昭和天皇は戦争にどう関与したか 歴史学者が実証で迫った巨大な問い

聞き手 編集委員・塩倉裕

 「昭和天皇は戦争への主体的な関与をしなかった」「最後まで対米英戦を回避しようとした」。こうした昭和天皇像に、実証的な研究を通じて見直しを迫ってきた歴史学者がいる。明治大学教授の山田朗さんだ。「天皇の戦争指導」の実態はどうだったのか。そして、その歴史を直視してこなかった戦後日本社会とは。

     ◇

対米開戦、最後には「決断した」昭和天皇

 ――昭和天皇(1901~89)が戦争中にどう行動し、そのことを戦後にどう考えていたのか。実証的に調べる研究を30年以上も続けていますね。

 「きっかけは、昭和天皇の健康が悪化した88年から日本社会を覆った『自粛』現象でした。戦後40年が経過した日本社会にあってなお、天皇制には国民の心を縛りつけて支配する、見えない力があった。驚きました」

 「調べてみると、天皇が戦争にどうかかわったかについての先行研究はすでにありましたが、私には『昭和天皇には戦争責任がある』という結論ありきの研究に見えました。他方には『戦争責任などない』との意見もあったけれど、どちらも戦争中の実態を踏まえた議論とは思えなかった。史料を踏まえた実証的な研究が必要だと思いました」

 ――日本が米英に対する戦争を始めたのは41年12月でしたね。「昭和天皇は最後まで日米開戦を避けようとしていた」という話が広く信じられていますが、事実でしょうか。

 「違います。41年9月6日に開かれた御前会議の時点までは、確かに天皇は開戦を躊躇(ちゅうちょ)していました。しかし側近の日記や軍の記録などから見えてきたのは、そのあと天皇が戦争への覚悟を決めていく姿でした」

 「10月には宣戦布告の詔書の作り方を側近に相談しており、11月には軍の説く主戦論に説得されています。最終的には天皇は開戦を決断したのです」

天皇「説得」に成功した、軍の勝利のシナリオ

 「昭和天皇が当初、対米開戦に躊躇していたのは、軍の示していた戦勝のシナリオが希望的観測に基づくものに過ぎないと見抜いていたからでした。事実それは、欧州の戦争でドイツが英国に勝つだろうから日本が開戦しても米国に負けることはない、というドイツ頼みの楽観的なシナリオでした。しかし軍はその後、天皇を説得するために新たなシナリオを用意していきます。南方の資源地帯を日本が確保してしまえば英米には資源が流れなくなり、長期戦になればなるほど戦況は日本が有利になるというシナリオでした。裏付けるための数字のデータも、豊富に盛り込まれていました」

 ――それはそれでまた楽観的なシナリオだった、とは言えないでしょうか。

 「現在の視点からそう言うのは、もちろん簡単です。しかし当時、アジア太平洋戦争があのような巨大な戦争になると想像できていた人はほとんどいませんでした。事実、新シナリオには昭和天皇だけでなく他の懐疑派の人々も説得されています」

 ――昭和天皇は戦争に主体的に関与することがなかった、という理解も広がっていますね。

 「事実ではありません。大日本帝国憲法では天皇は大元帥、つまり日本軍の総司令官でした。形式的発言をするだけだったというイメージが広がっていますが、記録によれば、大元帥として出席した大本営御前会議では活発に発言しています。軍幹部への質問や注意を通じて作戦に影響を与えていた実態も、史料から見えてきました」

 ――昭和天皇が具体的に変えた事例を挙げてください。

沖縄戦などで確認された、天皇による「作戦指導」

 「42年のガダルカナル島(南太平洋ソロモン諸島)攻防戦で、航空部隊を現地へ送るよう天皇は3回にわたって、出撃をしぶる陸軍に督促していました。3度目の督促の翌日、陸軍は派遣を決めています」

 「45年の沖縄戦では『現地軍は何故(なぜ)攻勢に出ぬか』と言って、積極的な攻撃に出るよう要求しました。現地軍は持久戦でいくと決めていたのですが、天皇の意思が現地まで伝わったため中途半端な攻勢が行われ、無用な出血につながりました」

 「天皇の言葉が作戦を左右する影響を与えた事例は、満州事変から敗戦までの間に少なくとも17件確認できます。国家意思に影響を与えていた形です」

 ――作戦指導だけにとどまらず「戦争指導」も行っていたと著書で主張していますね。

 「ええ。戦争指導は単なる軍事作戦指導とは異なり、外交などの政治戦略と軍事作戦を束ねた、より高次の指導です」

 「昭和天皇は43年のソロモン諸島などの攻防で、戦い方が消極的だと侍従武官長を厳しく叱責(しっせき)し、こんなことでは敵国の士気が上がって第三国にも動揺が広がってしまうと言って積極攻勢を求めました。国際情勢をにらんだ上で国家としてどう作戦を立てるかという戦争指導の領域にこのとき昭和天皇は立ち入っていたと、私は思います」

 ――昭和天皇はなぜ作戦指導や戦争指導をしたのでしょう。

 「大日本帝国という国家の抱えていた構造的な問題が背景にあってのことだったと思います。天皇を好戦的な指導者だったとみなすのは間違いです」

大日本帝国の「構造的な欠陥」が背景に

 ――構造的な問題とは?

 「ガダルカナル戦で天皇が指導に踏み込んだのは、どちらが航空機を出すかでもめていた陸軍と海軍の対立を解くためでした。大日本帝国では陸軍も海軍も天皇に直属していて、両者を統合して指揮する統合幕僚長のような指導役が不在でした。陸・海軍の対立を調整できるのは当時、天皇だけだったのです」

 「軍事戦略と外交戦略の双方を統括しえたのも天皇だけでした。軍の最高指揮権にあたる『統帥権』は天皇にあり、統帥権は行政から独立していました。首相ですら軍事行動の詳細を知ることはできない構造です。外交や予算をつかさどる行政が軍部と分立していた中で、両者を架橋しえたのは実質的に天皇だけだったのです。総じて大日本帝国という国家のシステムは、天皇個人にかかる負荷が大きく、巨大な戦争を遂行するにはおよそ不向きなものだったと言えます」

 ――「昭和天皇は戦争指導をしたのか否か」と問う以前に、「そもそも戦争指導をできる指導者は当時いたのだろうか」と考えさせられる話です。

 「ええ。戦況の悪化に直面したことで昭和天皇は大日本帝国が抱えた構造的欠陥の深刻さに気づき、自らが動くしかないと考えた可能性があります。陸軍と海軍が持つそれぞれの経験値では解決できない事態があり、政治が軍事を制御できる仕組みも見当たらない。そんな状況下での戦争指導だったのです」

 ――昭和天皇は平和主義者だったという戦後の評価については、どう見るべきでしょう。

 「昭和天皇は平和主義者を自認していたと思いますが、平和主義なるものの中身については注意が必要です。武力を使って領土や支配地域を膨張させること自体がダメだとは、戦前の昭和天皇は考えていなかったからです」

 「できるだけ列強と衝突しないよう、可能ならば平和的な手法で進めたいと考えて、『進め方』のレベルでは平和主義的に振る舞ったけれど、同時に、帝国を大きくすることは自身の使命だとも認識していました。台湾や朝鮮半島を植民地化した明治期の天皇を手本とし、第1次世界大戦(1914~18年)のあとに進んだ国際協調の流れには対応できなかった。19世紀的な前時代の帝国主義の考え方が、戦前の昭和天皇の特徴だったと思います」

天皇の「責任」問題から生まれた戦後日本の権力

 ――昭和天皇に戦争責任はあった、と主張していますね。

 「実態を踏まえれば、昭和天皇には戦争責任があったと考えるべきだと思います。あれだけの悲惨な結果を招いた戦争において、大日本帝国の軍事と政治の双方を統括できる国家指導者だったのであり、すべての重要な政策決定の場にいたのですから、およそ責任がなかったと言えるものではありません」

 ――大日本帝国憲法は天皇を「無答責」、つまり責任を問われない存在と規定していたのだという解釈をもとに「天皇に戦争責任はない」とする見解も、他方にはあります。

 「戦前の昭和天皇が広い意味での立憲君主だったとする議論には私も反対しません。しかし、大日本帝国憲法が天皇を『権限が一切なく責任も負わない君主』と想定していたとする憲法解釈には無理があると私は思います」

 ――連合国が戦後に日本の戦争指導者を裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判)で、昭和天皇は訴追されませんでした。米国が占領統治のコストを下げるために見送ったとされます。

 「裁判が始まる前から日本国内では、昭和天皇は平和主義者であって戦争責任を問われるべき人物ではないとのイメージづくりが、政府などによって進められました。天皇を守るためだったと語られがちですが、それだけではなかったと思います」

 「戦争は陸軍の強硬派が進めたものであって天皇には止める権限がなかったというストーリーをつくることで、海軍主流派や外務省・内務省の官僚らは自らを『天皇の側にいた者』とし、責任追及を回避できました。その人たちが戦後日本の権力を担っていったのです。このシナリオを最終的に追認したのが米国主導の東京裁判でした」

 ――その歴史は現在に何か影響を与えているでしょうか。

 「責任をとるべき人がとっていないという巨大な前例が今も生き続けています。宮内庁が編纂(へんさん)して今から10年前に公開された『昭和天皇実録』も、天皇は平和主義者だったというイメージを強化する内容でした」

 ――とはいえ、「軍部が悪かった」という論理を「軍部と天皇が悪かった」に変えるだけでは、不十分な気もします。

 「大事なのは、戦争責任をきちんと追及することです。そう言うと日本では『戦犯探しをすること』と誤解されるのですが、そうではありません。誰のどういう決断があって戦争が始まり、なぜ国内外に大きな損失を与えてしまったのか。軍の強硬派や天皇だけに責任を負わせて終わりとするのではなく、実態を踏まえながら責任のありかを検証し、知見を語り継いでいくことが、戦争責任の追及です」

今は「軍事を政治的にコントロールできている」?

 ――ウクライナ侵攻などが起きた影響もあって、今、日本政府はかつてない規模での防衛力増強に乗り出しています。

 「戦争期の近代日本史が教えるのは、軍を政治的にコントロールすることの難しさです。軍事は軍事の専門家だけが理解できるものだという論理のもと、閉じられたサークルの中で『自己展開』していってしまう傾向が、軍事にはあるからです」

 「昭和戦前期と違って今は一応、行政府が外交も安全保障もあわせて統括できる体制には変わっています。しかし、国民の代表である国会のチェックが安全保障政策に反映されているかといえば、答えはノーです」

 ――5年前に公開された新史料「拝謁(はいえつ)記」に注目するよう訴えていますね。なぜですか。

 「昭和天皇があの戦争のことを『戦後に』どう考えていたのかを、今までにない生々しさで伝えている史料だからです。拝謁記とは、初代宮内庁長官だった田島道治が昭和天皇の戦後の肉声を記録したものです」

新史料が問う昭和天皇の戦後と「主権者」の選択

 ――何が分かったのですか。

 「昭和天皇の中で戦後、『誰がどうやっても戦争の流れを止められなかった』という考えが次第に強まっていった事実です。田島の耳に最後には言い訳だと聞こえてきたほどでした」

 「陸軍が戦争と侵略の牽引(けんいん)者だったのは事実です。しかし昭和天皇はブレーキの壊れたジェットコースターの単なる乗客だったのではなく、操縦する側でした。ブレーキが壊れていたわけでもなく、実際、天皇の聖断という形で戦争は終わっています」

 ――その歴史からどんな教訓をくみとるべきでしょう。

 「戦前は天皇が国家の主権者でした。その主権者が戦後、『自分にはどうしようもなかった』という考えに至っていた。現在の日本では国民が主権者です。再び戦禍に見舞われたあとで『自分にはどうしようもなかった』という総括をまた繰り返すのか。主権者としての選択が問われていると思います」

山田朗さん

 やまだ・あきら 1956年生まれ。専門は日本近現代史。軍事史や天皇制論に詳しい。著書に「大元帥 昭和天皇」(94年)、「昭和天皇の戦争認識」(2023年)など。

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この記事を書いた人
塩倉裕
編集委員|論壇・オピニオン担当
専門・関心分野
論壇、オピニオン、調査報道
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    遠藤乾
    (東京大学大学院法学政治学研究科教授)
    2024年8月10日23時20分 投稿
    【視点】

     息をのむような歴史インタビュー記事ですね。戦争責任を考えるうえでも貴重です。  「天皇の言葉が作戦を左右する影響を与えた事例は、満州事変から敗戦までの間に少なくとも17件確認できます」という資料に基づいた言葉は重いと考えます。天皇(制)はいまだどこかタブーなところがあり、感情を掻き立てます。しかし、その役割を客観視する材料が揃い、分析が丹念になされると、評価もおのずと定まります。  好戦的な指導者という悪役イメージから、平和愛好家の昭和大帝という祭り上げまで、さまざまですが、そのどちらでもない。政治構造と人格が混じり、実際に時折戦争指導を行っていたし、その力があった。  (とりわけ地方の)民衆やアジアへの視点がどれだけあったのかも気になります。戦後になされた広島の原爆投下への発言はいかにも配慮の薄いものだったし、戦争と言ってもアジアと戦っている意識は少なく、英米を気にしていたのではないかと思います。  この戦争責任者を戦後もずっと抱え続けたことの意味は、残念ながら今にいたる後世に響いているのではないか、そんな読後感をもちました。

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    岩尾真宏
    (朝日新聞名古屋報道センター長代理)
    2024年8月8日10時16分 投稿
    【視点】

    記事中にある「拝謁記」を特集した数年前のNHKの番組では、昭和天皇があの戦争を振り返る中で、「勢い」という言葉に何度も言及している点に着目していました。「勢に引きずられて戦争に至った」とか「どうしても勢いに引きずられてしまった」などの言葉が取り上げられている番組を見ながら、大元帥であっても「時勢」には抗しきれないものなのだなとの思いを抱いた次第でした。  しかし、こちらの記事を読むと、こうした「勢い」にのみ込まれたとの見方について、改めて考えさせられました。「勢い」に引きずられたことは、ある面では事実かもしれませんが、これもまた戦後のために用意された「ストーリー」という面もあるようにうかがえます。  記事中に、「大事なのは、戦争責任をきちんと追及することです」として、「誰のどういう決断があって戦争が始まり、なぜ国内外に大きな損失を与えてしまったのか。軍の強硬派や天皇だけに責任を負わせて終わりとするのではなく、実態を踏まえながら責任のありかを検証し、知見を語り継いでいくことが、戦争責任の追及です」との指摘があります。来年には戦後80年を迎えます。戦争の記憶が遠い向こうの「歴史」となりつつある中にあって、戦争責任について冷静に分析する大切さを改めて痛感させられます。

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