「ここ最近、留学生の受け入れ資格停止に関する話題が注目されていますが、現トランプ政権の留学生排除に向けた動きはこれに始まったことではなく、この数カ月間多くの人が不安や恐怖を感じています」
アメリカのトランプ政権から研究助成金の凍結や留学生の受け入れ資格の停止などの措置を受けているハーバード大学。同大医学部の准教授である内田舞さんは、Business Insider Japanの取材にこう語った。
2025年1月の第二次トランプ政権の誕生以降、 ハーバード大学をはじめとした大学に対する締め付けとも取れる政策によって、アカデミアの構造が大きく揺らいでいる。アメリカで研究を続ける日本人研究者に、今アメリカの大学を飲み込みつつある「トランプショック」のリアルを聞いた。
「心が折れそうになる」ハーバード大学の現状
ハーバード大学の内田准教授は第二次トランプ政権の誕生からこれまでの間に「心が折れそうになった」出来事が2つあったと、取材の中で明かした。
1つは、3月から4月にかけて、アメリカ国内の有名大学に通っていた外国人学生が入管当局に拘束される事案が多発したことだ。トランプ政権は不法移民の取り締まりの強化を主張しているが、現地の報道を見ると、在留資格やグリーンカードを持っている学生が拘留されるケースもあった。3月にはハーバード大学のキャンパスもある東部マサチューセッツ州で、タフツ大学のトルコ人女性の学生が「反ユダヤ主義」であるとして突然拘留された事件も大きく報道された。
もともとトランプ政権は、「反ユダヤ主義への対応」を名目に、アカデミアへの攻撃を強めてきた。報道によると、拘束された学生も大学新聞へ「ガザ市民にも基本的な人権を」と訴え、イスラエルの戦争を批判する記事を共同執筆したことで当局から目をつけられた可能性があるという。
内田准教授は
「今までであれば、あったはずの法的な審査を経ずに各国の留学生たちの在米資格が取り上げられる状況下で、留学生や外国人教員は、『自分がそのような状況に陥った場合に、自分の権利は尊重されるのだろうか』と恐怖を感じながら生きています」
と話す。
加えて、トランプ政権がこれまで科学研究費の大幅な削減や、ハーバード大学に対する助成金の一部凍結など、大学の運営面へ圧力をかけ続けてきていることも、心が折られる出来事だったと内田准教授は話す。
一連の予算削減によって、アメリカでは多くの研究者の給料が確保できなくなる恐れが出てきている。
「ポスドクや博士課程の学生などの給料も支払えないと、彼らの生活に直結し、相当なダメージとなります」(内田准教授)
実際、内田准教授の周りでは、若手研究者がすでにアメリカ以外の国に移動したり、研究費獲得の困難さから、アカデミアから製薬会社などの企業に研究者が流出したりする動きが出始めているという。
「言論の自由と、学問の独立を守る」声明に見えた光
一方、トランプ政権の一連の動きに対し、ハーバード大学は4月21日にアラン・ガーバー学長名で次のような声明を公表した。
「私たちは、アメリカの高等教育を世界の指針にしてきた価値観を支持します。私たちは、全国の大学が政府の不適切な介入なしに、法的義務を受け入れて尊重し、社会における本質的な役割を十分に果たせるという真実を支持しています。それこそが、学術的な卓越性を達成し、開かれた探究と言論の自由を守り、先駆的な研究を行う方法で、私たちの国とその人々をより良い未来へと駆り立てる無限の探求を前進させる方法です 」
“(原文)Today, we stand for the values that have made American higher education a beacon for the world. We stand for the truth that colleges and universities across the country can embrace and honor their legal obligations and best fulfill their essential role in society without improper government intrusion. That is how we achieve academic excellence, safeguard open inquiry and freedom of speech, and conduct pioneering research—and how we advance the boundless exploration that propels our nation and its people into a better future.”
内田准教授はこの声明について、
「ハーバード大学が、言論の自由や真実追求を守るために、断固とした姿勢を示したのを見て、ハーバード教授陣のマジョリティの意見として『やっと元気が出た』という感想が寄せられていました。
私自身も、それまでの他大学や企業などが続く弾圧の回避のために政権の要求を呑んでしまった対応を見て、このままアメリカは独裁国家になってしまうのだろうかと暗くなっていたのですが、初めて光が少し見えました」
と語る。
ただ、ハーバード大学の声明に対してトランプ政権は5月23日、ハーバード大学の留学生資格停止を決定。新規の入学に加えて、在学中の留学生も転校しない場合は在留資格を失うと通知した。ハーバード大学はすぐに政府の行動の即時停止を求めて提訴、マサチューセッツ州の連邦裁判所は決定の一時的な差し止めを命じた。
内田准教授は
「通常新しい法令は長年の検証を経て、議会の過半数の賛同を得てから施行されるもので、さまざまな根回しや議論が必要です。しかし、現政権がこの数カ月で施行した法令はそのような丁寧なプロセスを経ておらず、方向性もコロコロ変わりますし、大統領の命令に対して司法もたびたびストップをかけています。そういった例を見るたびに、司法の基盤はしっかりしているのだなと安心させられるところもあります。ひどいことが次々にありますが、私は最終的には合法であることが勝っていくと、アメリカの民主主義の底力を信じています」
と話す。ただ、トランプ政権が司法の差し止めに応じるかは不明だ。
6月4日には、トランプ大統領が、ハーバード大学で学ぼうとする留学生らの入国を制限するとの措置を発表。混迷は深まっている。
「引き抜きの機会」と捉えないで
アメリカでは大学の卒業式が終わり、9月に新学期が始まる。内田准教授は、在留資格の発効が多少遅れることはあるかもしれないものの、留学生の受け入れが完全にストップすることは考えにくいという。
「この政権下、3カ月後のことは誰も予想できません。私のまわりの留学生たちには、『不安にならないわけはないと思うけど、今の不安がずっと続くとは思わないでほしい』と伝えています。
こんな時こそ、民主主義の力を信じて、個人個人が目の前にある課題に向き合うことが大切であると私も自分に言い聞かせています。日本から留学を希望しているたくさんの学生さんたちにエールを送らせてください」(内田准教授)
一方で、国内外を見渡せば、アメリカでポストや居場所を失った留学生や研究者の受け入れを表明する国も出てきている。日本でも、東京大学や京都大学など87の大学が、受け入れなどの支援を表明している(6月6日時点)。
支援の輪の広がりについて、内田准教授は
「留学生や研究者に手を差し伸べる救済策は有り難いですし、必要だと思います。アメリカでの研究費獲得や、独立した研究室を持つこと自体、現政権下に限らずとても大変なので、世界中に多くの機会があることはいいことだと思います」
とした上で、「引き抜きの機会」とだけ捉えてしまうのは危険だと指摘する。
「ハーバード大学は言論と学問の自由、政府にコントロールされない独立した研究教育機関であるべきだと主張しており、そういった姿勢を示しているがために、政府から攻撃されています。
このようなアカデミアへの弾圧を他大学が対岸の火事のように『機会』としてしか捉えられないのであれば、その影響はハーバード大学やアメリカを超えて世界の民主主義に及ぶことだと感じます」(内田准教授)
アカデミアの危機「再生に何十年もかかる」
トランプ政権によるハーバード大学への圧力に対して、アメリカの中ではアカデミア全体の問題として連携して対抗する動きが出始めている。
全米の大学や学術機関などのトップは4月22日、「今やアメリカの高等教育を危機にさらしている、前例のない政府の過度な介入と政治的な干渉に対して声をそろえて発言する」と声明を発表した。この声明には、ハーバード大学をはじめ、プリンストン大学やブラウン大学、ハワイ大学などのトップが名を連ね、全米大学協会によると、5月29日時点で657人が署名している。
カリフォルニア大学バークレー校物理学科教授で、東京大学国際高等研究所カブリ数物連携宇宙研究機構教授でもある物理学者の村山斉さんも「ハーバード大学への措置を含めた一連の問題は、アメリカだけではなく世界の問題です」と話した。
「昨今の政情不安から各国は軍事費を増やし、『科学どころじゃない』という雰囲気が広がってきていますが、その中でアメリカがこんな状況になってしまうと、(科学研究の)受け皿が本当になくなってしまう。そうなれば人類全体の損失になって、何十年と回復に時間がかかってしまうのではないかと心配しています」(村山教授)
米科学誌サイエンスの記事 によると、トランプ大統領が就任して以来、全米科学財団(NSF)が新たに交付した助成金の数は、1年前の同じ時期と比べて50%近く減った。村山教授自身もNSFに研究資金の申請をしているが「審査しているのかすらも分からない状況」で、なかでもDEI関連のプログラムは「軒並み、資金を獲得できなかったと聞いている」という。
村山教授が長年研究してきた物理学の分野は、ここ100年の間に、より大きな国際間連携によって進化してきたが、NSFの助成金カットに伴い、ビッグプロジェクトは止まっている。
例えば、宇宙のダークエネルギーやダークマターの謎に挑むとともに、太陽系外惑星を探すことを目指すNASAのナンシー・グレイス・ローマン宇宙望遠鏡もその一つ。村山教授は「宇宙望遠鏡は完成間近ですが、予算削減の影響で打ち上げはキャンセルするかもしれないと聞いています」と話す。
村山教授は1990年代から、アメリカで物理学者としてのキャリアを積んできた。
「アメリカは研究資金の獲得が大変という側面はありつつ、これまで多くの優秀な研究者を国内外から呼び込んできた“研究者天国”とも言えるところでした。こんなにひどいことになるとは、一度も思ったことがなかった。本当にショックです」
普段は朗らかで、楽しげに話す同教授は、深刻な表情でそう証言した。