話である。項の一文目から「Ilan Eshel suggested that sex prevents rapid evolution.」と書かれているし、その後も「so the population is less affected by short-term changes.」や、クラミドモナスを用いた実験では逆に進化速度が上がったという反例的結果が出ているよと書いてあるのだが[47] (ここで私が引用しているURLは松井氏が[73]で引用しているものと同一である。つまり参照違いということはない)。それにSpeed of evolutionの項に何が書かれているかとか関係なく、引用されている太刀川氏の主張そのものは割と受け入れられている説であると普通理解できないだろうか?実際松井氏が挙げている反寄生説は太刀川氏が言っていることの個別例である (寄生虫も環境の一部) 。松井氏は何か根本的に理解していないか、もしくは太刀川氏の主張をよく見ずに、それと似た (?) 説をWikipediaで参照し、そこで支持されていないって言われているから (「This explanation is not widely accepted, as its assumptions are very restrictive.」[47]) 支持されないものであると判断しているかのどちらかだと思われる。そして後者の場合、それは研究者として極めて不誠実な態度である。
また松井氏が参照した当時と私が確認した2025/05/03ではWikipediaの記述が変わっている可能性もなくはないが、真逆の説明に変わる事はほぼないのではないだろうか?それにさっきも言ったが、Wikipediaになんと書いてあろうと、太刀川氏の主張そのものは別に支持の薄い学説ではないので、Wikipediaに頼らず太刀川氏の主張そのものを普通にちゃんと読めば、支持されていないという結論に普通は至らないのである。(なお、私が参照したバージョンが正確に閲覧できるようにweb魚拓も取っていおいた[48])。
また松井氏が「進化しにくくなり」などと読み間違えてる可能性に関しては、「これは「交配、すなわち有性生殖の獲得は、進化のスピードを加速した」(p.462)にもあてはまる」と同様の主張についても批判しているので、その可能性はほぼないだろう。
なお、太刀川氏の記述は仮説が100%正しいと断言しているように見えなくもないので、その辺の表現の不適切性については同意する。しかし、あくまで「環境の変化についていけるようになるためだったといわれている」という伝聞形であって、「環境の変化についていけるようになるためである」という明確な断定ではないのでそこまで言われるほどかとも思う。とはいえ「環境の変化についていけるようになるためではないかといわれている」とか「環境の変化についていけるようになるためというのが有力な説の一つとしていわれている」のほうが適切なのは確かである。
| こうして変異と適応を往復し、その山を登るうちに、適応圧はどんど
| ん強くなり、酸素も薄くなるだろう。なぜ山を登るのか、麓の人は不
| 思議に思うかもしれない。それでも、高みにおいてなお、変化の可能
| 性を確かめることが、まだ見ぬ景色を観ることが、本人は楽しいの
| だ。こうして多くの人が到達できない高さまで到達したとき、雲を突
| き破って、初めて創造性は価値として姿を表す。(p.468)
M: 著者が進化を天まで続く梯子のように崇高なものへと登っていくものととらえているのはここでの表現から明らかだ。p.61への指摘参照。
I: 雲を突き破らないと価値が生まれないとは…。誰もが創造性を諦めることなく発揮できるようになる思考法、の割にはそこから生まれるものの評価はかなりシビアだということが本の最後に明かされたわけで、結構衝撃的なラストである。
松井氏の指摘については既に似たようなことを何度も述べたが、ある一定の環境においては適応進化を高みへと上っていくものとして捉えてもそれほどおかしくはないだろう。またそもそも文脈がはっきりとは分からないが、ここで太刀川氏が述べているのは生物進化というよりは進化思考といったアイデア発想の話ではないのか?
伊藤氏の指摘については、誰でも努力すればそのような域まで到達できるという話であれば特に矛盾はないのではないだろうか?
| 図17ー2 創造性の螺旋階段を登っていく(p.468)
M: この図で唯一よいと思うのは、個人学習に比すべき「個人の遊びと好奇心」と、社会学習に比すべき「社会への価値」*をわけつつも順に繋がったプロセスとしている部分だ。文化進化学でいうところの誘導された変異の生成プロセスにおいて個人学習の試行錯誤のプロセスの中においてすら脳内で競争するアイディアどうしの集団的な進化のアルゴリズムのプロセスが走っていることを示す際には同様の考えを使うことになるだろう。この観点は現在の文化進化学研究においてほとんど重視されていないため、デザインの立場から主張していきたいと個人的には考えている。ただし、そもそも筆者が前提としている「進化の螺旋」が全面的に間違っているため、その部分に関しては作り直しが必要だ。
似たようなことをここまで何度も指摘してきたが、図について話すのであれば、図を引用して欲しい。一冊の本として論理的に完結されていない。林氏も言及していた螺旋図のことだろうか?でもそこでは「個人の遊びと好奇心」や「社会への価値」については特に言及されていなかった気がする。
「そもそも筆者が前提としている「進化の螺旋」が全面的に間違っている」に関しては何がどう間違っているのか説明して欲しい。高み云々については既に返答した。
| かつてリチャード・ドーキンスは、個体が種全体を保存する本能(群
| 淘汰)を否定し、個体の利己性が進化を生み出すと説いた。(p.474)
M: 誤り。『利己的な遺伝子』の「三十周年記念版への序文」での記述を引用する[74]。
このタイトルがどれほど誤解されやすいかは容易に理解でき〔中略〕
『利他的なヴィークル』はもう一つの可能性だったかもしれない〔中
略〕自然淘汰の単位には二種類があり〔中略〕 遺伝子は自己複製子
という意味での単位であり、個体はヴィークルという意味での単位で
ある。両方とも重要なのである。
自己複製子のヴィークルとしての個体は、遺伝子にとって利己的である範囲内に限られるものの、利他性を獲得できる、というのがドーキンスの主張であるはずだ。著者は利己的な遺伝子を読んでいないか、満足に理解できていない。私もできていないが…。
※本稿執筆者注:初めの「かつてリチャード・ドーキンスは、個体が種全体を保存する本能(群淘汰)を否定し、個体の利己性が進化を生み出すと説いた。(p.474)」は批判集では縦傍線が付いていない、すなわち『進化思考』からの引用ではないものとして扱われているが、文脈的にこれは明らかにミスと思われるので、ここでは本稿執筆者独自に縦棒線を追加した。
💛これは先ほどp.160の指摘においてちらっと出てきた部分である。既に述べたことの繰り返しになるが、私にはこれは的外れな指摘であるように見える。「自己複製子のヴィークルとしての個体は、遺伝子にとって利己的である範囲内に限られるものの、利他性を獲得できる、というのがドーキンスの主張であるはずだ」とのことだが、もしこれが太刀川氏の云う「個体が種全体を保存する本能(群淘汰)を否定し」に対する反論であるならば、群淘汰と利他性は異なる概念である。群淘汰の否定は利他性の否定を含意しない。したがってこの点に関して、引用されているドーキンスの発言と太刀川氏の発言に特に矛盾はない。この場合おそらく松井氏は群淘汰と利他性を混同している。
また、「個体の利己性が進化を生み出す」のではなく、遺伝子の利己性が進化を生み出すのだという批判であるのならば、松井氏がここで引用している部分でドーキンスが言っているように、個体も自然選択の単位として重要であるので別におかしくないだろう。遺伝子は結局その遺伝子が乗った個体が利己的に振る舞わなければ相対的に次世代に多く伝わらない訳なので。
また、個体の利己性だけじゃなくて、遺伝子の利己性についても述べるべきという批判であったとしても、そもそもここでは群淘汰の否定に関する話をしているので、群ではなく個というように個体についてだけ言及することは別におかしなことではないだろう。
また私は『利己的な遺伝子』を読んだことがないのでここで太刀川氏が述べている内容をドーキンスが実際に言っているのかどうかは知らないが、太刀川氏がここで言っていることそのものは群淘汰を否定する文脈でよく見る文章である。一応、この線での批判であれば現状通り得る。
以上、いくつか松井氏の批判の意味案を出したが、「に限られるものの、利他性を獲得できる、というのがドーキンスの主張であるはずだ」という表現を見るに、松井氏が言っているのは初めに挙げた群淘汰の否定に関する反論である可能性が高いように思われる。
なお「著者は利己的な遺伝子を読んでいないか、満足に理解できていない。私もできていないが…。」とのことだが、以上説明したようにドーキンスが実際にそう言っているかどうか以外について批判しているのならば、太刀川氏の発言に特に誤りはないように思える。またもし一番可能性が高いように私には見えている群淘汰の否定に関する批判が松井氏の意図であるならば、松井氏の理解は明らかに間違っている。したがって、もし仮にその線の場合、ここでの「私もできていないが…。」という謙遜アピールをしたいかのような発言は、本当に全然理解していないというただの事実の告白になってしまうだろう。
Ⅱ デザイン学と批判
5 創造と変異の創造 (伊藤 潤)
💛本章においては『進化思考』からの引用部分には度々下線が引かれているが、これが『進化思考』において実際に引かれているものなのか、それとも伊藤氏独自のものなのかは不明である (ただ、あくまで私の主観的推察になるが、下線部が引かれた部分の内容を見るに伊藤氏独自のものである可能性が高い気がする。太刀川氏がその部分に下線を引く意図が見えないものが多いので)。そして、もし後者であれば林氏と同様に引用マナーに反している。少なくとも私が読んだ限りでは「以降、引用の下線は全て伊藤によるものである」といったような注意書きは一切存在しないからだ (「強調」「線」「ライン」で文書内検索をかけたがそれでも見つからない)。断りなく引用を改変することがマナー違反であるのは一般人でも知ってるレベルのことであり、もし職業研究者が本当にそれをやってしまっていたとすれば、おいおい、という感じである (しかも批判集著者の3人中2人に現状その嫌疑がかかっている (嫌疑というか林氏に関しては、引用先の確認が取れた少なくとも二箇所でそれを明確にやっている))。
当書は生物学のリテラシーをもたない著者による本であるため、前章で指摘したように生物学に関する記述は残念ながら大概誤っている。「クマの一種であるコアラ」(p.119)のような明らかな事実誤認*は捨て置くが、例えば「ベイツ型擬態」(p.107)や「キラー海藻」イチイヅタの話(p.143)や水鳥の「ワンダーネット」(p.166)などは誤った理解をしている。これらは一目でわかる明らかな誤りというわけではないが、「…本当かなあ?」と思って調べると案の定間違った理解をしている、という感じである。
💛ここまで指摘してきたようにこの批判集にも数多くの誤りが存在する。既に指摘したが、ここで挙げられている「ベイツ型擬態」に関しても全くの的外れの指摘であるように私には見えた。例えば伊藤氏は、ベイツ型擬態は強いふりではなく、強いふりはトラカミキリの標識的擬態が例として妥当と言っているが、ベイツ型擬態は標識的擬態に含まれるし、そもそもトラカミキリの擬態はベイツ型擬態に該当する。本当に調べたのだろうか?
また「明らかな事実誤認*」における「*」に関してはページ下部に「* 些細な誤りとも言えるし、逆にその程度の確認もしていない稚拙な本だということもできる」と注釈されているが、今言ったベイツ型擬態や前章の松井氏のSpeed of evolutionのWikipediaの話のように、確認した上でこれなのかという事例の存在のせいで、確認した上で明らかな間違いをしてしまう稚拙な本であるという印象を私も批判集に持ってしまっている。
編者はこのような生物学に関する誤りの数々については「著者は門外漢なのだから仕方ないよね」と思っている。ただし、門外漢が土足で他所様のコミュニティに踏み込んでいるのは良くないだろう。特にデザイナーはそのような姿勢を取るべきではないと思うのだ。
💛これは引用部分への批判ではないが、この批判集の著者らは仮にも研究者で進化や生物学に一応精通しているようなので、批判集に存在する誤りの数々は仕方ないよねでは済まされない。これも既に何回か述べたが、批判本という構図や執筆者が博士号持ち研究者ということより、一般読者は批判集の情報の信憑性が高いと感じる可能性が高い。もちろん誤りが一切ない本などほぼ存在しないのは承知だが、この批判集に存在する誤りの数は一般的な学術書で許容される程度さえ遥かに超えている。そうであるからこそ、本稿では誤りについて細かく指摘してきた。
筆者の松井は「誰が言ったかではなく、何を言ったかを重視する」、というスタンスであるが、編者伊藤は「誰が言ったか」を重視する立場を取る。そうしないと「間違いだらけかつ非論理的なトンデモ本だから放っておけ」で話が終わってしまうからだ。
💛論理の流れがよく分からない。この章の書き手が伊藤氏であることと、「~は~であるが、~は~を取る。そうしないと~からだ」という文章から考えるに、「そうしないと」というのは伊藤氏が「誰が言ったか」を重視する立場を取ることについて述べている (伊藤氏の立場を取らないとどうなるかを述べている) と思われるが、「間違いだらけかつ非論理的なトンデモ本だから放っておけ」で話が終わって困るのは、むしろ松井氏のスタンスの方ではないだろうか?「何を言ったか」を重視するときは素人が書いた間違いだらけの非論理的なトンデモ本であったとしてもスルーすべきでないとなるが、「誰が言ったか」を重視するときは素人が書いたのならば別にスルーしてもよいとなり得る気がするので。それとも素人であっても影響力のある人の誤った発言はスルーすべきではないということだろうか?ただ仮にそうだとしても、何を言ったかを重視する場合「「間違いだらけかつ非論理的なトンデモ本だから放っておけ」で話が終わってしまう」とは別にならない気がする。
それで一つ思ったのは、おそらく伊藤氏は「発言を信じるか否か」ではなくて「発言に対して関わり合うか否か」の話をしているような気がする。すなわち、発言を (社会的に) スルーしてよいのか否かに関して「誰が言ったか、何を言ったか、どちらを重視するか」を定義しているのではないかということである。少しややこしいので、それぞれの観点において「誰が言ったかを重視」と「何を言ったかを重視」がどのような意味になるのかを下にまとめた。
発言を信用するかどうか
誰が言ったかを重視:信頼のおける人の発言は信用するが、そうでない人の発言は信用しない
何を言ったかを重視:発言内容が正しければ信用するが、そうでなければ信用しない
発言に対して関わり合うかどうか (伊藤氏)
誰が言ったかを重視:影響力の高い人の発言には関わり合うが、そうでない人の発言には関わらない。
何を言ったかを重視:発言内容が正しければ関わり合うが、そうでなければ関わらない
以上のように考えれば、確かに伊藤氏の定義では何を言ったかを重視するとき「間違いだらけの非論理的なトンデモ本」は必ずスルーされるが、誰が言ったか重視するときは発言者の権威によってスルーするか否かが変わる。
とはいえ、一般に「誰が言ったか、何を言ったか、どっちを重視するのか」という話をしているときは、発言の信用性 (及びそれに基づく行動判断) について言っている気がする。要するに伊藤氏の語用は特殊であると私は言いたい。
読者の中には生物学に関する話は自身で正誤の判断がつかないため傍観しようという方が少なからずいることだろう。それだと話が始まらないので、本稿では生物学の話題も避け、進化学との関係はあくまでアナロジー、例え話です、ということにしても、躱すことのできない大きな問題点を3つ指摘しておく。
• 悪文である(特に「創造」に関して)
• 「変異」で人間のエラーに関する考察がない
• 「変異の9パターン」に剽窃の疑いがある
さらに「悪文」については具体的には以下の3項目に集約できるだろう。
• 論理の飛躍(例えの不適当さを含む)
• 自己矛盾(用語の統一感のない用法を含む)
• 勉強不足(ファクトチェックの甘さを含む)
💛剽窃についてはそれが事実ならば確かに大きな問題かもしれないが、その前の二つは「躱すことのできない大きな問題点」とまで言うほどのことなのだろうか?これも繰り返しになるが『進化思考』は学術書ではなくビジネス書である。そこまで厳しく論を評価する必要は果たしてあるのだろうか?私には、何とかして『進化思考』の評価を下げたい、また第Ⅲ部で出てくる「もうひとつのありえたはずの進化思考」の方が正しいのだ、自分達の方がすごいのだ、と言いたいだけのように見えてしまう。
「媒名辞曖昧の誤謬 fallacy of the ambiguous middle」と呼ばれる三段論法における典型的な誤りである。それをやってしまっているのが以下の文だ。
| 言語は創造に似ている。そして創造は進化に似ている。ここで当然の
| 疑問が浮かび上がる。はたして言語と進化は似ているのか。(p.77)
💜あくまで引用されている部分を見る限りでは、「似ているのか」というように疑問形であるのでそれほど問題ないだろう。仮に媒名辞曖昧の誤謬に該当することを後にしていたとしても、(形の上では似た) 共通の対象を介して「言語と進化は似ているのか」かと疑問に持つことそのものは別におかしくないからである。
また仮に議論の末に「言語と進化は似ている」という結論を出していたとしても、言語と進化の関連を直接的に議論した末の結論であるならば (単に共通の対象を介すことによって結論を出してる訳ではないのならば)、それは媒名辞曖昧の誤謬とは言えないだろう。
また仮に媒名辞曖昧の誤謬に該当しうる推論方法 (単に共通の対象を介すことによって結論を出すこと) を取っていたとしても、もしここで太刀川氏が言っている「言語と創造の類似」と「創造と進化の類似」の類似性の次元が同一であるならば、媒名辞曖昧の誤謬とは言えないだろう (パっと見、あまり同一には見えないが)。
まえがきで「変異」と「エラー」について循環定義をしていることを指摘したが、「変異の9パターン」も自ら提唱する概念でありながら、その分類方法が首尾一貫していない。
💜循環定義云々については既に上の方で何度も述べた。繰り返しになるが、伊藤氏または松井氏曰く「「エラー的な変異」(p.43)と書いた直後に「変異によるエラー」(p.44)と書いて循環定義をするなど、論理も破綻しています」 (p.5) とのことだが、私としてはこの二つを定義文と見なすのは無理やり感が強いと感じる。前者の「エラー的な変異」における「エラー的な」というのは単なる修飾語であるように見える。確かにエラー的な変異 (mutation) というのは重複表現のようでもあるが、一般的に言って特に問題はないように見えるし、この場合少なくとも変異の定義文ではない。また後者の「変異によるエラー」に関しても、これも重複表現的なものであるが、エラーの定義文には見えない。またそもそも「「エラー的な変異」と言うからにはどうやら著者は遺伝学の立場に立っているようではある」(p.88) と伊藤氏は主張するが、ここでの変異をvariationの意味で取ることは十分可能である。「エラー」という語は「1 やりそこない。失策。2 理論的に正しい数値と、計算・測定された値とのずれ。誤差。」 (デジタル大辞泉, [24]) という意味を持ち、伊藤氏は1の意味でしか取っていないようだが、2の意味を取るとき集団の既存のメジャーな形質とのズレという意味で変異 (variation)と合わせることは可能である。
なお、「変異の9パターン」が曖昧なものであることには同意する。しかしそれは太刀川氏の主張を一切無効化するものではないだろう。
| なぜ、これほどまでの作品を創造することができたのか。(p.4)
| 彼らも創造の天才だったから、それを生み出すことができたのだ。
| (p.5)
始まりはこのように通常の「創造」の意味で用いられている。だが太刀川
は
| だが創造とは本当に、そういう事なのだろうか。(p.4)
と疑問を投げかけ、
| では創造とは何なのか。それはとても不思議な現象だ。(p.5)
として「創造」は「不思議な現象」だとする。「不思議」かどうかは別として、「創造」は「現象」なのだろうか? ここで全読者が困惑するだろう。
💛別に困惑することでもないのではないだろうか?創造という意識的・自発的な行動と一般に思われていることが、実は個人レベルにおける何らかの無意識性を持つ行動・思考、または集団レベルにおける (それこそ進化的な) 自然な現象ではないかと考えているように私には読める。「個人の意識的な行動」に対して「現象」が対置されているのではないかということである。
それはさておき、「新しいモノを作り出すこと」は確かに「知覚できる一切の物事」ではあると思うが、それを言い出すと何でも「現象」になってしまう。
「創造」をもう少し一般的な行為「〇〇すること」まで拡げて、数式的に書いてみると、
「〇〇すること」∈「知覚できる一切の物事」
もしくは
「〇〇すること」⊂「知覚できる一切の物事」
となるだろうか。少なくとも
「〇〇すること」=「知覚できる一切の物事」
ではない。左と右は同じレベルの話ではないのでイコールでは結べない。
| 進化は、〔中略〕自然発生する創造的な現象だ。(p.50)
これくらいであれば、進化の理解云々は別として、
「進化」=「〇〇な現象」=「〇〇な知覚できる一切の物事」
と言えるように思う。
💛全体的に言いたいことがよく分からない。おそらく伊藤氏の中でいろいろ混同している。ここでの「新しいモノを作り出すこと」と「知覚できる一切の物事」は「創造」と「現象」を指すのだが、「「新しいモノを作り出すこと」は確かに「知覚できる一切の物事」ではあると思う」という表現からは、伊藤氏はそうであることに同意しているように見える。しかし、その後の数式的な話では「少なくとも「〇〇すること」=「知覚できる一切の物事」 ではない。左と右は同じレベルの話ではないのでイコールでは結べない」というように同値的意味に関して否定的なことを述べており、またその後に「これくらいであれば、進化の理解云々は別として、「進化」=「〇〇な現象」=「〇〇な知覚できる一切の物事」 と言えるように思う」というように別の表現においては同値的意味が擁護されうるとしている。したがって後半の数式的な話だけを見ると、「「新しいモノを作り出すこと」は「知覚できる一切の物事」である」という同値性に関する個別命題を認めてしまうと「「〇〇すること」=「知覚できる一切の物事」」という一般命題まで認めることになってしまうので背理法的に誤りである、と伊藤氏は言いたいように見えるのだが、前述のように伊藤氏はその前の部分で、「「新しいモノを作り出すこと」は確かに「知覚できる一切の物事」ではあると思う」というように肯定している。つまり自己矛盾しているように見える。
それで、なぜ伊藤氏がこういった矛盾的主張をしてしまっているかというと、おそらく彼の中で「「新しいモノを作り出すこと」は「知覚できる一切の物事」である」という表現の意味が揺れているからだろう。すなわち、自然言語における「AはBである」という表現は「A⊂B」と「A=B」の二つの意味で取られ得るのだが、伊藤氏はここで「A⊂B」と「A=B」どちらの意味で取るのかを場面によって変えてしまっているように見える。つまり、初めの「「新しいモノを作り出すこと」は確かに「知覚できる一切の物事」ではあると思う」においては包含 (「A⊂B」) の意味でこれを肯定しているが、後半の数式的な議論では同値 (「A=B」) の意味を以ってこれを否定しているのではないかということである。話の流れとしてはおそらく同値的な意味での解釈が彼の本旨に沿っているように見えるが、彼自身が混同しているためかよく分からない文章になっている。
また「それを言い出すと何でも「現象」になってしまう」という記述も、そういった彼の中での混同をよく表しているように見える。「それを言い出すと」とのことだが、それを言い出すも何も今はただこれ以前の部分で伊藤氏自身が定義した「創造」と「現象」の意味に従って演繹的に議論しているだけである (「「新しいモノを作り出すこと」は「知覚できる一切の物事」である」ということを認めているとき、これは包含的解釈を取っていることを意味し、実際この解釈の中身そのものは論理的に問題はない)。すなわち「それ」に相当する新たな仮定 (前提) はどこにもないように見える。では一体伊藤氏が何を「それ」としているかというと、おそらく包含的解釈としての「「新しいモノを作り出すこと」は「知覚できる一切の物事」である」であろう。すなわち、伊藤氏は同値的解釈を基本として持っているので、「「新しいモノを作り出すこと」は「知覚できる一切の物事」である」というような包含的解釈は、(一瞬認めたものの) 自分の主張とは違う新たな仮定 (前提) として認識されたのではないかということである。
また全体的な文脈として、(同値的意味で定義するならば)「知覚できる一切の物事」ではなくて「〇〇な知覚できる一切の物事」というように何らかの個別的な「現象」 (「現象」の真部分集合) として「創造」を定義しろというのが伊藤氏の本旨であるように見えるが、そもそも太刀川氏は同値的な意味で「創造は現象である」(「新しいモノを作り出すこと」は「知覚できる一切の物事」である) とは別に言っていないように思える。常識的に考えて「創造」と「現象」が同値であると考える人はほぼいないように思われるし、そもそも引用されている範囲では「創造は現象である」という主旨の発言はしていない。伊藤氏が初めに「「創造」は「現象」なのだろうか?」という疑義を持ったのは、「では創造とは何なのか。それはとても不思議な現象だ。」(『進化思考』p.5) という太刀川氏の主張に対してなのだが、ここでは「不思議な現象」と言っており、これは現象一般ではない。また常識的に考えて、この「創造は不思議な現象」というのも包含的意味で太刀川氏は言っていると思われる。
というように、全体的に「包含か同値か」「一般的現象か個別的現象か」という点で混同や勘違いが発生しているためにおかしな文章になってしまっている。
ところが太刀川はさらに「創造」について
| 私たちも自然の一部だから、創造もまた自然現象には違いない。(p.5)
と「自然現象」だと主張する。確かに人間も自然の一部であるが、そこまで言ってしまうと人間の意思も行為も論じられなくなるのではないか。創造性教育をしようがしまいが「自然現象」だし、「生物多様性の崩壊」(p.474)も「自然現象」だ。この定義を認めてしまうとこの後の全ての議論が無駄なのではないかと思う。「創造」=「自然現象」説はひとまず見なかったことにしておきたい。
💛広義の自然現象 (自然界で見られる現象) で言えば人間の意思も行為も間違いなく自然現象であるし、狭義の自然現象 (人間の意思によらず自然発生する現象) を取っても決定論的には特に問題ないだろう。したがってこの観点では「創造性教育をしようがしまいが「自然現象」だし、「生物多様性の崩壊」(p.474)も「自然現象」だ」という反例的主張は反例になっていない。一方、狭義の自然現象を取り、かつ自由意志を認めるならば、そういった人間の行為を自然現象と呼ぶことは誤りとなり得る。「なり得る」というのは、自由意志における「自由」にも「リバタリアン的自由」と「両立論的自由」という異なる二つの定義があるからである。前者がいわゆる自由意志に関するもので、行動を自発的に選択して行えるという意味での自由である。一方、後者の定義では行動現象としては決定論的 (行動の選択権がない。全て必然) であってもそれを主体が自発的に行っていると感じるならば自由であると見做す。したがって後者の意味で自由意志を考えるならば「創造性教育をしようがしまいが「自然現象」だし、「生物多様性の崩壊」(p.474)も「自然現象」だ」という反例的主張は反例とはならない。客観的現象としての決定性と人間の意識における自由の感覚は別の話であり、「創造」や「生物多様性の崩壊」が客観的に自然現象 (人間の意思によらず自然発生する現象) であることは特に問題ないとされるからである。
とはいえ、一般 (ここでの一般とは一般人・一般社会の意味であって、学術的議論における一般ではない) に自由意志の存在は信じられているし、そこでは普通リバタリアン的自由が想定されているので、伊藤氏 (含め一般人) は人間の意思や行動が全て自然現象と見なされるという主張に全く同意できないのだろう。「「創造」=「自然現象」説はひとまず見なかったことにしておきたい」というように「間違ってると思うけど一旦スルーしておいてあげるよ」といった上から目線の態度を取っているが、単に伊藤氏の理解が浅いだけである。
また「「創造」=「自然現象」説はひとまず見なかったことにしておきたい」とのことだが、「私たちも自然の一部だから、創造もまた自然現象には違いない」という太刀川氏の記述からそれを導いたのだとしたら完全に誤りである。「創造もまた自然現象には違いない」というのは「創造→自然現象」ということを言っており、「創造=自然現象」とは普通読まない。ここで話すと長くなるので、詳説は同じ間違いを犯しているp.187で行う。
次に、「創造性」について見てみよう。「創造性」も冒頭から登場する語だ。
| 実はどんな人でも、🔻創造性を発揮する🔻驚くべき力を秘めてい
| る。私はそう確信している。だがよく考えてみると、🔷創造性の構
| 造🔷とか、🔻創造性を育む🔻適切な練習方法について、私たちは何
| も知らないのだ。(p.5)
「創造性」の「構造」、というのが少々引っかかるが、「創造性」を「クリエイティビティ」に置き換えてもそれほど違和感なく読める文だ。その後も「創造性」は「発揮する」ものとして、また「育む」ことができるもの、つまり個人の「創造」に関する「能力」としてたびたび使われる。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
といったように。ところが、読み進めていくと、違う使い方が現れる。
| しかし歴史に残る優れた🔻創造🔻は、必ずといっていいほど強いア
| イデアを内包していた。むしろ発明や事業について目を向ければ、
| 🔷創造性🔷という言葉は🔻「強度のあるアイデア」を主に指してき
| た🔻ことにも気づく。(p.17)
ここでは「アイデア」について「創造性」の語を用いている。人間の「能力」ではなく、人間が生み出したもの、結果についても用いると言うのだ。「創造性」を「クリエイティビティ」に置き換えて読んでみると、なんとなくそんな言い回しもあるような気がしてくる。しかし、その直後では再び「能力」として用いられている。
※本稿執筆者注:「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
「むしろ発明や事業について目を向ければ、~(中略)~ を主に指してきたことにも気づく」というのは、ある分野ではそういう意味での使用もあるよという話をしているように見えるので、その場合それまでの意味との違いは特に問題ないのではないだろうか?
またはこの部分は太刀川氏の表現ミスで、正確には「創造性という言葉は「強度のあるアイデア」"に関して主に使われてきた"」ということを意図していた可能性もあるかもしれない。
その次の「創造性」は勝ち負けの対象となっている。
| 5「自然のほうが🔻創造がうまい🔻」のはなぜか
| 「🔷創造性🔷で自然には🔻勝てそうにない🔻が、なぜそう感じる
| のか」(p.20)
これは「能力」とも読めるし、小見出しの「創造がうまい」のように、「創造されたもの」のことのようにも読める。もうこの辺りではなし崩し的に自然を擬人化してしまっているので、「現象」も「能力」も大差ないような気がしてきてしまう。意識してやっているのだとすると巧妙というか悪質だが、おそらく太刀川も書きながら自分でわからなくなっているのではないかと思う。そのため、「創造性」の使い方もぶれてくる。
※本稿執筆者注:「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
💛ここでの「創造性」は普通にこれまで通り「能力」の意味ではないだろうか?「創造されたもの」と読むのは不自然な気がする。
またそもそも小見出しの「創造がうまい」における「創造」を「創造されたもの」の意味で取るのも不自然だと思う。普通にこれ以前の部分で松井氏自身が辞書で確認したように「新たに造ること」や「それまでなかったものを初めてつくり出すこと」といった意味ではないか?「~が上手い」という表現における「~」には行為的意味が来るのが普通である。例えば「料理」には「1. 材料に手を加えて食べ物をこしらえること。また、その食べ物。調理。」(デジタル大辞泉, [49]) というように行為とその行為の結果物の両方の意味があるが、「料理が上手い」と言ったときには普通、料理する行為が上手いことを指す。
また「もうこの辺りではなし崩し的に自然を擬人化してしまっているので、「現象」も「能力」も大差ないような気がしてきてしまう」というのも的外れだろう。そもそも太刀川氏は「現象」と「能力」を近いようなものとして説明してきているので、擬人化の結果それらが大差ないように見えたところでそこまで問題はない。むしろ伊藤氏のこういった指摘こそが「太刀川氏は「擬人化」というレトリックによってズルをしている」という巧妙で悪質な印象操作であるように見える。単に何も理解せずに言ってるだけかもしれないが。
| 自然物に対して、なぜ私たちは創造的な感覚を抱くのだろう。生物が
| これほどに🔻美しい創造性🔻の宝庫となった背景には、🔷創造性
| 🔷の本質を解き明かす手がかりがあるように思える。そもそも自然| 物はデザインなのか……。(p.20)
ここでは「創造性」について「美しい」という形容詞をかけており、先ほどの「アイデア」と同じ使い方といえる。この使い方は他にも何箇所かある。
※本稿執筆者注:「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
確かに自然に読むと、ここでの「創造性」は創造行為の結果物 (アイデア) と解釈できる (実際私もそう読んだ)。しかし「美しい創造性」というのを、「美しい創造行為の結果物」ではなく、「美しい創造を生成するような能力」と好意的に解釈をすることも不可能ではない。
なお、これは以前にも突っ込んだし、先ほども似たようなことを述べたが、ここでの「創造」「創造性」の定義の正確性に関する議論は果たして進化思考の是非について語る上でそこまで重要なことなのだろうか?少なくとも私には「躱すことのできない大きな問題点」(p.179) とは現状思えない。
| だが実際にデザインの現場も、これとまったく同じなのだ。何度もト
| ライアルをして、何度も選択をすると、モノはおのずと良くなってい
| く。このやむことのない繰り返しが🔻創造性を前にドライブする
| 🔻。(p.45)
| 長い時間を🔷生き抜いてきた創造性🔷は、成功要因の保存と、失敗
| や変化への体制を備えている。(p.292)
おそらくここでの「創造性」は、「新規性」や「新奇性」のように「創造されたものにおけるクリエイティブ度合い」の意味で用いられているのだろう。
※本稿執筆者注:「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
💜ここでの「創造性」はこれまで通り、普通に「能力」の意味でよくないだろうか?前後の文章まで見ないとはっきりとしたことは言えないが、少なくとも私には「「新規性」や「新奇性」のように「創造されたものにおけるクリエイティブ度合い」」という意味は特に読み取れない。
このように、「創造性」のように重要な語が2種類の意味で混用されているので、当書はまともな議論に耐えられないのである。
💛繰り返しになるが、そこまでの厳密性を求める必要は果たしてあるのだろうか?確かに意味が分かりづらい部分もあるが、太刀川氏の主旨は十分に理解できないだろうか?勝手に学術レベルの土俵に上げて相撲を取らせてるように私には見える。確かに生物進化に関する事実的記述には厳密性が求められるが、それ以外の部分にもそれと同じくらい厳密性を求める必要はないのではないか?生物進化に関して出した矛の収め所を見失っていないか?
さらに困ったことに
| 🔻創造性🔻のことを、二つの思考を往復しながら生み出す🔷螺旋的
| な現象🔷として捉えれば、頭のなかで何度も作り直し、世代を発展| させるように創造の強度を高める視点に慣れてくる。このプロセスを
| 体得すると、はるかに効率的に創造的な仮説に辿り着けるようになる
| のだ。そして何より肝心なこととして、このプロセスは誰でも一つ一
| つ丁寧に学ぶことができる。つまり🔻創造性🔻は暗黙知ではなく、
| 🔷学べるもの🔷になるだろう。(p.62)
と「創造性」もイコール「〇〇な現象」になってしまった…。だがその直後に「学べるもの」だともある。そうすると「現象」=「学べるもの」ということになるのだが、もちろん「現象」は「学べるもの」ではない。
※本稿執筆者注:「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
💛「創造性」=「〇〇な現象」に何か問題があるのだろうか?「創造性」を能力的なものと定義するとき、その認知的なプロセスは紛れもなく現象だろう。そしてそういった認知的プロセスが学べるという主張は別におかしなものではない。
また「「現象」=「学べるもの」」というのはおかしい。「だがその直後に「学べるもの」だともある」というのは「つまり創造性は暗黙知ではなく、学べるものになるだろう」というのについて言っているのだろうが、ここでの太刀川氏の意図は明らかに「創造性→学べるもの」だろう。既に上で似たような話をしたが、「AはBである」という自然言語は「A→B」と「A=B」(「A↔B」) という二つの解釈可能性を持つ。「りんごは赤色である」という文章では「A→B」が適切だが、「りんごはバラ科リンゴ属の果樹またはその果実である」という文章では「A=B」が適切である。私には太刀川氏が「学べるもの→創造性」と捉えているようには全く見えない (「創造性→学べるもの」はどちらの解釈でも成り立つので、同値を示すにはあと逆方向が必要)。伊藤氏には太刀川氏が「学べるもの→創造性」と捉えているように見えているか、または一般に自然言語の「AはBである」が「A→B」と「A=B」の二つの解釈可能性を持つことを意識的には理解しておらず「A=B」だけ採用してしまっているように見える (さすがに「りんごは赤色である」というのが「りんご=赤色」ではないことは無意識的には理解していると思う) 。
したがって「「現象」は「学べるもの」ではない」というのが、以上のような同値性に関する指摘であるのならば、それはそもそも伊藤氏の解釈の仕方がおかしい。「つまり創造性は暗黙知ではなく、学べるものになるだろう」という太刀川氏の発言を普通は同値の意味で取らない。また、そうではなく「創造性→学べるもの」の妥当性に関する指摘であるのならば、初めに説明したように「創造性」を能力的なものと定義したとき、その能力は紛れもなく認知プロセス的現象であるので、それを学びによって向上させることができるという主張は別におかしなものではない。
編者はこの辺で脱落である。脱落というか、ついていける文章ではない。
💜この引用部分は1つ上の指摘部分の直後に繋がっているものである。残念ながら、ここまで説明してきたように私には単に伊藤氏の力不足なだけに見える。
だがそれはそれとして、とにかく「創造」と「創造性」周りはリライト必須だ。
💜ここまで述べてきたように、確かに一部分かりづらい部分もあるが、それらは太刀川氏の主旨を大きく見失わせるようなものではないだろう。また、そもそも「創造」と「創造性」の定義に関する伊藤氏の評価には、彼の力不足による勘違いが多く含まれているように見える。
つまり、「創造性」は「発揮する」ことが重要なのだ。ところが、終章に至り「創造性」に「進化」が必要だ、という新しい主張が登場するのである。
| 今こそ人間中心の観念を卒業して、生物の生態系から学ぼう。
|
| 私たち自身の🔻創造性を進化させよう🔻。(p.475)
|
| 自然に立ち返った教育の進化は、世界中の人の創造性を進化させるだ
| ろう。それが進化思考の挑戦だ。(p.478)
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
太刀川によれば「進化」は「エラー的な変異と自然選択による適応を繰り返す」(p.43) ことだというのだが、「創造性」の「エラー的な変異と自然選択による適応を繰り返す」というのはどういうことなのだろうか。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
やはり「創造性」をそのまま「発揮」することが求められている。その後も
| 時間を超えて創造的な仲間を増やすことは出来るのか。その成否は、
| 🔷創造性を体系的に学べる理論と教育🔷を今の私たちが生み出せ
| かどうかにかかっている。(p.479)
と書いており、やはり結局のところ「創造性」を「発揮」することができるようにする「体系的」な教育を太刀川は志向しているのだろう。その点について異論はないが、「体系的」に学ぶことができれば良いのであって、その学ぶべき対象が「進化」する必要はない筈である。その「創造性」の「進化」とはどういうことなのか結局わからないままであった。おそらくここでも「進歩」の意味で「進化」を使っているのだろう。
※本稿執筆者注:「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
💜確かにこの部分だけ見ると単なる進歩的な意味で進化と言っているように見えなくもないが、ここまでの『進化思考』における長い文脈を踏まえると、学ぶべき対象である創造的能力が「進化」するような現象であるからそれを促進 (発揮) させよう、と言いたいのではないだろうか?そしてこの場合は「進歩」の意味で「進化」を使っているとは別にならない。
| こうした未来の仲間の🔻創造性に役立つ🔻ために、私はこの本を書
| いた。🔷創造性は🔷私たちが自然から学べるものであり、私たち全
| 員に宿った本来の力を活かす🔻方法🔻でもあるのだ。(p.479)
この章最後の文も「創造性」の使い方が混乱している。最初の「創造性に役立つために」は「創造性の発揮に役立つために」とでもするべきであろう。続いて「創造性は」「本来の力を活かす方法でもあるのだ」とあるが、「〇〇性」=「方法」ではないのは明らかだろう。「創造性」が「発揮」できれば「本来の力を生かす」ことができるので、その「方法」を太刀川は今まで語ってきたのではなかったのだろうか。
※本稿執筆者注:「🔻」及び「🔷」で挟まれた部分は下線が引かれていることを意味する。すなわち、「🔻見本🔻」は「見本」に下線が引かれていることを示す。noteでは下線が基本的に引けないため、このような代用を行った。二種類の記号を使ったのは、一種類だけだと複数の下線が存在する文章においてどの2つの🔻が文字を挟んでいるのか分かりにくいからである。
💛「創造性に役立つために」を「創造性の発揮に役立つために」という指摘はその通りだと思うが、これは「創造性」の使い方の混乱ではなくて、単なる表現の瑕疵 (創造性に関してどういう点で役立つのかが分からない) ではないだろうか?
また「「創造性は」「本来の力を活かす方法でもあるのだ」とあるが、「〇〇性」=「方法」ではないのは明らかだろう」に関しては、「創造性」をここまでと同様に「能力」として定義するならば、太刀川氏の主張にそれほど問題はないように思われる。「能力→方法」というと確かに若干違和感はあるが、「物事を成し遂げることのできる力」 (デジタル大辞泉, [50]) 及び「目標に達するための手段。目的を遂げるためのやり方」 (デジタル大辞泉, [51]) という「能力」と「方法」の意味を考えればある程度納得できるものである。
そして「「〇〇性」=「方法」」と伊藤氏は言っているが、先ほどのp.187と同様に、もしかしてここでも「創造性は私たちが自然から学べるものであり、私たち全員に宿った本来の力を活かす方法でもあるのだ」というのを「創造性=本来の力を活かす方法」として解釈しているのだろうか?だとしたらその解釈は普通ではない。先ほども説明したように、「AはBである」という自然言語は「A→B」と「A=B」(「A↔B」) という二つの解釈可能性を持つが (例:「りんごは赤色である」という文では「A→B」が適切だが、「りんごはバラ科リンゴ属の果樹またはその果実である」という文では「A=B」が適切である) 、私には太刀川氏が「本来の力を活かす方法→創造性」と捉えているようには全く見えない (「創造性→本来の力を活かす方法」はどちらの解釈でも成り立つので、同値を示すにはあと逆方向が必要)。常識ともズレているし、そんな話も特にしていないからだ。伊藤氏には太刀川氏が「本来の力を活かす方法→創造性」と捉えているように見えているか、または一般に自然言語の「AはBである」が「A→B」と「A=B」の二つの解釈可能性を持つことを意識的には理解しておらず「A=B」だけ採用してしまっているように見える (さすがに「りんごは赤色である」というのが「りんご=赤色」ではないことは無意識的には理解していると思う) 。
したがって「「〇〇性」=「方法」ではないのは明らかだろう」というのがこのような同値性についての指摘であるのならば、それはそもそも伊藤氏の解釈の仕方がおかしい。「創造性は私たちが自然から学べるものであり、私たち全員に宿った本来の力を活かす方法でもあるのだ」という太刀川氏の発言を普通は同値の意味で取らない。もしそうではなく、「「〇〇性」→「方法」」の意味で「「〇〇性」=「方法」」と言っているのであれば (こういう不正確な意味でのイコールの使用をする人は割といる。とはいえ伊藤氏は上で「左と右は同じレベルの話ではないのでイコールでは結べない」(P.184) と言っているので恐らくイコールの同値性については一応理解しているように思われる)、初めに説明したように「創造性」を「能力」として定義したとき、「能力→方法」と言うことにそれほど問題はない。
また最後の「「創造性」が「発揮」できれば「本来の力を生かす」ことができるので、その「方法」を太刀川は今まで語ってきたのではなかったのだろうか」に関しては、「方法 (となる能力)」 を発揮する「方法」を太刀川氏は今まで語ってきた訳なので、何も問題はない。
「創造性」の語の用法が一貫せず、非論理的である、と書けば済むことだったかもしれないが、「非論理的だ」とだけ指摘されて直せるくらいなら初めからこのような文を世に出さないであろうから、老婆(爺)心ながら長々書いた次第である。
💛ここまで指摘してきたように、太刀川氏の用法に多少揺れや分かりづらい部分があるのは事実だが、それは太刀川氏の主旨の理解を大きく妨げるものではないだろう。また伊藤氏の批判には彼の力不足による勘違いが多く存在する。特にp.187とp.190で指摘したように、伊藤氏は「AはBである」という自然言語が「A→B」と「A=B」(「A↔B」) という二つの解釈可能性を持つことを意識的に理解できていない可能性があり、その場合「非論理的である」という発言は特大ブーメランとして返ってくるだろう。
ちなみに以下のツイートで言っているように[52]、この第5章は論理性に自信があるところらしいが、残念ながらそのような出来にはなっていない。「創造性は暗黙知ではなく、学べるものになるだろう」という文を「創造→学べるもの」ではなくて「創造=学べるもの」として読んでしまう人にどうして論理が語れようか (p.187への指摘参照)。また、p.184の「「〇〇すること」=「知覚できる一切の物事」」云々においては「包含か同値か」「一般的現象か個別的現象か」という点で伊藤氏が色々混同や勘違いをしているためにハチャメチャな文章になっている。
最初の方で「創造性」が「創造力」に変わってたところがあって、多分全体を通して多少は改善されて読める文になっているだろうとは思われたけど。
— Jun ITO/イトウジュン (@itojundesign) December 23, 2023
『進化思考批判集』の5章は卒論書いてて先生に「文章が論理的なじゃない」と指摘された学生の役に立つんじゃないかなと思って書いたところもあります。
そもそも「変異」は進化学以前から用いられていた語であり、variationのことを指していた。「バリエーション」はほぼ日本語として通じるであろう。一方、進化学では多くの場合「突然変異」mutationを意味する*。どちらの意味で「変異」の語を用いているのかを明確に宣言する必要があると思うが、以下のように「エラー的な変異」と書くからには太刀川は遺伝学の立場に立っていると推察される。
| では進化とは何なのか。まさに進化とは、エラー的な変異と自然選択| による適応を繰り返す、生物の普遍的な法則性のことなのだ。(p.43)
ところが次ページには
| 1 変異によるエラー:生物は、遺伝するときに個体の変異を繰り返
す(p.44)
と書いている。さらに
| そもそも失敗=変異的エラーがなければ、成功=創造的進化もないの
| だ。(p.73)
とも書いており、エラーと変異の循環定義(無限ループ)になってしまっている。
💛前半に関してはp.88のところでも指摘したので繰り返しになるが、「進化学以前」「一方、進化学では」「生物学と遺伝学で」のいずれかにおそらく誤字があると思うのだが (3つ目の「生物学と遺伝学で」は注釈内)、このせいで伊藤氏がどのようなものを遺伝学的or進化学的と考えているのかよく分からない。引用されている「「Variation」の訳語として「変異」が使えなくなるかもしれない問題について: 日本遺伝学会の新用語集における問題点」[23] を読んでみたが、そこではむしろ「進化学ではvariationが重要な概念であるが,この用語はダーウィンの『種の起源』においても表現型の変異を示すために使われている用語である(Darwin1859).日本においてダーウィンの進化論は石川千代松の 『進化新論』によって紹介された.1891年に出版されたこの本の中で石川は「変異」という訳語をvariationに当てており(石川1891),1897年の訂正増補再版版では巻末の「進化論ニ関係アル原語ノ訳」という項目で,variationの訳が変異であると明示されている(石川1897)」や「つまり,時系列的にはまずvariationの概念があり,その日本語訳である変異が使われはじめ,その後に地球上でmutationの概念や遺伝学が誕生したといえる.」や「現行の数研出版,東京書籍,第一学習社3社の高校生物の教科書をチェックしたところ,『遺伝単』で扱われているそのほかの遺伝学用語と異なり, 変異は遺伝分野ではなく,生物の進化の項目で扱われている.数研出版と東京書籍では「変異(variation)」「遺伝的変異」「環境変異」等を太字の重要用語としてクローズアップしており,第一学習社では「環境変異」のみを太字で記載している.」というように、進化学では変異がvariationの意味で用いられることが多いかのような記述がされている。これは伊藤氏の「進化学では多くの場合「突然変異」mutation を意味する」とは食い違う内容だが、上で述べたようにおそらくここでは誤字が存在しているように思われるので、伊藤氏の主張の真偽についてはスルーしておく。
また伊藤氏は「エラー的な変異」と「変異によるエラー」で循環定義になっていると主張するが、私としてはこの二つを定義文と見なすのは無理やり感が強いと感じる。前者の「エラー的な変異」における「エラー的な」というのは単なる修飾語ではないだろうか?確かにエラー的な変異 (mutation) というのは重複表現のようでもあるが、一般的に言って特に問題はないように見えるし、この場合少なくとも変異の定義文ではない。また後者の「変異によるエラー」に関しても、これも重複表現的なものであるが、エラーの定義文には見えない。「失敗=変異的エラー」に関しても、これは「変異によるエラー」と似たようなものであると見做せるだろう。
また、そもそも「「エラー的な変異」と書くからには太刀川は遺伝学の立場に立っていると推察される」と伊藤氏は主張するが、ここでの変異をvariationの意味で取ることは十分可能である。「エラー」という語は「1 やりそこない。失策。2 理論的に正しい数値と、計算・測定された値とのずれ。誤差。」(デジタル大辞泉, [24]) という意味を持ち、伊藤氏は1の意味でしか取っていないようだが、2の意味を取るとき集団の既存のメジャーな形質とのズレという意味で変異 (variation) と合わせることは可能だろう。また同様に「変異によるエラー」における「エラー」をvariationの意味で取ることも可能であろう。
要するに、太刀川氏の云う「エラー」と「変異」というのは伊藤氏が考えている以上に多義的に解釈できるし、またそもそも「エラー的な変異」「変異によるエラー」「変異的エラー」を「エラー」や「変異」の定義文と見なすのはおかしい。とはいえ、誤解を生みうるのは確かなので、変異をvariationの意味で使うか、mutationの意味で使うかを明確にしたほうが分かりやすいのはそうである。
もしこれが循環しないのだとしたら、それはエラーと変異が多義的な(複数の意味をもつ)語からだろう。きちんと定義をしてから論を進めなければならない。
💜何を言いたいのか今一分からない。循環しているというのが伊藤氏の主張ではなかったのだろうか?それとも伊藤氏は循環していると思ってるけど、循環していないと主張する人も存在し得て、そういう人は多義性を無意識に不適切に使用していると言いたいのだろうか?そうであるならば、「循環しないのだとしたら」ではなくて「循環しないと言うならば」などと表現するべきである。「循環しないのだとしたら」では、循環するのかしないのか伊藤氏自身も判断できていないように見えてしまう。
また、仮に「循環しないのだとしたら多義性を無意識に不適切に使用している」というのが伊藤氏の意図であったとすれば、1つ上で指摘したように、別に多義性を利用しなくとも (「変異」を「mutation」または「variation」のどちらか片方の意味で取って)、普通に循環させることなく説明できる。またさっきも言ったが、そもそも「エラー的な変異」「変異によるエラー」「変異的エラー」を「変異」や「エラー」の定義文と見なすのは無理やり感が強い。
玉入れの例(p.56)で言えば「あてずっぽうでも玉を投げまくる」試行錯誤は計画段階での「見当違い」で、正しくカゴの方向に向かって投げたつもりがコントロールが悪くて違う方向に飛んで行ってしまうのが実行段階での「し損い」だ。この質的に異なる2つを区別できていないのは明らかな欠陥だろう。サッカーのPKで、緊張や疲労で枠を外してしまうのは「し損ない」だが、相手キーパーに背を向けてゴールポストと正反対の方向にボールを蹴ったとしたら、これは「見当違い」で相手ゴールには入りっこない。「見当違い」は「作戦ミス」と言っても良いかもしれない。
💜いや、「相手キーパーに背を向けてゴールポストと正反対の方向にボールを蹴」ることは現実的にPKの作戦としてはあり得ないのだから「見当違い (作戦ミス)」の例としては不適切だろう (p.92の批判への指摘で述べたように、このように学者レベルの知能の持ち主でも普通に例え話に失敗するものなのである。それくらい例え話というのは難しい代物である)。敢えてPKで例えるならば、よく分からない奇抜なステップで翻弄してから蹴る作戦が結局あんまり効果がないとかが「見当違い」に相当するだろう (一般にステップによる翻弄は効果があるらしいが、ここでは本当に意味不明な奇抜なステップのためデメリットとしてボールを十分に強く蹴ることができないこととする)。
野球ゲームで送りバントをしようとして、空振りしたりキャッチャーフライになってしまったら「し損ない」だが、ちゃんとバントできたとしても、もし2アウト走者1塁の場面であれば3アウトでチェンジになってしまうので送りバントという作戦自体が間違いだ
これも常識的に考えて2アウト走者1塁の場面では送りバントはしないので「見当違い (作戦ミス) 」の例としては不適当ではないだろうか?3アウトになる未来が容易に予測できるので。例えば、相手捕手が強肩なのを知らずに盗塁して容易にアウトとかのほうが例としては適切だろう。
またこれは重箱の隅を突っつく指摘になるが、「野球」ではなくて態々「野球ゲーム」としたのは何か意図があるのだろうか?おそらくこれは「野球の試合」ではなく「野球のゲームソフト」のことを意味していると思うが。プレイの全責任が自分にある野球ゲームではリアル野球とは違ってそういった意味不明な手段も試せる (試しても誰にも責められない) ということだろうか?
ノーマンの『誰のためのデザイン』は「アフォーダンスaffordance」の語(後に「シグニファイアsignifier」と訂正した*)とドアノブの話で有名になった本だが、ヒューマンエラーについて書いていることでも重要だ。
アフォーダンス理論については既に述べたが、私は基本的にアフォーダンス理論に懐疑的である。特に『誰のためのデザイン?』ではそのアフォーダンス理論をさらに誤解釈して援用していたらしく、そういった点から私はあまり読む気にならない。後になって誤解釈を訂正した改訂版が出版されたらしいが、問題は未だ存在すると思われる (「思われる」というのは私自身は『誰のためのデザイン』を読んでおらず、ネットの情報を元にそう判断しているだけだからである)。ここで伊藤氏が言っているように彼はドアノブをアフォーダンスの例として出しているらしいが[29]、ドアノブ及び扉を開くといった極めて非自然的な対象すら拾うようにアフォーダンス理論における直接知覚が進化してきたとは私はとても思えない。私はアフォーダンス理論にだいぶ疑義的だが、生態的に瞬時の判断が要求されるような知覚に限定すれば、正しい可能性もあるかもしれないと思っている。しかし、ドアノブ程度であれば既存の知覚理論における学習で十分説明が可能だ。したがって、そんな例を気軽に出してしまうということはノーマンはアフォーダンス理論をよく理解していない気がする。とはいえ、アフォーダンスの提唱者であるギブソン自身が「郵便ポストのアフォーダンス」といったものがあると言っているらしいので[30]、そういうのに納得していればドアノブの例を出すことに特に疑問を持たないのかもしれない。私にはギブソンは不適切にアフォーダンス概念を拡張しているように見えるが。
また私の管見ではアフォーダンス理論というのは未だに大して実証されていないような理論なのだが、ネット等ではあたかも科学的に受け入れられた理論であるかのような見方がされていることが多く、そういった点でも少々問題があると思っている。プロダクトや建築などをデザインする際に、アフォーダンス的見方が方法論に役に立ち得るというのはある程度同意できるので、そういった方法論的な使用は特に否定しないのだが、方法論として擁護されることは科学的に擁護されることを意味しないので注意が必要である。またそういった単なる方法論的な話を超えて、私の理解からすればトンデモ一歩手前みたいなアフォーダンスの定義・適用も散見される。
なお、近年ではGibsonの云うオリジナルなアフォーダンスの定義を超えた、新しい定義がいくつか提案されているようだが、それをするならば新しい用語を立ててくださいと私は思う。元の意味との混同を招くし、そもそもアフォーダンス (affordance) という語は環境が意味をaffordする (与える) というところから来ており、そういった意味を保持させることはトンデモ理論の温床になると私は思っている。
そもそもDNAの変異と人間のエラーもアナロジーであるので、ここでは深掘りしない。だが、これらの先行研究を一切参照せずに人間の「エラー」について語るのは独善が過ぎよう。
DNAの変異は複製を正しく遂行できなかった「し損ない」である。それとエジソンのフィラメント探索の過程での「一万通りのうまくいかない方法」(p.70) つまり「見当違い」は全く違う。この両者を区別できず混ぜてしまっている時点で当書の副題の「変異と適応」の片方の看板「変異」が怪しくなる。
💜一体伊藤氏は何を求めているのだろう。「だが、これらの先行研究を一切参照せずに人間の「エラー」について語るのは独善が過ぎよう」とのことだが、そういった先行研究を参照しなければエラーについては語ってはならないかのような主張はあまりにも無茶苦茶過ぎる。何度も指摘しているが『進化思考』は学術書ではなくビジネス書である。学者様のお眼鏡に叶う議論しか認めないということなのだろうか?学者はそんなに偉いのだろうか?そもそも太刀川氏の論の本質にエラーの詳細な分類は重要なのだろうか?
また「DNAの変異は複製を正しく遂行できなかった「し損ない」である。それとエジソンのフィラメント探索の過程での「一万通りのうまくいかない方法」(p.70) つまり「見当違い」は全く違う。」とのことだが、DNAの変異が「し損ない」であるのはあくまで変異 (mutation) の発生メカニズムについてであり、そういった数々の変異の結果何らかの適応的な形質が進化するという観点から見れば、非適応的な変異を「見当違い」と捉えることは全くの検討外れというものでもないかもしれない。ただやはり個々の「見当違い」が何らかの意図を持ったものか否か、またその先の発見及び適応的形質を目指しているか否かという点で両者には開きがある。したがって結局、見た目上は似ているものの、メカニズム的には別物であると言えるだろう。
とはいえ、以上の話は発明への探索行動を完全に (リバタリアン的な) 自由意志的行動と捉えた上での話で、もし探索の選択に何らかのランダム性が多少存在しているならば、探索行動の失敗に「し損ない」 の要素が多少あるとは言えるかもしれない。また少し話は離れるが、集団レベルのアイデア創造の話をするならば、個々人の探索行動をランダム的な「し損ない」と見なすことも可能かもしれない。
そしてその変異について、太刀川は「変異の9パターン」として「変量・擬態・欠失・増殖・転移・交換・分離・逆転・融合」を提唱しているのだが、それが「オズボーンのチェックリスト」として知られる「転用・応用・変更・拡大・縮小・代用・再利用・逆転・結合(Put to other uses? Adapt? Modify? Magnify? Minify? Sustitute? Rearrange? Reverse? Combine?)」と、「9」という数も含めて酷似していることについて、一切触れていないのも看過できない問題だ。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
先行書が日本語に訳されていないとか、無名の人物によるものであるのなら、たまたま「車輪の再発明(reinventing the wheel)」的に似た分類に独自に辿り着いたということもあり得るとは思う。だが上記のように「オズボーンのチェックリスト」がデザイン界で知られていなかったとは言い難い。しかも『進化思考』ではオズボーンがブレインストーミングの生みの親であることを彼の著作『創造力を生かす』の文章まで引用して紹介し(pp.51-52)、また89頁でも同書のオズボーンの言葉を紹介しているが、その『創造力を生かす』こそが「チェックリスト」の元となった本なのだ。にもかかわらずそのことにはまったく触れていない。極めて不自然である。オズボーンの『創造力を生かす』をちゃんと読んでおらず、使えそうな言葉をピックアップして引用しただけなので気付かなかった、という可能性もあるが、太刀川の言葉を借りれば*「そんな訳はないだろう」[23]。都合が悪かったので触れなかったと考えるのが自然だろう。もしたまたま「車輪の再発明」だったのなら、「過去にも同じようなことを考えている人がいた」と書くべきだ。仮に「オズボーンのチェックリスト」にヒントを得た「アレンジ」だった場合でも、「アレンジ」にも一定の価値はあるのだから、きちんと乗った「巨人の肩」を明記すればよい。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
だが、意図的であれ不注意であれ、明記しないことにより「剽窃」の誹りを免れなくなる。上述したように、太刀川の過去の「デザインの文法」で既に「変異の9パターン」のうちのいくつかが現れているため、編者は必ずしも「盗作」とは思っていないが、少なくとも現在の書き方は「剽窃」もしくは「意図的でない剽窃」と言われても仕方がない。当書は学術書ではないが、太刀川は出版時*はアカデミアに片足つま先くらいは突っ込んだ慶應大学特別招聘准教授という立場であった以上、「剽窃」が「不正」であるという認識は必要だろう。
💜この辺に関しては概ね同意だが、実際太刀川氏が本当にオズボーンのチェックリストを知らなかったかどうかは分からない。また知ってはいたが、オズボーンのそれと太刀川氏の「変異の9パターン」に大した関連性を見ていなかった可能性もある。すなわち内容の妥当性は置いておいて、太刀川氏は生物進化との関連から進化思考を語ろうとしており、そういったときオズボーンのチェックリストのような単なる方法論は自論と大して関係ないし、自論の強化としてもそこまで有用ではないと思ったのかもしれない。
とはいえ、指摘されているように剽窃・盗用の疑いが持たれるということは事実なので、実際に知っていたどうかに関わらず、そういう似たものがあるということについて何かしら言及しておくことが望ましいと思われる (もしかしたら既に改訂版では訂正されているのかもしれないが)。なお、こういった話はあくまで学術倫理的な問題であって、「進化思考」という方法論の内容そのものを否定するものではない。
出版社は『進化思考』の増補改訂版を2023年末に出版予定ということだが、 これだけの誤りを直した上で全体として整合性のとれた文章になるとはとても思えない。そもそも「変異と適応」という進化のアナロジーを用いなくても「発散と収束」というデザイン界の既存の言語で充分なところを無理やり関連付けているのだから。
💛以上述べてきたように、伊藤氏が指摘した3つの問題点は彼が言うほど大きなものではない気がする。「創造」「創造性」の定義については、確かに一部不適当な部分もあるが、そもそも些末な問題である上に伊藤氏の能力不足による誤った指摘も多い。「変異」については、確かに太刀川氏はmistakeとslipの違いを理解していないようにも見えるが、これも進化思考を語る上でそこまでクリティカルな問題点にはならないように思われる (単なる主観・意図的な行為論として進化思考を語るならば否定されるが、認知思考的な観点から語るならばそこまで問題にはならない。また行動選択の自由性や集団的なアイデア創造といった観点でも多少擁護されうる)。また最後の剽窃の疑いについても、それそのものについては適切な対応が望まれるが、これは「進化思考」の内容そのものの妥当性とは特に関係ない。したがって太刀川氏の力量次第ではあるが、全体として整合性のとれた文章にすることは特に不可能という訳でもないし、進化思考の主旨そのものの論理が大きく破綻しているという訳でもない。
また後半の「発散と収束」で十分という指摘についても、あまり同意できない。伊藤氏含め批判集の著者らは意識的な創造についてしか語っていないように見えるが、太刀川氏は創造を無意識的な要素をもつ認知的現象として見たときの話をしているように思われる。すなわち、創造という無意識的な要素をもつ認知的現象に進化的な要素があるならば、進化的観点を取り入れて研鑚を積むことで創造をある程度意識的に行ったり、または無意識的過程を意識的にドライブしたりすることができるのではないか、といったことを言っているように見える。
またそういったこと抜きにしても、アイデア発想においては単なるアナロジーとして見方を変えるだけでも有効なのではないだろうか?
太刀川は元々NOSIGNERとして活動していたように、匿名を美学としているのだと思うが、ここは第2章末の林の提案のように堂々と自身の名を冠するなりして、既存の生物学や進化学の威を借りることなく、自身の思考のオリジナリティを声高に主張すれば良いだろう。
💜「第2章末の林の提案」というのは、「「進化」は生物学における進化とは全く異なる「太刀川進化」とでも表現すべき特殊概念である(よくある誤解ともいう)。「今西進化論」や「千島学説」など、これまでも提唱者の名前を冠した主張はある。そこで、当書における進化を「太刀川進化」、変異を「太刀川変異」、適応を「太刀川適応」とし、生物学とは全く異なり矛盾もしない新たな概念『太刀川思考』として提唱するのが最適な改訂方法ではないかと代案を提案して本稿の結びとしたい」(p.63) のことなのだが、別に態々自分の名前を付ける必要はないだろう。既に「進化思考」というのがある程度新規的な言葉なので (三中信宏氏の云う「進化思考」との関わりについては、批判集のp.6で語られているので割愛する) 。また既に述べたが、林氏はここで太刀川氏を大いに馬鹿にしているが、残念ながら林氏も進化についてよく理解しておらず、壮大なブーメランになっているということを付言しておく。林氏の理解がいかに間違っているかは第二章の部分で解説しているので参照して欲しい (例を一つ出すと、林氏は「適応」の定義を1つしか知らず、それを以って太刀川氏の云う適応がおかしいと繰り返し述べているが、太刀川氏の云うような自然選択の必要条件としての「適応」も学術的に普通に使われているものである) 。
6 どこで批判をするべきか 日本のデザイン界における批判 (伊藤潤)
学会での発表後、デザイン界からの反応は極めて少なかった。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
しかし、実務家ではなく研究をメインとしている大学教員からはもう少し反応があって然るべきではないかと思う。クローズドのSNS等で散見されたのは「結果として良いデザインが生み出せるのであれば瑣末な誤りに目を向けるのは非生産的である」といった論調である。だが、本書のまえがきをはじめ繰り返し述べているように、教育者や研究者が「目的(あるいは結果)は手段を正当化する」スタンスでいるのは大いに問題だと考える。
💛一般に「目的(あるいは結果)は手段を正当化する」スタンスに何も問題かと言えばそうではないと思うが、目的と手段それぞれの内容によっては擁護されるということはありえるだろう。例えば、目的がそれなりに価値あるもので、かつ手段の不適切性が十分に小さなものであるならば、目的を理由に手段を正当化することは一般に問題ない。要するにトレードオフの問題であって、トレードオフを考えずにただ「「目的(あるいは結果)は手段を正当化する」ことは不適切だ」という「まとも」っぽい理由によってあらゆる「目的(あるいは結果)よる手段の正当化」を批判することは不適切であるし、むしろそういう人こそ「少しの瑕疵ですら残さないべきだ」という自己信念 (目的) によって「あらゆる「目的(あるいは結果)よる手段の正当化」を批判する」という不適な手段を正当化してしまっているだろう。
以上は一般論であるが、翻って今回の件についてはどうだろうか。まず「有用な創造的思考を手に入れる」という目的やその結果としての「良いデザイン」というものはそれなりに価値があると言っていいだろう。次に手段についてだが、上記目的のための「「進化思考」という思考法」及び「その妥当性を論じる記述・発言」には、批判集において批判されてきたように確かにそれなりに誤りが存在する。ただ本稿で説明したようにその誤りの量や程度はこの批判集の著者らが思っているよりはずっと小さいだろう。したがって諸々のトレードオフを考えたときに、『進化思考』をその目的のために擁護することが極めて問題があることであるとは私は思わない。しかし、完全にスルーして問題ないかと言えばそんなことはなくて、あまりに大きな事実的間違いや大きな誤解を生みうるような記述に関しては、その影響の大きさから指摘することに価値があるだろう。
そういう訳で「「結果として良いデザインが生み出せるのであれば瑣末な誤りに目を向けるのは非生産的である」といった論調」が教育者や研究者から出ているのであればやや問題があるとは言える (ただし、もし批判は全て非生産的であると言っている訳ではなく、やり過ぎではという程度に関する発言であったとすればそれは特に問題ないだろう)。一方で、批判集の著者らの批判は少しやり過ぎであるとも感じる。あまりにも厳密に精査し過ぎというのもそうだが、ここまでも何度か指摘してきたように態度が明らかに対話のそれではない。攻撃的・皮肉的発言の数々からするに、批判集の著者らが批判する動機は単なる事実訂正以外にもあるようにも見える。
なお、これらのトレードオフの話をこの批判集に適用するならば、「批判集における誤りも含んだ数々の記述」(手段) は「『進化思考』を読んで間違った理解を得てしまった人への処方箋となる」また「太刀川氏本人に読んでもらうことで彼の理解及び諸行為を改めてもらう」といった目的によって正当化される限度を超えていると思ったので、私は本稿を長々と書き続けた。
また、太刀川が「意見書」の撤回と同時に「批判者の皆さん」に向けて「納得がいかなければ、次はいきなり批判ではなく、質問してください」[137]という文章を公開したのを受け、昆虫の進化発生学を専門とする静岡大学の後藤寛貴博士がTwitter上でこう質問した。
何かあればまずは質問して欲しいとのことですので、質問します!
「誤読」という言葉は、読者に非があると暗に仄めかす言葉に感じま
すし、「誤植」という言葉は、誤りは技術的なエラーであり自分に過
ちはないというニュアンスを感じます。やはり、本心としてはそのよ
うにお考えでしょうか?[138]
もし、そうでないのなら、この語句の選択はさらなる対立を招くよう
に思います。これは(僕を含め)批判している人の多くは「多くの人
に誤解を与えるような文章は、書き手の責任」という文化で生きてる
からです。[139] まずは質問して欲しいとのことですので、お言葉に
甘えてもう一つ質問します!
「学問を権威付けに利用して自分の論を補強する」という風に見えた
ことが批判を招いた一因と思います。ご自身はどの程度その構造(権
威付け)に自覚的でしたか?また、そのような指摘についてどう思わ
れますか?[140]
清々しいほどに直球な質問であるが、これに対して太刀川は回答することなく後藤をブロックするという実に残念な行動を取った(図27*)。対話の呼びかけはただのポーズであったのだろう、自らの手で対話を端から閉じてしまった。
💛ここで太刀川氏が言っている「質問してください」というのは進化思考の内容に関する質問だろう。そこまでの経緯として、太刀川氏視点では批判者が誤読しており適切な批判空間になっていないので、まず食い違いを減らすために分からないところや曖昧なところがあれば聞いてください、ということのように見える。そしてそれに対して進化思考の内容そのものではなく、言葉尻を捉えたり、権威付け云々などの人批判が来れば、そりゃ答えたくなくなるだろう。まだ内容の善し悪しについて適切に議論できていないと太刀川氏には見えているのに、「「学問を権威付けに利用して自分の論を補強する」」という風に見えた」と言われたら太刀川氏がどう思うか、後藤氏と伊藤氏は分からないのだろうか?誤読しているように見えるのでお互いの認識をすり合わせましょうというところに、「生物学の不適切な援用で権威付けに見えますよ」というようなことを言ってくる人とはコミュニケーション不可能と取られてもしょうがないだろう。「対話の呼びかけはただのポーズであったのだろう、自らの手で対話を端から閉じてしまった」とのことだが、後藤氏のそれは対話にはなっていないのである。ただ自分が言いたいことを言っているだけである。
ちなみに私は伊藤氏にX (旧twitter) 上でp.108のベイツ型擬態についての批判は誤りではないかと聞いてみたが、残念ながら返信は無かった (いきなりそれを聞いたのではなく、それまでに別の内容の会話が続いているところで、「ちなみに、、、」というような感じで切り出した流れである)[53]。p.23で「当書の記述に対する、より科学的に厳密な検討はもとより、本稿で我々が指摘した各論点に関しても不備を見つけた方にはさらなる批判をお願いしたい。」と述べていたが、伊藤氏の言葉を借りればこれは「ただのポーズ」だったのだろうか?
後藤の書いた「多くの人に誤解を与えるような文章は、書き手の責任」という部分は、デザインで言えば「多くの人に伝わらないデザインは、デザイナーの責任」となるだろう。この文章であれば太刀川も同意するのではないだろうか。デザイナーを代表するであろうJIDA理事長の立場にある者として、自らの誤りを認めずに読み手の「誤読」だと強弁するのも残念な振る舞いである。
💛似たようなことを既に何回も書いたが、この批判集の著者ら含めアカデミア系の批判者には太刀川氏を「よくある進化への誤解」に安易に当てはめようとするバイアスが効いており、それによって誤読している節があるように見える。そしてそのように文章そのものをよく読まずにバイアス的に安易に解釈する態度は研究者として致命的なものであろう。
またここまで長々と指摘してきたように、生物学関係なく単に文章読解力が低いことからの誤読もこの批判集には多く見られる。したがって「自らの誤りを認めずに読み手の「誤読」だと強弁する」に関しては、もし太刀川氏が妥当な批判すら受け入れていないのであればそれは問題だが、この批判集及びその他資料を見る限り、「読み手の「誤読」」というのは完全な強弁ではなく、多くは事実であるように思われる。次の批判も単なる誤読の例である。
他にも京都大学の教授であった櫻井芳雄博士はその著書『まちがえる脳』(2023)の中で、「進化思考」を取り上げ、
なお、ヒトが創造性を生むための仕組みを、このような進化のプロセ
スに準えた「進化思考」という考え方がある。つまり、突然変異の良
し悪しは、最初はわからず、ほとんどは単なるエラーとなり消えてい
くが、時として生存に有利な個体をも生み出すという事実から、アイ
デアの良し悪しも最初はわからないが、偶然に任せエラーとなる覚悟
でどんどん出していくと、時としてヒットするアイデアが出てくると
いう考え方である。脳の信号伝達の実態は、この考え方を支持してい
る。[141]
と書いている。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
もっと言うならば「ヒットするアイデアが出てくる」と書くのも不正確だろう。「ヒットする」かはアイデアの段階ではわからない。「(その段階では)良い(と思える)アイデア」が出てくるだけである*。
💛さすがにこの指摘はおかしいだろう。「ヒットするアイデアが出てくる」というのは単に「後にヒットするアイデアが出てくる」という客観的な事実を述べているだけであって、アイデアが出てきた時点での主観的認識の話はしていない。伊藤氏の論理では、例えば「売れる企画」といった表現も誤りになってしまう (企画段階では売れるかどうかは分からないので)。
このように普通の人ならなんなく理解できる表現に引っかかっていることからも、残念ながら伊藤氏の文章読解力は大して高くないだろう (もちろん根拠はこの例だけでない。本稿では伊藤氏含む批判集著者らの誤読についてここまで数多くの指摘してきた)。先ほど『進化思考』の誤読云々について太刀川氏に責任があるかのようなことを言っていたが、少しは自分の能力を疑ってみてはどうだろうか?
本書では『進化思考』著者の衒学的な姿勢、つまり学術の権威の借用(しかもそれがほとんど誤っているというのがさらにややこしいのだが)を批判してきた。
💛伊藤氏は「衒学」の意味を理解しているのだろうか?内容の正確性は置いておいて、太刀川氏本人は彼の主張に関係あると思って理論的・例示的に援用しているのだから、それは衒学ではないし、学術の権威の借用ともならないだろう。むしろ私にはこの批判集で伊藤氏や松井氏が度々行っているような話の本筋とは特に関係ない小噺への脱線や敢えて小難しい言い回し取ることの方がよっぽど衒学的に見える。例えば、P.86の伊藤氏の発言「「彼」…? 夕方を黄昏(誰そ彼)時と言うのの逆で明け方を「彼は誰」時と言うそうだ。ここでの「彼」は誰ぞ。スペリーかガザニカか、はたまた図1-3の引用元のソボッタ(そもそも何故別人の書いた図を引用するのか理解できないのだが)なのか。」の二文目の黄昏云々は明らかに不要だろう。またP.91の松井氏の発言「生物の進化は進化というクラスの1インスタンスである。」における「クラス」や「インスタンス」は主にプログラミングなどで使われる言葉であり一般読者には分かりづらいだろう。クラスはまだある程度一般的に使われるものの、インスタンスは日常的にはほぼ見ないと言っていい。そういう小難しい用語を使う行為は知識のひけらかしまたは自分の主張を大きく見せる行為と見られ、衒学的と言われても仕方ないものである。後はp.106の伊藤氏の「1981年10月に登場した「埼玉県の吉田くん」考案の「ウォークマン」をモチーフとした悪魔超人ステカセキング[28]は「超人大全集」のカセットテープに加えてラジオを使った必殺技「地獄のシンフォニー」も使う[29]で、そのイメージが強いのかもしれないが、ラジオチューナー内蔵の「ウォークマン」WM-F2が登場するのは1982年10月である。」とか (余分な情報が多過ぎる。「1981年10月に登場した」「「埼玉県の吉田くん」考案」「超人大全集」「地獄のシンフォニー」は省いていいだろう)、pp.112の伊藤氏の「藤本弘*の天才ぶりをこれ以上ないくらいに示しているとも言えよう」とか (わざわざ有名でない本名の方で書く必要がない。ページ下部にある「*」の注釈で「言わずと知れた藤子・F・不二雄(*1933―†1996)とドラえもんのことである。」というように種明かし的な二度手間を取っている。藤本弘の名を出す必要があると思ったとしても、普通は「藤子・F・不二雄 (本名:藤本弘)」などと書くだろう)、p.114の松井氏の「たとえばなにかを仮定して解けないはずのナヴィエストークスを解けるようにする、とか、モアレフィルターなくして画質向上なら退化かも。いや、前者は違うな…。」とか (モアレフィルターはギリ分からなくもないが、ナヴィエストークスを一般人が知ってるはずがない。「たとえば」という例としてあまりにも不適切である。しかも後に「いや、前者は違うな…。」と言っており、違うと思うなら初めから書くなという話である。自分の知識や思考能力をひけらかしたいだけのように見える)、p.115の伊藤氏の「内臓(焼肉)で言うならば肺(フワ)や腎臓(マメ)が左右2つあることの方がまだ「増殖」の例と言えるように思う」とか (その直前で牛の胃袋が「増殖」でないということを言うために、焼き肉でもミノとハチノスは触感が違うという話をしていた後の発言だが、ここでは肺と腎臓は左右で同一と言いたいのだから焼肉における名を書く必要がない。よってただの知識自慢である) が例として挙げられる。
まだまだ例はたくさんあるのだが、これだけ見ても伊藤氏が太刀川氏のことを衒学的と批判できる立場ではないことが分かっていただけるだろう (他者を批判するのに自分の立場は関係ないという考え方はあるが、一般社会では受け入れにくいのが事実である。また仮にその主張を受け入れたとしても、先ほど説明したようにそもそも太刀川氏のはあまり衒学的とは言えないものであり、それに対して上記のような明らかな衒学的発言をする伊藤氏が批判するならば、こっちは「おいおい」と言いたくもなる)。
なお「(しかもそれがほとんど誤っているというのがさらにややこしいのだが)」に関しては、ここまで本稿において指摘してきたように、批判集における批判には著者らの生物進化等に関する理解不足や単なる読解力不足による誤ったものも多いので、ほとんど誤っているというのは言い過ぎだろう。
| そもそも適応は進化学で使われる言葉だ。僕はデザイナーだが適応と
| いう概念には深い思い入れがある。なぜなら適応は、生物が環境の中
| で美しく機能的なデザインへと進化した現象のことだからだ。〔中
| 略〕そんな僕にとって気候変動への適応策も進化から学ぼう、という
| 発想はごく自然なものだった。
| 昨年度、僕たちは環境省のサポートを受け、気候変動適応策の戦略を
| デザインした。有識者のラウンドテーブルには生態学者や防災学者な
| ど、各分野を代表する約10人の英知が集まり、深い対話がなされ
| た。そして生物の身体と行動の適応進化から、気候変動に適応した都
| 市コンセプトを抽出するADAPTMENT(アダプトメント)とい
| う考え方を3月下旬に発表し、世界に発信しようとしている。[151]
本書第2章の冒頭の説明にあるように、進化学における「適応」とは動詞ではなく「進化の結果生じた性質のことを指す」のである。したがって、「気候変動への適応策」の「適応」は進化学における「適応」ではない。進化学での「適応」は英語では「Adaptation」であるが、ここでは「ADAPTMENT」という言葉を造っており、少なくとも英語では進化学とは無関係の別概念だとわかる。
※本稿執筆者注:引用部に傍線「|」が付いているが、ここは『進化思考』からの引用ではないので、おそらくミスであると思われる。
💜何度も指摘してきたが、ここで伊藤氏が主張している「進化の結果生じた性質のことを指す」という「適応」の定義は複数ある適応の定義の中の一つに過ぎない。「気候変動への適応策」というのは厳密に生物進化における「適応」と同一でないのは確かだが、非歴史的定義やプロセス的定義を取るとき、アナロジーとしてはある程度意味を持つだろう。
また、直前に生物学における「適応」について言及しているものの、そもそも「気候変動への適応策も進化から学ぼう」という文単体を見たとき、ここにおける「適応」はふつう日常語における「適応」と取るのが自然である。したがって、もしその日常的な意味で太刀川氏が「適応策」と言ってたのであれば特に問題はないだろう。とはいえ、生物用語と日常語の混用は紛らわしいというのは確かではある (ただ、ではどう表現すべきだったかというと、しっくりくるものはあまりなさそうな気がする。一応「順応策」とかはいけそうではあるが、やはり「適応策」のほうが一般に馴染みがあり分かりやすい気がする。「適応策」と書いた後に違いについて補足するのが一番良いかもしれない)。
批判をするにあたって、批判をする対象は言動そのものであるべきで、人格であってはならない、とはよく言われることである。また、誰が言ったかではなく何を言ったかが重要だ、ともよく言われる。だがこの二つは微妙に違う。
言動の批判は、そもそも誰の言動かが問題になることが多く、言動だけを切り離すことが難しい。例えば我々が『進化思考』を批判する動機の一つに、太刀川が公益社団法人であるJIDAの理事長という官民問わず影響力のある立場にあり、2025年の大阪万博にも関与し、『進化思考』が多くの人に読まれているから、ということが挙げられる。無名のデザイナーによる少部数の本であればわざわざ相手にしていなかっただろう。
同様に私が『進化思考批判集』を批判した動機は、博士号持ちの研究者らがビジネス本を批判するという構図が、それなりの影響力を持つと思ったためである。
誰が言ったかは、その言説の「信頼性」に影響する。説得力と言っても良いかもしれない。我々が著者プロフィールに博士と書いて専門性を有していることを示しているのも本書の「信頼性」を高めるためである。
💛しかし残念ながらここまで指摘してきたように、この批判集は博士号を自負できるような内容になっていない。生物学的にも文章読解的にも誤った指摘が数多く存在する。博士号という権威性によって数多くの読者が間違った説明を信じてしまうことだろう。
そもそも「専門性を有している」と言っているが、松井氏と伊藤氏は生物進化および生物学一般は専門外なのではないだろうか?p.9の記述を見るに、伊藤氏は修士にて植物の研究をしていたらしいが動物 (および生物進化?) については別に専門ではない。また松井氏は文化進化に関する研究をしているらしいが、生物学一般については専門外であるようだ。別に専門外のことは何も言ってはならないとは思わないし、正しいことを言ってるならば別にいいのだが、ここまで指摘してきたように間違った説明があまりにも多過ぎる。批判するならそれなりに調べて確実的なことを述べて欲しい。「博士号」が不正直なシグナルとして働いてしまっている (博士号は専門外に関する主張まで保証するものではないが、普通の人はその権威性にやられて専門外の話も信用する)。
なお、林氏は正真正銘生物学 (進化・生態・分類) が専門のようなので (p.9参照)、第二章における彼の主張を多くの人が無批判に信用してしまうことだろう。
だが、その「妥当性」、確からしさはまた別だ。「信頼性」が高い研究者の集まりである学会では、誰が書いたかわからない無記名の状態で論文の査読が行われ、その内容の「妥当性」が評価される。国家資格である医師の「信頼性」は一般的に高いと考えられるが、その所見の「妥当性」は必ずしも同じではない筈で、同じように「信頼性」が高い別の医師にセカンドオピニオンを求めることも少なくないだろう。
💛この批判集は2023年12月15日に発刊されており、twitter (現X) において『進化思考』を批判する人々の間で大いに受け入れられ読まれていたように見えるが、現在2025年5月8日においても、批判的な意見は私が調べた限りでは一切存在しない。リツイートや感想を述べているアカウントには大学教員などの専門家のアカウントも多数存在していたが、彼らも特に批判的意見は述べていない。彼らが批判集を本当は読んでいないのか、それとも読んだ上で問題点を見つけられなかったのか、問題点を見つけたけど敢えて黙っていたのかは分からないが、この間違いに溢れた批判集の「妥当性」をきちんと評価して記す必要があると思い、私はここまで長々と批判し続けてきた。
無意識のうちにしてしまいがちなのは、「ポジティブな人格批判」とでも呼ぶべきものである。ネガティブな人格批判、人身攻撃は不適切だと気付きやすい。ところが、これが逆の場合はどうだろう。間違いのないようにしたいと発言しているからといってその人の言説の妥当性には直接は関係がないし、真剣だからといって、社会のため、未来のため、というスローガンを掲げているからといって、その人の言説の妥当性には直接関係がない。これらは人格を高評価したことでポジティブなバイアス、いわゆる「光背効果halo effect」がかかってしまっているのである。
💜この批判集に関しても同様である。批判集の商品説明には「山本七平賞を受賞した巷で話題の本『進化思考』の疑似科学を徹底的に検証。日本インダストリアルデザイン協会最年少理事長の衒学的物言い、論理の破綻、目に余る不勉強に対してデザイン界と進化学界から3人の博士が立ち上がり、一刀両断。自分の得にはならない、だが誰かがしなければならない、雪かきのような重労働。」と書かれているが[3]、このように自分の得にはならないけど、社会のために自ら立ち上がり、雪かきのような重労働を頑張ってしていたとしても、これは批判集の内容の妥当性には直接関係ない。しかし、専門知識が大してない人はこういう文脈を受けて、批判集の内容を無批判に受け入れてしまうだろう。
第三節である「Ⅲ 文化進化学とデザイン」 (第7, 8, 9 ,10章) には『進化思考』への直接の批判がないので、本稿では取り扱わない。
あとがき (松井 実)
本書は無査読なので、学術書よりも同人誌に近いと私は捉えている。そのため残念ながら厳密なファクトチェックはなされていない。林が執筆した2章は例外で、複数の進化生物学者がコメントをしている。
💜「同人誌」と言うことでハードルを下げているようにも見えるが、少なくともビジネス書である『進化思考』よりは学術的な正確性が強く求められる本である。
なお、あの第2章が複数の進化生物学者によるチェックを通ったものというのは正直驚きである。生物学的にも、論理的にも、文章読解的にも。
こちらも内容的にはいくつもしくじったところがあり冷や汗ものだが、「デザインの進化を論じたければ、進化思考ではなく、地味だがこういう方法があるよ」と示せればと思っている。10章冒頭の内容は7章の抄訳なので、再掲されている図がいくつもある。
太刀川氏の主旨は結果物としてのデザインの進化というよりは、創造的な思考が持つ進化「的」な性質にあるように見える。よって、松井氏が云うそれと比較できるものではない気がする。
デザイン学を研究する功利的な動機は、『進化思考』のような粗悪なデザイン学による推論から我々を守ることにある。輝かしい業績を残してきた他分野と比較すると見劣りする動機だが、それしかないし、なにもないわけではない。
デザイン学については詳しくないが、太刀川氏が主に言いたいことは認知心理学的な方向の話のように見える。
本書がどなたかの文献リストに信頼できる参考図書として掲載されることを夢見ているが、文献リストに限らず、本書の内容に疑問や認識の間違い、改善を要する点があれば批判をお願いしたい。
当初の想定よりもはるかに長編の記事になってしまったが (そして同時に莫大な時間も)、それなりの内容にはなっていると思う。
終わりに (これは本稿の)
読み始めた当初は、10個くらい誤りが見つけられれば良い方かなと思っていたが、結局引用込みで20万字超えの記事になってしまった。言いたいことは既に述べてきたので、ここでは全体の総括を軽く行う。
まず結論から言うと、この批判集には大いに問題があると感じる。『進化思考』の科学的妥当性を検証するという心意気は一応評価できるし、実際妥当な批判もそれなりにあるのだが、ここまで長々と指摘したように生物学的・論理的・文章読解的に誤った批判が余りにも多過ぎる。この批判集はデザイナーが書いたビジネス本を博士号持ちの研究者が批判するという構図の本であり、そういった権威性や功労的文脈は一般人に批判集の内容を無批判に受け入れるバイアスを与える。したがって、こういった本では情報の正確性がより求められるのだが、残念ながらこの本はそれを十分に満たす出来になっていない。
また、生物学的・論理的誤りについてはシンプルに能力不足という話で終わるのだが、本書は特に文章読解的誤りが酷いと感じた。これも基本的には能力不足という話ではあるのだが、それとは別に読み方にかなりバイアスが入っているように感じた。すなわち「太刀川氏は典型的な進化の誤解を起こしている」「太刀川氏が進化についてよく理解していないことにしたい」「太刀川氏の主張はそもそも考慮する価値のないものである」「太刀川氏の主張を既存の文化進化の話に落とし込みたい」などといった認知バイアスが文章読解に強く効いているように感じた。というのも、そういったバイアスが効いていなければ普通起こらないようなレベル・質の誤読や決めつけが数多く存在していたからである。文章をよく読まずに、見えた一部の単語や文から想起される「よくある誤りパターン」や「自分が知ってる理論」に太刀川氏を安易に当てはめて批判や理解をしたつもりになっていることが非常に多いように感じた。そしてそういったバイアスの入った読みというのは批評者及び研究者として極めて不適切なものである。(なおこういったバイアスの入った読解・理解はこの批判集の著者らのみでなく、X (旧Twitter) で批判している多くの人々 (アカデミア含め) にも当てはまる気がする。自分の頭で良く考えずに既存のパターンに当てはめることは楽であるし、お手軽に相手を貶めることは「娯楽」ともなり得るのだろうが、知的誠実性に照らして褒められる行為ではない)。
そしてそのバイアスゆえか批判者の著者らはその誰一人として太刀川氏の主旨を読み取れていないように見えた。太刀川氏の主旨は「創造は無意識的な認知現象であるものの、適切に鍛錬を積めばそれをある程度意識的に行う (または無意識的過程を意識的にドライブする) ことができるのではないか?そしてその無意識的な認知現象である創造が進化的な要素を持つならば、進化のアナロジーが創造の意識的実行や意識的ドライブのために役立つのではないか?」というものであると普通読める思うのだが (批判集から断片的にしか情報を得ていない私ですら読めた)、「太刀川氏は進化について誤解している」「そして進化について誤解しているから彼の言ってることは全て無茶苦茶である」などといった認知バイアスが適切な読みを妨げている、またはそもそもまともに読む気がないように見えた。また、少なくとも松井氏と伊藤氏に関しては実はこの「答え」を既に読んでいたはずなのだが、それが批判集の内容に全く反映されていない。詳しく説明すると、松井氏と伊藤氏が「『進化思考』批判–文化進化学と生物学の観点からの書評と改訂案–」[17]を出した後に、「『創造性の誤解を解く鍵としての進化論』」[54]というnote記事を太刀川氏が書いており、そこでは「創造は、普通は個人の意思による行為だと思われています」「もし創造性が進化的な構造なら、必然(適応)と偶然(変異)には意思がなく、繰り返されれば極論、意思がなくても発明はできます」「ただ「意思のない創造」のループ構造を意図的に往復する、という仮説と実践が、創造性の常識からはぶっ飛んでるので誤読しやすいと思います」というように先ほど私が説明した解釈と同じようなことが書かれている。
そして、松井氏はこの太刀川氏の記事を引用して「誤読者より」[55]というnote記事を書いている (なおこの「誤読者より」というタイトルは嫌みのつもりなのだろうが、本稿で指摘してきたように松井氏は数々の誤読を犯しているので、残念ながら単なる事実的記述になっている)。
また伊藤氏に関しても、批判集第6章p.234の「また、太刀川が「意見書」の撤回と同時に「批判者の皆さん」に向けて「納得がいかなければ、次はいきなり批判ではなく、質問してください」[137]という文章を公開したのを受け、昆虫の進化発生学を専門とする静岡大学の後藤寛貴博士がTwitter上でこう質問した。」において件の太刀川氏の記事を引用している ([137]がそれに該当する)。
したがって、松井氏と伊藤氏の両者とも件の太刀川氏の記事自体は閲覧していると言っていいだろう。しかし、以上述べたように太刀川氏が記事で述べている本旨的主張は批判集の内容に全く反映されていない (主張に同意するかどうかはおいておいて、主張内容そのものが一切触れられていないor考慮されていない)。読んだけど理解できなかったのか、理解できたけど何となく触れなかったのか、理解できたけど不都合だったので敢えて触れなかったのかは分からないが、もし敢えてスルーしていたのだったらだいぶ問題だろう。(また、はっきりとは断言できないが、もし以下の林氏のリプライ[56]における「進化思考著者の反論」というのが「『創造性の誤解を解く鍵としての進化論』」であるならば (「『創造性の誤解を解く鍵としての進化論』には「とある進化生物学者のコメント」のリンクが貼られている)、林氏も同様に太刀川氏の記事を読んでいることになり、そこで述べられている太刀川氏の主旨に関して批判集で一切触れていないor考慮していないことの問題性が問われるだろう)。
進化思考著者の反論の中でリンク貼られてますよ。是非読んでみてください。
— かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所 (@kamefuji) July 30, 2022
また、実はこの「『創造性の誤解を解く鍵としての進化論』」には以下のように「適応」の定義の複数性についても説明されている。
ただ本批判について細かく言えば、進化論の場合でも教科書の定義によって「適応」は結果のみならずプロセスを指す場合があるので、ここを軸に批判を立ち上げるのは、単語の解釈の違いがあるだけだと思います。ここに海外の教科書の定義を置いておきます。
適応 : 集団における遺伝的変化のプロセスで、自然選択の結果、集団
が何らかの環境に適した状態になったと考えられること。
(Futuyma, D. & Kirkpatrick, M. Evolution (forth edition). Oxford
University Press, 2018).
※本稿執筆者注:字下げ部分 (「適応 : 集団における…」以降) は原文での引用部分 (背景が灰色になるnoteの引用システム) を指す。
しかし、批判集ではこれが一切反映されておらず、p.20では松井・伊藤の連名で「二大テーマのもうひとつ「適応」も間違って使われている。自然選択と適応は密接に関連するが別のプロセスで、自然選択によって適応が生じるが、当書では二者が混同されているうえ、~(後略)~」, P.125では松井氏が「意味がわからない。進化学における適応は自然選択の結果生まれる環境への適応のことであって、適応によって自然選択する、というのは…何を意味しているのだろう…? よくいって怪文である」、p.241では伊藤氏が「本書第2章の冒頭の説明にあるように、進化学における「適応」とは動詞ではなく「進化の結果生じた性質のことを指す」のである。」と言っている。これに関しても、件の太刀川氏の記事の当該部分を読んでないのか、読んだけど理解できなかったのか、理解できたけど不都合だったので敢えて触れなかったのかは分からないが、もし敢えてスルーしていたのならばそれは知的誠実性を疑われる行為である。また同様のことを林氏も犯しているとp.61の部分で説明したが、このように著者3人全員において自身の主張に不都合な情報が触れられていないのを見るに、おそらく当該部分を読んである程度は理解したものの、「太刀川氏が間違っているに違いない」という強い認知バイアスが不都合な情報を見えなくさせたか、またはあれだけ自信満々に批判した手前収集がつかなくなり意識的にスルーしたかのどちらかであるように私には見える。そしてそういったことをする者は研究者としての信頼性を大きく失うだろう。
そういう訳で、林氏がp.62で「思い込みの発生だ。思い込んでしまうと、わかったつもりになって、実はわかっていない自分に気づかなくなる。だから自分とは違うモノの見方をする人を見ると、相手が間違っていると考えてしまう」(『進化思考』p.207) という太刀川氏の文を引用した上で、「ここに書かれたように、著者が積み重ねてきた進化に関する固定観念を見直し、「 自分だけの思い込みを外す」ために進化生物学をきちんと学びなおしてほしいと切に願う」(p.63) と皮肉的に述べていたが、私からすれば思い込みが発生しているのはむしろこの批判集の著者らであるように思える。なぜなら以上述べたように、自己にとって不都合な指摘を受け入れずに自分が正しいと言い続けているように見えるからである。
また、攻撃的・皮肉的表現の数々も批判集の問題点の一つである。「詐欺的商法」(P.61)、「太刀川進化」(P.63)「進化をはじめとした難しくて巨大な概念を、よく読むと意味のわからない、短くてそれっぽい言葉で断定的に決めつけることに魅力を感じる読者むけの本であることは重々承知しているが…」(P.124)、「疑似科学は20歳になってから」(P.127) 、「遺伝子を遺伝児と書く人がいたら「どちら様?」という反応をされると思う」(p.168) などといった表現を見るに批判集の著者らはまともに対話する気がないように見える。一体彼らは何のために批判集を上梓したのだろうか?もしこういった攻撃的・皮肉的表現をして向こうから快く返答が返ってくると思っているのならば、残念ながらコミュニケーションに難ありなので、いろいろ基本から見直した方がいい。また太刀川氏に向けて書いたつもりは特になく、攻撃的・皮肉的表現は単なる「快楽」に基づいたものであるならば、それは人の嗜好なので特に否定はしないが、そういった発言を不快に思う人はそれなりにいるということだけ述べておく。
また、あれだけ攻撃的・皮肉的に批判しておいて、彼ら自身も生物学的・論理的・文章読解的な誤りを多量に犯しているのが本当に始末に負えない。「適応」の定義云々に関しては、まさに「夏の虫氷を笑う」だろう。
また上記に比べれば些細な点ではあるが、林氏と伊藤氏には特に断りなく引用に下線を追加しているという嫌疑がかかっている (少なくとも林氏に関しては引用先の確認が取れた2例においては嫌疑ではなく確実にそれを犯している)。引用を無断で改変してはならないというのは一般人でも知っているマナーなのだが、もしそれを博士号持ちの研究者が本当に犯しているとすれば、「おいおい」という感じである。些細な点に関して便宜的に改変や省略を行うくらいなら無断でしてもギリセーフだと思うが、下線という強調を意味する記号を勝手に無断で加えるのはアウトだろう。
以上のようにこの批判集には様々な点で問題がある。そしてこれだけの問題が存在するのに、批判的評価がほぼ見当たらないのも結構問題であると感じる (ちなみに「ほぼ」というのは1件だけ生物学者の森中定治氏の個人ブログに批判的記事があったからである[57]。しかしこれは個人ブログのため拡散性は低く、そしてこの記事の他には一切見当たらない)。そもそも批判集の閲覧者がそれほど多くないというのはあるとは思うが、レビューサイトに批判的意見が無いのはもちろん、X (旧Twitter) を見てもそうである。もしかしたらFacebook等他のSNSでは批判的議論が行われているのかもしれないが、少なくともX (旧Twitter) では大学教員含めそれなりの数の人が批判集に対してリツイートやコメントをしているので、その中で批判的意見が無いのはやはり問題がある気がする。彼らが、実は読んでいないのか、読んだけど問題点を見つけられなかったのか、問題点を見つけたけど黙っていたのかは分からないが、これだけ誤りを含む本に対して肯定的意見ばかり並ぶのは正直言って異様だ。読んだけど問題点を見つけられなかったのであれば、結局そのレベルの人が騒いでいたということであるし、問題点を見つけたけど黙っていたのであれば批判側に自浄作用がないとも言える。
また議論の活発さから言えば、松井氏の学界発表[58]、松井氏.・伊藤氏の「『進化思考』批判–文化進化学と生物学の観点からの書評と改訂案–」[17]、林氏の「『進化思考』における間違った進化理解の解説」[18]といった初期の頃の方が盛り上がっていた気がするが、当初から松井氏らに対する批判的な意見はかなり少なかった (当時の流れについては以下のサイト[59][60] がよく整理されていて分かりやすい)。
色々見ていくと批判的意見も多少はあったようだが、少なくとも生物学的な正誤について指摘している大学教員・専門家は少なくともX (旧Twitter) にはいないように見えた (もしかしたら一般人アカウントを装った人もいたかもしれないが)。特に林氏の「『進化思考』における間違った進化理解の解説」は批判集第二章の前身であり、そのため本稿で指摘した以上に穴があるのだが (例えば、「道具の進化と人間の進化は独立であり、「道具の進化によって人間が進化する」とはなりません。」とか (批判集では独立に関する記述が消えている)、「生き残りやすい有利な性質を持つことを「適応」と呼ぶ」とか (批判集では「適応」が「適応的」と訂正されている)、「性選択の結果、生存に不利とも思えるような極端な形質が進化した場合をrunaway process と呼んでいる」とか (批判集では「極端な形質が進化した場合を」が「極端な形質が進化しうるメカニズムを説明した仮説のひとつを」と訂正されている))、内容に関して指摘している大学教員・専門家は見当たらない。例えば、生物系大学教員と思われる「Hiroki Gotoh@静大5年目」(@Cyclommatism) 氏は「かめふじさんの渾身の解説。ほぼ全面的に支持します」というようにほぼ全面的に支持している [61]。他にも肯定的な (特に否定的意見を述べていない) 生物系研究者・専門家 (と思われるアカウント) は多数いる[62][63][64][65][66][67][68][69][70][71][72][73][74][75]。そしてX (旧Twitter) 以外も含めた場合、私が探した限り (前述の通りfacebook等はチェックできていない) 唯一生物系研究者・専門家で批判的指摘をしているのが、上で出てきた「とある進化生物学者からのコメント」[19]を書いた人なのである (林氏のツイート[20]によると国立大進化生物学教授らしいが真偽は不明)。批判的意見を述べていない彼らが、林氏のブログをちゃんと読んだのか、読んだけど問題を見つけられなかったのか、問題を見つけたけどスルーしたのか、いずれなのか分からないが、結局読んだけど問題が見つけられなかったのであればその程度の人が騒いでただけということだし、問題を見つけたけどスルーしたのであれば学問的誠実性に欠けるということであろう。またこの「スルー」というのも、「些細な点だと思ったのでスルーした」「割と問題だと思ったが林氏を慮ってスルーした」「林氏の記事に対して否定的主張を述べることで『進化思考』積極的擁護者であると思われることを回避したかった (これは主に同業者に)」「林氏の記事への否定的主張を見た一般人が『進化思考』に一切何も問題が無いと勘違いする可能性を回避したかった」などといった様々な詳細理由が考えられるが、ここで一つ思ったのは、X (旧Twitter) といったようなSNSは学問的な批判空間としてはまともに機能しないのではないかということである。伊藤氏はp.243で以下のようにtwitterが批判空間として適切であると言っていたが、
もっと簡単に言ってしまえば、知人友人を批判するのは難しいのだ。その点、第三者が当事者と関わらずに批判をしやすいTwitterは適当な場のように思う。
リアルタイムで双方向性があるのがネット(正確にはWeb2.0)の利点であり、また集合知、特に専門家による集合知が得やすいという点で、炎上リスクを差し引いても言論空間としてのネットの優位性は揺るがないように思う。本章の題名として掲げた「どこで批判をするべきか」という問いに対しては、いささか凡庸な答えではあるが、やはり「ネット上でするべき」ということになるだろう。これまで見てきたように、ネット上でもSNS、特に日本ではTwitterに勝るものはないように思われた。2ちゃんねるにも特に初期(2000年代)には少なからぬ数の専門家がいたと思われる*が、「板」やスレッドごとに分断されていた。Twitter(や他のSNS)が優れるのは、同一タイムライン上に多くのユーザーの投稿やニュースの引用など様々なものが表示されることで、他の属性(クラスタ)の人、他の領域の専門家と交わりやすいという仕組みである。
①そもそも集まって来る人に偏りが存在するというのと、②ある程度個人とアカウントが紐づいていることより批判的主張がしにくい、という2点が合わさっていわゆるデジタルバブル的な空間が形成されやすいような気がする。②は実名および個人が容易に特定可能な運用をしているアカウントではもちろんそうだし、その他のアカウントであってもアカウント一般が持つアイデンティティ性が割と効いてくるような気がする。したがって、忖度・自己保身・誤った情報伝播の回避などといった観点から無難な感想・意見・主張が大部分を占め、そして単に些細な問題だと思ってスルーしたこと含めて、そういった非否定的な主張の集積がある一定方向にバブルを増大および強固にさせていくように思われる。そしてそういった言論空間はもちろん批判空間として適切なものではないだろう。(なお、twitterの上限文字数が無料アカウントでは140文字というのも、諸々の誤解を回避する方向にツイートを寄せさせる要因であるように思われる)。
なお林氏は件のブログ記事で「あのヒトのお墨付きがあるから僕の理解は大丈夫なんだ、というのは学問という場でのふるまいとして端的にくっそダサいという感想しかないのですが、まぁそこはいいでしょう」と言っているが[18]、彼は批判集出版後に以下のようなツイートをしている[76] 。
進化思考批判集、師匠から一ヶ所ツッコミが入ったけどだいたいよろしいというおホメの感想が来てとても安心している。これでもうこの件についてやり残したことはない。マサカド思考はもう知らん。あとは任せた。
— かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所 (@kamefuji) December 19, 2023
「とある進化生物学者からのコメント」[19]における指摘箇所を碌に訂正せずに、「師匠」からおホメをもらったからといって安心してこの件を〆るというのは、「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」を重視する権威主義に見えるのだがどうなんだろう。そもそも太刀川氏は生物の専門家ではないので専門家の意見を重視したがるのはしょうがないと思うし、実際一般に確証性なんてものは基本的に最後には権威に拠らざるを得ないと私は思っているのだが、仮にも研究者であり主張の良し悪しを自己で判断できるべき人間が「何」よりも「誰」を重視するのはだいぶアウトではないだろうか?それとも林氏は私には妥当に見える「とある進化生物学者からのコメント」の指摘の数々を、全て否定し切れると判断したということなのだろうか?
さて、だいぶ長くなってしまったが、最後に本書の初めの部分に戻るとする。
もうひとつは現代的な進化学を学び直し、科学的に妥当な表現に書き直すという道だ。著者の進化の理解は残念ながら全面的かつ完全に間違っているため、科学的な妥当性への疑念は我々が指摘した[5]ような変更を施しさえすれば解決できる水準では決してなく、当書のほとんどを書き直すことになるし、客観的な事実のみをもとに論を構築すれば第一版のような個人的なメッセージを伝えるのは難しくなるだろう。
これを初めに読んだとき、私は別に全面的にも完全にも間違ってはいないような気がしていたが、今こうやって全編読み終わった後もその考えは特に変わらない。むしろ全面的に間違ってるのはこの批判集の方ではないかとすら思う。確かに太刀川氏の進化理解及びその援用に怪しいところや誤りがあるのは事実なのでその訂正は必要だが、それらは彼の主張の骨子を大きく否定するものではない (なお一応補足しておくが、私は太刀川氏の本旨が科学的に正しいor支持されるとは一言も言っていない)。一方、批判集で何度も繰り返されている主要な批判には非妥当なものが数多く存在する。著者三人全員が繰り返し述べている「適応」への指摘は完全に間違いだし、第二章で林氏が述べた適応以外の主要な3つの指摘 (p.61,62) もどれも的外れである。また進化以外に関しても誤読が多量に存在し、太刀川氏の主旨を全く読み取れていない。
進化的に誤った部分を訂正するという志及びそれを実行した点では評価できるが、現状では「杜撰な本」と言わざるを得ないだろう。そしてその内容の訂正は『進化思考』のそれと同等程度に大変であると思われる。まずは自身の瑕疵を認めるところからだが。
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「方法」, デジタル大辞泉, 小学館, webilioにて2025/6/8閲覧
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2023/12/24)「最初の方で「創造性」が「創造力」に変わってたところがあって、多分全体を通して多少は改善されて読める文になっているだろうとは思われたけど。
『進化思考批判集』の5章は卒論書いてて先生に「文章が論理的なじゃない」と指摘された学生の役に立つんじゃないかなと思って書いたところもあります。」, X, https://x.com/itojundesign/status/1738585761107316771かきのね@hmn38n (2025/4/10)「あと他の批判者のツイートにて以下の画像のような記述を見たので、ベイツ型擬態(とランナウェイ仮説)については別におかしくないのではないかと思い、批判集の該当部分を読みましたが、普通に不適切な批判だと思いました。」, X, https://x.com/hmn38n/status/1910139356788240780
進化思考 (2022/7/28) 「『創造性の誤解を解く鍵としての進化論』」, note, https://note.com/shinkalab/n/n767884b40a54
松井実 (2022/7/28)「誤読者より」, note, https://note.com/xerroxcopy/n/n1c266544f43b
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2022/7/30)「進化思考著者の反論の中でリンク貼られてますよ。是非読んでみてください。」, X, https://x.com/kamefuji/status/1553278970593828864
森中定治 (2024/10/25)「太刀川英輔著『進化思考[増補改訂版]』を読んで」, 森中定治ブログ「次世代に贈る社会」, https://blog.goo.ne.jp/delias/e/c3269509e2d03e10ee71be77037f5956
Minoru Matsui (2022/6/26)「『進化思考』批判 日本デザイン学会第69回春季研究発表大会」, YouTube, https://www.youtube.com/watch?v=iFAO_-PSxDI
shokou5@shokou5 (最終更新2022/8/2)「太刀川英輔『進化思考』と,デザイン学/生物学研究者らの批判,著者からの応答など.」, posfie, https://posfie.com/@shokou5/p/TDaMteq
「太刀川英輔『進化思考』を巡る論争のログをやっと読み終わったので個人的なまとめ」, Days of TRICKS, (2022/8/3), https://sdtricks.net/home/?p=7437
Hiroki Gotoh@静大5年目@Cyclommatism (2022/7/21)「かめふじさんの渾身の解説。ほぼ全面的に支持します。 「進化」って言葉を専門用語として正しく理解している人って本当に少なくて、生物学者でも誤った理解をしている人が少なくありません(むしろ多数派かもしれない)。」, X, https://x.com/Cyclommatism/status/1550093990846148609
阿部真人|Masato S. Abe@a_symap (2022/8/16)「「進化思考」批判ブログを執筆したかめふじさん@kamefuji には頭が上がらない。あれだけ時間かけて調べて書いたって1円も入らないわけで。彼にあるのは進化の正しい理解を広めたいという思いだけですよ。(ほしい物リストが公開されていたので応援のためAmazonギフト券を贈った)」, X, https://x.com/a_symap/status/1559538711661907968
Tetsukazu Yahara@TetYahara (2022/8/1)「『進化思考』は以前に購入してページをめくってみたが、そっとページを閉じた。進化についてに多くの記述が不正確であることに加え、創造性研究という研究分野の先行研究がほとんど参照されていない。先行研究に対するリスペクトと理解抜きに自説を展開した本は、私にとっては価値がない。」, X, https://x.com/TetYahara/status/1553859229110321153
Sakaguchi Yukitoshi@Sakaguchi920 (2022/8/20)「メタ的に見て、社会としてこういった一般書にどこまでの科学的正当性を期待するべきかの議論は面白そう。科学的言説にこだわって8割方のビジネス書を出版停止に追い込むのか、それとも一般書なんだからと、単なる「宗教」なんだと割り切るのか。」, X, https://x.com/Sakaguchi920/status/1560745296455692288
H. Tanaka@Hayato_1117 (2022/7/21)「とても勉強になる解説。
それにしても、よくここまで丁寧に解説できるなぁ。本は読んでないけど、引用されている部分だけで発狂しそうになる。」, X, https://x.com/Hayato_1117/status/1550112035161092096Shohei Takuno@ShoheiTakuno (2022/7/22)「すごい読み応えのある記事やった。適応っていう言葉をちゃんと使いたい人は読むべし。」, X, https://x.com/ShoheiTakuno/status/1550348228054650880
Eiji Domon/ Bernardo Domorno@Dominique_Domon (2022/7/31)「ウムウムとうなずきながら読んだけれど、これを読むとお金を払って原典(『進化思考』)にあたる気がしなくなるのである。」, X, https://x.com/Dominique_Domon/status/1553610095258324994
Katsushi Kagaya@katzkagaya (2022/7/21)「思い出すのは、脳の「活性化」ですが、ここでは「適応」が主。教育的価値のある投稿、ありがとうございます。」, X, https://x.com/katzkagaya/status/1550106191933476865
深野 祐也@Alien_Evolve (2022/7/22)「お疲れ様です。某面接で「それは進化なの?適応じゃないの?」と言われたことを思い出しました。 この本、私も少しだけ読みましたが、著者のアイデアは自然選択による進化の枠組みではなく、文化進化の枠組みにきちんと乗せた方がよかったのではないかと思っています。」, X, https://x.com/Alien_Evolve/status/1550278908049649664
Ryusuke Niwa@TsukubaNiwaLab (2022/7/24)「素晴らしい力作。」, X, https://x.com/TsukubaNiwaLab/status/1551144632314015744
佐伯恵太@Keita_Saiki_ (2022/7/22)「本当は専門家でも理解するのが大変なのに、表面上キャッチーなテーマというのは、扱うのが本当に難しいです。科学を利用するのであれば、科学に誠実でなければならないと思います。科学の知識や理論を、誰のために、何のために使うのか。」, X, https://x.com/Keita_Saiki_/status/1550325367826956288
Takefumi Nakazawa@Take_Nakazawa (2022/7/21)「おつかれ」, X, https://x.com/Take_Nakazawa/status/1550093036621021187
ら@mutselbalance (2022/7/25) 「社会的意義が大きい」, X, https://x.com/mutselbalance/status/1551465235239686144
勝川 俊雄🐬@katukawa (2022/7/31)「面白かった。
進化は、生態系の多様性の源泉のメカニズムなので、多くの研究者の関心が注がれてきた一方で、ポケモンの進化のように、誤用が多い概念でもある。一般人ならいざ知らず、他人にものを教える立場なら、正しく用語を使うべきですね。」, X, https://x.com/katukawa/status/1553614978674225152Toru Miyamoto@toooochan0514 (2022/7/24)「やっと読み切った。渾身の記事でした。」, X, https://x.com/toooochan0514/status/1551098486493696000
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2023/12/19)「進化思考批判集、師匠から一ヶ所ツッコミが入ったけどだいたいよろしいというおホメの感想が来てとても安心している。これでもうこの件についてやり残したことはない。マサカド思考はもう知らん。あとは任せた。」, X, https://x.com/kamefuji/status/1737040055032774794
更新履歴
気が向いたら誤りの訂正や補足、追記を行う可能性あり。
歴代のバージョンの魚拓をここに置いていく。
バージョン1.0.0 (2025/6/11):【魚拓】『進化思考批判集』批判|persimmon
バージョン1.0.1 (2025/6/12):閲覧方法に関する追記を最初に追加