嘘でした。
疲れたのは嘘ではありませんが、魔界から帰還した後、本庄様を追いかけなかったその理由。それは、私があの人のことを何も知らないのだと、改めて感じたためです。
救世主などではないと、呆れ混じりに否定しましたが、やはりあの人は私の光です。私という王国に凱旋する英雄であり、護国に身を捧ぐ救世主なのです。
しかしながら、その栄誉、名誉を称えるに、私は彼を余りに知らない。その報償が言葉のみであって良いのか。何を喜ぶのか。何を楽しんでくれるのか。その不明が、少し怖かった。
入浴を終え、打ち破れた廊下を歩きながら、私は物思いに耽りました。
ヤタガラスの本拠地は、季節を反映して寒々として、荒涼とした廃屋の片隅には、花を咲かせぬ庭木があるばかり。暗夜に翳す掌の白が、ぼうっと浮き上がるように滑らかです。私には最早、暑いも寒いもありませんが、不意に心が冷えました。
……ああ、ああ。景観が寂しい。心が苦しい。駄目ですね。色々と言いはしましたが、どうしてもユダの言葉が脳裏に残っています。
古めかしい天井。月明かりに浮き上がる陰影。山奥深く、木々のざわめきは悲鳴のようで。そう、こんな冬の日には、じっと寒さが。冷え切った部屋の内に頭から布団を被り、赤子のように身を縮ませ、周囲の一切を存在しない物として扱おうとして、それでも寒さは忍び寄る。厳然としてそこに在るのです。
吐く息が白かったのを、良く覚えています。時折、涙を流したのを覚えています。当時の私には、何が悲しいのかも分かりませんでした。翻って思うに、多分それはこの世の一切に。世の全てを私は恨んでいた。
「……愛しているのに、どうして、冷たく」
寝床に腰を下ろし、本庄様の悴んだ指先を思い出します。冷たかった。確かに冷たかった。いや、道理を弁えた怒りだとは思っていますが、しかし、心の動きとは道理では無い。道理などは打ち捨ててしまえば良い。今更ながらに後悔の念が忍び寄ってきます。
私が彼を愛するのならば、彼を侮蔑する理由など無い。何があろうとも、その行為を肯定し、我が身を賭して守護してみせる。それが慈しむという、愛するという、事でしょう。
なればこそ、どうして私はこう、嫉妬深く。潔癖で。選り好みを。
「不安だから、かな」
ああ、そうでしょう。結婚と、子供のように既成事実を迫るのも、全ては我が身が不安なため。この先に何が待ち受けているのか、不安で不安で仕方なく、踏み出す一歩さえ震えているため。
「親……か」
三面鏡の前に腰を下ろし、私は自分の顔を眺めました。親と子は似る物です。諏訪さんと、諏訪さんのお父さんは、切れ長の目がよく似ています。坂上さんとおじゃる様も、鼻筋の確かさに、しっかりとした口元が、威風堂々としてよく似ています。
その繋がりを、お二人は気にしていません。その遺伝を当然の事として受け止めている。何せお二人にとって、親とは忌避する物では無い。寧ろ自らこそが系譜として、その継承を当然と思っている。
私も確かに似ていましょう。あの、淫売の母に。愚劣な父に。それは、認める。認めざるを得ない。しかし寒い。酷く、寒い。
私に、こんな名前を与えた母の正気を、今更ながらに疑う。それは祝福では無く呪いでしょう。受け継いだ容貌と、受け継がなかった役目に、そんな事を思いました。
私の愛は、そんなものでは無い。私の愛は違う。そんな穢れた物では無く、純粋な、崇高な物なのです。
……ああ、寒い。吐く息が白い。指先に触れる畳の縁が、滑らかに冷たく、そして暗い。
きっと本庄様も寒いでしょう。今夜は酷く冷えるはずだ。今の私とは違い、かつての私のように、一人足を縮ませ眠られるのか。それはとても寂しいことでしょう。
だからこれは、言い訳として……布団を暖めに参上致しましょう。
がちゃりと扉が開く音がして、ぱちりと電気がつきました。三重の毛布に包まった内からでは見えませんが、無事にご帰宅なされたようです。靴を脱ぐ音がして、コートをハンガーに掛けた音がしました。
「ぬわあああああん疲れたもおおおん」呟くように発せられました。「キツかったっすね今日は」話しかけているのでしょうか。あの薄汚い悪魔にですか。「すっげえキツかったゾ~~」自分で返しました。独り言ですか? にしては随分流暢ですね。
「何でこんなキツいんすかね? 辞めたくなりますよ、何かぶっかつぅ~~」ヤタガラスは部活ではないのですが。「どうすっかなー俺もなー」本庄様には二重人格の気があるのでしょうか。少し不安になってきました。
その内に、ベッドへと足音が向かってきます。「脱ぐの早いっすね。シャツがもうビショビショだよ~~……お?」足音が止まりました。
物音がしなくなりました。沈黙が続いています。私はワクワクしてきました。褒められるだろうと思ったのです。故に、ばっ、と布団を開けられて、はにかんで言いました。
「お帰りなさいませ、本庄様! お布団を暖めていましたっ」
すぐに布団が閉じられました。「スゥーーーーーッ……フゥーーーーーッ……?(当惑)」やけに長い呼吸が響いています。暫くして、そろそろと布団が、再び開けられました。
「……器ちゃん、何で居るの?(困惑)」
「今夜は冷えると思いまして……さあ、どうぞ! 入ってきて下さい!」
「秀吉かお前はぁ!」
「……秀吉、さんですか? どなたでしょうか?」
その言葉に、不意に本庄様は眉根を寄せ、酷く嫌そうな顔を浮かべました。
え、と困惑が口をついて漏れそうでした。喜ばれると思ったのです。なのに、どうにも、普段とは違う。
疲れているのでしょうか。疲れているのでしょう。そう思い込もうとする。「……じゃあ、何さ。何で布団の中に」本庄様は眉根に深く皺を刻んで、溜息を吐くように言いました。
「えっ……と。冷えると、思いましてと、そう言いましたよ……?」
「それだけか? 本当にそれだけかい? まさか、真似じゃねえよな」
誰の、何の真似なのか。咄嗟に疑問が浮かびましたが、それでも私は元気よく答えました。この返答こそ愛情です。私が欲しかった物を、貴方に贈りたいのです。
「はいっ! だって、こんな日に一人で寝る布団なんて、冷たくて、寂しい物ではないですか」
「……そうか。それは、そうだね」
言葉とは裏腹に、本庄様は顰め面を浮かべたままでした。「チッ」と、今度こそ舌打ちが漏れ出ました。何でしょうか。私は何か間違いを犯したのか。嫌だ。嫌ですよ。
しかし、そう思ったのも束の間、本庄様は嫌な顔を打ち消し、椅子に座って私と相対して、軽い調子で言いました。
「だけど、中学生がこんな夜更けに、家主の許可も無く、勝手に合鍵を使って入り込むなんて……そんなことしちゃあ、ダメだろ!(マジメ君)」
「結婚しているなら合法です! 多分!」
「……結婚してないって。……つか、はぁ……」
本庄様は顔に手を当て、溜息を吐きました。ぐじ、と腹底に不安が滲みました。願望を否定された事にではありません。そんな事よりも深刻な物が目の前にあったのです。
そんな嫌そうな顔を、貴方は浮かべることが出来るのか。何故、そんな顔を、貴方は浮かべるのですか。あの汚らしい悪魔に対する物や、面倒と口さがなく罵倒する事件に対する物とはまるで異なる、真剣な、心の底からの嫌悪の情が、瞳の色に、口端に、まざまざと浮かんでいる。
笑えれば良かった。罵倒できれば良かった。今日だってあの汚らしい悪魔と共に、サタンを散々虐めたでは無いですか。貴方は何もかもが無茶苦茶で、しょうもなくて最悪で、私の救世主なのですよ。
しかし、口に出来ません。違うのです。これは違う。私が知らない本庄様の顔。今更ながらに、ここが本庄様の自室であるという事を意識しました。ペルソナを超えた、限りなく本性に近い部分。そこに無断で入り込んで、私は何か、柔らかなものを冒そうとしている。
ああ、私は貴方を知らない。貴方は、私の知らない理由で、考えで、何かを嫌っている。
それが嫌で、苦しくて仕方なく、虚勢を張るように私は力強く言いました。
「何ですか。また大学を持ち出しますか。何を学んでいるのか知りませんがね、それはそんなに大事なことなのですか? 留年もしているのでしょう!」
「あー……大事だよ。何のために通っていると思ってんだ」
「……っ」
本庄様の目が、より感情を深めさせ、見たことが無いものに変わりました。それは倦厭するような、触れられたくない物を触れられたような、嫌な目。
「では、本庄様は何を学んでいるのですか!」私は叫ぶように言いました。何故、こんなに声を荒らげているのでしょう。「将来の夢とは言いますがね、言って下さらないから分かりませんよ!」それは知らないからだ。私は、この人を知らない。「一体、何のために私を遠ざけ、何を目指すというのです! 何を!」
「医者」
……不意に、雑多な部屋に転がった、数多の書籍や書類が目に入りました。『標準生理学』『解剖学講義』『病理学』意味の分からぬ表題が刻まれたそれらには、幾多もの付箋が付いていました。
「二十歳、医学生です。多分、それが原因の一つなんだろうな。……そういや、言ったことなかったっけ。俺の夢」
「そ……れは、とても、立派な……」
「そう立派。立派だよな。世の中に回復魔法なんて物がなければ」
疎んじるように、本庄様は本の山を見つめました。何か、残骸を見るような、酷く遠い目を浮かべていました。
「分かっているよ。表沙汰には出来ない。悪魔の証明は、悪魔に力を与えるだけさ。……だから、忙しくて都合が良かった。嫌になるからな。救えるのに、救わないなんて」
「あの……本庄様」
「加えて救世主と来た。俺は世界を救えるんだとよ。だけど無理だ。俺には出来ん。そんな性根じゃ無い。どんなに繕おうとも、俺は俺でしか無い」
私の救世主。私の英雄。やること成すこと全て無茶苦茶で、何時だって笑えるような、愛しい人。
それは、本当に本庄様なのか。私は何か、勘違いをしている。
「なあ、器ちゃん」不意に本庄様は優しく微笑みました。側に寄ってきて、頭を撫でてくれました。
「器ちゃんは、格好良いよな。偉いよ。頑張っている。今日だって、無茶苦茶に付き合わせて悪かったね」
「なんで……そんな、褒めるんですか」
「そうだ、学校に行こうよ。器ちゃんも中学校に行った方が良い。今まで行けなかったんだろう? それはとても、辛いことだ」
努めて明るい声を出して、本庄様は笑って言いました。それが悲しかった。私が貴方に笑顔を浮かべさせている。無理に、繕わせている。
「何、学ぶと言うことは、楽しいことだ。それで人は、悪魔だって倒せたんだ。医学の進歩は迷信を切り払い、悪魔の正体を病魔と断じることも出来た。だから俺の道だって無駄じゃない」
「なら、何故、そんな……悲しそうな、顔を……」
「人は救われるべきだ。誰の手によってでもなく、自らの意思で。だって普通の人間は、他人に差し伸べる手を二つしか持ってないからな」
本庄様は笑います。ああ、ああ。私の髪を優しく梳いて、笑って語りかけるのです。
「器ちゃん、明日から、俺が勉強を教えてあげるよ。信長と秀吉だって教えてあげる。そうして君は、色々なことを知って、住む世界を広げるんだ」
「俺に世界は背負えない。人の一生だって背負えない。俺に出来るのは、俺がやりたかったのは、人を支えることだ。だから……こんな、しょうもない男から、どうか沢山学んでくれ」
「君の人生を、君自身の意思で生きていけるように」
何故か、何故か、涙が溢れてきました。ああ、私はこの人を何にも知らない。本庄様のことを、何にも知らないのです。
どこで産まれたのか、どう育ってきたのか、ご両親は健在か、ご兄弟は居るのか……どうしてそんな、優しい顔を浮かべられるのか。
ああ、この人は、救世主では無い。英雄などではない。私は自らの不明を恥じます。寄り掛かろうとした背中は、只人でしかないのです。
しかし、私は子供で、「ああ」掛けるべき言葉など見つからなくて、「ああ……」本庄様が微笑んで、私を横に寝させてくれました。その腕を、ひしと掴んで泣くのです。
「ユダが、ユダがね、言ったのです。私は、同じだと。裏切ると、嫉妬深いと」
「ユダ? あのサタンの口の中に居た? あんなの負け犬の戯言だ」
「それでも、それでも、不安なのです。苦しいのです。私もあの様に、なってしまうのではないかと」
「それはあいつが馬鹿だからだ。馬鹿は何でも自分と他人を結びつけたがるんだ。気にするなよ」
「私は、人ではありません。私という、魔人なのです」
「君は人だ。だから泣くんだろう」
ああ、ああ。腕枕に頭を乗せて、胸板に涙を押し付けて、母に父に甘えるように、私はこの人を抱き締める。
これが、この人をこうするのだ。これが行き着いた果てが、救世主なのだ。イーノック様は何時だって正しい。この人は、何時か聖油をその身に受ける。只人の運命に、精神に、無理に茨の冠を乗せるのです。
私を救ってくれたように。世界を救ってくれたように。今日の騒動は、その兆しだ。人類が求めし救世主を、トリックスターを、何時かこの人は演じ上げる。
それが、嫌だ。嫌だ。ああ……。
「……おやすみ。……野獣、<ドルミナー>」
「……ん、おかのした」
不意に、そんな声が聞こえて、私の意識は落ちていきました。それでも薄目に、光景が見えました。
私をベッドに置いて、ベランダへと連れ立って行く姿。あの悪魔は、何時になく曇った顔をして、唇を閉じています。そして本庄様の手には。
……ああ、知らなかった。貴方はお煙草を、吸われるのですね。
朝餉の匂いがして、私は目を覚ました。暖かな匂いだ。心が落ち着く、柔らかな朝の匂い。
瞼を開けて、「知らない天井かい?」彼の声が聞こえた。テーブルの上には既に二人分の朝食が用意されている。白飯に味噌汁に焼き鮭。手慣れた物なのでしょう。そつなく配膳し、卓に着いている。
「本庄様」
「ん?」
「少し、よろしいでしょうか」
床に正座をし、彼と相対する。彼は仕上がった朝食の風景を横目にし、静かに私を見つめた。
何かを、言いたかった。だけど私の語彙は少なくて、感情を表わす言葉を知らなくて。ぽつぽつと、覚束なく話し出した。
「私は、貴方の盾になりたいのです」
「それはあいつらで足りているよ」
「私は、貴方の救世主になりたいのです」
「そんなものは必要ない」
「私は、貴方の妻になりたいのです」
「早過ぎるだろう」
そう、優しく諭すような。子供を寝かしつけるような。ああ、私は早く大人になりたかった。あれ程忌避していた大人になりたかった。
誰がこの人を救うというのだ。誰がこの人を守ってくれるのだ。野獣。イーノック様。ニンジャさん。タフの皆様。それらがぱっと脳裏に浮かんで。しかし、それを口にしてしまえば、この柔らかで暖かな朝が壊れてしまいそうで、何より、この人をますます取り返しが付かないものにさせてしまいそうで。
「あいして、いるのです」
「嬉しいよ」
「子供の、言葉と」
「当たり前だ」
「……私は、私はっ」
私は、貴方と共に、生きていきたいのだ。
こんな朝を何度も迎え、その度に笑い合いたいのだ。
私のペルソナを借りて、イゴールは確かに言った。『これこそ精神の到達点が一つ』そんな賞賛は必要ない。イーノック様は確かに言った。『君は完成しないからどこまでも歩ける』歩く必要などない。歩き続ける意味などない。
私は、この人に、立ち止まって欲しい。永遠に、安寧の中に居て欲しい。そのためならば、世界を滅ぼしたって構わない。
それでもこの人は歩むのだ。何故ならば、この人は成し遂げる。自分に出来る事を、出来ると思うことを、成し遂げることが出来る。皆がそう言うのです。そう期待を掛けるのです。この人ならば、世界を救ってくれるのだと。
なんて、不条理。なんて、身勝手な。私は一瞬、全てが憎くなって、しかし彼が浮かべる微笑みに、それを打ち消した。
この人は、そんな事はとっくに承知しているのだ。ああ、だからイーノック様は再び地上に現れたのだ。だからヤタガラスは彼に立場を与えたのだ。神ならぬ人の身で、人の範疇で、その願いが叶うように。彼の柔らかな思いが遂げられるように。
ああ、私はこの人のことを、何にも知らない。その内心の動揺、煩悶、結論に至るまでの経緯全てを。
それが、ああ、そうだ。それが私だ。魔人でも混沌でも化身でもなく、私は子供だ。甘えているだけの、子供だった。
だから……私は。
「学校に、行きます。勉強は、苦手ですが、頑張ります」
「それが良い」
「友達も、作ろうと思います。人は怖いですが、それでも私は、もっと色々なことを知りたいです」
「偉いね」
そう言われ、頭を撫でられて、嬉しかった。だから、そう。だからこれが愛なのか。私は不意にそう思った。
身勝手な願望を押し付けるのでは無く、幻想を抱くのでも無く、ましてや救世主と崇拝するのでも無く。互いを寄せ合う事が愛なのか。
私は、じっと彼を見つめた。彼は眩しそうに私を見つめている。嬉しそうに微笑んでいる。その理由を、私は知りたくて。
「だから私に……阿多あいに、本庄素幸という人を、教えて下さい」
彼は微笑んで、食卓を指し示した。ああ、私は、この人が料理が出来るということも、知らなかった。
「それにしても」
「ん?」
「幾ら何でも、本庄様はネットミームに毒されすぎていませんか? そこだけはどう考えても異常ですよ」
「えっそれは……」
「それも語録ではないですか! これから私と二人きりの時は、そんなものを使わないで下さいよ!」
「ん、んにゃぴ……」
「はい指摘しませんからね! 直して下さい! と言うかCOMPに変な動画を貯めないで下さい! イーノック様だって嫌がっていましたよ!」
「うー……分かったあ……」
「……いっそ、汚らしい悪魔を魔界に送り、強制的にサタンと合体させましょうか」
けっ、と機械の内から騒ぎ立て、飛び出そうとする悪魔を押さえ付ける。出てくるな。邪魔するな。殺意を持って睨み付けて、ようやく大人しくなった。
そうして私は、彼に肩を寄せ笑みを浮かべる。愛していますと、その言葉に彼は、気まずそうに苦笑した。