「大丈夫か」
辿り着いた事象の根源。イーノックが器ちゃんに声を掛け、手を翳した。青色の浄化の光が満ち、ひゅうひゅうと細く続く息の音を幾らか和らげる。頬に血の巡りを取り戻させる。それでも彼女は唇を噛んだ。
「……何のために」
掠れた声で器ちゃんはそう呟いた。一度空を見上げた瞳をさっと逸らし、地ばかりを逃げるように捉えている。
「何のために、私を、ここまでして」
「奴を殺すために」
俺は言った。「いや、違うな」器ちゃんが怯えた顔で俺を見つめた。「奴等が何故死んでいったか。託したからだ。分かるだろ?」震える腕を掴む。細く簡単に折れそうな腕が、躊躇うように撥ね除けようとして、それでも止まった。
「奴等、俺に世界を救えってさ。笑えるな。無茶振りにも程がある」
器ちゃんは俺を見つめた。黒々とした瞳は揺れに揺れて、涙を流し呟いた。
「私はっ……自らの感情のままに、全て壊してしまえと、それでも上手くいかなくて、結局は良いように! まるで何も……! だから今更私に期待なんて、何かを望むなんて……!」
「そうだ。俺も期待されたくなんてない。そんな力はないからな」
「え……」
そう呟いた器ちゃんに「だが」と俺は言った。
「そんな事は奴等、端から承知さ。それでも託された。それでも出来ると思われたんだ。だからやらなきゃ格好がつかねえ。無様だろうが何だろうがな」
……仮面が割れたのが分かっていた。
奴が事象として現われてから、いや、もっと前から。この空間に足を踏み入れてからは確実に、俺は属性の影響から外れていた。どうにかなるという考えも、どうにでもなっちまえという投げやりも、俺だけでは成立し得ない。奴が居なけりゃ成立しないんだ。
属性:Internetとやらが俺の狂気を支えていたとしたら、今の俺はとっくに正気の凡人だ。異常な光景に逃げ出したくて、小便漏らしそうで、それでも立っていたのは何故か。
逃げて良かったはずだ。俺には何の力もない。イーノックとニンスレを預けて、大衆の一人として世界が救われるのを待っていれば良かった。
だが、それでも。全てを捨ててしまうのは。諏訪さんの声を、器ちゃんの目を、ワグナスの悲愴な言葉を目の前にして、ただ逃げ出すのは。
「だってそれは……とても、夢見が悪い。そうだろう?」
その言葉に、器ちゃんは信じがたいように目を見開いて、ぎゅうと唇を引き締め俺の腕を握った。強く握り、呟いた。
「……たった、それだけで、本庄様は戦おうというのですか。運命は貴方を保証せず、何の力も無いというのに」
「保証はあるさ。俺は正気で一般的な淫夢厨だからさ、どうしても思っちまうのさ。野獣先輩がこの物語の根幹なら、絶対にハッピーエンドになる筈だって!」
さあ、と俺は腕を引っ張った。器ちゃんが立ち上がり、胸内に収まった。彼女は目を丸くさせ、ぽかんと口を開けて。
そうして「ふへ、へ」と笑った。おかしそうに笑った。
「なんですか、それ。分かりませんよ。私、淫夢なんて見たことないんです。あの薄汚い悪魔を信じることなんか出来ませんよ」
「じゃあタフを信じろ。灘神影流を信じろ。あいつらだって何とかしてくれそうだろ?」
「……ばぁか。馬鹿ですよ、本庄様は。漫画を信じて神を殺すなんて、やっぱり気が狂っています」
「ですから」器ちゃんは呟いて、そっと胸元から離れた。
「ですから……私が信じるのは本庄様です。どうしようもなく気が狂った、私にとっての救世主を、信じて再び立ちましょう」
その言葉にシャドウちゃんが微笑んだ。静かな笑みだった。彼女は鋏も包丁も捨て、器ちゃんの前、鏡合わせのように佇んだ。
「見ましたか私」
「見ましたよ私。これが私に足りなかったものでしょう」
「その通り。これこそ精神の到達点が一つ。己が性根を受け入れ尚も昇華させ、覚醒も力も得ずに前へと進む。人とはこれです。人とはそう在るのです。力を手に入れずとも、人は意思のみで前へと進める」
シャドウちゃんは朗々と語る。喜ばしそうに背に手を組んで、母親のような慈愛の笑みを浮かべている。
「いやそんな大層なモンじゃ……ってかシャドウちゃんどしたん? 急に悟ったようなことを言い出して……」
「私は私ですが、私だけでは顕現し得なかったのです。故に、この場だからこそ、この局面であるからこそ、真実が事象を貫く」
その言葉と殆ど同じく「本庄っ」不意にイーノックの声が響く。振り返り、見れば事象が腕を掲げている。その懐中に溢れるは光。光。光。
イーノックが放つ無数のガーレも虚しく、必殺の悍ましき光が罵声と共に放たれて、しかしシャドウちゃんは笑った。笑って呟いた。
「我は汝、汝は我。我は汝の心の海に帰りし者。我は万物の母にして、追いやられし無貌の女神なり」
「……ああ、貴方は、私のペルソナは聖四文字の」
「私たち魔人がお兄様を支える。ある意味"最強"です……って、あ、ちょっ」
サタンから光が放たれる。それに立ち向かうようにシャドウちゃんは佇む。佇み揺れる。何故か狼狽えた様子だが、その姿は青色の輝きと共に溶け落ち、新たな姿を象って……。
「──我が名は尊鷹」
「は?」
「え?」
その言葉と共にシャドウちゃんが倒れたと思ったら、その身体からバキッバキッと"S"が正体を現わした。古めかしい戦闘服ではなく、妙に青いスーツ姿だが、その顔は猿先生のリアル・タッチで描かれたもの。まさしく宮沢尊鷹その人である。
……いや、は?(混乱)
「悔しいが……これがベルベットルームのチカラだ。灘神影流"弾丸すべり"!」
「なっ、はああ!? 何だお前は!? 何者だ!?」
「えぇ……(困惑)」
「う……嘘でしょう……こ……こんな事が……こ……こんな事が許されて良いんですか!? 私のペルソナって宮沢尊鷹だったんですか!?」
迫り来る必殺の光を前に両腕を構え、彼は一気に踏み込んだ。物理的な技ではどうにもならないだろうに、その指先が光を掻き分け分割していく。切り裂かれた光は尊鷹の身体を滑り行き、全て無為に帰した。
混乱したのは俺達ばかりではない。今まで余裕を保っていた事象もである。当たり前だろ馬鹿野郎!!! どっから来たんだこのバトル・キング!? いきなり出てきて弾丸すべり決めてるんじゃねえよ!!!
しかし事象は動揺を覆い隠すように「ネット・ミームなどもう不要だ!」と、光を放たず距離を詰め、腕を伸ばしてくる。その移動のみで風が吹き荒れ、大地を削る!
だが、その接近に尊鷹の姿が変わる。服装はそのままにゆらりと顔が溶け、見覚えのある傲慢不遜の表情が浮かび上がる!
「カモがネギしょってやってきたぜェグヘヘヘヘヘ……」
「う あ あ あ あ あ!?(PC書き文字)……か、怪物を超えた怪物、悪魔を超えた悪魔……鬼龍!」
「うぁぁぁ……き、鬼龍が一発で折れる雑魚みたいな台詞を吐きながら練り歩いていますっ!」
た、確かに後々のキャラクター像を思うと違和感のある台詞だし唐突すぎる登場だったが……しかし実力は本物だ。近付いてきた事象の巨体を"連弾霞打ち"でボボパンと殴り飛ばし、青色のスーツを風に棚引かせ「今日からお前は蛆虫だ!」と嘲笑した。鬼だよ鬼が来たんだぞうっ。
「いや訳分かんねえよここはタフスレ「っす」じゃねえんだよえーっ!? これ以上は危険や猿展開を止めるぞ!」
「あの今……薄い髪色の女の子が……」
「芹沢あさひとタフは無関係! 無関係です! つかお前らも無関係だろうがこんな状況でどっから来やがった!」
「こんな状況やからやウジムシ。このクソボケがーっ!」
「いっだぁっ!?」
鬼龍の顔がタフ君になったと思ったら急に殴られたんですがそれは!? 何でまた殴られるんだよおかしいだろお前よぉ!
つかマジで何が起こってんのこれ。器ちゃんの覚醒シーンが完全に猿展開になっちまったじゃねえかよえーっ!?
「怒らないで下さいね。お客人の人生を賭けた答えを日和って断るとかバカみたいじゃないですか。そのせいでワシらがどんだけ苦労したと思っとるんやクソボケがーっ!」
「ぐえっ!? 二度もぶっ!? 三度ごっ!? 四げえっ!?」
サタン他所にボッコボコに殴られてマヂ苦しい。酸欠で死にそう。「いいんですかこれ!?」と器ちゃんの声も遠く聞こえ、意識がぶっ飛び射精しそうになったところで、またタフ君の顔が変わった。
その顔は、メガネを掛けた柔和な男……宮沢静虎ことオトンである。ふうん。灘神影流まぬけトリオ+弱き者勢揃いということか。
「あっ……あっオトンだ。オトッチ! オトッチ!」
「やり過ぎやろ熹一……気持ちは分かるが……いや本当に……」
「宮沢静虎の正体見たり! 人格者として知られる宮沢静虎の本性は、俺が殴られることに納得する血も涙もない鬼畜のような男だったのかあっ!」
「……さて、簡潔に話しましょう、お嬢さん(ガン無視)」
「あ、はい(呆然)」
少し屈み、器ちゃんと目線を合わせ、オトンは訥々と語った。
「お嬢さん、貴方は自らの影を否定し続けた。それは私の言葉による影響もあったことでしょう。『お前は苦しみも悲しみも全てを背負って生きていかなければならない』『それがお前の宿命であり贖罪や』と。……自らの宿命に直面し、恐れてしまったのでしょう。内に潜める感情のままに生きれば、いずれは名も無き少女の魔人のようになってしまうのではないかと」
その言葉に、混乱を極めていた器ちゃんの瞳に冷静さが戻る。いやこんな状況で真面目な言葉掛けられても困るだろ(半ギレ)。しかし器ちゃんは真剣に返した。
「……そうですね。混沌の未来は恐ろしく、否定しがたく、故に私は否定しました。その結果は見るも無惨な母子合体魔人ですが」
「ですが、貴方は見つめ直した。自らの死を見つめ直し、それも己と受け入れられている。……そこのアホウのおかげで」
「はいっ。本庄様の馬鹿馬鹿しさを見て、うじうじ悩むなど下らないと思いましたっ!」
「……良かった。貴方は貴方の答えを見つけることが出来た。力を司る者として、これ以上のことはありません」
オトンは微笑み、すっくと背を伸ばした。見据えるように虚空を見つめた。
「私達は影です。ネットミームが氾濫した世界に、生み出された"タフ"という概念の影でしかない。しかしベルベットルームが私達を選んだ。真に立ち向かうべき敵への欺きとして、そこの主は影を纏ったのです。……荼毘に付したなど、まさしく大嘘ですね。普通にバレるかと思いました」
「は、はあ……。よく分かりませんが、その、何故、タフを……?」
「……シリーズ累計で1000万部も売れているなら、集合的無意識としてそれっぽいだろうと」
「どの世界にも通じることやが……中身のないヤツが数を誇る!」
「い、言わないであげて下さいよ……従者が二つに裂かれたり、自分の偽物が我が物顔で領域を占めるよりも、随分マシだと思われたらしいですから……たぶん適当に選びましたよあの人……」
オトンがしょぼくれたように言ったが、主って誰だよ。トダーか? だがその言葉に「なにっ」とサタンが身を動かし声を上げる。お前さっきからタフに呑まれかけてない?
「馬鹿な……既に呑み込まれていたのではないのか……!? 混沌の器の中で、そこの塵芥が扉を開いたときに、既にネットミームに汚染され、手中にあるものと……!」
「二度も同じ手を食らうはずがないでしょう」
ふっ、と蝶が羽ばたいた。
青色の蝶が目の前を横切り、残滓を残して消えていく。その軌跡に光景が切り替わったようにして、器ちゃんの傍に奇怪な老人が立っていた。
長い鼻。ギョロギョロと蠢く巨大な目。一目で異様と分かる奇怪な風体。しかしその雰囲気は風体を超え、隔絶した超常のそれである。悪魔とも人とも違う、神秘的な人となり。
老人は器ちゃんに恭しく礼をし、不気味に笑って言った。
「私の名は、イゴール。……お初にお目にかかります、お客人」
「こ、こいつが……集合的無意識マネモブ化の原因にして張本人かあっ」
「ああ、申し訳ありません……。もっと有名な物を選んだ方がそれらしいと思いましたが、生憎、選定するまでの暇も無く……」
「タフが愚弄されたことに一番憤っているのが……私なんです!」
器ちゃんが不機嫌そうに言った。そうだよ(便乗)。タフ使っているのにタフへの信仰が足りないんだってそれ一番言われてるから。もうちっとリスペクトしてくれや。
しかしイゴールは恭しく礼をし、「どうか一つ、ご容赦を……」と言った。
「この領域が侵されたともなれば、それはお客人の決定的な敗北を意味します。あり得た無様を繰り返すほど、私も無識ではございません。ご容赦を……」
「後でちゃんと読んで下さいよ。中古で買わずにちゃんと買って下さいよ! 全巻ですよ! あとロックアップとエイハブもオススメしておきますっ!」
「……はい」
「嫌そうにしながらも頷くとは……立派な心がけですっ」
「ともかく」と話を打ち切るようにイゴールは器ちゃんに手を伸ばした。その眼前に掌を開き、浮かび上がったのは真っ赤なカード。天を衝く塔が象られたタロットカードが、掌の内に浮かび上がり、器ちゃんの前に差し伸べられた。
「貴方の運命を指し示すのは……塔。その意味は崩壊。破滅。災厄。どのような意味を取っても"悪い"カードです」
「ククク……急に来て酷い言いようですね。まあ事実ですからしょうがないですが」
「ですが……再生は崩壊がなければ産まれず、復活は破滅がなければ産まれない。結局の所、どう読み解くか、どのように進んでいくか。……そして塔のアルカナは、停滞には程遠い」
「タロットカードみたいなもん占いをするための道具やんけ。なにムキになっとんねん」
「……これはお客人の真のペルソナ。その在り方を象徴するもの(ガン無視)」
その言葉に、器ちゃんは「ふん」と嘆息し、浮かび上がったカードを手に取った。
「……そのペルソナの名は、アシェラ。ヤハウェの妻と語られ、後に地位を追われた異端の女神。運命的に采配された、貴方の本来のペルソナ」
「ニャルラトホテプもイザナミも、全てはこれを指し示していましたか。運命はここまで仕組まれていたと」
「法の下の混沌。法に至るための混沌。ですが……それをどのように使うかは貴方次第。振るわれる剣に、元の宿主など関係ありませぬ」
その言葉に、器ちゃんの顔が引き締まる。ぎゅうと胸元を強く握り締め、俺を見つめた。
「本庄様」
「うん。滅茶苦茶過ぎるよな。何この猿展開。格好付けた俺の言葉を忘れてくれ。恥ずかしいから」
「絶対に忘れませんよ。というか今更ですが何ですかあの返事は! ええそうですね。本庄様はどうしようもなくしょうもないお方ですし呑気で間抜けで気が狂っていて推定同性愛者です!」
「貴様ーッ! 俺を愚弄する気かあっ!」
「で! す! が!」
「ぐえっ」
首根っこ引っ掴まれて、器ちゃんがぐりぐりと額を重ねてきた。睫毛長っ! 目ぇ怖っ! ちょっと鼻先当たんよ~~(指摘)
「私は貴方を愛していますので。世界の為ではなく、私の為でもなく、ましてやタフの為でもベルベットルームの為でもなく! 貴方の為だけに戦います! どこまでも永遠に付いていきます! 嫌と言っても遅いですよ! 帰ったら結婚ですからね!」
「俺、この戦いが終わったら結婚するんだ……(白目)」
えぇ……未来が決まっちゃったんだけど……まだ学生生活送りたいんだけど……。このままじゃ何のために大学入ったか分からなくなるんだけど……。
しかし器ちゃんは勢いそのままに「さあ行きますよ私!」と俺をぶん投げてカードを眼前に掲げた。さっきからやけに暴力的だなこの娘……。
「私と私が本庄様を支える、ある意味"最強"です!」
『二分割が一つに戻るだけじゃないですか。何を格好付けていますか。日和って唇を重ねられなかった癖に』
「なんですかー貴様ー!」
口汚く罵った勢いそのままに、器ちゃんは「しゃあっ!」と強く叫び、虚空にカードを回転させ、眼光鋭く言い放った。
「ペル・ソナ──アシェラァッ!」
輝きと共に、砕け散った王冠を戴く女神が顕現する。その威容は遙か高く、事象に程近い。二体は互いに光と光をぶつけ合い、それでも足りぬと組み合った。
「弱いから強いんだ。ただ力を振うだけの悪魔とは違い、お嬢さんには技がある」
概念と概念が四肢をぶつけ合う超常の風景に、見慣れてアシェラが身を動かす。それは巨体に似合わぬ繊細かつ大胆な動きで、ぐるりと事象の背を取った。
「神は傲慢だ。常に試練を与える。しかも欺瞞に満ちた神は乗り越えられぬ試練は与えぬという」
背より地に落ちる力を利用され、上向きに固められ藻掻く事象を目にし、鬼龍が青色のスーツを棚引かせて笑った。
「お前も灘神影流を受け継いでいるのならば……いや、俺達"タフ"を受け継いでいるのならば、その試練に打ち克ち、神を嘲笑しろっ!」
「ワシが教えたとは言え、ほんまエグい技覚えて……」
器ちゃんは額に脂汗を流しながら「んかあっ!」と笑った。事象が悶え、「その技は止めろーっ!」と叫ぶ。だが、既に遅かった。
「しゃあっ! "毒蛭観音開き"!!!」
骨も肉も存在しないはずの事象の腹が、無数のへし折れる音と共に開かれた。
「ぎっ、がああああッ!?」
器ちゃんの毒蛭観音開きが決まり、ボン、とMAGごと肉片らしき概念が飛び散る。これで終わりか。いいや、まだだ。確かに事象は苦悶の叫び声を上げているが、器ちゃんの疲労もまた激しい。
そして「が、はあっ! 集合的無意識の結晶と言えど!」事象が身を固める腕を無理矢理振りほどいて立ち上がる。振りほどかれてしまう。アシェラの動きは弱くなっている!
だが、アシェラは背を地に着けたまま蛇のように足を動かし、事象の首に両足を絡みつけた。そのまま足の力で勢い良く飛び上がり、よろめく事象の頭に被さった!
これはっ、灘神影流"鰻絞め"だあっ! 空いた両腕で事象の右腕と自らの足を締め上げ、完全に極める姿勢に入っている!
「ぐ、が……! ふざけ、関節技だとッ……!? その霊格でッ……!」
「しゃあああっ! これだけは、これだけは! たとえ存在しなかろうが何だろうが、確かに身に付けた技術なんです!」
ギリギリと鍔迫り合いに似た肉の軋む音は、いっそ地響きが如くに天を揺らす。しかし事象はその力に任せ、自分の頭ごとアシェラを地に落とした。変則的なバック・ドロップだあっ!
アシェラは脳天から投げ出され、大地が罅割れ深く沈んだ。その隙に事象は身体を翻し、再び立ち上がろうとする。「まだですっ!」器ちゃんが息を切らしながら目を見開く。耐え難く頭に手を当てながら叫ぶ。
「まだ極まっています! 足はまだ残っています! 奴の力を利用して、逆に上を取ります!」
「クソッ……! 首が重……ッ!?」
事象が絶え絶えに息を漏らしながら身体を翻し、首に絡まったアシェラの足を潰そうと、両の掌に滅殺の青光を輝かせた刹那、アシェラは絡めた膝を起点にして飛び上がった。
不意を突いた体重移動に、事象はくぐもった声を漏らし地に伏す。その間にアシェラは事象の背に深く下半身を沈め、左腕で両足を、右腕で片腕を取った。そして両足は再び力強く締め上げる!
「しゃあっ! "飛翔閻魔固め"!」
「があああああッ!?」
首、両膝、足首、左手の四点を同時に極め、アシェラは事象の背の上に君臨した。これはもう完全に極まったあっ!
……だが、いや、どうしたっ。ぐらりとアシェラが揺れる。引き締める腕がゆるゆると解けていき、ぐたりと力なく崩れていく!
「器ちゃん、大丈夫かあっ!」
「大丈夫です。まだやれます! こんな事で、こんな所で、弱音を吐く物ですか!」
そう言って手繰る指先に、先の力強さは薄れている。数度の組合でそこまで持って行かれるとは、流石は事象に打ち勝てるペルソナ。消費の度合いが尋常ではない。
だが、事象は既にアシェラを背中から引き剥がし、ボロボロになりながらも悠然と立ち上がった。対してアシェラは立つことすら危うい。このままでは全然大丈夫じゃ……。
……その時、俺は自分が口にした言葉に、ふと気が付いた。
「……そういや、イーノックどこ行った?」
元々、あいつが何とかするからって器ちゃんの元に来たんだけど、すっかり猿展開に呑み込まれて忘れていたんだが。事象相手にガーレを打ち込んでからどこにも姿が見当たらん。
「……もしかして、あいつ猿空間に呑み込まれた? このまま再登場一切無し?」
「おっ、ウジムシが思い出したって事はそろそろ限界やな」
「はあ? 何──っ!?」
瞬間、世界を青色の光が劈いた。
事象とアシェラの間に聳え立つ光柱は、その中心に白い人影を宿している。イーノックだ。どこに行ったかと思ったら……って限界ってなんのこったよ。
しかし、イーノックは俺の怪訝な顔を目にし、可笑しそうに笑って言った。
「私が頼んだんだ、サマナー。こいつは私を警戒していたからな。一旦、私の存在その物を忘れて貰っていた。猿空間という名の、集合的無意識の盲点に入ってな」
「何だその無法!? 猿空間気軽に出入りできるなら朝昇を龍継ぐ最新話に呼び戻してこい!」
「……大丈夫か? 今の展開に再登場させて」
「あっ、やっぱいいです(迫真)」
というかお前何してんの? 光柱はアシェラを守るように立ち塞がっているが、どうにも事象は奇妙だった。死に体のアシェラを目前にして手も出さず、却って狼狽えたように、じり、と下がる。
「あり得ぬだろう……何故、その様な情報に身をやつしてまで……」
「あり得るだろう。寧ろあり得て然るべきだ。神は人の側に在るのだから」
「エリーザベト・トールマン!」イーノックが叫び、「うわぁようやく出られました!」とエリーがいつの間にか傍に居た。三浦も傍に、というか三浦がエリーを米俵のように担いでいた。お前らも猿空間に呑み込まれていたのかよぉ!?
「いや何だったんですかあの空間……よく分からないむさ苦しい人達で犇めいていましたし……眼鏡掛けた人に何か絡まれましたし……何ですか、『貴方とケンカをするつもりはありません! ただあの娘の為に諦めて貰うだけですよ!』って……」
「かなりの達人だったな。異能無しじゃ俺でも厳しいかもゾ」
「まあ良いです。過ぎたことは忘れましょう! その方が精神衛生上よろしいので!」
そう言ってエリーは器ちゃんの元に近付きぶつぶつ文言を唱え始める。器ちゃんは胡乱な物を見る目を向け、「何ですか貴方……本当に色々」と微妙な顔を浮かべた。
しかし「神を殺すのです」エリーは笑ってそう言った。「神殺しを以て神をこの地に顕現させるのです。事象ならぬ神をね」そう言ってエリーは器ちゃんを見つめた。
「……何? 今更イーノックをメタトロンに進化させても通じねえでしょ。あれはその大元なんだし」
「あはは! 違うんですよ本庄さん。聖女として選ばれた私が、イーノック様の祝福を受けてから何も聞こえなくなった。神を否定できるのは同じ神だけ。なればこそ!」
そう言ってエリーはぐいと器ちゃんの腹を掴む。「い、異常性愛者っ!」器ちゃんが口走って、いやしかし、なぞられる肌に浮かび上がるのは異様な術式。何かを召喚しようとする物。
「来たれり来たれり神よ来たれり! 栄光の神殿を建てんと降臨する我らが主よ! ここに器はあり、ここに贄はあり!」
「人の身体勝手に使って何をしようとしているんですかこのメスブタァ!」
「あはは! ごめんなさい。でも、良いじゃないですか! ……だってようやく、救われぬ者達が救われるのです!」
「はあっ? 何言っているんですかこの……ああ、いや。そうですか」
何かに納得した器ちゃんを中心にMAGが渦巻く。撒き散らされた事象の概念を細かに刻み上げ、アシェラを核としてイーノックへと集約されていく。
青色の光が満ちる。その光に導かれるようにして、エリーの内から一つの大きな力が浮かび上がり、それに先導されるようにして無数の魂が流れ出す。
「君は……そうか。君も、君達も付き合ってくれるか」
聖なる、聖なる、聖なるかな。「贄ならぬ、本懐を果たしたか」三浦が呟き、涙を流した。イーノックが薄く微笑んだ。
「悪かったな、サマナー。全てはこのために。嘘を吐いたのは悪かった」
「……大丈夫か?」
「大丈夫だ。君に注ぐ油はない。そう在るべきでない者に使命を与えるなど、酷いことだろう?」
「そうじゃない。お前がだよ」
その言葉に、イーノックは虚を突かれたような顔を見せた。しかし彼は再び笑った。
「大丈夫だ。私が居なくても問題ない」
「……一番良いのを頼む」
「それは君の中に在る。一番良い、君自身の意思が」
「だから、任せてくれ」イーノックは青色の光に呑み込まれ、青色の光そのものと化した。
「救世主など必要ない。私はそれを望まない。私はそれを否定する。人は自らの意思で進むべきであり、選択の先に自由を見つけるべきだ」
エリーが紋様を描き上げる。器ちゃんが自身のペルソナを核として召喚の儀式を整える。鈴が鳴る。声が響く。数多の思念と贄を渦巻かせ、輝きが形を成す。
「神よ、あなたは慈しみ深く、真実な方。怒るに遅く、すべてを治める憐れみ深い方! その
「アシェラ/サタン/ルシフェル/在りて在りてここに至り──
光線は弧を描き、完全なる真円を形成する。青色の球体は王冠を戴き、一つの瞳として、ゆっくりと瞼を開いた。
「
[神霊:シャダイが 一体 出た!]