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阪神暗黒時代伝説⑤~掛布二世、江夏二世編

阪神暗黒時代には、多くの掛布二世、江夏二世がいた。

とにかく、周囲からは大いに期待をされる。

中には、明らかに掛布や江夏とは違うタイプ…

だけど、二世扱いを受けた選手もいた。

 

ちなみに、阪神暗黒時代には正真正銘の二世がいた。

カツノリである。

そう、野村監督がカツノリを獲得している。

歴史の教科書にあった「欲しがりませんカツノリは」

これを野村監督に教えてやりたい。

 

ちなみに、その獲得理由が…

「カツノリを立派な選手にするのも、親としての務め」

正直、カツノリはいらないだろ…

カツノリは。

 

今回は、阪神暗黒時代の「○○二世」の特集です。

 

金子誠一

1988 年、ドラフト三位で阪神に入団する。

東北高校⇒法政大学⇒本田技研⇒阪神(1989-1995)

190センチを超える身長で、田淵二世と騒がれる。

現役生活は7年間。

 

金子をローマ字読みすると「KANEKO」

さらに、間に「S」を足すと「KANSEKO」

となることに気が付いたマスコミが、

当時、メジャーリーグで活躍していたカンセコにかけて

「和製カンセコ」とも書かれた。

   

身体の大きさの割に、(意外と)動ける選手だった。

長距離砲と期待されるも、バットは短く持つタイプ。

大柄な体格に似合わず、バントや守備がうまかった。

学生時代からの腰痛と、新庄の台頭により引退。

 

八木裕

1986 年、ドラフト三位で阪神に入団する。

岡山東商高校⇒三菱自動車水島⇒阪神(1987-2004)

掛布雅之が引退した後の三塁手となる。

そのため掛布二世と呼ばれる。

 

 89 年に 16 本のホームランを打つ。

その後三年間は毎年 20 本以上のホームランを打つ。

その一方で、打率が 2割 5分台と確実性に欠ける。

この時点で、掛布ではなかった。

 

当時のニックネームは「ビックリ箱」。

意外なところで思わぬ一発を打つということらしい。 

 92 年は幻のホームランを打っている。

晩年は代打の神様として活躍する。

 

高井一

1987 年、ドラフト二位で阪神に入団する。

横浜高校⇒阪神(1988-1994)

掛布二世と騒がれるも、アベレージヒッターのタイプ。

スポーツ紙に「掛布の再来」と書かれる。

たまに「長打力のない掛布」とも書かれる。

(つまり掛布ではない)

阪神史上初の背番号100をつけた選手。

 

鮎川義文

1988 年、ドラフト六位で阪神に入団する。

星城高校⇒阪神(1989-1996)

高卒、三塁手、右投げ左打ち、ドラフト下位指名…

というのが掛布と全く同じで、掛布二世となる。

 

但し、掛布と同じなのもここまで。

守備もバッティングも全然掛布には及ばなかった。

そもそもレギュラー獲得にも至らなかった。

晩年はロッテに移籍する。

 

萩原誠

1991 年、ドラフト一位で阪神に入団する。

大阪桐蔭高校⇒阪神(1992-1997)

高校野球では、大阪桐蔭の四番として大活躍をする。

そして、大阪桐蔭の初出場・初優勝に貢献する。

高校時代の実績、背番号 31 、三塁手

というのが掛布と全く同じで、掛布二世となる。

 

新入時代の体力測定で、岡田彰布と似た数値を出す。

すると、岡田二世とも書かれる。

最終的に「萩原=掛布+岡田」となる。

二軍では活躍するも、一軍では活躍できず。

 

現在は京都大学野球部のトレーナー。

そこのホームページの紹介欄には…

・きつい冗談で心身共にケアしてくれる凄腕トレーナー

・口癖は「これはやばいねぇ」

 

塩谷和彦

1992 年、ドラフト六位で阪神に入団する。

神港学園高校⇒阪神(1993-2001)

山田勝彦、木戸克彦、関川浩一に続く四番手の捕手。

そのため、しばらく二軍生活が続く。

 

木戸克彦が引退したため、チャンスが生まれる。

すぐに、矢野輝弘が加入してきたために、意外とあっさりと捕手としての芽が摘まれる。

捕手を追い出されて、最終的に三塁を守ることになる。

四番を打つこともあった。

(ここで少しだけ掛布二世を襲名する。)

 

三塁コンバートの際、背番号を 40 (シオ)に変更。

少し注目を浴びる。

日本プロ野球史上初の一イニング二満塁本塁打を記録。

(一本目は新庄剛志で、二本目が塩谷和彦)

2000 年オフの契約更改後の会見で、査定担当者を

「殴ってしまいそう」と発言して厳重注意処分となる。

(何やってんだか)

 

平尾博嗣

1993 年、ドラフト二位で阪神に入団する。

大宮東高校⇒阪神(1994-2001)

ニックネームは「チャラ尾」。

超高校級の大型内野手との前評判で、掛布二世となる。

 

守備争いを制して二塁手となるも、すぐにケガをする。

その影響もあって、西武に移籍することになる。

実は、現役 18 年間で阪神在籍は6年だった。

その意味では元阪神よりも元西武の方が相応しいか。

 

中谷忠己

1983 年、ドラフト外で阪神に入団する。

村野工業高校⇒阪神(1984-1988、1995)

大洋と阪神の入団テストを受けて、両方合格する。

もともと掛布雅之に憧れており、阪神に入団する。

 

しかし、怪我に泣かされて近鉄にトレードで出される。

近鉄時代は、藤井寺球場に自転車で通っていたために…

「チャーリー中谷」と呼ばれる。

その後、オリックスにトレードで出される。

 

その後、再び、阪神の入団テストを受けて合格。

二度目の阪神入団。

掛布もテスト生だが、テストの回数では掛布を上回る。

その点では、掛布を超えた選手だった。

 

濱中治

1996 年、ドラフト三位で阪神に入団する。

南部高校⇒阪神(1997-2007)

高校通算 51 本塁打のスラッガーだった。

入団会見で「甲子園で場外ホームランを打ちたい」と発言し、和製大砲到来と期待された。

 

掛布雅之以来の高卒新人でのスタメン出場を果たす。

その一方、最初の四年間はホームランを打てず。

2001 年、名前を「濱中治」→「濱中おさむ」に変更。

なぜか急にブレイクする。

長嶋監督からは「はまだ君」と呼ばれる。

 

2004 年と2005 年は、背番号を 31 に変更する。

掛布二世の期待も上がるも、肩を怪我して手術となる。

現在は、サンテレビの熱血タイガース党で幹事長。

福本党首引退後の党首を狙う。

 

星野修

1988 年、ドラフト外で阪神に入団する。

福岡高校⇒阪神(1989-2001)

星野修の入団に際しては、担当スカウトが

「(同じ左打ちの内野手でこの年に引退した)掛布雅之と入れ替わったと思って下さい」とコメント。

 

これにより、掛布二世の肩書が付くことになる。

ホームランはほとんどないが、調子が良いと一・二塁間を抜くヒットを打つ

調子が悪いと平凡なセカンドゴロばかり打つ。

2002 年には名前を「星野修」→「星野おさむ」に変更。

名前が「おさむ」だと平仮名にしたくなるのか?

 

カツノリ

言わずと知れた野村監督の息子。

2000 年、ヤクルトから金銭トレードで阪神に移籍。

その時の会見で、野村監督が言ったセリフが…

「親バカと言われるかもしれないが、これも親の務め」

 

ちなみに、野村監督、プロ入り前のカツノリに対して

「苦労するぞ、お前」

「ちゃんとした会社に務めて安定した所へ行け」

「無理だ、お前じゃ」

と言っている。(プロ入り前の時点で分かってた?)

 

カツノリが入団した当時、八重樫コーチ曰く

「正直、プロに入れるレベルじゃないな」

引退試合では6個の盗塁を全て許してしまう。

成績はいまいちだが、人柄は悪くないと聞く。

 

遠山奬志

1985年、ドラフト一位で阪神に入団する。

八代第一高校⇒阪神(1986-1990)

高校時代はエースとして、対外試合で 69 勝 3敗。

ノーヒットノーランを 11 回達成する凄腕左腕。

 

江夏二世と言われ、一年目に八勝をマークするも、以降の成績は伸び悩む。

二度目の阪神では「遠山・葛西スペシャル」で活躍。

特に、松井キラーとして有名。

松井秀喜に「顔も見たくない」と言わしめたほど。

 

今回はこの辺で。

 

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