1959年に始まった北朝鮮への在日朝鮮人「帰国事業」とは何だったのか
「現代ビジネス」(2021年9月26日公開)に執筆した在日朝鮮人の帰国事業についての記事(前編・後編)を合わせて掲載する。
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1959年に始まった北朝鮮への在日朝鮮人「帰国事業」とは何だったのか
日朝両国政府の思惑に翻弄された人々
■コロナ禍でも軍事力強化
コロナ禍による「鎖国」状態の中でも、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)はさまざまな動きを見せている。
9月9日午前0時から、平壌(ピョンヤン)市の金日成(キム・イルソン)広場で、建国73年を記念する軍事パレードが開催された。ひときわ目立ったのは、オレンジ色の防護服を着て防毒マスクをした一団。新型コロナウイルス対策のための防疫部隊なのだろう。
「労農赤衛隊」のパレード(2008年9月9日撮影)
今回のパレードは正規軍ではなく、労働者や農民などによる「労農赤衛隊」や、警察にあたる社会安全省などが参加した。こうした民兵組織による軍事パレードは、私が取材した2008年のように、過去にもあった。
今回の民兵による行進を見て気づいたのは、「ガチョウ足行進」の変化だ。延ばしたままで大きく振り上げる足の高さが低くなっているのだ。この行進が大変な体力を要することを配慮したのか、準備期間が短かったのだろう。
北朝鮮の軍事パレードについては「現代ビジネス」掲載の拙稿「北朝鮮が『ド派手な軍事パレード』で新型ICBMをお披露目する理由」に詳しい。
そしてより大きな出来事としては、相次ぐミサイル発射実験である。11日と12日に発射された長距離巡航ミサイルは「2時間6分20秒飛行し1500キロメートル先の目標に命中した」という。これは日本各地の米軍基地にも到達する距離だ。そして15日には、列車からの短距離弾道ミサイル2発の発射実験を実施。これに対し、米国や日本は強く抗議した。
「朝鮮中央通信」は 17日、韓国が同じ15日に発射した潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)について、次のように反発した。
「米国は15日、あいにく同日同時に朝鮮半島で響いた爆音を聞きながらも、『北朝鮮の行動は米国と国際社会に対する脅威』と言い掛かりをつけ、南朝鮮の行動に対しては押し黙った」
米国も日本も2017年の深刻な危機をすっかり忘れているかのようだが、北朝鮮は米国の首都ワシントンまで到達する核弾頭搭載の弾道ミサイルを完成させている。北朝鮮はトランプ前政権時に、核兵器と長距離弾道ミサイル(ICBM)の実験凍結という譲歩をした。
バイデン政権が「前提条件なしの対話の呼びかけに、北朝鮮が前向きに応じることを望む」といくら繰り返しても、米国が制裁の一部解除や米韓合同軍事演習の完全中止などに踏み出さない限り、危機はいつか確実に再来する。ボールは、バイデン大統領の手にあるのだ。
■帰国事業」をめぐる動き
日本国内では北朝鮮について、「帰国事業」に関する動きがいくつか出てきた。ドキュメンタリー映画『ちょっと北朝鮮まで行ってくるけん。』が、各地の劇場で公開されている。帰国事業で、在日朝鮮人の夫と北朝鮮へ渡った日本人妻・中本愛子さんをめぐる話だ。
私が咸鏡南道(ハムギョンナムド)の咸興(ハムン)市で、中本愛子さん(1931年生まれ)ら日本人妻と、唯一の残留日本人の荒井琉璃子さん(1933年生まれ)と会ったのが2017年4月。その後、2019年10月までに7回の訪朝をして、残留日本人・日本人妻と北朝鮮経済などを取材。テレビで6本の番組を放送した。
中本愛子さんと日朝の家族(2019年7月18日撮影)
私はその内の5回の訪朝で、3人のビデオカメラマンを連れて行った。その一人が、日本電波ニュース社の島田陽磨氏。『ちょっと北朝鮮まで行ってくるけん。』は、私を含む4人が北朝鮮で撮影した日本人妻に関する映像に、島田氏による日本国内での取材を加えて日本電波ニュース社が制作したものだ。
そして帰国事業についての最も大きな動きは、東京地裁で10月14日に第1回口頭弁論を迎える「北朝鮮帰国事業損害賠償請求訴訟」だ。
帰国事業で北朝鮮へ渡り2003年に北朝鮮を出て日本へ戻ったいわゆる「脱北者」の川崎栄子さん(79)が、同じ体験をした4人とともに北朝鮮政府に対して、1人あたり1億円の損害賠償を求めるというものだ。
この訴訟の争点は、「北朝鮮が(1)虚偽の宣伝で渡航を勧誘したこと(2)渡航後に出国を妨害したことが、一体の不法行為だと認定されるか否かだ」(「産経新聞」WEB版、9月10日)という。
この口頭弁論のために8月16日、東京・霞が関の東京地裁前の掲示板に、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長の出頭を求める呼出状が掲示された。
国家の行為や財産には外国の裁判権が及ばないとした、国際法上の「主権免除」の原則がある。ところが東京地裁は、「日本は北朝鮮を国家と承認していないため該当しない」との原告側の主張を認めた。そして呼出状とともに資料目録を掲示することで、被告側に資料が届いたとみなす「公示送達」という措置を行なった。
私はこの訴訟が、北朝鮮政府だけを相手にしていて日本の政府やメディアを対象にしていないことと、日本へ戻ってかなり年月が経ってから起こしていることが理解できない。「今回の裁判を、北朝鮮の現政権を崩壊させるきっかけにしたい」(同上)と川崎さんが述べているように、反北朝鮮のキャンペーンでしかないのではないか。
この訴訟を報じた記事の中には、不正確な記載もある。そこで本項では、帰国事業がどのようなものであったのかを、近年集中的に取り組んできた北朝鮮の日本人妻たちへの取材を踏まえて整理してみたい。
■日本政府の追放政策
1959年12月から在日朝鮮人の帰国事業が始まり、9万3340人が北朝鮮へ渡った。その内、日本国籍者は朝鮮人と結婚していた日本人配偶者とその子どもの6679人。日本人配偶者はその中の1831人で、ほとんどが女性だった。私が取材した日本人妻の中には、日本国籍を放棄してから帰国船に乗ったと語る人がいることから、実際にはもっと多いのだろう。
なぜ、これほど多くの在日朝鮮人と日本人が北朝鮮へ渡るという大事業が行なわれることになったのだろうか。
日本による朝鮮植民地支配によって、朝鮮半島から膨大な数の朝鮮人が日本へ渡ってきた。過酷な植民地政策によって生活できなくなった家族や、本人の意思に反して「徴用」などによる労働者として玄界灘を越えてきた人たちだ。日本で暮らす朝鮮人は、もっとも多くなった1944年には約194万人にも達する。
1945年8月に祖国が解放されても、約30パーセントの朝鮮人たちが日本へ残った。だがその多くは、民族差別と失業による貧困で苦しむ。1959年頃には、在日朝鮮人の生活保護受給者は約8万1000人にも達し、その年間経費は約16億9000万円にもなっていた。
外務省から「日本赤十字社」へ派遣されていた井上益太郎外事部長は、次のような見解を示した。
「日本政府は、はっきり云えば、厄介な朝鮮人を日本から一掃することに利益を持つ」(「在日朝鮮人帰国問題の真相」日本赤十字社、1956年)
元山港の人たちへ手を振る在日朝鮮人(1998年6月4日撮影)
日本政府は財政負担を減らすだけでなく治安対策としても、在日朝鮮人を追放したいと考えていたのだ。「日本赤十字社」は1954年1月に、「朝鮮赤十字会」へ文書を送る。
「もし帰国が許されるならば、その便船を利用し、日本にある貴国人にして帰国を希望するものを貴国に帰すことを本社は援助したい」(日本赤十字社「日本赤十字社社史稿 第6巻(昭和21年-昭和30年)」1972年)
北朝鮮には3163人(1955年現在)の日本人が残っていた。その日本人の帰国と、在日朝鮮人の帰国をセットで進めようという提案なのだ。このように帰国事業が始まるきっかけは、日本側がつくっていたのである。
そして朝鮮戦争の傷跡が深く残る北朝鮮に、多くの帰国者を受け入れるだけの経済的・社会的余裕がなかったにもかかわらず、日本政府は追放するように送り出すことにした。
一方の北朝鮮は、中国とソ連の政治的対立が深刻化する中で、それらの国と距離を置いて日本との関係改善を模索していた。
1955年2月には、南日(ナム・イル)外務大臣が国交正常化を呼びかけた。そして1958年9月に金日成(キム・イルソン)首相は、「共和国政府は在日同胞が帰国して新しい生活ができるようにすべての条件を保障する」と表明した。
こうして両国政府の思惑が一致し、熱気を帯びた大規模な帰国運動へと発展していった。
■帰国を絶賛したメディア
帰国する在日朝鮮人のほとんどは、出身地が朝鮮半島南側だった。しかしその韓国(大韓民国)では李承晩(イ・スンマン)大統領による強権的な軍事独裁政権が続いていたため、社会主義体制の北朝鮮へ渡ることを決断した人も多い。
1959年8月に「日本赤十字社」と「朝鮮赤十字会」は、インドのカルカッタ(現在のコルカタ)で帰国事業についての協定に調印。その年の12月14日、最初の帰国船が新潟港から北朝鮮の清津(チョンジン)港へ向かった。
日本の大手メディアはこぞって、朝鮮戦争による廃墟から急速に復興する北朝鮮を褒め称え、帰国事業の後押しをした。最近でも、「朝日新聞」だけが積極的におこなったかのような記事があるが、それは完全な間違いである。
当時の新聞を調べれば、「産経新聞」や「読売新聞」など他紙も同じ対応だったことが分かる。帰国者を取材するために北朝鮮へ入った「産経新聞」特派員は、「北朝鮮帰還者 感激の平壌入り」「北朝鮮 全土にあふれる喜び」との記事を書いている。
「産経新聞」に2014年から1年間にわたって、小説『アキとカズ 遥かなる祖国』が連載された。北朝鮮へ渡った日本人妻・カズの運命も描いている。その作者である喜多由浩氏は、次のように書いている。
「わが産経新聞記者も北朝鮮を訪問し、帰国船が着く清津港でも歓迎ぶりや、帰国者が入る宿舎の様子や経済力を好意的にリポートしていた。他のメディアもほとんど変わりがない」(「産経新聞」WEB 版、2014年8月14日「産経新聞さえもが北朝鮮・帰国事業を絶賛していたころ」)
■北朝鮮行きの動機
「日本では、朝鮮人への差別があったんです。選挙で朝鮮人は投票できないので、夫に申し訳ないと思いながら私一人で投票所へ行きました。そしてお腹の子どもは(生まれても)、学校で日本人の子どもたちからいじめられ、思うように勉強できないだろうと思ったんです」
中本愛子さん(2019年7月15日撮影)
このように中本愛子さんは、民族差別から逃れるために夫とともに北朝鮮へ行く決断をしたという。他の日本人妻や帰国者たちも、子どもの教育のために一家揃ってとか、学費がなくて断念した大学進学のために単身で北朝鮮へ来たと語った。
私は中本さんに、両親が渡航に反対しなかったのか聞いた。
「お父さんは『嫁ぎ先のいうことを聞かないといけないので行きなさい』と言いました。ですがお母さんは、病身だったこともあり長女の私を頼っていたので泣きながら反対しました。私は『3年したら里帰りできる』となだめたんです」
岩瀬藤子さん(右端)と家族(2017年8月9日撮影)
岩瀬藤子さん(1940年生まれ・2018年死亡)も「3年経ったら日本と朝鮮を行き来することができるという話があり、別れることを深刻に思う人はいませんでした」語った。
取材したどの日本人妻たちも「3年で里帰り」という話を聞いたというが、その出所は分からない。
■着いた埠頭で見た光景
「わたしたち帰国者は歓迎の人たちと接した埠頭で、またショックを受けた。彼らのほとんどはやせていた。(略)男性が身に着けていた服装ときたら、眺めているだけで悲しくなるほど粗末である」(鄭箕海「帰国船ー北朝鮮 凍土への旅立ち」文芸春秋、1997年)
中本愛子さんと夫の朴道洙(パク・トス)さんは、1960年5月20日に新潟港を出港した第22次帰国船「クリリオン号」に乗船。着いた清津港で目撃した光景がある。
帰国船内の中本愛子さんと夫(中本愛子さん提供)
「日本人妻の中には、船から降りた埠頭で朝鮮人の夫と喧嘩した人がいます。『私を騙した。すぐに日本に帰してくれ』と言って・・・」
しかしこの光景を見ても、中本さんは何の不安もなかったという。
北朝鮮は、朝鮮戦争での米軍による攻撃で焦土と化した。最初の帰国船が出たのはその休戦からわずか6年後。戦後復興は始まったばかりであり、食料・日用品や住宅の不足は深刻な状況だった。
過剰な宣伝によりつくり上げられた「地上の楽園」のイメージと現実との落差に失望した人もいれば、どのようなことでも夫とともに乗り越えようと覚悟して渡った人もいるのだ。
【以下、後編『日朝関係改善の糸口「日本人妻の里帰り事業」が再開されない根本的な原因』に続く】
日朝関係改善の糸口「日本人妻の里帰り事業」が再開されない根本的な原因
解決可能なことから取り組むべきだ
■受入時の北朝鮮の状況
1959年から始まった北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)への帰国事業は1984年7月の第187次船まで続いたが、帰国者の80パーセントにあたる7万4779人は1961年末までの約2年間に渡航。帰国船は月に3~4回も清津(チョンジン)へ入港し、最盛期には毎週1000人規模の人が到着した。
帰国者たちは歓迎行事の後に、数日間を清津や咸興(ハムン)に滞在し、履歴書や職業・居住地の希望を提出。面接を受けて、行き先が決まった。だが受け入れ側が、押し寄せるようにやって来る人々への対応が追いつかない状態に陥っていたため、自分の希望と異なる地域や職場・学校へ配置される人たちが出たのである。
清津港と市街地(2012年8月31日撮影)
そもそも帰国者の多くが低所得者で、半数以上は財産をほとんど持たずに北朝鮮へ渡った。北朝鮮は帰国希望者を、審査や選別することなく無条件ですべて受け入れた。また帰国者の世話をするために、多数の人員を用意しなければならなかった。帰国者に十分な対応ができるような状況ではなかったのだ。
そして資本主義国からやって来た帰国者は、「労働力」になるよりも負担の方が大きかった。
■「運だから仕方ない」
「こちらへ来た当時は朝鮮の言葉も文字もわからないし、日本人はいじめられるのではと不安でたまりませんでした。ところがみんな優しくて親切で、お店へ行くと(行列が出来ていても)『日本から来たのだから最初に買いなさい」と言ってくれたんです」
日本人妻の中本愛子さんはこう語る。同じような話は他の日本人妻たちからも聞いた。
彼女たちが北朝鮮へ渡った時期は、まだ朝鮮戦争の傷跡が残っていた。
「田んぼに爆弾の大きな穴が空いていて、不発弾が見えたのでウワーと思ったんです。戦争復興のために私も動員され、初めてスコップを持って作業をしました」
しばらくそのようなことをしていた中本さんは、働きに出ることにした。
「編み機でセーターを編む職場です。ノルマを200パーセント達成したのでみんなから栄誉だと言われ、温泉旅行にも行かせてもらいました」
帰国者の在日朝鮮人や日本人妻が、「脱北」してから書いた手記がいくつか出版されている。差別されて社会的に低い地位に置かれている、収容所へ入れられたり行方不明になったりした人がいる、地方都市で貧しい生活をしているなどと書かれている。
それらによって、日本では北朝鮮に対する極めて悪いイメージがつくられた。どんな質問にも率直に話をしてくれる中本さんに、それについてストレートに聞いた。
「私の夫は朝鮮へ来てからも日本と同じ運転手でしたが、日本での商売でお金を持ってきた人はここでも裕福な生活をしていました。日本の都会から来て、やったこともない農業をした人は苦労したでしょう。だけど、日本人だからといってそうしたんではないですよ。それは運なので、仕方ないんです」
自らの希望と異なる地域や職場へ配属される人がいたのは、朝鮮人も同じだったというのだ。そして日本とまったく異なる社会体制を、どうしても受け入れることが出来なかった人もかなりいただろう。
また帰国者の生活水準は、日本の親族による送金や訪問があるかないかでも大きく異なっている。私が平壌や地方都市で訪ねた何軒もの帰国者や日本人妻・残留日本人宅のようすから、生活水準にかなりの差があると推察した。
1992年から43回の北朝鮮取材でも、帰国者たちの生活の全体像は分からなかった。だが、すべての帰国者を“帰国事業の犠牲者”のようにいうのは正しくない。社会的に大きな評価を受けている帰国者もいる。
さまざまな取材現場で、そういった人と偶然出会うことがたびたびあった。農業や歴史の研究機関で働く学者、病院の医師、大規模なインフラ整備を担当する行政機関の幹部、そして海外との交流をする機関の責任者とさまざまだ。
妙香山(ミョヒャンサン)での日本人妻たち(水田一枝さん提供)
平壌(ピョンヤン)市で暮らす水田一枝さん(1940年生まれ)は私に、さまざまな時期に撮影された日本人妻たちの記念写真を見せてくれた。1990年代には、金剛山(クムガンサン)や白頭山(ペクトゥサン)などの景勝地へ数十人で出かけたという。
2016年11月には、地方都市の咸興において日本人妻11人が集まり、残留日本人の荒井琉璃子さんを会長にして「咸興にじの会」が結成された。この地域で、ボランティア活動などで積極的な生き方をしてきた荒井さんと岩瀬藤子さん、そして中本さんは姉妹のように仲良くしてきた。
3人は子や孫の世話になるようになって時間ができたため、地元行政機関の「咸鏡南道(ハムギョンナムド)人民委員会」に日本人組織の結成を働きかけていた。その結果、事務所を与えられて人民委員会のワンボックスカーも使うことができ、月1回は集まって食事したりしている。
後で触れる平島筆子さんは、「脱北」前に住んでいた吉州(キルチュ)でも日本人妻の集まりがあると語っていたという。このように各地で、日本人妻たちだけで集まり、遊びに行ったり食事したりする機会を設けるなど、行政機関が便宜をはかっていたのだ。
新井好江さん(中央)と家族(2019年5月26日撮影)
平壌で暮らす日本人妻の新井好江さん(1932年生まれ)は、日本では病気になっても病院へ行くことができないほど貧しかった。夫とともに子ども4人を連れて、何の財産も持たずに北朝鮮へ渡る。そしてすぐに、「平壌日用品総合工場」で夫婦揃って働き始めた。新井さんの作業はカバン製造だった。
「工場で働いていた1987年11月に、住んでいる船橋(ソンギョ)区域の人民委員会から呼び出されました。そして、この区域の『出版物普及所』の所長に任命されたんです。図書を、企業や学校へ配布する機関です。それまでの仕事とまったく違いましたが、(退職した)69歳まで張り合いのある仕事ができました」
「主体思想塔」展望台の小林久子さん(1998年5月25日撮影)
こうした大抜擢は、新井さん以外の日本人妻にもあった。「主体(チュチェ)思想塔」で、長年にわたって日本語ガイドをしてきた小林久子さんもそうだ。
北朝鮮で帰国者たちが置かれた社会的状況はさまざまである。ここでの生活に馴染めなくて「失敗した」と思った人もいれば、家庭生活や仕事がうまくいき「幸せだ」と思っている人もいるのだ。
■北朝鮮へ戻った平島筆子
「脱北」して日本へ一度は帰国したものの、北朝鮮へ戻った日本人妻がいる。平島筆子さん(1938年生まれ・2018年死亡)だ。
平島さんは、東京都葛飾区新小岩のあんみつ屋で働いていて、電気工の朝鮮人男性と出会う。平島さんの両親は強く反対したものの、二人は1959年12月の帰国船で北朝鮮へと渡った。
平壌で生活を始めて10年ほどしたころに突然、夫は行方不明になる。頼りにしていた夫がいなくなり、日本の家族からの仕送りもなかった平島さんの生活は苦しくなった。
「日本にいる二人の妹に会いたい、両親の墓参りがしたい」という思いが募っていた時に、日本人妻を「脱北」させて高額の利益を得ようとするブローカーに声をかけられた。そして2002年11月に中朝国境の川を歩いて中国へ渡り、翌年1月に日本へ帰国。
落ち着いたのは、かつて暮らしていた葛飾区。そこを選挙区とする平沢勝栄衆議院議員の秘書・沖見泰一さん(67)が、世話をすることになった。平島さんは、生活保護の支給額が減らされるのを承知で仕事に出るほど元気だった。
ところが北朝鮮から、長男が死亡したという連絡が入る。
「平島さんは長男の嫁と子どもたちが心配になり、神経性胃潰瘍になったんです。寿司が大好きだったのですが、それも食べなくなりました」と沖見さんは振り返る。
還暦祝いでの家族写真(平島さん家族提供)
平島さんは、北朝鮮の家族の元へ戻ることを決断。2005年4月18日、北京の北朝鮮大使館で記者会見を行ない「金正日(キム・ジョンイル)将軍万歳!」と叫んだ。北朝鮮へ戻ってからの平島さんは優遇を受け、家族たちと平壌での生活を開始。まだできていなかった還暦祝いも開かれた。
記者会見から2ヵ月後に、平島さんは沖見さんへ電話をかけてきた。それからは、沖見さんは毎月決まった日に平島さんへ電話をし、自費で医薬品などを送り続けてきた。肉親でもできないことである。その理由を聞くと、「日本にいた時の交流で情が移ったから」と語った。
私は平島さんのインタビューをするために、2018年2月に訪朝。だが、平壌へ着いて知らされたのは平島さんの急死だった。平島さんは、初めて会う私と話をすることを楽しみにしていたという。
朝鮮人の夫、日本の妹たち、北朝鮮の子や孫という家族への思いから、危険を顧みずに二つの国を行き来した平島筆子さん。改善されないままの日朝関係に、大きく翻弄された人生だった。
「脱北」して日本へ帰国したものの、再び北朝鮮へ戻った人は他にもいる。
石川一二三さんは在日朝鮮人のト・サンダルさんの三女で、1960年に両親とともに北朝鮮へ。2003年10月に「脱北」して日本で暮らしていたが、2007年6月に北朝鮮へ戻った。平島さんと同じように再び北朝鮮の家族と暮らすために、支援者の説得を振り切って戻ったという。
「日本政府は『日朝ストックホルム合意』で日本人妻についても同意したにもかかわらず、それよりも拉致問題を優先しました。日本人妻の里帰りといった、解決可能なことから取り組むべきです」と沖見泰一さんは語る。
2014年5月の「日朝ストックホルム合意」により、北朝鮮では日本人調査が行なわれた。聞き取り調査を受けた残留日本人や日本人妻たちは、「これで日本への里帰りが実現すると大きな期待をした」と私に語った。北朝鮮側は帰国する人まで決めていたものの、日本側は応じなかったという。
日本と大きく社会体制が異なり、国連「安保理」による長期の制裁によって食糧や生活物資の不足が続く北朝鮮。そこへ戻った「脱北者」は日本からだけではない。韓国政府統一部によると、韓国で暮らす「脱北者」の内、2012年以降に29人が北朝鮮へ戻っている。豊かさや幸福感の基準は、人によって異なるのだ。
■関係改善は里帰り再開から
米国のバイデン政権が、北朝鮮との交渉において前に踏み出そうとしない状況では、日朝国交正常化交渉の再開は容易には実現しないだろう。こうした状況で、日朝関係改善の糸口を見出すことが出来るのは人道的課題への取り組みだ。
元山港に係留されたままの「万景峰92号」(2016年6月19日撮影)
1959年の帰国事業開始によって新潟港と、北朝鮮の清津港、後には元山(ウォンサン)港との間で帰国船が往来するようになった。その延長で、帰国船が必要でなくなってからも航路は維持され、在日朝鮮人の親族・祖国訪問や朝鮮学校の修学旅行などで使われるなど重要な役割を果たしてきた。
しかし日本政府の北朝鮮への独自制裁によって、1992年から就航していた「万景峰(マンギョンボン)92号」は、2006年に日本への入港が禁止された。
この措置により、訪朝するには航空機を使って中国かロシアを経由して行くしか方法がなくなった。これは肉体的・経済的負担が大きいため、訪朝者は大きく減少。日本から訪ねて来る親族から経済的支援を受けていた帰国者たちの生活も影響を受けることになった。日本の制裁が、帰国者たちを苦しめる結果になっている。
1991年1月に日朝国交正常化交渉が始まり、日本政府が強く要求した日本人妻の里帰り(一時帰国)事業が1997年11月から開始された。その第1回の参加者は15人で、1998年1月に12人、2000年9月には16人の、合わせて43人が里帰りをした。その中には2人の残留日本人も含まれていた。
だが2002年10月に予定されていた4回目の里帰りは、延期になってしまった。中本愛子さんはそれに参加することになっていた。
第4回里帰りで平壌へ集まった日本人妻たち(中本愛子さん提供)
「やっと私も行けると、喜んでいました。17人が一緒に日本へ行くことになり、飛行機に乗る日も決まっていました。ところが、平壌で待っていたら急に中止になったんです。日本の方で来るなと言ったんです。なぜ里帰りさせてくれないのかと、恨んで恨んで泣きました」
当時を知る外務省関係者が、その理由を明かしてくれた。2002年9月の小泉純一郎首相の訪朝によって北朝鮮が拉致を認めたことで、日本の世論が悪化したために実施できなくなったというのだ。
私の中本愛子さんへの取材によって、熊本で暮らす妹の林恵子さん(70歳)と次男の真義さん(41歳)が、2018年6月と翌年7月に訪朝することが出来た。現在、林親子は日本人妻の里帰り事業の再開や、制裁の一部解除による「万景峰92号」の入港などを求めて活動している。
取材した平壌と地方都市で暮らす日本人妻たちの話からすると、かなりの帰国者と日本人妻がすでに亡くなっているという。2018年1月には、岩瀬藤子さんと平島筆子さんが死亡した。寝たきりになって、話をすることも出来ない人もいるという。
だがその消息は、彼らの世話を担当する「海外同胞事業局」や「平壌市人民委員会」でも、もはや全体を把握できていないようだ。
日本からの親族を迎えて踊る人たち(2004年5月2日撮影)
高齢になった日本人妻たちは誰もが「死ぬ前に両親の墓参りをしたい」と強く望んでいる。日朝政府間の交渉の進展と関係なく、「中断」状態の里帰り事業を再開すべきだ。もはやその対象者は極めて少なくなっており、過去に里帰りした人も含めるのが現実的である。新井さんは次のように語る。
「地図で見ると、日本と朝鮮は本当に近いところにあるのにね。理解して仲良くなれば、戦争にならないわけでしょ。できるなら、私たち日本人妻が日本と朝鮮のかけ橋になりたいです」
北朝鮮へ渡った在日朝鮮人や日本人妻たちは、帰国事業に続いて日朝国交正常化も実現すると思っていた。そうなれば、日朝間での人々の活発な往来ができると信じていた。ところが国交は、朝鮮植民地支配の終焉から76年たった今でも結ばれていない。
帰国者たちの苦難は、日朝に国交がなく日本が北朝鮮を敵視していることが根本的な原因である。
(写真はすべて筆者撮影)
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