“水俣病”の原因企業「チッソ」が北朝鮮で行っていたこと

「現代ビジネス」(2021年10月15日公開)に執筆した、解放前の「チッソ」が朝鮮で行なっていたことについての記事を掲載する。

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水銀中毒から原爆開発まで…“水俣病”の原因企業「チッソ」が北朝鮮で行っていたこと
平和国家日本の“不都合な真実”


■ユージン・スミスの「水俣」

映画『MINAMATA』が、全国の劇場で公開されている。制作・主演のジョニー・デップが演じるのは、写真家のユージン・スミスだ。

米国の写真雑誌『ライフ』で発表されてきたユージン・スミスの数多くの名作の中で、遺作となった「水俣」は最高傑作だろう。フォトジャーナリストとしての、私の生き方を決めることになったのもこの「水俣」の写真である。

ユージン・スミスとアイリーン・スミスが水俣で撮影した写真は、写真集『水俣』に収められている。豊かな海での漁、水俣病患者たちの日常の姿と原因企業「チッソ」との闘い……。これらを、深いモノクロームの世界として実に美しく描いているのだ。

とりわけ私が衝撃を受けたのは「入浴する智子と母」と題された写真だ。古くて薄暗い浴室で、母親が胎児性患者の娘を抱いて湯船に入れている。窓から差し込む柔らかい光がその2人を包み、母親は愛おしさに満ちた眼差しを娘へ向ける。この1枚の写真が、水俣病の悲惨な実態を世界へ伝えたといっても過言ではない。

熊本県の「日本窒素肥料株式会社」(後のチッソ株式会社)は1932年から、有機水銀(メチル水銀化合物)を含んだ排水を水俣湾へ流し続けた。そのため汚染された海産物を食べた人たちが、深刻な有機水銀中毒を起こした。認定患者数は熊本県・鹿児島県を合わせて2283人(2020年5月現在)でしかなく、今もこの大規模で深刻な公害事件は解決していない。

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水俣湾(1983年9月5日撮影)

すでに1942年には水俣病患者が出ていた。企業を規制しなかった政府や熊本県の重大な過失もあるが、何よりも工場排水に原因があることを認識しながらも1968年まで操業を続けた「チッソ」に責任がある。この企業は、それまでの会社の隠された“負の歴史”に根差した企業体質から、深刻で大規模な有機水銀中毒を隠し続けて水俣病を引き起こしたのである。

■国策で建設された「朝鮮窒素」

「日本窒素肥料」(以下、日窒)の創業者である野口遵(のぐち・したがう)は1927年、日本が植民地支配をしていた朝鮮において、世界で最大規模の化学コンビナート「朝鮮窒素肥料」を建設した(1941年に「日本窒素肥料」へ吸収合併)。

「チッソの歩みはわが国化学産業の歴史でもあります。1906(明治39)年、初代社長野口遵よって鹿児島県大口市に建設された水力発電所がその第一歩となりました。

1908(明治41)年には豊富な電力と石灰石を活かして、熊本県水俣市でカーバイドの製造を開始。社名を日本窒素肥料株式会社と改め、さらに当時の最先端技術であった石灰窒素や硫安の製造にも着手して、化学会社としての礎を築きました。(略)

1927(昭和2)年には北朝鮮に拠点を設立して、水力発電を中核とする世界屈指の大規模化学コンビナートを展開。事業分野も化学肥料や工業薬品、合成樹脂、金属精錬など広範囲におよび、総合化学会社としての地位を確立しました」(「JNC株式会社」と分離する前の「チッソ」ウェブサイトより)。

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中国側から見た水豊ダム(1996年10月3日撮影)

野口は植民地朝鮮で、水力発電事業を自らが興すことによって、安価に硫安を製造する計画を立てた。社運を賭けた事業だった。

1926年に100パーセント出資の「朝鮮水電」を設立し、鴨緑(アムノック)江の支流にあたる赴戦(プジョン)江にダムと4ヵ所の発電所を建設。合わせて、約20万キロワットの発電能力があった。建設工事では事故と厳しい寒さで、朝鮮人と中国人の労働者数百人が死亡した。

後に「興南工場」の拡大によって電力が不足すると、新たに長津(チャンジン)江に発電所を建設。そして野口による発電事業は、中国との国境を流れる鴨緑江での巨大な水豊(スプン)ダム建設へと発展していった。琵琶湖の約半分もの広大なダム湖を造り、発電機7基で約70万キロワットを発電した。

朝鮮の東海岸にある咸鏡南道(ハムギョンナムド)の興南(フンナム)は、百数十軒ほどが半農半漁で生計を立てている寒村だった。

「野口さんは山の上から手で指さして、『あそこからここまで買収せえ』といわれました。それがだいたい半径2キロメートルぐらいでした」(尾家麟祉『聞書 水俣民衆史5』岡本達明・松崎次夫編)

「朝鮮総督府」と警察を使って地主たちの反対を押し潰し、この地で生計を立てていた人々を追い出した。そして約1700ヘクタールもの土地を手に入れる。

興南工場の全景(『北鮮の日本人苦難記』より)
興南工場の全景(『北鮮の日本人苦難記』より)

この場所に朝鮮窒素の「興南肥料工場」「興南精錬所」「本宮カーバイト工場」「アンモニア合成工場」「電解工場」を中心に、系列会社として「朝窒火薬」「日窒鉱業開発」「朝鮮石炭工業」などを次々と建設。朝鮮窒素は植民地・朝鮮での、重化学工業の中心となった。

日窒のある水俣からは多くの人が、植民地での豊かな生活を求めて興南へ移った。従業員数は年とともに増加して1945年には4万9000人にもなり、興南全体で約18万人もが暮した。巨大な企業城下町が出現したのだ。

DSC_8397興南の日本人埋葬地からの日本窒素の住宅地跡
興南の日本窒素の住宅地跡(2012年9月12日撮影)

肥料生産から始まった日窒は、朝鮮の豊富な地下資源や電力、そして安価な労働力を使い、次第に経営規模を拡大していった。それは朝鮮総督府と文字通り一体となって行われた。そして日本がアジア太平洋戦争へと向かうにつれ、軍部とのつながりを強めていった。軍との共同事業も行なわれるようになり、民需を切り捨てて軍需産業へと変わっていく。

また日窒は朝鮮で得た巨額の利益を基に、日本の傀儡国家「満州」と植民地支配下の台湾、日本軍占領下の海南島・インドネシア・シンガポールなどでも事業を展開した。

「聖戦下に於ける『日本窒素』はいまや一営利会社として之を見るべきでなく、一大総合化学国策会社と云ふべきであろう」(『日本窒素肥料株式会社事業概要』1940年刊)

と自ら述べているように、アジア諸国において軍事力を背景に資源と権益を求めた日本の国策に積極的に協力することで、肥大化していった企業だった。

■14歳で工場へ連行された尹昌宇さん

私は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)取材をする中で、戦後に水俣病を引き起こした「日本窒素」という企業が、朝鮮に建設した巨大化学コンビナートで何をしていたのか大きな関心を持つようになった。かつてそこで働き、今は平壌(ピョンヤン)で暮らす元労働者と会うことが出来た。

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尹昌宇さんの自宅の机(2005年5月5日撮影)

尹昌宇(ユン・チャンウ)さんが植民地時代に暮していたのは、江原道(カンウォンド)淮陽(フェヤン)郡。1942年8月20日のことだった。暗くなってから、一人の警察官と鳥打帽にゲートル姿の3人の男たちが家へやって来た。

理由を告げられることなく、尹さんは家から引っ張り出された。泣きながら止めようとした家族は、「この時局において若い奴は働くべきだ!」と一喝された。まさしく、本人の意思に反した“拉致”である。

まず連れて行かれた警察署には、130人の若者が集められていた。その場で北海道の炭鉱と横須賀海軍工廠という日本行きの組と、朝鮮内の興南肥料工場と阿吾地(アオジ)炭鉱などに振り分けられた。この時、尹さんは14歳。当時のその年齢では、体格も小さかった。尹さんは興南工場へ送られることになり、列車に乗せられた。

興南工場について、日本人従業員の立場から書かれた本がいくつかある。『北鮮の日本人苦難記-日窒興南工場の最後-』(鎌田正二)には次のように記載されている。

「戦争が末期に近づくにしたがって、日本人労働者だけでなく、朝鮮人の募集も難かしくなってきた。そして農村から朝鮮人を強制的に工場に連れてくることが行なわれた。そして最初に行なわれたのが産業報国隊である。略して産報隊という。

まず工場からこの産報隊の出動を、道(どう)を通じ総督府に申請する。総督府はそれを道に、道は郡に、郡は面(めん)に割り当ててゆく。面は出動可能者の名簿から出動する産報隊員を選ぶ」

尹さんは後に、警察官と一緒にやって来た私服姿の男たちの正体を知った。それは面役場の役人2人と、興南工場の朝鮮人寮の舎監だった。

■巨大化学工場の労働現場

私は尹さんの体験を聞いていて、日窒興南工場の跡でドキュメンタリー映画を撮影することを計画した。その場所は、現在では「興南肥料連合企業所」(以下、企業所)となっている。北朝鮮の重要な化学工場の中での撮影である。「取材は不可能」と何度も断られたものの、2005年に何とか3日間の撮影許可が出た。

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興南工場で働いた3人(2005年5月7日撮影)

企業所は、尹さんと同じように日窒で働いた地元の人を工場へ呼んでくれていた。工作機械工場で働いた朴斗満(パク・トゥマン)さんと、産業報国隊として連れて来られて土木作業をした全熙龍(チョン・ヒリョン)さんだ。

工場の副技師長が、尹さんが働いた硫酸工場のあった場所へ案内してくれる。労働者の姿はまばらで、施設は稼動しているが老朽化が目立つ。周囲をしばらく歩き回っていた尹さんは「当時の面影はまったくない」と言う。

アジア太平洋戦争が始まると軍需工場である興南工場は、憲兵が構内を巡回するようになった。そうした戦時体制下の工場で、尹さんたちは働いた。

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尹昌宇さんとかつて働いた工場跡(2005年5月7日撮影)

「仕事内容についての何の説明も安全教育もなく、工場へ着いた日から働かされました。そのためその日の内に、雑巾で機械を拭こうとしてそれに巻き込まれて腕を失った人がいました。

私に与えられたのは濃硫酸を扱う仕事です。この工場の煙突からは、黄色い煙がいつも上がっていました。構内にもその煙が漂っていて、嗅ぐとくしゃみが出ます。ここに1年間もいると肺結核になるんですよ。もっとも有害なガスを出したのはこの硫酸工場で、その次がアンモニア合成工場でした」

尹さんはこう語った。続いて朴斗満さんは次のように話した。

「工作機械工場ではベルトに手足を巻き込まれる事故が毎日のように起き、死亡することも多かったんです。しかもケガをすると、工場から追い出されました。ひどいのは、マグネシウム生産工場ではガスの中で働くのに、マスクをすることができたのは日本人だけだったことです!」

日本語をほとんど知らず、農村で暮らしてきた朝鮮人の少年たちを、巨大化学工場でいきなり働かせたのだ。話を聞いた3人からは、日窒による朝鮮人労働者への非人間的・差別的な扱いについての厳しい批判が続いた。

彼らの話を裏付ける日本人従業員の証言がある。

「興南工場には安全という言葉はなかった。硫酸工場なんか、焙焼炉の調子が悪いときは、黄色い亜硫酸ガスがもうもうです。(略)あそこは第5硫酸工場まであったが、胸をやられて大分死んどるですよ」(川辺渉、『聞書 水俣民衆史5』)

「工場のあちこちに立籠める亜硫酸ガス、アンモニア、塩素などの臭気、ごうごうと耳を聾する機械の噪音、思わぬとき動いてくるトロッコやウインチ、工場は恐ろしい所と感じたにちがいあるまい。

どうしてこんな事故が起きるのだろうと思われる予想外の事故がいく度も起きた。トロッコに挟まれて死んだもの、バケットエレベーターにはまりこんで死んだもの、デッキから落ちて死んだもの、いままで考えられなかった事故が産報隊に起きた。死亡事故は各工場で月1、2度にも上った」(『北鮮の日本人苦難記』)

このような極めて劣悪な労働現場では、労働災害が頻発しただけでなく“奇病”も発生することになる。

興南工場内部(『聞書 水俣民衆史5植民地は天国だった』)
興南工場内部(『聞書 水俣民衆史5』)

興南工場の従業員数は1940年を境に、日本人は朝鮮人よりも少なくなった。そして戦争末期には、日本人従業員の約3分の1が軍隊に召集された。朝鮮内で労働者を補充しようにも、体力のある青年たちはすでに軍隊や労働現場へ連行されていた。

そのため興南工場は、朝鮮内の高等学校と大学から約2000人を学徒動員しただけでなく、囚人約1000人、英国軍とオーストラリア軍の捕虜350人も使った。敗戦時には、従業員全体の約80パーセントが朝鮮人だった。尹さんの話は続く。

「産業報国隊として工場へ連れて来られた朝鮮人は40~60歳で、朝鮮人労働者の約40パーセントが子どもたちです。工場の管理者はすべて日本人で、肉体労働は朝鮮人がしました。朝鮮人10~15人に1人の監督が付き、先端から金属の針が出るステッキを持って監視していたんです。それで刺されると血が出ました」

植民地にやってきた日本人労働者たちは、朝鮮人に対しては「支配者」として振る舞った。

「朝鮮人とどうやって仕事するか上から指示があった。(略)『朝鮮人はぼろくそ使え。朝鮮人からなめられるな』といわれた。朝鮮人は人間として見るな、人間の内に入れちゃならんぞという指示じゃ、て私はすぐ思った」(松本逸、『聞書 水俣民衆史5』)

「植民地には金とか李という個人は居らん。田中と金も居らん。居るのは日本人と朝鮮人だけ、あるのは民族と民族の関係だけたい」(三浦誠、『聞書 水俣民衆史5』)

給料は、朝鮮人と日本人とでは大きな格差があった。本給そのものに差があるだけでなく、日本人には15パーセントの朝鮮勤務手当がついた。給料について尹さんは次のように語る。

「(尋常高等小学校)高等科を卒業した日本人は1日3円50銭なのに朝鮮人は1日79銭で、徹夜勤務をしても1円20銭でした。『国防献金』『皇軍見舞金』を強要され、工具を壊すと弁償させられ、遅刻や早引けすれば罰金です。

工場の供給所で歯ブラシや靴下を買うと、高い値段で給料から天引きされたんです。散髪代さえ残っていない時もありました。農村で暮らしている時にはなかったのに、工場へ来てから私の心には日本人への反発や反抗心が起きました」

■大火傷を負っても廊下に放置

私と尹さんたちは、植民地時代に建設されて今も残る施設へ向かう。構内が広いので車での移動だ。車を降り、副技師長の後について古くて大きな建物へ入る。ここはかつてのアンモニア合成工場で、肥料工場でもっとも重要な施設だという。

「アンモニア合成工場や窒素工場といった重要施設には、朝鮮人を近づけさえしなかったんです」と副技師長が言う。日本人の次の話からもそのことが分かる。

「合成工場の最重要部署である、合成塔操作、分析、カタライザー(触媒)製造などには、朝鮮人は一人もつけていません」(前田通、『聞書 水俣民衆史5』)

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日窒が建設したアンモニア合成工場跡(2005年5月7日撮影)

建物内部は完全に廃墟と化している。崩れ落ちた屋根からは空が見え、錆びついた大きな鉄骨だけが残る。1980年代半ばにこのアンモニア合成工場は廃棄され、新しい工場が別の場所に造られた。

この企業所へは、日朝間での民間交流が盛んな時期には日本からの訪問団や記者が訪れた。だがそうした日本人たちが何度交渉しても、植民地時代の施設は見せなかったという。「見せるのは最新設備だけ」ということなのだろう。

「当時の施設を全面的に公開するのは今回が初めて」と副技師長は何度も強調した。植民地時代の施設はもはやこれしか残っていないが、工場正門横にある「興南肥料革命史跡館」には当時の工場設計図や技術書などの現物が展示されている。

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興南肥料連合企業所(2019年5月24日撮影)

尹さんは、自分が重傷を負った時のようすを話し始めた。

「1943年9月15日。監督の山下が、硝酸の入った陶器の容器を運ぶよう私たちに命じました。これは普段は大人がやっている作業です。トロッコに載せて構内を運んで来たものの、40~50キログラムもある容器を少年たちだけで降ろすのが問題でした。

2人で容器を抱えたところ、相手の人が手を滑らせたんです。傾いた容器を私は支えきれず、落としてしまいました。レールにぶつかって割れた容器は爆発し、その時から5日間、私の意識はありませんでした。友人から後で聞いた話だと、私は肥料工場の付属病院へ運び込まれました」

この病院には医師30人と看護師100余人が勤務し、200以上のベッドがあった。尹さんとその場所へ行ってみたが何も残っていなかった。

尹さんが友人から聞いた話が続く。

「医者が『公傷か私傷か』と聞きました。すると監督は、『本人の不注意によるケガだ』と言ったんです。公傷であれば監督責任が問われるからです。私傷とされた私は、治療や入院の費用を負担できないため、治療もされずに病院の廊下へ放置されたんです。

火傷は3度で、全身が風船のように腫れ上がりました。『工場が責任を取るべきだ!』と朝鮮人労働者たちが声を上げてくれ、ストライキ寸前にまでなったんです。そのため工場側が調査を行って公傷という結論になったので、ようやく病院は治療を始めました」

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右目を失った尹昌宇さん(2016年2月17日撮影)

「人が死ぬということは、関心がなかったですね。(略)警察に呼ばれることもない。人が亡くなっていわゆる公傷といったんですね。ガス吸って病気になって死ねば私傷です。まして、朝鮮人が死んだって風が吹いたほどにも感じない」(横井三郎、『聞書 水俣民衆史5』)

会社にとって朝鮮人労働者は、「消耗品」でしかなかったのだ。こうした興南工場では、待遇だけでなく劣悪な職場環境の改善を求めて、日本人と朝鮮人の従業員によるストライキが頻発していた。尹さんは、朝鮮人労働者たちの怒りによって救われたのだ。

1945年8月15日、朝鮮は解放された。だが尹さんの体は、右目を失い全身にケロイドが残るという深刻な状況だった。

「溶けて塞がった鼻の穴などの火傷痕の手術を何度も受けました」と尹さんは言う。

私が尹さんの顔を最初に見た時、広島か長崎での被爆者だと思った。長い歳月が過ぎてもひどいケロイドが残っているほど火傷はひどかった。ところがその尹さんは驚くほどの努力をして、政府機関紙『民主朝鮮』の記者になって活躍したのだ。

この日窒興南工場に関する取材の一部はTBS系列「報道特集」で放送し、映画『銀のスッカラ』として公開している。

■日本が密かに進めていた原爆開発

北朝鮮に1992年から取材のために43回通ったが、日本による植民地支配の実態を知るための取材も数多く行なった。そうした時に、日窒興南工場で核開発が行なわれていたという話も聞いた。尹昌宇さんも「表向きは肥料工場となっていましたが、爆薬だけでなく核兵器の製造に使われる物質を大掛かりに製造しようとしていました」と語る。

日本が行なった核兵器開発は、戦後はそれにかかわった原子物理学者たちが口を閉ざしたものの、その内容はかなり明らかになっている。ただ朝鮮で実施した核開発については、北朝鮮やロシアのメディアが興南沖での核実験について報じたことはあるが、その実態は分からなかった。

米国政府は日本の核開発に対する徹底した調査を行ない、その内容は長らく最高機密として米国国立公文書館に眠っていた。だがその中の興南で行なわれた核開発について、その一部が明らかになったのである。

「日本が第2次大戦中に核開発を進め、興南の沖合の小島で1945年8月12日に核実験にも成功していたことは、(略)各種資料、特に米政府内部で秘密文書に基づき調査していたトニー・トルバとドワライト・R・ライダーの発言からも、明らかである」(『世界が隠蔽した日本の核実験成功』矢野義昭)

「ライダーによれば、興南は日本の核努力の『頭脳』だった。占領地域から送られてくる資源がここに集められた。興南ではウラン鉱石の精錬も重水の製造もできた」(同上) 

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端川のマグネサイト工場(2003年5月8日撮影)

朝鮮半島北部は、マグネサイト・タングステン・モリブデン・黒鉛、そしてウランなどの鉱物が確認されている。「興南には(略)大規模なウラン235の分離を行う能力を持った産業施設と電力があり、試験的な分離装置が設置されていた」(同上)という。

核開発に必要なウラン鉱石の精錬や原子炉の減速材として使用する重水を製造するための膨大な電力が、興南にはすでにあったのだ。

■研究成果狙うソ連と中国

1945年8月9日にソ連軍は、中国東北地方とともに朝鮮へは北端の国境から侵攻。そして東海岸を一気に南下した。私がインタビューした3人の朝鮮人の元労働者は、工場側はソ連軍が来る前に施設を爆破しようとしたが朝鮮人労働者たちが阻止をしたと語った。

DSC_3988ロシアとの鉄橋と中国の展望台
北朝鮮から見たロシア(右側)と中国との国境(2015年6月21日撮影)

興南工場を占領したソ連軍は核に関する設備を持ち去らず、開発を続けた可能性がある。また、日本人技術者ごとその設備をソ連へ移したという見方もある。いずれにせよソ連は、1949年には原子爆弾を完成させた。

1950年6月25日に、朝鮮戦争が始まる。米軍は興南工場に対して7月30日から4日間にわたって、B29爆撃機で工場施設を徹底的に破壊。使われた爆弾は1500トンだという。工場を案内してくれた副技師長は「朝鮮戦争で工場施設の約80パーセントが破壊された」と語った。

「注目されるのは『朝鮮で巨大な核工場施設を一掃』と題する豪州紙『キャンベラ・タイムズ』の1950年11月28日付東京発の記事である。『原子爆弾の材料が、興南のギアン火薬と化学の作業場で、B-29 により完全に破壊されるまで、造られていた』」(『世界が隠蔽した日本の核実験成功』)

また『ニューヨーク・タイムズ』1950年10月26日には、韓国軍が興南郊外でウラニウム処理プラントを発見したとの記事があるという。ソ連管理下の北朝鮮で、工場が破壊されるまで核関連の作業が行なわれていたというのだ。

こうしたことは9月25日に仁川(インチョン)へ上陸した米軍などが興南も占領し、そこでの核開発について徹底した調査を行なって判明したのだ。

興南での日本の核開発に対する戦後のソ連と中国の対応を、『世界が隠蔽した日本の核実験成功』を執筆した矢野義昭氏は次のように見ている。

「ソ連の大戦末期の突然の北部朝鮮急襲も、朝鮮戦争への中国の参戦と長津貯水湖での激戦も、興南の核施設奪取が主な目的だった」(同上)

日窒が水力発電のために建設した長津湖で行なわれた戦闘は、1950年11月27日に始まった。米海兵隊第1師団など連合国軍約1万5000人は、長津湖周辺で中国人民志願軍8万5000人に包囲され、興南に退却。米軍は約3000人が死亡し、12月24日に興南港を500トンの爆薬で破壊して撤退した。

なお中国では現在、この激戦を描いた映画『長津湖』が、9月30日から上映されている。制作費は約222億円で、10月1日の国慶節に合わせて公開されたこともあり大ヒットしている。

矢野氏は興南などで日本が行なった核開発の上に、戦後のソ連と中国の核実験とその保有があり、北朝鮮の核開発の潜在力は日本の成果を継承したものだとする。

「日本窒素肥料興南工場」で、核開発が行なわれていたのは間違いないだろう。にもかかわらず、そのことは戦後の日本で問題にならなかった。それは、朝鮮戦争へさまざまな形で“参戦”して多くの死者を出したことと同じように、「平和国家・日本」にとって“不都合な真実”だったからだろう。

■引揚げと集団埋葬地

興南について語るならば、敗戦後にその地域いた日本人が置かれた状況に触れざるを得ない。

1945年8月9日、朝鮮へ侵入したソ連軍は日本軍の反撃をほとんど受けることなく一気に南下。9月中旬になると興南へも、ソ連に近い咸鏡北道(ハムギョンブクド)などからの日本人避難民が次々と到着した。日窒興南工場の寮や飯場などには、約1500人の避難民や捕虜となった日本軍将兵が収容された。

DSC_8508興南法要
興南の日本人埋葬地での法要(2012年9月2日撮影)

朝鮮半島の北緯38度線より南を占領した米軍と異なり、ソ連軍は日本人の帰国を認めなかった。そのためソ連軍管理下で、寒さと栄養失調・伝染病で死亡した日本人は約4万人にも達した。

興南では民間人3042人、日本軍将兵約1900人が死亡。救いの手を差し伸べる人がいなかった工場の日本人少年工なども死亡した。彼らは、工場から遠くない集団埋葬地に今も眠る。

北朝鮮に残された日本人遺骨ついては「現代ビジネス」掲載の拙稿「戦後75年、北朝鮮に眠る『日本人遺骨27000柱』をどう考えるか」に詳しい。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74848

■朝鮮では「興南病」

水俣と同じように、興南でも従業員の間で“奇病”発生の噂があったという。

石原信夫医師は、熊本大学文書館の「<水俣病>研究プロジェクト」で「水俣病の前に興南病があった 水俣病は晴天の霹靂ではない」と題した論文を発表している。その中で、日窒は水俣病よりも前に、興南工場で有機水銀中毒による「興南病」を引き起こしていたことを明らかにしている。

「操業開始後の早い時期(1936年頃)には、アセトアルデヒド生産の結果である有機水銀中毒の危険性が存在していたと推測できる。

(略)『興南病』と名付けられた疾患は専ら工場内で発生していた中毒症であり、原因物質はアセトアルデヒド合成で副生された有機水銀(多分、メチル水銀)による中毒であったと結論できる。つまり、興南病はアセトアルデヒド合成の結果としての有機水銀中毒であり、水俣病との関連で考えねばならないと言える」(石原論文)

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興南の海(2018年2月21日撮影)

そして興南工場でのアセトアルデヒド生産量や、そのための水銀消耗量と有機水銀の副生量は水俣以上であり、有機水銀中毒発生の危険性は水俣を上回っていた可能性があるという。

またその廃棄物は、無処理のまま海に投棄されていたと考えられるとする。ただそこが水俣湾のような限定された海域でなかったため、海流によって希釈拡散されただけなのだ。

「興南からの引揚者の多くは、かつて興南で発生していた『興南病』に関するかなりの情報を持っていた筈であるが、水俣工場再建に際しては殆ど考慮しなかった」(石原論文)

このように巨大化学コンビナート「日本窒素肥料興南工場」は、朝鮮総督府や軍と一体の国策会社として核兵器開発を含め戦争遂行に大きく加担。その中で、労働者の命や健康をまったく顧みない企業体質となった。

その結果、興南工場で起きた有機水銀中毒を教訓とすることなく、水俣で再びより深刻な被害を引き起こしたのである。

(写真は、引用以外は筆者撮影)


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プロフィール

伊藤孝司

Author:伊藤孝司
フリーランスのジャーナリストとして長年にわたりさまざまな取材を行い、数多くのメディアで発表してきました。
海外取材は約200回で、そのうち朝鮮民主主義人民共和国へは40回以上です。現在、年2~3回の訪朝をしています。
掲載写真は、引用先が非表示のものは筆者撮影です。なお、このブログに掲載している映像と文章は日本の「著作権法」と国際的な著作権条約で保護されており、無断使用はできません。転載を希望される場合は、事前にご連絡ください。

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