【試し読み】精読・涼宮ハルヒの憂鬱/溜息/消失
※このコンテンツは、2024/12/29発行の非公式考察同人誌『精読・涼宮ハルヒの憂鬱/溜息/消失 ~非公式考察本シリーズ 総集編①~』の試し読みページです。
同人誌は各書店にて展開中です。もし試し読みで興味を持ってくださった方は、ぜひ購入リンクまとめページを覗いてみてください。
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はじめに
初めましての方は初めまして、そうでない方はこんにちは。小説「涼宮ハルヒシリーズ」のファンサイト・涼宮ハルヒの覚書の管理人兼アニメライターのいしじまえいわと申します。この度は『精読・涼宮ハルヒの憂鬱/溜息/消失~非公式考察本シリーズ総集編①』を手に取ってくださり、誠にありがとうございます。
弊サークルJoat Lab.(ジャットラボ)では、これまで角川スニーカー文庫および角川文庫から刊行中の小説『涼宮ハルヒの憂鬱』(以下、『憂鬱』、他シリーズも同様に表記します)をはじめとする「涼宮ハルヒシリーズ」を読解、考察した本を刊行してきました。本書は弊サークルの本『精読・涼宮ハルヒの憂鬱~非公式考察本シリーズvol.1』『精読・涼宮ハルヒの溜息~非公式考察本シリーズvol.2』『精読・涼宮ハルヒの消失~非公式考察本シリーズvol.3』の三冊を一つにまとめたものです。二〇二四年版ということで、内容も少し手直ししています。
これまで「涼宮ハルヒシリーズ」各巻毎に一冊ずつ考察本を出してきましたが、この度ついに総集編となる本書を出すことができました。これもひとえに多くの方に本を手に取っていただいたからです。誠にありがとうございます。
『精読・憂鬱/溜息/消失』は、その名の通り「涼宮ハルヒシリーズ」の長編シリーズをそれぞれ考察した本になります。『憂鬱』に関しては元々スニーカー大賞応募作であり単発作品だったため本書でもシリーズから切り離した考察を行っていますが、『溜息』『消失』についてはシリーズ全体の物語に即した考察となっています。本書を読んでいただくことで、「涼宮ハルヒシリーズ」がどういった内容のお話なのかを俯瞰していただけるのではと思います。もちろん考察といっても「この話はこういう話だ! それ以外の解釈は認めないッ!」といったものではありません。面白いと感じられたところは自分の作品理解に取り入れ、首肯しかねるところは遠慮なく切り捨てて、ぜひ自由なハルヒライフの足しにしていただけたらと思っています。
なお、本書の内容は『憂鬱』『溜息』『消失』を既読の方向けの内容になっています。まだお読みでない方は、これを機にぜひ「涼宮ハルヒシリーズ」を読んでみてください。きっと有意義な時間を過ごせると思います。
まえがきの最後に謝辞を述べさせていただきます。主にネットを介してわたしのハルヒ考察に付き合ってくださるハルヒ友達のみなさん。ゲストページにイラストでご参加くださった川角さん、タイキさん、くまくまさん、麺ねこさん、せんあめさん、もちょえるさん。『精読・消失』の原稿チェックに協力してくださった藤崎はるとさん、Yさん。本書のテキスト以外の全て(表紙イラストとか紙面構成とか、つまりほぼ全部)を作ってくれた嫁のたなぬ。そして何より素晴らしい物語とイラストを生み出し続けてくださる谷川流先生といとうのいぢ先生に、この場を借りて御礼申し上げたいと思います。いつもありがとうございます!
それでは早速本文に移りたいと思います。レッツゴー!
本書における考察レギュレーション
各書の考察に入る前に、この項にて本書で「涼宮ハルヒシリーズ」各巻の考察を行う上での決まりごとを定めておきます。少し長いですが、考察の前提になりますのでぜひ読んでおいてください。
なお、本書で定める考察レギュレーションはあくまで本書内で設定した考察テーマや目的に準じたスタイルの一つにすぎません。同じ方法が他の作品の考察に適用できるとは限りませんし、むしろ作品や考察の目的、方向性などによっていかに考察するかは変えた方がいいと思います。その点ご理解いただけますようお願いいたします。
また、本書における考察は各作品の内容に即した客観的、中立的なものを目指し、そうでない部分は私見である旨分かりやすく記述するようにします。そして、本書における考察は読者個々人の自由な読解を妨げるものではありません。むしろ作品を自由に楽しむヒントをそこから抽出していただければ幸いです。
①読解の仕方について
本書では、原則的に作中の記述には何らかの物語構成上の意味や効果があるという前提で考察を行います。つまり「作者がなんとなく書いただけだろう」「他の箇所と矛盾するからこれは無視しよう」という読み過ごしはなるべくしないようにします(注1)。
何故なら、本当に無意味な記述であれば作者と編集者によって刊行前に作品内から排除されている筈だからです。また、仮に本当に作者が意図を込めていなかった記述だったとしても、そういった意味を帯びる表現で世に出ている以上、その記述は作品全体の意味やメッセージを構成する要素の一つとして機能していると考えるべきだと私は考えます。
また、これまで本シリーズを考察した結果、実際無意味に思えるような記述にも作品テーマに関わる重要な意味が含まれていたことが多かったことも、本シリーズを論理的に読むべきだと考える理由です。詳しくは『精読・憂鬱』の第一章にて述べていますのでそちらをご覧ください。
注1 誤字などと思われる場合はその限りではなく、都度検討する。
②考察対象について
本書では各巻の本文に描かれている物語のみを考察対象とします。あとがきやカバー裏、奥付の記述、カバーイラストや口絵や挿絵等は基本的に考察対象にせず、参考に留めます。
インタビュー記事における谷川先生のコメント等も作品外の要素ですので、基本的に考察における主たる論拠には据えません。参考にする場合は、可能な限り作中の要素と絡めて考慮します。
本書の目的は各巻および「涼宮ハルヒ」シリーズ全体の物語理解ですので、原則的に考察は作品内で完結するように行います。同作者による他のシリーズ作品、他の著者によるライトノベル作品や、SFなど同ジャンルの他作品、現実社会の歴史や文化、学問的概念などは参照しません。
同シリーズの他作品は考察の対象に含みます。しかし作中時間の経過や物語の進展に伴う登場人物の変化を鑑み、時系列的に離れたエピソードにおける描写を参照する場合は、時間経過による登場人物の心理や状況等の変化を考慮します。
漫画版、ゲーム版など他メディア展開した作品については、展開先のメディアの特性に合わせたアレンジがなされているため原作とは別作品とみなし、考察対象外とします。アニメ化済のエピソードのアニメ版については比較として取り扱う場合がありますが、アニメ版の作品理解が各巻の物語理解の上で必須のものとはみなしません。
③発言内容の真偽について
主人公(キョン)の発言内容は、別段の理由がない限りは本当のことを言っているものとして扱います。仮にキョンが物語上の必然性なく嘘をついているとすると作品の記述全てが疑い得ることになってしまい、物語の読解が成立しなくなってしまうためです(注2)。一方で彼は本心を素直に口にしない人物としても描かれていますので、彼の性格を考慮して疑うべき妥当性がある発言や記述については都度検討します。
キョン以外の登場人物の発言内容についても、同様の理由で基本的には真実を語っているものとします。ただし、前後の描写との関係で明らかに嘘を言っていることが読み取れるような箇所は都度検討します。
なお、真偽の判別の線引きは、そう考える根拠は可能な限り示すにしても、根本的には私の主観に拠るものになります。その点はご了承ください。
注2 読者の個人的な読解としては、キョンの発言をどれだけ嘘とみなしても問題ない。ただし作中描写との関連が極めて薄い仮定をしても、作品の客観的な面白さの究明にはつながらないため、本書ではそういった仮説は設けないものとする。
④物語のレイヤーと信憑性
本書では、本文中では特に触れないものの、下記の【図一】の通り物語の内容をいくつかのレイヤーに分けて取り扱います。
A:作中の事実
キョンのモノローグで事実として語られていることは、作品を構成する要素の中でも最も確度の高い情報とみなします。たとえば、キョンがモノローグで「雨が降っている」と言うなら、作中のその時その場所には雨が降っていることを前提として読解します。
キョンの認識が明らかに間違っていると明示されている場合を除き、彼の事実認識に間違いはないものとします。「キョンが亀だと言っている生物は本当は鶏では?」といった類の仮定は基本的にしません。
B:作中の事実から高い妥当性で想定できること
現実世界の一般常識に照らして妥当だと思われる事柄もAと同様に確度の高い情報として扱います。三十一日の次の日は一日です。「この世界は太陰暦が採用されている世界なんだ! そう考えると辻褄が合う」といった考察や仮説設定はしません。ただし、作中の描写に照らして妥当な論拠がある場合は検討します。
C:主人公や登場人物の発言
登場人物の発言としてカギ括弧内に記述されている文章は基本的に該当の人物が発声した言葉と捉え、発言があったこと自体は作中の事実として扱います。
ただし、本作ではキョンのモノローグに対して他の登場人物が直接応答していると思われる描写があるため、地の文の一部はキョンによって口述されたものであると考えられます。その場合、そのモノローグの記述の通りキョンが思考し、その通り喋ったものとします。
発言の内容については前述の通り基本的に真としますが、嘘や誤魔化し、間違い、勘違い等であると考え得る妥当性がある場合は一考します。
D:主人公が考えたこと
地の文に記述されるキョンの思考は単に彼の主観によるものですので、その内容が作中の事実であるかどうかは疑い得ます。『猫どこ』でキョンの思い込みにより、ヒーターの傍にシャミセンがいると読者に事実かのように伝えてしまった件はまさにこれに該当します(注3)。ただし彼がそう考えたということ自体は事実とみなします。
キョン以外の登場人物が考えたことは、本作では彼らの発言またはそれを聞いたキョンの思考でしか描写されません。そのため、その登場人物自身の思考ではなく、発言、またはキョンが考えたこととして取り扱います。
注3 「俺の目の前にはリュックに手をかけた古泉がいて、すぐ横にヒーターがある。ついでに満ち足りた様子で眠るシャミセンの背中が座布団の上にある。」(『動揺』、二百六頁)
E:メタ物語的文章効果
一人称の小説は主に登場人物が体験した出来事の描写によって成り立っていますが、実はそれだけでは説明できないメタ的な意味や効果も内包しています。文学研究などの分野では定義や概念があるのかもしれませんが、残念ながら私にその知識が無いため、仮にそれをメタ物語的文章効果と呼称することにします。
これについては説明が少し難しいので、以下『憂鬱』のエピローグで閉鎖空間から帰還したキョンが部室で長門と顛末について話すシーンを例に説明します。
長門に見つめられ「(キョンが襲われるようなことは)あたしがさせない」(注4)と言われたキョンは、最後に地の文で「図書館の話はしないことにした。」(注5)と述べています。『憂鬱』を作中で起こった出来事にのみ照らして読んだ場合、何故ここでキョンが急にこのようなことを思った(もしくは読者に語った)のか、理由を推し量るのはおそらく困難でしょう。
強いて言えば、閉鎖空間内でパソコンを介して長門が送った「わたしという個体もあなたには戻ってきて欲しいと感じている。」「また図書館に」(注6)という好意と取れるメッセージの返事として、キョンがそれを拒否したのだと考えられます。ですが、キョンは他人どころか自分の好意にも無自覚な少年として描写されており、彼が長門の好意に気付いてそれを固辞していると解釈するのはやや無理があります。となると、この一文は全く理由のないなんとなくな発言ということになりますが、前述の通り本書の考察では「なんとなく」は禁じ手です(注7)。
注4 『憂鬱』、二百九十五頁、カッコ内は筆者による。
注5 『憂鬱』、二百九十五頁、カッコ内は筆者による。
注6 『憂鬱』、二百七十八頁。ちなみに、長門はパソコンを介したメッセージでは基本的に句読点を用いている。そのため「また図書館に」のメッセージには、本来「一緒に行きたい。」「連れて行って欲しい。」などの続きがあったが送信できなかったのであろうことが推察される。続く文章が急に半角英字になっているのもその証左で、おそらく現実世界と閉鎖空間の連続性が途絶えることにより送信できる情報量が減り、『眠れる森の美女』というヒントを全角で打てなくなったための代替案だったのだろう。
注7 本書の考察レギュレーションに適さないだけで、各読者が「何となく思っただけだろう」と解釈するのは勿論自由である。
キョンという人物の性格に照らすと理解し難い一方、この一文は結果的にはやはり「キョンはハルヒを選び長門の好意は固辞した」という印象を与えます。『憂鬱』は元々大賞応募用の独立した物語ですから、結末でキョンが三人のヒロインの中からハルヒを選んだということを暗示する必要から挿入されたと考えると辻褄が合います(みくるちゃんとの関係についてもキョンとのじゃれあいをハルヒがエピローグでは気にしなくなっていることで決着が示唆されています)。
逆にここでキョンが「今度図書館に行こうぜ」などと言ってしまうと、キョンは最後の最後で恋愛に本当に無自覚で周りの女性を惑わすおかしな人物という印象になってしまい、ハルヒとの出会いに始まりデートで終わる『憂鬱』の物語を損ないます。
このように、登場人物がその時何故そのように発言したのかは作中から意図が読み取れない、または意味が薄いが、物語を外から見る読者に対しては効果を持つ表現が「ハルヒシリーズ」には散見されます。
これは読者の主観や読解力に左右されるため、作中の事実や登場人物の発言などに比べると確度が低く、また作中の物語とは異なる効果を読者に与えることもあるため、物語の考察に適用するべきではないかもしれません。しかし小説という表現の中に描かれていることであることは間違いないので、本書では考察の対象に含めます。
F:表紙や挿絵や口絵、あとがき等
カバーイラストや挿絵、口絵等のイラストは、角川文庫版ではカットされていることから作品にとって必要不可欠とまでは言えないと判断し、本書の考察においては参考までに留めます。あとがきやカバー裏に記載されたあらすじ等についても同様です。
以上の内容をまとめると【図一】のようになります。これが本書における考察のレギュレーションになりますのでご承知おきください。
考察にあたっての前提条件の確認は以上です。次の章からいよいよ各作品の読解と考察に入ります!
〈精読・涼宮ハルヒの憂鬱(2020年5月2日 初版発行)より再録〉
第一章 イントロダクション
『憂鬱』を語ることの難しさ
『涼宮ハルヒの憂鬱』(注1)第一巻って、どうして面白いんでしょう? 一見単純に思えるこの問いに答えることは、実は非常に困難です。
まず問題になるのは同名作品の多さです。『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品は小説だけでなくそれを原作としたTVアニメ版と漫画版が存在しており(注2)、これによって「一体どのメディアの『憂鬱』を評価をするのか?」というゆらぎが生じます。
次に、別メディア版が原作の評価を隠してしまうという問題もあります。特にTVアニメ版は知名度と原作再現度の高さゆえ原作と混同して語られがちですが、物語の設定や演出、一部エピソードが変更または省略されているため、本来は分けて論じられるべきです。
今ネットで「『涼宮ハルヒの憂鬱』の面白さについて」の言説を調べると、検索結果に出てくるのは作画や楽曲の素晴らしさ、『エンドレスエイト』の是非など、アニメ版に関するものが中心です。中にはキャラクターの魅力やストーリーの面白さなど原作と重複するものもありますが、上述の通りそれらが原作のものとイコールとは限りません(たとえばアニメ版のキョンの魅力は声優を務めた杉田智和さんの演技に依るところも多分にあります)。いわば小説『憂鬱』の評価はアニメ版『憂鬱』の存在によってカモフラージュされている状態なのです。
今回本書で取り上げるのは小説第一巻の面白さについてですので、そこに的を絞ることにします。既にシリーズが十タイトル以上出ているので第一巻の内容だけを単独で話題にするのも地味に難しいのですが(たとえば国木田の「キョンは変な女が好き」という発言など、後続の巻への伏線となっている記述を一度切り離して理解する必要があります)、それは意識して取り組むにしても、それでもまだ『憂鬱』の何が面白いのかを語るのは困難です。
『憂鬱』は学園青春ものでありSFであり、萌えありバトルありミステリあり、そしてラノベでもあって小説でもある……といった風に、語るべき切り口が非常に多様です。名作と呼ばれる作品は往々にしてフィーチャーを数多く備えているものですが、特に本作は「宇宙人・未来人・異世界人・超能力者」というセリフに顕著なように、モチーフごった煮であること自体が作品のコンセプトになっています。そのため同じように『憂鬱』が好きといった場合でもどこが好きなのかが全く異なるというケースが往々にしてありますし、「萌えか? SFか?」といったようにそれらが議論において相反する場合さえあります。
かように、『憂鬱』は名作ではあるものの、それがどう面白いのかについて語ることは、現在非常に難しい環境にあるのです。
注1 以下、便宜的に『憂鬱』とする。他シリーズも同様に『溜息』『退屈』のように表記する。なお、特に記載のない場合は角川スニーカー文庫版を指す。
注2 より細分化すると、TVアニメ版ではシリーズ全二八話を指す場合と、そのうち『憂鬱Ⅰ』から『憂鬱Ⅵ』までの六話だけを指す場合があり、漫画版にはツガノガク版とみずのまこと版が存在する。
『憂鬱』最大の魅力は「キャラクター」?
では、作品を送り出した側は本作の魅力についてどう考えているのでしょう。スニーカー文庫編集部は『憂鬱』巻末の解説にて、本作が第八回スニーカー大賞大賞に選出された際の様子を以下のように述べています。
「涼宮ハルヒという破天荒なキャラクターを軸にした小説の、その根幹となるアイデアの料理の仕方、一人称というスタイルで最後まで飽きさせずに読ませるストーリーの運び方と文章力、登場するキャラクターのあふれる魅力、どれをとっても大賞にふさわしいと、それはもう同席した編集者もびっくりするくらい、あっさりと大賞に決定したのでした」
様々な点が挙げられていますが、軸はキャラクター(ハルヒ)であるとした上で、文末で再度キャラクターの魅力について再度触れていることから、編集者は本作の一番の美点はキャラクターだと考えていることがうかがえます。
ちなみに上述の解説は二〇〇三年に刊行された角川スニーカー文庫版『憂鬱』に掲載のものですが、その発売から十六年を経て改めて刊行された角川文庫版でも、解説を担当した筒井康隆氏が同様の説明をしています。
「何よりもこの作品の大きな魅力は、主人公涼宮ハルヒのエキセントリックなキャラクター造形にある」
では、大賞を与えた選者はどのように本作を評価したのでしょうか。四名の選考委員の選評から『憂鬱』の美点に関する箇所を、以下抜粋します。
「自分としては作品にとって大切なのはまずキャラクターだと思っている。(中略)そういう意味で今回は『涼宮ハルヒの憂鬱』を賞に推した。確かにキャラクターにクセがあり、ハルヒそのものを好きかどうかで思い入れが変わってくるだろう。しかし、他の作品に比べ、群を抜いているのは間違いない」(あかほりさとる氏)
「「涼宮ハルヒの憂鬱」の作者は、文章、表現方法に、非常に才能のある方です。オリジナリティもあり、エンターテインメント性も兼ね備えていて、非常に好感が持てました」(飯田譲治氏)
「表現力とストーリーのおもしろさを評価した。登場人物が魅力的であり、ていねいにエピソードを積み重ねることによって、リアリティを出していく手法にも感心した」(藤本ひとみ氏)
「キャラクター、アイデア、ストーリーともにライトノベルの王道ともいうべきで、大賞にふさわしい作品(中略)キャラクターがとにかく魅力的で、ライトノベルの「お約束」を巧みに使い、ラストまで読者を飽きさせない筆力は立派」(水野良氏)
ライトノベル(当時はまだヤングアダルト小説とも呼ばれていました)の評価基準においてはキャラクター性を重視すると名言しているあかほり氏をはじめ、飯田氏以外の三名がキャラクター性について触れています。次点は文章力や表現力、その次がストーリーと言えそうです。
では視点を変えて、作品を世に売り出した人の見解も見てみましょう。ザ・スニーカー元編集長の野崎岳彦氏は以下のように述べています。
「「作品=キャラクター」であって、それをイラストレーターが表現するという方針」
「ハルヒというイラストであるキャラクターを、『涼宮ハルヒの憂鬱』という小説のプロモーション、タレントとして扱ったわけです。(中略)ですから、『ハルヒ』が持っているサイエンス・フィクションやファンタジーの要素というのは、宣伝では全て省きました」
潔いまでに「キャラクターで売った」と証言しています。『憂鬱』は作品設定の魅力で売り出そうとすると即ちネタバレになってしまうことや設定がビジュアル化しにくいものであること、スニーカー文庫編集部で『憂鬱』以前からイラストレーターやイラストレーションを作品イメージの中核に据えようという機運があったことなども影響しているとも述べているのですが、作品の顔としてハルヒのキャラクター性に注目しそれを利用したことは間違いありません。
さらに、作品の美点とイコールではありませんが、作者である谷川流先生も『憂鬱』の着想について、何よりもハルヒというキャラクターが先であったとインタビューにて述べています。
「なんかへんな女がいて、変なことをいきなりしゃべり出すとしたら、どうリアクションするかなぁ……というのが最初にあった気がします。キャラクターが先に生まれて、物語は後から考えた感じです」
「ハルヒが教室の真ん中でわけのわからんことを叫んでいる、みたいなシーンが始まりでした。こんな奴がいたら、おもしろいなあと思って」
以上、作品の根幹に関わる多くの人々がこれだけ口を揃えて「本作の魅力はハルヒのキャラクター性にある」と仰るのですから、もう本作の面白さの根幹は(ハルヒの)キャラクター性だと断定してしまっていいように思います。
と、ここまでお伝えしておきながら、本書では前書きに書いた通り不敵にも『憂鬱』の一番のフィーチャーであるキャラクターについてではなく、主にストーリーの構造やテーマという面から『憂鬱』を論じようと思います。
あまり語られない『憂鬱』のストーリー
本書で『憂鬱』のキャラクターではなくストーリーについて論じる一番の理由は、『憂鬱』のストーリーやその構造について、未だ十分な議論がされていないと私が考えているからです。
ここでいうストーリーについての議論とは「結局キョンとハルヒのボーイ・ミーツ・ガールものだね」「若者のアイデンティティ喪失と再生の話だよね」といった総括的なものではなく、それが文章でどう構成され効果を生んでいるのかを検証する、といったことを指しています。
「いやいや、『憂鬱』ほどの名作のストーリーがちゃんと語られてないってことはあり得ないでしょ」多くの方がそうお思いでしょう。私も当然そう思っていました。ですが調べれば調べるほど、やはり『憂鬱』のストーリーは十分に分析されていないどころか、ほとんど語られてさえいないことに気が付きます。
ハルヒに関する市販の考察本といえば『超解読涼宮ハルヒ』(三才ブックス、二〇〇七)や『涼宮ハルヒのユリイカ!』(青土社、二〇一一)『エンドレスエイトの驚愕 ハルヒ@人間原理を考える』(春秋社、二〇一八)など多数ありますが、いずれもアニメ化以降に刊行されたものとあって主にアニメ版の内容を取り扱っています。一部小説やアニメ版と原作とで共通する考察を行っているものもありますが、いずれも作品の一部の要素にフォーカスして論じたものであり、小説『憂鬱』全体のストーリーやその構造を対象にしたものはありません。
今回私はアニメ版リリース以降のものに加え二〇〇三年から二〇〇五年のアニメ化される以前のハルヒに関する文章を書籍、ネット上のテキスト、論文などから可能な限り手を広げて『憂鬱』に関する評論を探しましたが、小説に関するものに絞っても、SFとして、セカイ系や萌え系ラノベとして、社会観察の研究対象として(注9)等、『憂鬱』の一側面について論じるものがほとんどで、ストーリーについて包括的に論じている文章はごく僅かでした。私がどういったテキストに当たったのかは参考文献一覧として記載しますので、ご関心のある方はご覧ください(本書の主旨と比較的関係があったものを中心とした、一部のみのリストになります)。
注9 当時は社会学や哲学等の学問の観点からアニメやカルチャーを語る論調が流行っていた。
その中で、日本近代文学研究者の野村幸一郎氏による「思春期のゆくえ『涼宮ハルヒの憂鬱』」(注10)は、アニメ版準拠のため原作の考察としては一部齟齬があるものの、本作のストーリーをハルヒを軸として非常にすっきりとまとめており、さすが国文学者と思えるものでした。
また、アニメ版『シスター・プリンセス』考察で高名なくるぶしあんよ氏が『憂鬱』刊行直後にネット上の他の論客と議論し考察した内容をまとめた『『涼宮ハルヒの憂鬱』における少女の創造力~虚無性を超える乙女心~』(注11)というテキストは量質共に非常にレベルが高く、これさえあれば私は何も言うことないのでは? と筆を折りたくなる出来でした。ぜひみなさん一度読まれることをオススメします(注12)。
本書では上記のような先達のストーリー考察と同様に主要キャラクターのセリフや行動、思考に添って物語を追いつつ、伏線の確認や作品の構造分析を行うことで『憂鬱』を読み解いていきたいと思います。
注10 『京アニを読む』(新典社新書、二〇一六)、十九~五十頁
注11 http://www.puni.net/~anyo/etc/haruhi.html(二〇二一年六月二十九日最終閲覧)
注12 ただし文章が他の論客の『憂鬱』批判に対する反論を起点として書かれている点はご留意いただきたい。元の批判的論考は右記ページ内に設置の下記のWebアーカイブのリンクから参照できる(二〇二一年六月二十九日現在)。https://web.archive.org/web/20030802182216/http://www4.ocn.ne.jp/~temp/suzumiya.html
ミステリ小説としての『憂鬱』
私の個人的な体験として『憂鬱』を最初に読んだときに何に惹かれたのかといいますと、やはり涼宮ハルヒというキャラクターの人となりでした。当時書いていたブログでも思春期の少女たる彼女の性格のリアリティについて熱く感想を述べています。恥ずかしながら、まったくもって作り手・送り手・売り手の意のままだったわけです。
一方、反復して読み返すうちに感心したのは、物語が非常にロジカルかつシステマティックに書かれているということでした。キョンの軽快な語り口とは裏腹に強固にデザインされた物語構造を持っており、まるで謎解きゲームやミステリ小説のように物語の真の意味を解き明かす楽しみが内包されていることに驚いたのです。作者の谷川先生は大のミステリ小説ファンということで、だから謎解き要素も含んでいるのだなと納得した次第です。
そういうわけで、本書では①構造②伏線③謎かけの三点に注目して『憂鬱』の物語を解き明かしていこうと思います。以下、それぞれの項目の意図について、少しだけ解説をしてから本文の読解に移ろうと思います。
なお、残念ながら私自身はミステリ小説には全然明るくないので(小さい頃にホームズを読んで内容は全部忘れている程度)、そういった分野に詳しい方はぜひより深い考察を加えて発表してくださるか、私に教えてくださると幸い至極です。
ちなみに、谷川先生がキャラから思い浮かんだと述べていることや、『憂鬱』を三週間程度で書き上げた(注13)と証言していることなどから「いやいや、そんな構造とかまで考えて書いてはいないのでは?」「穿った読み方をし過ぎでは?」と思われる方もいるかもしれません。
軽快な文体と明るい作風と作者のコメントに騙されてはいけません。頭のいい人はそのくらいやってのけてしまうものなのです。
注13 「ザ・スニーカー二〇〇三年六月号」、八十四頁
涼宮ハルヒの構造
私が「この話は作りがすごくしっかりしている」と感じたのは、この物語がある一定のパターンによって構成されていると気付いたからでした。
本作には長門有希、朝比奈みくる、古泉一樹という三人の主要サブキャラクターが登場しますが、彼らが作中に登場した順番は、長門・みくる・古泉の順です。これはハルヒの「宇宙人、未来人、異世界人、超応力者がいたら、あたしのところに来なさい。」(注14)という宣言で呼ばれた順に対応しています。この三人の初登場シーンを一つのユニットとして考えると【図二】のようになります。仮にこれを「初登場フェーズ」としましょう。
次のフェーズは長門のマンションでの正体告白に端を発する、言うなれば「カミングアウトフェーズ」です。これもまた長門、みくる、古泉の順になっており、三人とも自分の素性をキョンだけに明かすというイベントをこなしています。
三つ目の最後のフェーズは「証明フェーズ」です。もちろん長門、みくる、古泉の順で、朝倉との情報操作空間バトル、未来から来たみくる(大)、閉鎖空間と《神人》と赤玉化、という風に、それぞれ自分の正体が本物である証拠をキョンに見せつけます。『憂鬱』の物語は、キョンとハルヒの物語を軸として進行しつつ、これら三つのフェーズをイベント的に挟むことで進行します。【図三】
さらに入学式から長門登場以前を仮にキョンとハルヒの接触フェーズ、古泉くんと閉鎖空間から出てきた後からクライマックスを発動フェーズとし、プロローグとエピローグを加えて図示すると【図四】のようになります。一見して分かる通り、かなりシステマチックに構成された物語構造を持っていることが分かります。
ここから分かる通り、キョンの軽快な語り口によってさも自然に進んでいるかのように見える『憂鬱』の物語は、高度に設計され演出効果を計算されたものである可能性が高いのです。それはキャラクターのセリフや行動も同様で「必ず理由がある」(注15)「一挙手一投足にはすべて理由がある」(注16)という長門やみくるちゃんのセリフが示す通り、一つ一つが考察対象になり得ることを意味しています。本書では「必ず理由がある」、この考えを基本に物語の考察を試みています。
なお、この構造はもう少し細かく分析することが可能なのですが、それについては別途詳しく触れようと思います。
注14 『憂鬱』、十一頁
注15 『憂鬱』、百二十四頁
注16 『憂鬱』、百四十八頁
涼宮ハルヒの伏線
多くの小説がそうであるように、『憂鬱』にも多くの伏線が張られています。
たとえば本作は「サンタクロースをいつまで信じていたかなんてことは(中略)最初から信じてなどいなかった。」(注17)という有名すぎる一節で始まります。ここで用いられているサンタクロースやクリスマスというモチーフは、作中にあと二回使われています。どちらもクライマックスシーンです。
注17 『憂鬱』、五頁
一つ目はキョンとハルヒの前に《神人》が現れた直後のキョンのモノローグです。
横目でうかがったハルヒの顔は、俺の気の迷いなのかどうなのか、なぜだか少し嬉しがっているように思える。まるでクリスマスの朝、枕元に事前に希望していた通りのプレゼントが置かれていることを発見した子供のように。
もう一つはその直後、新世界への希望を語るハルヒに対してキョンが元の世界に帰りたいと言ったシーンです。
「意味わかんない」
ハルヒは口を尖らせて俺を見上げていた。せっかくのプレゼントを取り上げられた子供のような怒りと悲哀が混じった微妙な表情だ。
二つ目は単に「プレゼント」とありますが、その数頁前の前述の引用部分の内容を鑑みれば、このプレゼントとはクリスマスプレゼントを指していると考えていいでしょう。
このように、物語の冒頭とクライマックスシーンを共通のモチーフで結び付ける美しい構成なのですが、注目すべきはそれによってもたらされる物語上の意味です。この一連の伏線からはいくつかのメッセージが読み取れますが、以下二点だけ取り上げます。
一つはキョンとハルヒの共通点です。プロローグ冒頭は要約すると「サンタは信じていなかったがアニメ的特撮的マンガ的ヒーローや物語には憧れていた」という内容ですが、キョンは自分自身がかつて絵空事に憧れていたことを土壇場で反芻しているからこそ、急にクリスマスを比喩に用いたのだと考えられます。つまり、キョンはハルヒの喜ぶ姿を見て、程度や時期の差こそあれ、自分とハルヒはどちらもフィクションに憧れる気質があるということをギリギリの瀬戸際で実感していると考えられるのです。
もう一つは全く逆のことです。キョンは《神人》にはしゃぐハルヒをクリスマスプレゼントに喜ぶ子供になぞらえています。キョン自身は幼稚園の頃からサンタの存在を信じるほど幼稚ではなかったと自負していますので、彼には彼女が幼い頃の自分よりもさらに幼く無邪気な子供のように思えているのです。キョンはそんな幼き少女の憧れを否定し現実世界に引き戻そうとしているわけですから、ここに一抹の心の痛みのような効果が生じます(注20)。
なお、二人の共通点と相違点が一つの伏線で同時に示されるようなことがあり得るのかというと、それは全然あり得ます。作中朝倉が言っている通り相反する意識をいくつも持っているのが人間ですし、それを表現した作品もまた同じです。むしろ優れた作品(小説でもアニメでも)であれば、一つのシーンやシンボルに複数の意味が込められるのは普通のことです。
注20 キョンには同じく無邪気な妹がいることもこの心の痛みを盛り上げる要素となっている。キョンは自分が気に入っていないニックネームを妹に使わせたままにしていることから、本来幼い子供に無理強いをするのを好まない性格であることが伺える。また『消失』では小五の妹が未だサンタを信じていると述べていることから、キョンは妹のサンタ信奉を否定しておらず、少女の憧れを暴くことを好まない性格であることが改めて示唆されている。
涼宮ハルヒの謎かけ
本作にはキャラクターのセリフの中に謎かけ、問いかけが多数含まれています。一番分かりやすいのはみくるちゃんと長門による「白雪姫」「sleeping beauty」というキョンへのヒントです。そこに古泉くんの「アダムとイブ」発言を加えてもいいのですが、この一連の謎かけの答えはキョンがハルヒにキスをすることで明示されています。
実は上記の謎は珍しい例で、本作で提示される謎は答えが明示されないものの方が圧倒的多数です。たとえば前述の通りキョンは長門から「あなたは涼宮ハルヒに選ばれた。(中略)あなたが選ばれたのは必ず理由がある」 (注21)と言われ、みくるちゃんや古泉くんにもほぼ同様のことを言われますが、肝心のその理由は終ぞ明示されません。
多くの人が「そりゃハルヒがキョンのことを好きだからでしょ」「ハルヒにとってキョンが唯一関心を持てる相手だからでは」といった答えを想像すると思われます。が、その答えに自然に辿り着くように書かれているからそう思うだけであって、文章として明らかなことは実は一回も書かれていません。
私たち読者は物語終盤で上記のような「解明される謎」と「解明されない謎」を提示されることで、この物語に内包される未解決の問いかけには答えが用意されているのかもしれないし、そうでないのかもしれない、ということを知ることになります。その認識を得た上で本作を読み直してみると、キャラクターたちの会話やシチュエーションに非常に多くの謎があることと、それが概ね未解決で、私たちの想像によって答を出し物語を補うことを待ち構えていることに気付きます。
本書ではそういった解明される、または解明されない謎かけについても注意して見ていこうと思います。
注21 『憂鬱』、百二十四頁
以上のような論点を軸に、次の章からいよいよ『憂鬱』本文の読解と考察に移ります!
〈『精読・涼宮ハルヒの憂鬱』再録分 試し読みはここまで〉
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