形相という概念に包摂されそうな純粋形相というものは時折見かけるのかもしれない。純粋形相というものはない、と批判的な的になることがあった。しかし純粋形相を、神、すなわち不動の動者と視る傾向があり、高級な存在をその位置においた。
純粋形相という概念は特殊なものという印象を受ける。印象主義においては純粋と主語に付くものを神聖化することがある。純粋経験という西田哲学のひとつも神聖化されていそうな概念である。世界の裏を経験することが純粋経験である。物質と運動を延長と捉え、奇跡的な物質と運動の延長化の先に純粋経験と称することもできるであろう。物質にはモナドもあり、最小粒子と称した。物質は……と言うとき、物質全体を含むことが妥当であり、物質という語に限定的要素が付帯化しない場合、物質全体を指すことが懸念される。モナドは……と言うとき、モナド全体を含むことがある。
ライプニッツによればモナドという概念は、最小粒子を指すのが主流であった。しかしモナドの性質や複合性という風に混みいった話題にライプニッツの意図せずに展開された。ライプニッツのモナドというものと現代解釈のモナドとは別の観点から語られうるのである。世界にはモナドが最小粒子であるゆえに非常に多くのモナドの現出がある。一番多い何かはモナドではないか、ライプニッツは考えた。ここもライプニッツ哲学の醍醐味であろう。