普遍論争

生物、という言葉があるが、人間も生物であり、アメーバも生物である。

 

これは普遍的な概念である。猫も鳥も生物である。

 

生物、と発言するとき、これは主語か述語かが問題である。

 

アメーバは生物である、と言うとき、すべてのアメーバが生物というものに含まれている、ということであろう。

 

主語が述語に包まれる、この場合はたしかに主語が述語に内包されている。

 

例1)生物はたくさんいる

 

主語が「たくさんいる」という言葉に包まれているわけではない。

しかし、生物を説明するにあたっては、間違いのない述語である。

 

この生物がたくさんいる、という命題においては、生物は全体をとおして一億体より多いことから、生物はたくさんいるというのは嘘ではない。

 

例2)イリオモテヤマネコは優しい

 

イリオモテヤマネコ全体が優しいという趣旨である。イリオモテヤマネコが優しいという述語に内包される。すべてのイリオモテヤマネコが優しいと言えるかは、証明することができない。こういう二択は慎重になるのかもしれない。

 

例3)トナカイは優しい

 

トナカイ全体が優しいという趣旨である。すべてのトナカイは優しいと言えるかは、証明することができない。

 

例4)五割以上のトナカイが優しい

 

普遍的にトナカイは優しい、という趣旨である。五割以上なら普遍的ではないだろうか。トナカイの半数以上が優しい、ということはたぶん正解である。

トナカイは 優しいという意味である。

 

トナカイは普遍的な概念である。トナカイはたくさん存在する。

 

この普遍的な概念を対象に取ることはできるか。

 

「”この”トナカイ」は横になっている」と、限定的に言うとき、個別的に対象を取ることはできている。

 

例5)多くのトナカイは優しい

 

こう普遍的に言うとき、個別的に対象を取ることができていない。