野獣先輩と往く人理救済の旅   作:生しょうゆ

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第七話 第六特異点

 

 

 

「いやあ、第六特異点は強敵揃いだったね、セイヴァー」

 

 その言葉に彼は何も言わなかった。藤丸は笑って続けた。

 

「皆は色々言うけれど、俺は貴方が来てくれて本当に良かったと思っているよ。単なる戦力とかじゃなくて、その意味も理解している」

 

 彼は何も言わなかった。藤丸は笑って続けた。

 

「見届けてくれるつもりなんだよね。ありがとう。でも、大丈夫だよ。俺が出す答えはもう決まったんだ」

 

 彼は何も言わなかった。藤丸は笑って言った。

 

「俺はきっと、全部を終わらせると思う」

 

 彼は何も言わなかった。ただ、藤丸を見つめていた。

 

 藤丸は、セイヴァーが消えたマイルームから外へ出た。

 

 廊下は暗く、一つの明かりも点っていない。それでも慣れた様子で管制室までの道を歩く。

 

 幾多もの暗い部屋を後にして、このカルデアで三つだけ明かりが残っている場所の一つ、管制室へと辿り着いた彼を待ち受けていたのは、重苦しい空気だった。

 

「──ああ、藤丸君。どうだった? 彼……セイヴァーは」

「何も言わなかったよ。でも、見届けてくれるみたいだ。俺が終わるまでの旅路をね」

「……そうかい」

 

 ロマニは溜息を吐くこともせず、耐え難いように机に俯した。

 

 その傍ではダヴィンチが虚空を見つめ、睨むように、泣くように、眉間に皺を寄せている。

 

「……何が間違っていた?」

「そりゃ、最初からじゃないのかな。まさか野獣先輩がサーヴァントなんて……」

「私が言っているのはそんなふざけた事じゃない! 君が、どうしてっ、()()()()()を召喚出来てしまったかという……!」

 

 言いかけて、しかしダヴィンチは口を噤んだ。藤丸は彼女を見つめていた。全てを受け入れるように。全てを背負い込むように。

 

「通常、セイヴァーなんてサーヴァントは召喚に応えないんだよ」

 

 ロマニがダヴィンチの後を継ぐように言った。

 

「世界の終わりだって、彼にとって、命あるものが滅びるのは当たり前の事だろうしね。だけど、だから、彼が君の下に現われたのは……」

「──どうしようもない未来に対する、慈悲、でしょう?」

「……だろう、ね」

 

 藤丸の腕を見つつ、ロマニは言った。その腕には、三十三画の令呪が刻まれている。

 

 肘を越え、肩を越え、首まで這った歪な刻印。

 

『まさしく、聖痕って訳か?』ロマニは皮肉に笑った。吐き気がした。『これが、人になると言うことなのか?』

 

 人の身では、何をすることも出来ないだろう。今や魔術王を名乗る敵は、己の宝具ですら処理できるか怪しい。

 

 何せ、かの覚者は、藤丸が決して救われぬと語っているのだ。

 

 彼を召喚出来たということは、藤丸には、人類を救う覚悟があるということ──この少年に──ちっぽけな、人の身に。

 

「……人類を救うということが、どういうことなのか、君には分かっているのか」

 

 ロマニは藤丸にそう問うた。藤丸は、ぼうっと笑って返した。

 

「俺は分かっているつもりです」

「っ……本当に? 本当にかい? 世界を救うと言うことが、どういうことなのか! 君には本当に分かっているのか!?」

「俺は人類を救いますよ」

 

 藤丸はそう言い切った。確かに、真っ直ぐに前を見つめて。

 

 その瞳を前にし、ロマニは何も言えなかった。ただ、絞り出すように声を発した。

 

「……分からない。ボクには何も、分からないよ」

 

 かつての己の在り方を思い、ロマニは吐くように床を見つめた。ダヴィンチは、嗚咽を噛み殺すように虚空を見つめた。

 

 カルデアは、常と同じように、ただ一人の人類を残して静まり返っている。

 

 

 

 

 

 

「私達の、マスターの努力は無為に帰した」

 

 静まり返った食堂に二世はそう言い、組んだ手の甲をじっと見つめた。その対面では遠野が包帯を解き、青色の瞳を外界に曝け出している。

 

「……何も見えなかったよ。あのセイヴァーってサーヴァントには何も見えなかった。あれは本物だ。そんなヤツがマスター君の下に現れたって事は」

「終わり、ですわねえ。かの覚者がそう無言に告げているのです。マスターの行為は全て無意味。ああ、可哀想に。今からでも遅くはありません。全てを溶かして差し上げるのが幸福……ではありませんか?」

 

 キアラがそう言い、遠野が凄まじい眼で彼女を睨んだ。

 

「ああ、怖い怖い」

 

 キアラは笑い、笑って、ふと口を噤んだ。

 

 彼女はじっと青色の魔眼と相対する。全ての死を見つめる眼を前にして、硬い表情で言った。

 

「……事実ではありましょう? この先に、覚者すらも慈悲を示す悲惨が待ち受けているともなれば、それをただ放置するのも無情。私の内へと引き入れて、解脱の心地に至るというのも、そう悪い結末ではありませんでしょう」

「……その是非は置いておいて、それが可能なのか、と言う話になるがね。そんなありきたりな、君に食われてしまうなんて結末に、かの覚者が慈悲を示すかね?」

「何を仰りましょうか! 私は魔性という文句は付きますが、菩薩とも呼ばれた身。なに、必ずマスターを食らって見せましょう」

 

「それにしても」と、一転しておかしそうにキアラは笑い、共に食堂の机を囲んだ二人を見、言った。

 

「貴方達は、私を止めないのですね? ええ、そうでしょうとも。マスターに残された幸福とは、この私、殺生院キアラのみが与えられるもの。有情無情の分け隔てなく、塵を掃除するように、無意味に彼を救ってみせましょうとも」

「いいや、君はきっと、マスター君をどうすることもできないだろうね」

「はあ、遠野さんはそう仰るのですね。その根拠とは?」

「君がマスター君を救うつもりだからさ」

 

 その言葉に、キアラが動きを止めた。「なにを仰る」驚いたような、そんな顔で彼女は言った。

 

「ええ救いますとも。この快楽に、天上の孔に身を蕩けさせ、不安も何もかもを溶けさせ、私の糧とするのです。ええ、それこそが私。真性悪魔となりし、人類悪となりし、快楽天」

「いいや、君は分かっているはずだ。だって君は言っただろ? 自分と同じ境地だって」

「境遇を語ったまでの事ですわ。もっとも、私の場合は泥の内に咲く一輪の蓮華。彼の場合は虚空に漂流する徒花と、その見地、見識の程はまるで異なりましょうが……」

「星って言うのはさ」

 

 遠野はキアラを見つめ言った。その先に誰かを見ているようですらあった。遠く離れてしまった誰かを。

 

「本質的には、誰かなんて求めないんだよ。永遠にひとりぼっち。それを苦とも思わない。それが星なんだ。星は人類なんてどうでも良いんだ。ただ霊長が、星の上に繁栄しているからこそ、それに干渉して、代弁者を寄越したりする」

「はあ、それは貴方の彼女さんでしょう? 星の頭脳体たる真祖の姫君。代わって私は星の性感帯! ふふ、両者を混同するなど彼女さんに失礼ではございませんか?」

「確かにアイツと君はまるで違うよ。失礼も失礼だし、誰かにそう言われたら、俺はそいつを即刻殺している」

 

「だけど君は、本当にマスター君を救うつもりだろう」仄かに輝く青色の魔眼にキアラはたじろいだ。青色の眼。「自らの快楽のためではなく、本当に善意で彼を救うつもりだろう」かつて己を打ち倒した彼に似た、いやまるで異なる壊れてしまった。

 

 そして青色の瞳とは、かつてキアラが月に共した彼に似ていて。

 

「同情するのなら、言葉にしてやってくれよ。偏屈な皮肉は、見ていて物悲しい」

 

 その言葉は、まるでキアラのよく知る誰かに向けて言っているようだった。

 

「だとすれば」

 

 キアラは言った。

 

「だとすれば、どうしろというのです。マスターは、それでも歩むというのです。それが私には理解できない。理解できないものに、どうして甘い言葉を囁けるのか」

 

 キアラは同情というものを知らなかった。自らと同じ視座などあり得ないと思っていた。

 

「だから、違うのです。彼は人類などではありません。彼は私のような華ではなく」

 

『しかし、お前の言うところの塵屑とも違うだろう』皮肉に満ちた声がキアラの脳裏に響く。「ええ、ええ。そうですとも!」それは認めよう。しかし認めるからこそ理解できない。アレは一体何なのか。

 

 二世は沈黙を続け、ただ机を睨んでいる。

 

「だから、ここに人類なんて一人も居ません」

 

 キアラは冷たく断言した。

 

「サーヴァントでしかない私も、マスターも、誰も人類ではないのです! あんなものが人類と呼べるはずがないのです!」

 

 身を苛む苦痛を受け入れて/分かり切った結末を受け入れて

 

 尚も地上を目指そうと/尚も人類を救おうと

 

 語るべき言葉は既になく/救うべき未来は既になく

 

 何も成せぬまま、遂には泡となって消え去るだろう。

 

 それが美しいものの結末なのだから。

 

 

 

 

 

 

「安珍様」

 

 清姫はそう呟いた。脳裏に一人の男を思い浮かべる。彼はどうやら救われないらしい。かの覚者が現れたということは、そう言うことであると、玄奘三蔵は言っていた。

 

「安珍様」

 

 清姫は再び呟いた。しかし、安珍という男はそんな男だったろうか? 彼だって救われなかったのは確かだ。己という龍に焼かれ、鐘の中で燃え尽きたのが彼だ。

 

 可哀想な、哀れなだけの、何の偉業も残さなかった男。世界を救うなど、そんな大それた使命は背負っていない。

 

「安珍様」

 

 清姫は呟いた。だが、彼は安珍の生まれ変わりの筈だ。そうでなければ、どうして自分が好きになるだろうか。清姫が好きになるのはどんな形をしていようとも安珍なのだ。

 

 たとえ姿形が違おうとも、嘘偽りなく、当人が否定していようとも。

 

 だけど。

 

 彼は。

 

 藤丸立香という名前の男は。

 

「あんちんさま」

 

 清姫は己の声が震えているのを自覚した。根本的に何かが間違っていると思った。間違っていることに気が付いてはならないとも思った。

 

 それは自分の在り方そのものだ。清姫が清姫である為に、必要不可欠な何かだった。

 

「あんちんさま」

 

 それでも清姫は呟いた。そんな嘘は許せなかった。何よりも嘘が許せないのが自分の筈だった。

 

 ああ、己が敬愛するマスターとは。己が思慕するマスターとは。

 

 彼は青い瞳に、壊れたようにぼうっとした顔をして、何時も笑っている。

 

「あんちんさま」

 

 彼は世界を救うのだという。世界を救うために、覚者さえも慈悲を示す末路に至るのだという。

 

 それでも彼は進むのだ。何のために? それは逃げるために? 己のような怪物から逃げるため?

 

 いいや、違う。彼は何時だって、戦うために進み続けていた。世界を背負って。

 

 そんな重く、苦しい物を背負い続けて。

 

「あんちんさま……?」

 

 ──不意に。

 

 何かが。

 

 決定的な何かが、壊れた。

 

「ああ、あ……?」

 

 清姫は己の胸元に手を当てた。確かめるように触れ、何も傷付いていないことに首を捻った。

 

 だとすれば、この胸中の痛みは何だというのか。吐くような痛みは何に由来する物だというのか。

 

 じっと掌を見る。

 

 白く、細い手首。

 

 醜悪な龍に変わる手首。

 

 その手を。

 

 彼は。

 

 藤丸立香という男は、何度も信頼を示すように、繋いで──。

 

「ああああああああああああああああああ!?」

 

 絶叫と共に清姫は気が付いた。自らの致命的な過ちを悔いるように天に向け叫んだ。

 

 気が狂っていた。私は気が狂っていた。それが清姫という英霊なのだ。じゃあ仕方ない。これは仕方のないこと。

 

 そんな言い訳では許されぬ。だって「わたくしが!」最初に、彼に誰かを背負わせたのは。「わたくしが、あの人を!」最初に、彼に余計なものを背負わせたのは。「わたくしが、ああ、あああああ!」

 

 藤丸立香という男に安珍を背負わせ、それを楽しんで続けていた。彼が世界を背負い続けるのを、可哀想にと泣きながら、それでも素知らぬ顔で彼の知らぬ誰かを背負わせ続けた。

 

 理想像を。自らの理想像を。その果てがあれだ。その果てこそが、全人類の思いを背負い、世界を救う最後の人間という理想像なのだ。

 

「あああああ……助けて。助けて。お願いします。助けて下さい! そんなつもりではなかったのです。助けて下さい……!」

 

 醜い。醜い。何たる醜悪。この身は龍に非ず。今のこの身は人なれば、龍にあらざる醜悪の根源は、清姫という人間の物に他ならぬ。

 

 狂った女め。龍にすら至る狂気は、何たることか、只人をも救世主へと押し上げたのだ。

 

「お願いします。お願いします! あの人に、世界を背負わせないで下さい。誰かを背負わせないで下さい。誰か、あの人を助けて下さい! ああ、あああ……」

 

 内心に自らへの悪罵を重ねながら、清姫はぐるりと辺りを見回す。何かを探すように辺りを求める。

 

 何もなかった。誰も居なかった。彼の味方となってくれるような人類は、とっくに地上に存在しなかった。

 

 居るのは単なる影法師。生きてすらいない、英霊という名の役立たずが一人。

 

 清姫という名の役立たずが、一人で何かを叫んでいる。

 

「ああ、ああああ、あああ……。…………」

 

 無意味な何かを。今更と、そう呼ぶことしか出来ない何かを。

 

 決して救いにはならない何かを、彼女はひたすらに叫んでいた。

 

 

 

 

 

 

「この世は舞台、人はみな役者」

 

 暗く沈んだ廊下にシェイクスピアは呟き、「さて、どうですかな?」そうマルタに話しかけた。

 

「舞台の幕が下りるのならば、役者は夢から覚めなければなりません。然るに我らがマスターは夢から覚めることが出来ますかな?」

「さあね。私の知ったことではないわよ。役者って言うのなら、コイツに聞いた方が良いんじゃない?」

「俺は役者になった覚えはないけどね。無理矢理そう仕立て上げられただけだよ」

 

 そう言ってオベロンは皮肉っぽく笑った。傍に浮遊するナーサリーライムがくるくると回る。

 

「オベロン・ヴォーティガーンなんてそれこそ無茶苦茶だ。辻褄合わせの滅茶苦茶だよ。だけどそれが割り振られたんだから仕方がない。物語って言うのはそういう物だろう?」

「物語には終わりが必要だもの。たとえそれがなんであろうと、物語に終わりは絶対に必要よ」

「それを割り振られる側は堪ったものじゃないがね。シェイクスピア先生はどう思っているんだい?」

「なに、先の言葉が全てであれば」

 

 シェイクスピアは恭しく一礼をし、舞台上に謳うように言った。

 

「この世界が物語に過ぎぬのであれば、各々は各々に物語を紡ぐでしょう。どんな脇役にも意味があり、陳腐な芝居にも熱がある。その筋書きは、たとえ神の名の下に決められていようとも、思い行うのは役者当人なれば、どうして勝手に批評を付けられますかな?」

 

 シェイクスピアの言葉に、オベロンは意外そうに言った。

 

「それは……作者の言葉じゃないんだな。役者の言葉だろう、それは」

「ええ! 吾輩は既に筆を置きました。この先に付け加えられるのは全て駄文に過ぎませぬ。なれば吾輩も踊り歌い、精々ただ一人の役者を賑やかす影法師として在りましょう」

「あら、シェイクスピアともあろう方が敗北宣言? らしくないわね」

「寧ろ、吾輩は聖女様こそ、らしくないと言いたいものですがな」

 

 じっと冷たい眼でシェイクスピアはマルタを見た。冷徹な、見定めるような眼。

 

「裁定者として在るからには、何かを裁きに来たのではないですかな? ああいや、貴方はきっと最初から分かっていたのでしょう? 最後の人類が辿る、その旅路の結末を」

「私はユダじゃないわよ。……その意味に気が付いたのは、()が目の前に現れてから」

「では、その意味とは? もしやこの期に及んで、善悪を語るわけでもないでしょう? まさかまさか、そんな陳腐な……」

 

 その言葉に、マルタが何かを言おうとして、ふと口を噤み、顔を伏せた。

 

「おや? どうされましたかな、聖女様」

 

 シェイクスピアの言葉に、マルタはゆっくりと顔を上げ、言った。

 

「──さて、善悪とは何でしょうか」

 

 かん、と硬い音が鳴る。身の丈ほどもある杖を床に立て、マルタは言った。

 

「『あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ』……これは創世記にある、主が初めに人に下された命令です。人は善悪の区別を知るべきではなかった。そんな物は知らなくても良かった。善を語るのならば、これが最上の善でしょう」

 

 朗々とマルタは語る。シェイクスピアの眉間に皺が寄る。

 

「吾輩は常々思っているのでありますが、おかしな話ですな。神が全知全能だというのならば、初めからそんな物を置かなければ良かったのです」

「その通り。ならば何故、主はエデンの園に堕落への道を置かれたのでしょうか?」

「それは……後の世に、何故この世が救われぬのかを説明付けるためでは?」

「いいえ、違います。主の計画は、その様なものではない」

「ム……ゥ……?」

 

 マルタははっきりと断言した。シェイクスピアは背中に冷や汗が流れるのを感じていた。

 

 何かが違った。目の前の聖なる人は、常のマルタとは様子が異なる。

 

「それは、人に自らの意思で星を歩ませるためです。主は人に選択の自由を与えたのです。結果として人は罪を犯し、罪を宿すようになりましたが、それもまた主の想定の内。主は人に贖いの道を示された」

「……磔刑ですか。かの神の子が示された人類の救済」

 

 シェイクスピアは慎重に言葉を選んで言った。それでも彼はしかとマルタを見つめ言った。

 

「しかし、それでも人は救われはしませんでしたぞ。こうして最後の一人になってしまいました」

「そうだね。救済なんて単なるテクスチャに過ぎないよ。聖書という名の……いやもっと狭い。キリスト教でのみ信じられたテクスチャだ。つまり過去の物語に過ぎないって事さ」

 

 オベロンは笑い言う。それに「いいえ」とマルタは断言した。

 

「言葉は届きました。この燃え尽きんとしている星にさえ」

 

 酷く遠い瞳で、マルタは虚空を見つめている。

 

「テクスチャを論じるのであれば、今の世に住まう人々が生きるのは、何重にも重なったテクスチャの上でしょう。なればこそ、言葉が残されたのです。人を惑わすような奇跡ではなく、愛と言葉によって人は救われる」

「……貴方様は、神の子の復活さえ人を惑わす物と仰るのですかな? あれこそ神の恩寵の証では?」

「『人はパンのみにて生くるにあらず』……悪魔の誘惑にそう返した意味とは、即物的な奇跡や、物質的な満足では、人は決して満たされないということ。磔刑もまた同じく。磔刑という奇跡そのものに意味があるのではなく、磔刑を経て何を思うか。それこそが重要なこと」

 

 オベロンはいつの間にか笑みを潜めていた。強ばった顔でマルタを見つめていた。

 

 マルタは朗々と語る。まるで慣れきったように。

 

「『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう』……救済とは、待ち望めばやってくるものではありません。人が自らの意思で善悪を選択し、挑み続ける事によってこそ、帰来するものです」

「……ヨハネによる福音書14章27節にこうありましたな。『わたしは平安をあなたがたに残していく。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。』と……」

「平安とは、即物的な奇跡ではありません。ましてやローマ帝国を滅ぼし、地上に王国を築くような、民衆が期待した奇跡は決して起こり得ない。それは主の御意志ではありません」

「だけど、人間はそれを理解しなかっただろう」

 

 オベロンが床に目を落としながら言った。

 

「エルサレムの人間達が期待していたのは、愛でも言葉でも無く、それこそ即物的な救済だった。だから……磔にされたんだろう」

 

 マルタはその言葉に、ふと笑みを浮かべた。

 

「それでも、人々は愛を伝えました。言葉を伝えました。テクスチャという概念によって無意味と化す奇跡ではなく、愛と言葉を。それこそが、主の御意志だったのです」

 

 マルタは空へと手を伸ばした。人間以上に人間らしい眼で、全てを見つめ言った。

 

「人々が言葉を伝えたからこそ、わたしはここに在る。人々が愛を伝えたからこそ、わたしはここに在る。そのよろこびを思えば、磔がなんでしょうか。人々は、まさしくわたしの願ったとおりに、世の終わりまで、わたしを共にいさせてくれた」

 

 マルタは言った。

 

「『天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない』……マタイによる福音書24章35節、マルコによる福音書13章31節、ルカによる福音書21章33節と。まことに、このように」

 

 その言葉に、シェイクスピアは膝を折り、打ち震えた。オベロンもまた口を閉ざした。

 

 そうして、代わってマルタは沈痛な面持ちで瞳を伏せ、言った。

 

「だからこそ、わたしは降りたのです。わたしは彼を確かに裁きました。彼には善悪ならぬ自由があるか。彼は人として生きることが出来たか。彼はこの星に、確かに人としての足跡を刻んだか?」

 

「その道程が、哀れで、哀れで、仕方なく、わたしはここに在るのです」──そう言って、マルタはナーサリーライムを見つめた。

 

「彼は全てを知りましたか」

「ええ、マスターは私を知ったわ」

「それでも彼は歩むのですね」

「ええ、マスターは全部を終わらせるの」

「全てを救うために、ですね」

「後輩に、何か言葉でも掛けてあげたら?」

「いいえ、それには及びません」

 

 マルタはふと微笑み、言った。

 

「それに相応しいのはわたしではなく、初めから彼を見守り続けた第六の具現でしょう。だから、わたしはここまで。……どうか、よろしくお願いしますね、皆さん」

 

 そう言ってマルタはふっと倒れ伏した。「ああ」マルタが俯したまま呟く。

 

「私に代わって、マスターの為に、ありがとうございます」

 

 涙と共に祈りを捧げる彼女をじっと見つめながら、シェイクスピアは顔を強ばらせていた。

 

 今、見たものは何だ。

 

 今、ここに現れたものは何だったのか。

 

 いや、それは自明の理。見ればオベロンさえ口を噤み、深く何かを思い詰めている。

 

「ああ、マスターはここまで来てしまったのか──」

 

 シェイクスピアは、嘆くようにそう言った。

 

 

 

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