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聖書を原語で読む意味は何か

はじめに

聖書系Vtuberの足袋田クミです。この記事では、聖書を原語、つまりその書かれた元の言語であるヘブライ語(あとアラム語)やギリシャ語で読むことの意味について考えていきます。

原語の方がいいことと別に翻訳で構わないこと

結論から申し上げれば、聖書を読むにあたり、原語の方がいい場面(あるいは原語でないといけない場面)と、翻訳で事足りてしまう場面の、両方が存在します。

私たちが真っ先に避けるべきことは、場面や目的を想定せずに原語でないといけないとか翻訳でもいいとか言い切ってしまうことです。個々人の状況や能力、さらに役割や信念、趣味嗜好によってどちらを選択するべきかは常に変化します。

また、これらのことは基本的に自分と聖書(あるいは神)との間の関係であって、他人にとやかく言われることではありません。ですから、この記事でも私がしたいことは「別にその目的ならば翻訳でも十分だと思いますよ」とか「その目的ならぜひ原語で読むべきではないでしょうか」という励ましと勧めです。この後の議論が読者にとって有益であることを願ってやみません。

翻訳で構わないこと

教養として読む

聖書やキリスト教に触れたいと望む人にはとりあえず読みやすい翻訳を一つ紹介するようにしています。全くもって翻訳で事足ります。

ただし、英語のドラマに出てくる聖書の引用に気づけるようになりたいなどの特定のニーズには特定の翻訳(例えばKJV)をおすすめすることになります。親しみたいと思っている文化圏に広く受け入れられている翻訳をリサーチしてみましょう。

信仰のために読む

キリスト教徒が、信仰に入るため、日々の生活の糧とするため、他の人にキリストを伝えるために聖書を読むとき、ほとんどの場合、翻訳聖書がその役目を果たしてくれるはずです。そもそもそういう目的で多くの翻訳聖書は作られています。現代では礼拝においてもその土地の言語の翻訳聖書が大抵使われています。

説教をする

ここは少し条件が必要なところですが、説教をするためには原語で聖書を読むことは必要条件ではないと思います。言い換えれば、原語を扱わないで聖書の説教をすることはあり得るだろう、というのが私の意見です。

説教をする立場の人、つまり聖職者などの役職になるために原語の学習が必須か、という議論はまた別の次元の話です。そうではなくて、たとえばある牧師がある日曜日の礼拝説教のために原語を参照せず翻訳聖書だけを見て説教の準備をし、原語のことに触れずに説教をするのは、現実的にありうるだろうという意味です。

原語聖書の意味内容が全て余すところなく翻訳聖書に現れているとは思いません。翻訳という作業の限界もあります。しかし、ある説教で触れたい聖書の内容が、毎回毎回原語を参照しないと分からない情報を含んでいる必要もないと思います。

歴史上、さまざまな説教者がいたはずです。無数の信徒、あるいは非信徒が聖書の内容を自分の言語で誰かに伝えてキリスト教の内容が伝わっていったことでしょう。彼らの多くが、聖書の原語の事柄に触れなかったと思います。ひとつひとつの聖書の話はごくありふれた日常の言語で可能だからです。

原語が必要になるとき

聖書から新しいことを言う

先の段落で原語を参照しない説教の準備がありうると言ったのは、ひとつには「説教は必ずしも新しいことを言う必要がない」からです。クリスマスの話を紹介するだけ、あるいは日本や世界の説教者が今までに言ってきたことを繰り返し伝えるときには、受け止めた話をもう一度呼び起こせば良いでしょう。

しかし、何か聖書から新しいこと、自分が感じたことや自分が考えたことを話そうとするときには、それが聖書に根ざした話なのかどうか判断するラインとして原語を参照する必要が出てきます。

マルコの福音書を読み違えた話

少々恥ずかしい話ですが、私自身の経験の話をしましょう。私がギリシャ語を勉強し始めた頃、ここの箇所を口語訳で読んでいました。

22 そのうちに、彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、ひとりの盲人を連れてきて、さわってやっていただきたいとお願いした。 23 イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と尋ねられた。 24 すると彼は顔を上げて言った、「人が見えます。木のように見えます。歩いているようです」。 25 それから、イエスが再び目の上に両手を当てられると、盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした。 26 そこでイエスは、「村にはいってはいけない」と言って、彼を家に帰された。
マルコによる福音書 第8章 口語訳

私は次のように考えました。

イエスが盲人を癒そうとした。しかしそれは一度では完了しない。「人が見えて、木のようなものが見えて、歩いている」とは、これは十字架を担いで人が歩いていく描写ではないか。つまり、人はイエスに出会ってから、いったん十字架に出会う必要がある。その後でイエスの手がもう一度置かれて、遂に癒しが完了する。救いには十字架が必要だ。

私はちょっとドキドキしながら原文を引きました。しかし、結果は少しがっかりするものでした。というのも、まず木と人が両方見えているのではなく、木のように見えているのが、歩いているから人と判断しているらしく、そして、木と訳されている単語は、大体いつもそこに生えている木を指していて、木材とか十字架とか訳される単語は別にあり、その単語は自分も知っているものだったのです。

要するに、「ボヤーっと見えているのが、まるで木に見えるのだけど、歩いているっぽいので、人だとわかる」という文だということが原語を読んで分かったことでした。この時点で、私は自分の解釈を棄却しました。

22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。 23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その両目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。 24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」 25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、見つめているうちに、すっかり治り、何でもはっきり見えるようになった。 26 イエスは、「村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。
マルコによる福音書 第8章 聖書協会共同訳

こちらの訳は当時まだありませんでしたが、こちらの訳を読んでいたら私は勘違いしないで済んだでしょうか。あるいはやっぱり原語を読むまで悩んでいたでしょうか。

この話の教訓は、「人は思ったより、日本語から自分の読みたい物語を勝手に読み込むが、それが元々の話から十分理解されうるものである保証はない」ということです。そして、原語で読むことはその自分勝手な解釈のストッパーになる、という経験にもなりました。

聖書からこの解釈は可能か?

教会の中のお茶の席で、説教へのレスポンスとして、様々な場面で聖書の解釈は広がりを見せます。そういった広がり自体は価値のあるものですが、教会が自己規定してきた教理や原語からの指摘によって行きすぎた解釈を(少なくとも教会の公的な解釈としては)棄却するのが聖職者の役割のひとつだと言えるでしょう。

そういった意味でも、聖職者が神学を修めること、聖書やその原語についての最低限知識を得ることは求められます。すると自ずと、しばしば神学校において原語の授業は必修になるわけです。

原語で読むと何が嬉しいか

さて、積極的に原語で読んだときの恩恵について話しましょう。

翻訳不可能な情報

ある言語の文章を別の言語に翻訳する場合、元の言語の持っている情報をすべて再現することは不可能です。もちろん、どの言語に翻訳しても差し支えないような議論も存在するでしょう。ある種の哲学的な議論は、抽象的であるゆえに内容の把握において原語の知識が必要ないかもしれませんし、複数の言語において共通の場面で使えるフレーズというのもありそうです。しかし、掛詞、駄洒落、その言語に固有の文法事項、音の雰囲気、文字の見た目、詩文としての芸術表現、そのルールと破格、固有名詞の意味、同一著者の筆致、時代による言葉の使い方や綴りの変化、紙の使い方と配置、言葉の長さ、引用を匂わせる言葉遣い、縁語の繋がり、写本に入り込んだ謎の記号、書き損じ、その訂正、その言葉への執念と畏怖と憧れと、そういったもの全てを翻訳文に落とし込むのは並大抵の努力ではできないことであり、そこに触れることができるのが原語で読む醍醐味と言えるでしょう。

自分で見つける喜び

原語についての情報を人から教えてもらうことはできます。原語に堪能な説教者がする話を聞けばそれなりの情報を得られるでしょう。注解書を開けば、一体どうやって整理するのかわからないような膨大なリストを知ることもできます。しかし、その原語で読むという体験自体は自分で感じることしかできないのです。

何のための原語か?

このように、原語で読むことのメリットがあるのは間違いありませんが、「目的が、どこかピントがずれてしまっているのでは?」と思うことも少なくありません。

説教をするため?

聖書の話をするにあたって、どうしてもこの話をするには原語の話をしないといけない、という場面はあります。しかし、どうにも、原語の話をちょっと混ぜようかなと、とってつけたような話を聞くこともあります。

もしかしたら原語の話をする説教の方が良い説教であることが多い、という統計が出るかもしれませんが、あまり意味のないことです。もし、説教を良くするために原語の話をしたい、という神学生や牧師がいたら私は反論すると思います。

ある説教を聞いたときの話です。聖書箇所はここでした。

ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたはを受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。
使徒言行録第1章8節 聖書協会共同訳

説教者は次のようなことを言いました。

この「力」という単語はギリシャ語でデュナミス(δύναμις)と言います。これはダイナマイト(dynamite)の語源になった言葉で、皆さんは聖霊を受けるとダイナマイトのような力を得るのです。

よくよく考えていただきたいのですが、現代の言葉としてのダイナマイトの持つ意味とイメージで、その語源になった単語であるデュナミスを説明するのは悪手です。新約聖書の時代にはまだダイナマイトは存在しないからです。

この説教者がそういう意図で話をしたとは言いませんが、言っておきたいのはギリシャ語の話をしたら説教の質が上がるという保証はないということです。そんなことをするくらいなら日本語で聖書をよくよく読んでもらえればいいだけの話です。

聖書の深い意味を知るため?

よく棚葉香蓮さん(羊たちの夕べのメンバー、ユダヤ学者)が「いやぁ、聖書をヘブライ語で読むのは楽しいね!」と言っています。香蓮さんは実際、ヘブライ語で読むことで聖書の深い意味を知ろうとしている人なのだと思います。深く尊敬しています。

あるいは村岡崇光先生(聖書学者)が「聖書を原語で読んでみてはじめてわかること」(いのちのことば社、2019年)という本を出しています。村岡先生の原語からの聖書探求には恐ろしい深さがあります。私としてはそこになんの疑いもありません。

しかし、原語の解釈というのは、「今自分がしているのは正当な解釈ではなく読み込みではないか」「そもそも今考えているのはヘブライ語的にギリシャ語的に言語学的に正しいことなのか」と自己点検しながらでないと向き合えないところにあるはずです。

一見すると聖書の深い意味を見出しているような聞こえをしていても内容の疑わしい言説は数え切れないほどです。私が出会っただけでも以下のようなものがありました。

  • ×この単語はAともBとも訳せます。両方の意味があるのです→○掛詞でもない限り文脈に沿って語義はひとつです

  • ×この単語はCとも訳せます→○訳せません

  • ×この単語はDと訳せます→○その箇所にその単語はありません

  • ×この文法事項はこのような意味です→○そうじゃない意味がここで使われています

  • ×この単語の使い分けには意味があります→○交換可能な単語です

  • ×ここは面白い表現が使われています→○ごくありふれた表現です

  • ×ここの表現は不完全な文になっています→○それはヘブライ語の影響です

  • ×直訳するとこうです→○文法化された表現を直訳すると意味が分からなくなります

一体全体、どうしてこういうことになるのか私にはわかりませんが、もしかしたら「原語で聖書を読むと無条件に深い意味を知ることができる」と思われているのかもしれません。先の香蓮さんや村岡先生の話からすると、それもそこまで間違っているわけではないのかもしれませんが、ただ、それは十分にギリシャ語とヘブライ語とアラム語が扱えるからそうなのであって、勉強を始めた段階でその域に達するわけではないでしょう。

原語で聖書を読むのは楽しい!

誤解しないでいただきたいのは(本当に誤解しないでいただきたいのは)私はみなさんに原語で聖書を読んでほしいと思っているし、読むのが楽しいということを伝えたいのです。でもそれは上記のようなことではないのです。

みなさんが新しい言語を勉強し始めたとしましょう。その時は、「文字をひとつ覚えた」「あの看板に書いてあることが分かった」「好きな小説のワンフレーズを言えるようなった」「短編を読み通した」「よく出会う単語の意味が掴めてきた」とかそういうことにひとつひとつ喜びを見出していくはずです。

そして例えば好きなアーティストの曲の歌詞を眺めて少し意味を取れなくても、フレーズを何度も確かめて、言語の学びを続けていくうちに理解が進んで、いつか分かったときの喜びに期待するでしょう。

そのとき、不十分な知識で、まだ理解に確信が持てない段階で、人に説明するときに「これはこういう意味だ」と言い切ったりするでしょうか? そもそも例えば自分の好きな歌詞の内容を取り違えたくないでしょうから、「ここの歌詞まだよくわかんないけど、でも好きなの!」という素直な自分の心を大事にするのではないでしょうか。

趣味で聖書を読んでいる者だ

聖書が好き!

クミがどうして聖書をヘブライ語とギリシャ語で読んでいるかと言えば、それはクミが聖書を好きだから、という以外にありません。

好きな小説、心惹かれる演説、何度も繰り返して観たい映画、お気に入りの音楽、それらがもし自分の知らない言語で表現されていたら、あなたはどうしますか? 私の答えはひとつで、その言語の初級文法を買ってきて今日から読み始めます。大学生のときにクミがしたことも、ただそれだけです。聖書を読みたいし内容を深く味わいたいし、それを人に正しく伝えられたらどんなに素晴らしいか! そう思ったらギリシャ語の初級文法書とギリシャ語新約聖書をamazonでポチるしかないのです。

分からない、俺たちは雰囲気で聖書を読んでいる

もちろん、すぐに自分の聖書に対する理解が変わるわけではありません。むしろ最初の何年間も、自分の力の限り調べて訳文を作っては既存の訳や注解書に叱られること幾千度、誤訳をしては文法書や辞書の新しい項目を読み続けること幾万度。でもそれでもいいのです。クミは聖書に書かれている単語をひとつ辞書で引くたびに喜びがあったし、聖書に書かれているフレーズを一文ノートに書きつけるたびに満足が訪れたし、毎日毎日が幸せに感じたのです。それは今日まで変わることがありません。

むしろ、心がけるべきなのは、自分が聖書に対して言語に対して無知が残っていることを恐れないこと、聖書のどこの部分に意味があって意味がないかを自分で決めないことでしょう。クミが誰かに知識を披露するために聖書がギリシャ語で書かれたわけではないし、クミがいちいちもったいぶった解説をするために聖書がヘブライ語で書かれたわけでもないのです。クミは聖書もギリシャ語もヘブライ語もアラム語も好きですが、聖書を読むためにヘブライ語でミスったら目も当てられません。聖書に対して間違ったことを言うなんてのは、聖書オタクとして最も恐るべきことだからです。

結果としてやってくる報酬が聖書の意味ならそれでいいじゃない

聖書をよく知りたい!と言えば、香蓮さんから「いいからヘブライ語で聖書を読め」と言われるに違いありません。確かにそれしか言えないのかもしれません。でもそれはやっぱり、「聖書を愛しているから、それならギリシャ語やヘブライ語で読もうと思うじゃん?」というオタク精神なのだと思います。

オタクはどの作品のどこの画に価値があるか考えてアニメを見るのだろうか? 否。気づいたらこのアニメを観ていた。気づいたら円盤(注:DVDないしBlu-rayなどの記憶媒体)を揃えていた。気づいたら誰よりもその作品に詳しくなっていた。そして息を吸うようにアニメを摂取し、息を吐くように論評する。論評とはつまり「神回」と呟くこと。

詩編読むと泣いちゃう

クミはそういうわけで、「ヘブライ語しろ」「ギリシャ語しろ」といつも言いつつ、「どうして?」と聞かれると「いいから」しか言えないのですが、明確にヘブライ語で聖書を読むときに日本語と違うことがひとつあります。

クミは詩編第119編をヘブライ語で読むと、涙が止まらなくなります。日本語だとこうなりません。なんでかよくわかりません。でも多分これが何かの答えです。

おわりに

聖書をギリシャ語やヘブライ語で読みたくなった人は私の別のnoteの記事をぜひご参照ください。応援しています。


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足袋田クミ|聖書系Vtuber
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nonami
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