斎藤一と試衛館

リクエストありがとうございます(^^)

先ずは・・・(^^;)

斎藤一は大正4年まで生きた、新撰組三番隊組長であります。その剣の実力は言うまでもありません!しかし、謎の多い隊士です。

今まで研究家の方々がされている検証などご紹介させていただきます(^^)
まず、斎藤一の出身地です。永倉の書き残した史料には、「播州明石浪士」と書かれています。司馬さんの「燃えよ剣」や「新選組血風録」はこれによる設定をしています。

しかし、「幕臣山口祐助」の次男である斎藤の出身は江戸であると思われます。ただし、「山口祐助」本人は播州明石の出身・・・と思いきや、そうではないとも(^^;)。代々の幕臣目付とも言われています。

そして、19歳の時に旗本を斬ってしまった斎藤は、京都に出奔し、吉田某(名は不明)の道場に居た、とされています。そこから上洛してきた浪士組に合流した・・・そうです。その後はみなさん、ご存知の通りです(^^)
司馬さんの作品、「天まであがれ!」、「無頼」・・・など多くの作品が斎藤一は江戸で、すでに試衛館メンバーと知り合いだった、という設定で書かれています。

「風光る」は、京で初めて知り合った、という設定ですね。もちろん、どちらが正しい、などとは断言出来ないのですが。
では、残されている史料から、色々と雑文を書かせていただきます!

斎藤はいつ試衛館メンバーと知り合ったのか?(@@;)

さてさて、斎藤一はいつ試衛館メンバーと知り合ったのでしょうか?江戸にいるとき?それとも浪士組としてメンバーが上洛して来てから?

天然理心流の後援者の小島鹿之助が明治6年にまとめた「両雄士伝」(両雄・・・近藤と土方のこと)に、近藤が率いて浪士組に参加したメンバーは「門人沖田総司、山南敬助、井上源三郎、(中略)永倉新八、斎藤一等」となっているんです。もし、斎藤一が全く天然理心流と関係がなかったら、小島はこのような間違いを書くでしょうか?
永倉の手記として大発見された「浪士文久報国記事」にも実は同じことが書かれているんです。

近藤、永倉達が浪士取締の鵜殿鳩翁に、用意していた姓名簿を提出しているのですが、そこに書かれたメンバーは・・・・

「近藤勇、山南敬助、土方歳三、沖田林太郎、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、佐藤彦五郎、斎藤一(!)、井上源三郎、大月銀蔵、佐藤房次郎、中村太吉郎」です。ここにも斎藤一の名前が!!!
永倉が「浪士文久報国記事」を書いたのは明治9年だと推測されています。ということは30代後半ですね。もちろん、斎藤が浪士組として上洛した、ということは間違いなのでしょうが、これもまた、江戸ですでに試衛館メンバーと知り合いであったからこそ、このような間違いを書いたのではないでしょうか?

え(^^;)?・・・お気づきになりました???鋭いですね!!!
そう!この永倉の手記の「姓名簿」には、なんと!「原田左之助」の名前がないんですよ・・・(^^;)なぜなんでしょうね・・・。

井上源三郎さんの手紙(^^)

慶應元年9月に井上源三郎は故郷に住む兄、井上松五郎に手紙を書いているんです。
その文面には「局中先生始メ、土方、沖田、永倉、武田、藤堂、斎藤、其外一統無事ニ相勤おり候」と書かれています。ここにも・・・なぜか左之助の名前はありませんね(^^;)・・・ってそれは本題じゃないんですが(笑)。そう!左之助の名前載っていないのに、斎藤の名前は載っているんですよ。ただ、これは松五郎が京に来たときに、斎藤と知り合いになったから、という可能性も多々ありますが。というのも武田の名前がありますからね(^^;)
もちろん、武田も江戸にいたので試衛館メンバーと知り合いだった可能性もなきにしもあらず・・・ですが。

浪士組上洛から会津藩預になるまで(^^)

時は文久3年(^^)浪士組が上洛してきたのは2月23日なんです。そして浪士組の江戸帰還が決まったのが3月3日。会津藩に渡りがついて、「嘆願書」を出したのが3月10日なんですが、この時点ではもう斎藤一の名前は出て来ているんです(@@;)。もし、試衛館メンバーと全く関係がなかったら、まだ隊士募集もしていない、会津藩預になるとも決まっていない時期に参加して来るでしょうか?

土方の日記と会津藩預後の上覧試合

浪士組が結成してすぐの文久3年4月15日に、彼らは松平容保公に呼び出しを受けます。容保自らが「謁見」を望んでいたからです。それに対し、次の日、壬生浪士組(当時はこの名前さえもなかったですが・・・)の全員は、黒谷の会津本陣に出向きます。無事拝謁をすませた後、容保公から驚愕の言葉をもらいます。「武術の稽古が見たい」・・・。
おお!(@@;)。浪士一団は、容保公に見せるために、剣術4試合、棒術の型、柔術1試合が披露されました。

これは一昨年の1月15日に発見された「土方歳三の日記」の一日分です(一日分しか見つかってないんですが・・・)。さて、その組み合わせは!

第一試合・・・土方歳三vs藤堂平助
第二試合・・・永倉新八vs斎藤一
第三試合・・・平山五郎vs佐伯又三郎
第四試合・・・沖田総司vs山南敬助

このメンバーにも多々言いたいことはあるんですが(^^;)、それはさておき・・・ここにも斎藤一が出て来ているんですよ。あと、斎藤と同じように上洛後から加入している佐伯又三郎もここにいます。

京での最初の新入隊士は誰?

上で書いた試合のほかに棒術の型と柔術の試合が披露されています。

川島勝司・・・棒術
佐々木愛次郎vs佐々木蔵之丞

結成時の会津藩への嘆願書に名前がない彼らこそが、最初の新入隊士とされています。やっぱ斎藤さんじゃないよな・・・。明らかに斎藤一は隊士を募集する以前に加入してますね。

京での最初の同志は13人?14人?

「新撰組結成時13人のうち、唯1人の生き残り!」というような帯が、永倉新八の「新撰組顛末記」に巻かれてたような記憶がありますが(^^;)

永倉は自らが作成した名簿「同志連名記」の中で、結成メンバーは13人と書いています。しかし、「すなわち京都に残留せし十三名」や、「東京小石川伝通院にて同盟しともに上京尊王攘夷を唱え松平肥後守おあずけとなり、ついで同志募集いたすように被申付候新撰組発頭人十三人左のごとし」といった注意書きが書かれているんです。この条件に斎藤一は確実に適していないので、この13人には入っていないんです。

ですが、文久3年の秋以降の近藤さんの口上願書に「同志僅かに14人」と書かれた文章があるんです。この前後の文章は私は見ていないので断言は出来ないのですが、この「14人目」ってやはり斎藤さんなのでは?と思います。

阿部十郎の証言

阿部十郎・・・彼についてここでは細かくは触れませんが、彼は維新後に「史談会」で貴重な証言を残しています。その中に「新撰組剣客ベスト3」を語ったものがあるんです。

「沖田総司是がマア勇の一弟子で、なかなか能く仕いました。其次ぎは斎藤一と申します。それから是は派が違いまするけれども、永倉新八という者が居りました。此者は沖田よりもチト稽古が進んで居ました。」つまり、永倉・・・沖田・・・斎藤という順番だ、と阿部の証言は語っているんです(^^)。
それはさておき(笑)、なぜ阿部は、永倉を語るときに「是は派が違いまするけれども」と付けたのでしょうか?そのまま解釈すると、「沖田と斎藤は同じ派」だからだ、と理解できます。阿部は古参隊士で、さらに斎藤とともに「御陵衛士」として新撰組から分離しています。それほど斎藤を知っている人間が、このように認識していた、ということは、やはり斎藤一は江戸で試衛館メンバーと関わりがあった、と見るのが自然なのではないでしょうか?

最後に・・・(^0^)/

参考資料・・・
新選組101の謎(菊地明)
歴史読本「沖田総司青春譜」
新選組史料集・・・全て新人物往来社
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