ネットミーム・デビルサマナー   作:生しょうゆ

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終末の黄昏 1

 

 

 

2024年7月16日 18:42

東京都・杉並区 車中 <尾崎健太郎>

 

『家名に誇りを抱いてはならない』というのが家訓だった。

 

 我ら陰陽師の一族は罪を抱いているのだという。大正の時代、大戦が勃発するその以前に、我らの一族は主たるヤタガラスに剣を向け、護国の剣にあるまじき争乱を起こした。

 

 安倍晴明の直系、安倍星命を首領として、結成されし秘密結社『コドクノマレビト』彼らの悲願は人類の平等だったという。

 

『まるでメシア教だ』父が顰め面で語ったのを尾崎健太郎はよく覚えていた。

 

『奴等が理念の裏側に罪と悪を抱え込んでいるように、コドクノマレビトもまた悪を抱え込んでいた。その名はクラリオン。由来も知れぬ宇宙生物よ』

 

 コドクノマレビト……孤独の客人。世界平和も人類平等も、全ては星命の内に巣くう魔が讒言したに過ぎぬ。

 

 故にこそ、コドクノマレビトという名は、十四代目葛葉ライドウの伝説において、こう語られるのだ。

 

 ──陰陽師達を利用した怪物を、十四代目が見事に打ち倒した。

 

『しかし、我ら陰陽師が罪を犯したことは事実。当時の記録を見ても、十四代目の見解とは相違する点がいくつか……。我らは決して被害者などではなく、寧ろ魔を呼び込みし罪人なれば、護国の為に身を削り骨を折り……』

 

 倉橋家の家伝を片手に語りかける父の顔を、尾崎はぼうっとした形でしか思い出せない。幼少の彼は父の話に耳を傾けながらも、初めて招かれた室内を眺めていた。

 

 黴臭い平屋の隅に、潜むようにして誂えられた一室。超常の技を研鑽するには余りに物寂しい書斎。和綴じの書籍が夥しく積み重ねられ、埃を被り、蜘蛛の巣が張っている。

 

 陰陽師の技を忘れ、父は懐に管を抱いている。ヤタガラスから下賜された封魔管を家宝のように崇め奉り、『倉橋の新しい時代』などと嘯いている。

 

 ──これが、新しい時代か。

 

 生業を忘れ、伝統を忘れ、誇りすらも奪い上げられ、ヤタガラスの足下に犬のように飛びつく浅ましい姿に、幼少の尾崎は失望を抱いた。

 

 

 

「その失望は間違っていたな」

 

 尾崎は流れ行く街明かりを眺めつつそう独りごちた。誇りの為に家名を捨て、誇りの為に義心を捨て、誇りの為に名を捨てた。そして全てを捨てたその先に、誇りなど存在しなかった。

 

 尾崎健太郎。「尾崎健太郎」中央線沿いを行くタクシーの窓辺に、尾崎は繰り返し呟いて笑った。全てが皮肉めいているようだった。知られぬ為の名が、広く知られたものだった。それも袂を分かった親元の筋、ヤタガラスの新星に関連するものであるのならば、尚更。

 

 魔道に落ちたと人は言う。よくある話だと人は言う。裏切ったとしても名もなき木っ端。かの二代目葛葉キョウジの様に恐れるには値しない。もっと対処すべき事案は多くあり、そんな事に構ってなどいられない。

 

 陰陽師の末裔らしい。しかしパズスの力を身に付けているという。恐ろしきダークサマナー。パズスの転生者よ。邪神の化身め。

 

 ……そうして倉橋家の嫡男は死んで、尾崎健太郎がここに居る。

 

「お客さん、仕事ですか?」

 

 三鷹駅で拾ったタクシーの運転手が軽い調子でそう聞いた。

 

「それも良い商談でしょう。笑っているもの。連休明けにめでたいことですねえ」

「そうか、昨日までは連休だったか」

 

 尾崎は口角に手を当てつつ言った。笑っていたか。それも当たり前だ。何せ最後の花火を上げに行くのだから。

 

 中野にヤタガラスが出動したという情報が入ったのはつい先程。個人的な知り合い達は我先に逃げ出し、連れてくるはずだった部下達にも退去を命じた。それでも尾崎は運転手に目的地の変更を申し出なかった。

 

 全ては皮肉だった。尾崎はそう思い、意識的に笑みを浮かべた。行き着いた果てが秘密結社の首領というのも皮肉。ヤタガラスが大々的に復活し、今まさに組織が壊滅の危機にあるのも皮肉。

 

 そして、陰陽師を主体とした組織の長が、西洋の邪神:パズスを内に宿していたのは、飛び切りの皮肉だった。

 

「忘れていたよ。俗世とは離れた生活をしているものでね。しかし、めでたそうなのは貴方の方だろう。何か良いことでもあったのかい?」

「いやあ、こんな仕事をしているもので、連休時は稼ぎ時でですね、明日からようやく長期休暇なんですよ!」

「そりゃあめでたい。何かご予定でも?」

「息子がどうしても遊園地に行きたいって言うものでですね、家族連れで東京デスティニーランドに行くつもりなんです」

「そうか、息子さんが居るのか」

 

 これも皮肉だろうか。尾崎はバックミラーに映る運転手の顔を見つめた。

 

 優しそうな、人のよさそうな柔らかな顔だ。歳は三十代半ば辺りだろうか。不意に父の姿が重なった。

 

「息子さんは、貴方を尊敬しているかな?」

「はは、とんでもない! 将来はタクシー運転手になんかならないって繰り返してますよ。悲しいことではありますがね」

「それでも貴方は息子さんを愛しているのかい?」

「当たり前でしょう」

 

 言い切った運転手の目は、寧ろ不思議そうに尾崎を見つめていた。何も分からずに、ダークサマナーである尾崎を見つめていた。

 

 それで良い。それで良かった。尾崎は今更ながらにそう思った。護国。護民。世のため人のため。人類の平等。

 

 打ち捨ててきた誇りが、鏡越しに己を見つめている。

 

 だから、そう「この辺りで良いよ」高円寺駅に着く前で車を降り、尾崎は暗示で運転手を西に向かわせた。そうして夜を歩き、夜を見、夜を後にした。

 

 さあ、ここから先は只人の生きる場所ではなく、死ぬ場所でもない。何かが達成されることはなく、無意味に人が死ぬだけの地獄。罪人の咎がようやく裁かれる処刑場。

 

 駅前から中野ブロードウェイに続く道すがら、尾崎は白髭を蓄えた老人から笑って話しかけられた。

 

「格好良く死のうぜ、名無しのダークサマナー」

 

 ──ああ、鱗と尾を生やした男が、月に向かって吠えている。

 

 

 

 

 

 

2024年7月16日 19:00

東京都・中野区 平和の森公園 <黒須淳>

 

 初めて出来た友達の顔を見間違えるはずがない。癖の強い黒髪に冷たい顔立ちの彼と、明るい髪色に華やかな顔立ちをした彼。

 

「なんで……」自分はここに居るのだろうか。あれだけ言われたのに。あんなに『もう止めろ』と言われたのに。

 

 黒須淳は不思議に思い、腕を動かしてみた。腕は確かに意思の通りに動いた。しかし意思には別の何かがまとわりついているようにしか思えなかった。

 

『或いは願望かも知れないよ? 何せ我は汝、汝は我。君を動かしているのは僕だ。君のペルソナだ。つまりは君自身だ』

 

 淳の内側から声が囁く。その声の主はペルソナだ。この世に異能と呼ばれるものの一つだった。淳はそれを当然のように行使して悪魔共を殺してきた。虫を殺すのだって嫌なのに、悪魔の首を狩り、血肉を貪り、後ろ暗い世界と喜んで関わり続けてきた。

 

 しかし『君は誰だ』淳は初めてそう思った。『君は僕じゃないだろう』思えば、何時からこの力が存在していたのか。思い出せない。何も、思い出せない。

 

 幼少の自分はどんな人間だったのか。どんな夢を抱いていたのか。何も分からない。何もない。空っぽだ。

 

 まるで絵画の上の落書きのように、黒須淳という人間はあった。

 

 ──故にこそ、軽やかに空を駆ける事が出来る。

 

 戦争が始まった。ビル上に殺戮を繰り広げていた悪魔人間が、急に喚きながらヤタガラスへ突進し、返す刀で蹴りが放たれた。その衝突を開戦の号砲として、殺し合いの夜が始まる。

 

 あちこちで炎が上がっている。雷が轟き、突風が突き抜ける。その中を淳は駆けていく。『何のために?』分からなかった。ただ、見知った顔を目指していた。

 

 

 

 黒須淳が雨宮蓮と明智吾郎の二人と知り合ったのは、桜の散りきった五月の頃だった。

 

 麻薬取引の護衛と、そこに襲撃してきたヤタガラス。相対する立場で殺し合い、決着はつかずに逃走した。

 

 そんな対決が何度もあった。卓越したペルソナ使いである二人と真正面から対決できる淳の名は、ダークサマナーの間で着実に広まっていったが、淳はそれを何処か遠くに感じていた。

 

 代わって近くに感じていたのは、人らしく考えていたのは、その二人の人柄だった。

 

 自分より少し年下だろうか。高校生なのは変わりない。なのに自分と同じく裏の世界で生きている。自分と同じく、ペルソナを使って戦っている。

 

 そして、自分とは違い、何か信念を持って戦っているようだった。

 

『寧ろ、君にはないのかい?』

 

 戦闘中にふと溢れた呟きを、明智が拾って呆れたように言った。

 

『呆れたよ。これがガイアって奴か。正義も下らないけど逆も下らなすぎる』

『いや、明智。なんだか黒須はおかしくないか? まるで強迫観念に駆られて戦っているようだぞ』

『……まあ、そうだよね。他のガイアの連中と比べてみても明らかにおかしい』

『まるで先輩に無理矢理灘神影流を教えられているお前みたいだぞ』

『うるっせぇなあ黙れ!』

『……はは』

 

 そんな会話から、淳と二人はよく話すようになった。淳が業界から足を洗うことはなかったが、それでも二人が現れると、戦うのではなく、そっと場を離れて会話をした。

 

 飢えと渇きを癒やすように、空っぽの中身を満たすように。

 

 

 

「ヘルメス!」

 

 戦場は混沌とし、空中でさえも自由ではない。何せ恐ろしき悪魔人間と巫女服のサマナーが終末的な殺し合いを繰り広げている。ビルを足蹴にし、飛び交いながら、破滅的な殺戮の余波を振りまいている。

 

 飛んできた斬撃を、淳はペルソナで打ち払った。しかし不意に思う。この名は正しいのか? この名は確かに己の仮面なのか。

 

『なら、別の仮面を被るかい?』

 

 ペルソナが嘲笑を浮かべる。真っ白な、奇術師の仮面を見せ付ける。

 

『我は汝、汝は我。君は僕だ。僕は君だ。僕を受け入れなよ、僕』

「君は僕じゃない!」

『じゃあ、君って何なのさ?』

「僕は……」

 

 その時、不意に絶叫が響いて悪魔が召喚された。白髭を蓄えた老人が一刀に叩き切った若者の背中から、這いずり出すように悪魔が召喚されていく。

 

 国津神:アラハバキが出た。それも尋常の召喚ではない。その様子に老人は愉快そうに笑い、近くに居たダークサマナーの首を狩った。

 

 事切れたにも関わらず動き出す若者へ、老人は贄を与えるように死体を生み出していく。それら全てを吸って、アラハバキが動き出す。人の肉を得て、アラハバキは限りなく現世に近く降臨する。

 

『ああいうのもあるわけだ。君もああいうのが良いんじゃないかい?』

「なにを……」

『別の仮面が嫌だって言うのなら、そろそろ中身を受け入れなよ。君は仮面に過ぎないんだから』

「なにを……!」

『君は仮面だって言ってるのさ。中身なんて存在しない仮面。僕がサタンの世界に滑り込ませた仮面だよ』

「ぐっ……!」

 

 淳は脳裏に蘇りかけた何かを押し留めようとした。しかし『物真似かい? 君の友達なんて最初から存在しないのに』嘲笑が耳に響く。哄笑が腹の底から湧き出てくる。己が己を笑っている。

 

 心臓から這い出た触手が全身を覆っていく。淳はそんな幻視をした。しかし幻視は確かに心を侵し、冒し、産声を上げようとする。

 

 仮面が割れる。己という仮面が割れる。

 

 割れて生まれたものがこれならば、やはり自分は……。

 

「ペルソナ──アルセーヌ!」

「ロキィ!」

 

 ビルに比肩する巨躯となったアラハバキが、戯れのように<メギドラオン>を放とうとした刹那、青白い輝きが目の前に現れた。

 

 

 

 

 

 

2024年7月16日 19:28

東京都・中野区 中野ブロードウェイ <諏訪咲>

 

 諏訪の心は燃えていたが頭は冷えていた。悪魔人間の合体先は推定ヤマタノオロチ。蛇神を崇拝先とする自分との相性は悪い。それで一度、致命的なまでに追い込まれたことがある。

 

 なればこそ、同じ轍は踏まぬ。

 

 駅前の看板を足蹴にし、飛んだ道路上にて、屈んだ頭の上を拳が通り抜け、艶やかな長髪を焼く。「諏訪ああああ!!!」嬉しそうに悪魔人間が笑うが、諏訪の視線は敵の無防備な腹部にあった。

 

 諏訪は片手に持った異様なまでに古めかしい鈴を中空に投げた。さなぎ鈴。諏訪の神具。りん、と清浄な音が悪魔人間の動きを止め、その間に諏訪は呼吸を整えた。

 

「──シャオラァッ!」瞬間に数十発を腹部に打ち込み、よろめく相手の股下を蹴り上げる。宙に浮かんだ悪魔人間の動きに先んじ、頭の先から足先までを切り裂くような落とし蹴りを放った。

 

 地面に罅が入る。威力に負けて陥没する。しかし尚も悪魔人間は両の脚で立ち「てめえッ!」血に濡れた眼で諏訪を射貫く。初めは四つだったそれは戦闘中に七つに増え、今まさに八つ目が開いた。

 

「チッ」諏訪は舌打ちをした。殺し切れない。元々再生力に優れた異能者だったのか、回復の速度が尋常のそれではない。もっとも、悪魔人間に尋常などと言う尺度を持ち込むこと自体が間違っているが。

 

 自分が一人に構って良い状況ではないというのに、何故かこの悪魔人間は自分を狙ってくる。諏訪は笑っているのか泣き叫んでいるのか分からぬ顔を見つめながら、今日何度目とも分からぬ溜息を吐いた。

 

「お前、マジでなんですの? 私が何かしまして? 生憎、お前のような手合いは多すぎて覚えないことにしていますのよ」

「諏訪っ! 諏訪あああああ! てめえ俺を忘れたとかいうんじゃねえよてめええええええ!!!」

 

 絶叫と共に脇腹から腕が生える。「うわキモッ! ですわ!」思わず口を突いて出たが、しかし三本目の腕は手数として確かに不利になる。

 

 諏訪は思わず懐の管を見た。切るべきか、否か。しかし切ってしまえば最悪の事態が、あくまで可能性としてだが現れる。

 

 この場は既に胎の内。今も瞳を閉じ、異界の維持に力を使っている少女の姿が見えている。その中で呪詛を解き放てば、何が起こるか分かった物ではない。

 

 なによりも「……っは!」脳裏に浮かんだ男の顔。「無理を言うんじゃねえですわよ、ボケホモガキ」あんな殊勝な態度で言われては。

 

「あああああ!? てめえなに笑ってんだてめえ諏訪あああああああ!」

「思い出しましたのよ。お前、本庄と一緒に轢き殺したダークサマナーではないですの。汚らしく生き延びていましたのね? あいつと私が取り逃すなんて珍しい」

「本庄!? 本庄うううううう!!! 本庄も居るのかてめえ諏訪ああああああ!!!」

「なにを興奮してますのよお前」

 

 何故か頭を掻き毟り四本目の腕を生やした悪魔人間に拳を構えつつ、諏訪は半身の姿勢を取る。対して悪魔人間は構えなどなく、狂気のままに身体ごと突っ込んでくる。

 

「しいッ!」伸び出た腕の関節を逆に折り曲げるようなアッパーに、悪魔人間は折れた端から再生することで対応する。「本庄ううう!!! 頭壊れるううううう!!!」五本目の腕が頭を掻き毟り、自らの頭皮を引き千切った。

 

 本当に馬鹿げた相手だ。どこから持ってきたのかも分からぬ情報を見せられ、諏訪は素直に『お馬鹿?』と言った記憶がある。

 

 ガイア教の最古参幹部。悪名高き式神使い。天才ペルソナ使い。元テンプルナイト団長。極めつけがこの悪魔人間だ。その他名のあるダークサマナー共がずらりと並んだリストを片手に、本庄はやけに焦った顔を浮かべていた。

 

『報告、連絡、相談は社会人として基本ですわよ。それとも何? 私を担ごうとしていて? だとしたらありがたいのですけど』

『いや俺も今日知ったって言うか……キョウジがにやけ面で見せ付けてきたのが変な方向に行ったっていうか……』

『あのゴミの言葉に耳を貸すんじゃありません!』

 

 しかし言いながら、諏訪には分かっていた。

 

 見たことのある表情だった。切羽詰まった、どうしようも無いような、らしくない似合ってない似合って堪るものかと言いたくなる顔を浮かべられてしまっては。

 

「ほんっと! クソみたいな男ですこと!」

 

 言うと共に五本目の連撃を紙一重で避け、遠く十字路まで飛び退く。悪魔人間は目を輝かせ、ダークサマナーを数多轢き殺しながら距離を詰める。諏訪は更に引く。地面を飛び、建物の側面を蹴り、一直線に向かってきた相手の顔を空中で蹴り飛ばす。

 

 しかし掴まれた。噛み付かれた。「ぐっ……!」肉を取られる前に振り放ったが傷は深い。咬傷は大きく一つが足首にあり、もう一つ、小さな物が脛に刻まれていた。

 

「あああ。ああ、あのさ」

 

 悪魔人間は首元からもう一つの顔を生やし始めていた。二つの顔が同時に言う。

 

「俺さ、たぶんお前の事殺すと思う。だから遺言聞いてやるよ。本庄に向けて遺言とかない?」

「なんで本庄なんですのよ……。そこはお父様に言わせて欲しいですわ……」

 

 あと阿多様にとか、第一ヤタガラスにとか。そこまで考えて、くす、と諏訪の口元に微笑みが漏れた。

 

 可笑しいものを笑う笑みではなかった。「そうね、遺言ではありませんけど」様々な光景が諏訪の脳裏をよぎって、一つがとても離れがたくて「本庄に言うとしたら……」それでもやっぱり、何時も浮かべるのは違うと思った。

 

「貴方、ロックスターみたい」

 

 だから、この言葉でいい。きっと相応しい言葉を返してくれるだろうから。

 

 それでも、そうならぬようにと、密かな思いを秘めて。

 

 

 

 

 

 

2024年7月16日 19:44

東京都・中野区 上高田中通り <出雲裕子>

 

『侮ってはいなかった』出雲裕子は眼前に立つ敵にそう思った。『ぼくは覚悟して戦場に向かって、それで死ぬんだろう。だけど侮ってはいなかった。ぼくは確かに覚悟していた』

 

 それでも裕子は悔しかった。何も成せぬまま、自分と妹は死のうとしている。足止めと、そう呼ぶことすら出来ないだろう。何せ両者の勝敗は歴然のものだった。召喚を維持できず、管に悪魔を戻して地面に転がった二人と、悪魔を召喚すらしていない相手とは。

 

 狩衣を身に纏い、幾多もの形代を宙に浮かべるダークサマナー、尾崎は失望したように言う。

 

「ヤタガラスの名家、出雲家とは言っても、十五歳ではこの程度か。その年で戦場に寄越されるのだから、大した物ではあるのだろうがね」

 

 そう言って尾崎は、靴先で菊代の指先を踏みにじる。菊代は凄まじい眼で尾崎を睨むが、立ち上がることは出来ない。裕子以上に傷付き、道路の真ん中に俯している。

 

「これが俺の目指したものなのか? これが俺の目指した誇りだったのか? いやいや、子供に勝って何を調子に乗っているという話だ。確かに"家"の一員だろうが、所詮はたかが戦闘員に過ぎない。それこそ……」

 

 そう言って尾崎は空に視線を向ける。裕子もまた空を見た。悍ましき悪魔人間と諏訪が戦っている。恐ろしく、人の域を超えた、殺し合いを演じている。

 

「諏訪。いや、俺の相手はゲイリンかな。九頭翁が出てきたとなれば、奴でも来なきゃどうにもならない。ライドウと坂上は地方にいるという話だからね」

「……諏訪お姉ちゃんが、お前を殺すよ。あの悪魔を殺してね」

「……諏訪お姉ちゃんが、お前を殺すよ。あの悪魔と一緒にね」

「そりゃあめでたい。めでたい限りだ。たかがダークサマナーが諏訪に殺されるとは、冥利に尽きるものだ」

 

 尾崎は皮肉っぽく笑う。『何を笑っているんだ』裕子は家屋の壁に凭れたまま尾崎を睨む。そうだ。そうだとも。こんな男にヤタガラスを侮辱される謂れはない。ましてや"家"の名を持ち出されては。

 

 戦後解体され、再結成されたヤタガラスにおいて、幹部格たる"家"は、単なる貴族であってはならなかった。

 

 暗躍するメシア教とガイア教、そして煩わしい退魔庁を押しのけて、仮にも護国を掲げるからには、"家"こそが護国の剣の第一人者でなければならない。少なくとも出雲裕子はそう教わっていたし、そう育てられてきた。妹の出雲菊代と共に。

 

 オオクニヌシとスクナヒコナ。二神は古事記に著されし時代から共にある対の関係。一神ありて一神あり、一神なくて一神なく。出雲家に代々伝わりし二体の悪魔の管理は、その直系足る双子の巫女に継承された。共に十三の時分である。

 

 天才と、言ってしまえばそれだけだが、端から見れば異常なことなのだろう。『だけど』と出雲裕子は暗夜に薄笑いを浮かべる男を前にして思う。『だけどぼくは、そんなに上等なものではなかった』と。

 

 ヤタガラスの"家"は、確かに特権階級だ。何代もの功績と確かな技術の継承の果てに、ようやく認められる栄光の証。地方に存在する数々の名家がそれを目指し、挫折し、そして恨むようになる。ヤタガラスは新参者を迎え入れようとはしないのだと、見当外れの批判を口にする。

 

『まあ、事実だろうね』と出雲裕子はかつてそう思っていた。しかし致し方ない事実ではあった。彼女は多くの新参者や地方出身者を目にしてきた。ヤタガラスに"家"として認められぬ地方の出が、立身出世を謳い文句に華々しく首都へ出る。改革を求め、改善を要求し、そして実力が足りぬと拒絶される光景を。

 

 全ては実力の問題だ。ただでさえ首都は、一流として語られるに足るレベル30の退魔師がごろごろ転がっている魔境である。裕子自身、地方と首都の実力格差は認知していたし、新参者や地方出身者達にその格差を埋めるだけの才能が無いことも見抜いていた。

 

 しかし、ヤタガラスの態度に保守的なところがあるのも事実だろう。空のままの四天王最後の座に、出雲裕子はそう思ったことがある。二十代目葛葉雷堂。二十二代目葛葉猊琳。坂上公彦。錚々たる顔ぶれだが、及ばずとも名を連ねるに相応しい者は居るだろう。

 

 諏訪咲。諏訪お姉ちゃん。諏訪の現人神。レベル60台の本物の怪物。出雲裕子の憧れの人であり、初めて出会った挫折だった。

 

 あの人が四天王になれない時点で、ヤタガラスの実力主義には疑問が残る。所詮は伝統主義、貴族主義の名目に過ぎないのかと、疑わしくなる。

 

 新参者や地方出身者が"家"を目指すように、"家"が目指すのが四天王の座だった。裕子の父母もそれを期待して二人に悪魔を委ねたのである。

 

 しかしながら、自らを上回る天才が、尚も一名家に甘んじているのならば、どうして自分達がそうなれるだろう。

 

『お爺ちゃん達は誰を待っているのかな? 菊代ちゃん』

『お爺ちゃん達は誰も待っていないんじゃないかな、裕子ちゃん』

『汚い話だね、菊代ちゃん』

『嫌な話だね、裕子ちゃん』

 

 そんな風に妹と語り合って、まあ仕方ないかと諦めて、たかが敬称なんてどうでも良いやと忘れようとして、

 

 彼が現れた。

 

 

 

「しかし、あいつは居ないのかな? こんな奴等よりも、会うのを楽しみにしていたんだが」

 

『あいつ』尾崎は親しみを込めてそう言った。『誰だよ。今の東京でこの野郎と戦えるのは、諏訪お姉ちゃんか、葛葉猊琳様か……』そこまで思って、裕子は強く奥歯を噛んだ。

 

「ねえ」そう言って尾崎は屈み、壁に凭れた裕子と目を合わせた。「ヤタガラスの"家"なんかよりも、余程強い奴が居るだろう?」

 

「本庄を出してくれよ。君達のような雑魚よりも、一年で四天王の座にのし上がった化け物をさ」

 

 本庄。本庄素幸。地方出身者ではない。新参者どころではない。伝統も技術も知識も何もない本当の素人。それなのに、それなのに。

 

「俺も聞いたときは耳を疑ったよ。全くの新人が"家"どころか四天王になるなんて。だけど功績を聞いて納得したな。どころか尊敬すら抱くようになったよ。あのヤタガラスで、あの振る舞いで、本庄は全てを押さえ付けて頂点の一角に立った。ましてや異能すら持たず、転生者ですらなく、単なるサマナーが、だ!」

 

 あの怪物の名を、尾崎は楽しそうに口にした。出雲裕子は思わず唇を噛んだ。かっと胸の内が熱くなった。どうしようもないほどの嫉妬が腹の底に焦げ付いた。

 

「君達はあいつの顔を知っているかい? 俺はまだ会ったことがないんだ。不運にも、いや幸運にも? だけど仲良く出来る自信はあるよ。きっと楽しく殺し合えると思う」

「……お前と本庄が戦ったら、一秒も持たないよ。絶対に。確実に」

「そりゃあ楽しみだ。腕が鳴るという物だな」

 

 尾崎の笑いに、裕子は思い出す。思い浮かべる。東北でガイアが引き起こした大事変、アラハバキ降臨。その間を縫ったのか、それとも初めから本命はそちらだったのか、鹿児島の山奥で引き起こされた事件を。

 

 阿多家もまた、数多の地方名家に同じく、"家"には成れぬ一族でしかなかった筈だった。それがどういう経路を辿ったのか、黒塗りの報告書からは窺い知れないが、結果として忌まわしき二代目葛葉狂死が関わっており、下手をすればヤタガラスが壊滅したかもしれない、という話だった。

 

 葛葉猊琳が慌てた様子で『誰でもいいからとにかく鹿児島に向かえ』と連絡してきた時、二人は我先にと手を挙げた。中学入学を期に首都へと移り住んで以来、確かに挫折はあったが、一方で実力も身につけていた。レベル30という、ヤタガラスにおいて最低限の格も備えている。

 

 だからこそ、噂の新人が気に食わなかった。本庄なんて歴史も何もない、COMPを拾っただけの新人が、何かの間違いで"家"に列されている。大悪魔を討伐したという話もまた、坂上公彦との共同任務である以上、事実かどうか疑わしい。飛行機で向かって、件の村に行くまでは、『地鎮の仕方が分からないだけじゃないのかな』と妹の菊代と言っていた。

 

 しかし、鹿児島に到着し、またヘリに乗り、上から見下ろした村の様子に、裕子は恐ろしく、顔を強ばらせた。

 

 化物が暴れた跡だった。主神クラスの悪魔が顕現して、あろうことか、それが死闘を演じた跡だった。裕子は今でも鮮明に思い浮かべることが出来る。ダークサマナー達……一人ではなく、両の手で数え切れぬほどの数の死体を横目にして、本庄は飄々と『遅ぇよボケ』と言っていた。その足元に、生首が転がっていた。

 

 生首は本庄を相手にぶつぶつ喋っていたが、決して裕子達を見ることは無かった。端から考慮の外にあった。それもその筈だと裕子は思う。何せその生首こそが二代目葛葉狂死。レベル70台の怪物が、本庄に敗れ去った姿なのだから。

 

 故にこそ、その名を軽々しく口に出すことは許されない。本庄素幸の名はそれだけの重みを持っている。それだけの痛みと、輝きを共にしている。

 

 天才と、言ってしまえばそれだけで、だからこそ、数多の天才達の名は、本物の前に陳腐と化した。

 

 ……ふと、裕子は何かを忘れているような気がした。いや、確かにその時、もう一人居たはずだ。二代目葛葉狂死に加担した阿多家の当主とは別に、もう一人。

 

 それが誰だったのか、まるでよく似た少女を知っているような──裕子は思い出そうとして頭痛がした。

 

「おっと、意識が薄れてきているのかな。どっちかを殺せば元に戻るかな? と言うかどっちがどっち?」

「……わたしが妹だよ、タフ野郎」

「……ぼくの意識は薄れてないよ、タフ野郎」

「はは! こんな若い子がマネモブとかもう終わりだねヤタガラス! これも本庄のせいかな? 君達も本庄に淫夢を教えられたりしたのかい?」

 

 だからその名前を口にするなと、立ち上がりかけて尾崎が裕子の腹を蹴り上げた。嗚咽と共に地面を転がる。「裕子ちゃん!」妹の声が遠く響く。ぼうっと空を見上げた。

 

「本気でつまらないな。やはり俺の相手は諏訪か。それともこの子達を縊り殺してゲイリンか本庄を呼び出すか……ってゲイリン来てるの!? マジで!? こうしちゃ居られねえ!」

 

 そうして、尾崎は二人に目を向けることもなく去って行った。

 

 

 

 

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