山やそのふもとに住むものにとって、山とは本来人間のテリトリーではない。
地域によって扱い方は微妙に異なるが、山は魔物だったり怪異だったり先祖の霊だったりなど「人間社会に属さない」ものの住む場所であり、恵みをもたらす反面、あまり深入りするべきでない「敵地」として扱われてきた。
人の手の入っていない山奥は、時に「あの世」としてさえ扱われる。戦後、偏執的なまでに山奥に道路網を通したのは、国土の掌握・開発によって呪霊発生を抑えようという当時の呪術界の考えによるところも大きい。
現代では少子化と東京への一極集中により、異常な人口密度を得るに至った首都圏では、単純な物量差からこれまでにない強さの呪霊が出現するようになった。一方で少子化と過疎化で放棄された辺境では、発生した呪霊が長期間にわたって人間(特に呪術師)に発見されず、悠々と力を得る事例が多発し始めている。
長期間の放置は呪霊の強化を招くだけでなく、呪霊に囚われた人間がいた場合の被害拡大、最悪の場合「家族」や「村落」など1つの共同体がまるごと呪霊に支配されるリスクを抱えることになる。
過疎化で人自体がいないのに、もっと絶対数の少ない術師が都合よく田舎にばかりいるはずもない。そのため、(特に高専の)呪術師たちは企業や御三家の縄張り外に生じた呪霊対処のため、全国の僻地を点々と移動する必要があるのだ。
呪術界は業界構造的に人手不足が治らない。どうしても僻地の呪霊や危険度が低いとみなされた呪霊案件は塩漬けになることが多く、五条悟と空閑徹両名の尽力もあり人的被害を見逃すほどの事態にこそなっていないものの、積極的に救助や支援の要請が飛んだ方に人員を割かれがちなのは仕方のない部分もある。
「年々力を増す呪霊」とは、そうやって都市と地方の両面で呪霊が強化されることで成り立つのである。
――故に長年、検討自体はされてきた。
呪術界に助けを求める前に呪霊の支配が完成してしまった共同体に、呪術師は気づくことができるのか?
気づけたとして、そこから人々を救出できたとして、完全に呪霊の価値観に染まってしまった構成員をどうするのか?
結論は、今に至るまで先延ばしされ続けている。
◆ ◆ ◆
深山幽谷という表現がふさわしい山の奥深く。
獣道すらも行き止まる、文字通りの「人の領域のいちばん外側」。あの世との境目と呼んで過言ではないその場所に、空閑徹と東堂葵は取り残された。
だが二人は動揺を表に出すことなく、表情一つ変えずに警戒だけを強め、自分たちの身に起こった事象の解明に努めた。
「……どう見る?
辺りはさきほどまでの不自然に整備された獣道から打って変わり、昼間だというのに足元もおぼつかないほど高木の生い茂った山の斜面が広がっている。
二人の視線の先にあった祠は斜面から露出した木の根に半ば埋もれる形で存在しており、手入れどころかかろうじて祠の原型を留めているような代物だった。
「……やられた」
葵の問いかけに答えるように顎に手を当てて思案していた徹だが、一瞬の後、合点が行ったとばかりにつぶやく。
「恐らくだが、結界は二重構造だったんだ。さっきまで俺たちがいたのは既に
「……なるほど遁甲式の一種か」
葵の相槌は徹の意図するところを射抜いており、徹も流石話が早いとばかりに頷いて話を進める。
ここで言う遁甲式とは、一般に知られる方位を用いた占いではなく、土地に作用し、相手の方向感覚を誤らせる結界術の一種のことだ。
術式効果も内外条件も一切を指定しない代わりに、動作の軽さと違和感の少なさ、シームレスさに全振りして、「いつから結界の中に入っていたか」を術者に悟らせないようにする。
俗に「迷いの森」や「奇門遁甲」と称される類の術で、日本ではもっぱら呪霊や大陸系の呪詛師が得意としたと伝わる。
呪術界に現在伝わる天元式の結界術とは技術体系を異にするもので、効果範囲を明確に定義しない(できない)ことを最大の特徴とする。地理条件や対象の力量などに応じて効果のほどが変わるという欠点はあれど、上級者のそれはいつから術中であったかを呪術師にすら悟らせない隠密性を誇るという。
今でも通信の遮断やGPSの不自然な動作不良、一時的な遭難や事故の誘発など辺境の呪霊や呪詛師の標準装備として怪談話を賑わせる術だ。それなりに座学に長じた者であれば、事例と対策は頭に叩き込んでいて当然。
「だが、それは一般人を相手した場合の話だろう」
だからこそ、葵はすぐに指摘を返す。この術は本来強制力が弱く、呪術師であれば特に意識していなくても簡単に突破できるとされているのだ。
それゆえ高等級の呪霊や賢い呪霊は呪術師を警戒してこの術に頼らず、領域展開を目指していくことになる。
「いや、狩場に誘い込んで殺す目的なら確かにその程度の強制力しか持たないが、結界自体に視覚効果以外のなんの目的もない……方位を誤認させる効果さえカットしているとしたら?」
結界術にはコストの足し引きという概念がある。
どんなに技術が高かろうと、あらゆる全てに対処できる結界は作れない。反対に、穴だらけの条件定義でよければ、比較的無茶な条件の結界でも強い効力を得たりするものだ。
「確かにそれなら理論上は俺たちにすら気づかせずに結界に入れられるだろう……だがそこまでして山の風景と同じ見た目の結界を作ることに意味は……」
その時、東堂葵の脳内に現れた高田ちゃんにより、彼は天啓を得る。
「遁甲術ってことは、術師にとっての帳みたいなものだよね?」
放課後の教室のごとき
(自称)IQ53万の葵の頭脳をもってすれば、ヒントはそれだけで十分だ。
「俺たちが見ていた風景は多少美化されただけの山道だった、つまり心象風景の具現
「そう、みんなは事前情報から"呪霊は心象風景の具現化"、つまり領域展開かそれに近い技術を使ってくるという先入観を持っていた」
高田ちゃんの指摘に、葵は「その通りだ」と同意を返す。
「だからあの祠を見て領域が展開されるまで、俺たちは既に結界の中にいることに気づかなかった。二重の結界とは、レーダー代わりの遁甲術と、恐らく女性限定で侵入可能な領域展開のこと! これなら辻褄が合う、そういうことだな!?」
ここで葵は脳内から帰還し、徹へと自分の考察を返した。
「お前がいると話が早くて助かるよ」
徹はそれに一つ頷いて返し、補足。
「そして、女性限定という条件を満たさなかった俺たちはそのタイミングで2つの結界から同時にはじき出されたって訳だ」
「領域展開の輪郭が見えないのは?」
「遁甲術の視覚効果で境目を誤魔化してるんだろうな。加えて今いるここは、最初に見た祠がある場所から相当離れているはずだ。結界から弾き出される時、お前の不義遊戯を食らった時と同じ『座標をズラされる感覚』があった」
「なるほど。その説だとあの領域展開は、あの場で展開が開始されたのではなく、常時展開・隠蔽されている生得領域の隠蔽を一瞬だけ解いた結果ということだな?」
葵の確認に「流石だな」と感心を返し、徹は懐からナイフを1本取り出す。
「つまりここからだと観測できないが、対象の領域は今も張られっ放しということになる。融通の利き方からして必中効果が付与されていないか、致死的ではないんだろうな」
流石に必中必殺の領域をこんな自在に調整されたら俺でも手に負えない、とぼやきながら、徹はナイフに呪力を纏わせるとおもむろに木々に半ば埋もれた祠めがけて振りかぶる。
「祠の破壊がカウンター型の術式発動条件になっている可能性は?」
現状では結界の縁を認識できないようにされている二人だが、それが祠を起点とする術式効果である以上、そこへの攻撃には意味がある。
だがそれ自体は素人でも容易に思いつくだけに、呪霊側でも何らかの対策をしているのでは、と葵は懸念した。
しかし、徹はその可能性を低いと断じる。
「ここまで込み入った条件で術式を成立させていることを考えると、結界の外部に致死性の術式効果を常駐させるメモリの余裕はないはずだ」
ただでさえ「祠の視認」が結界発動のトリガーになっていたことを考えると、その上から破壊を条件とする罠を仕掛けたら流石に見破れないレベルの偽装は不可能になる、というのが徹の結論だった。
つまり、正解は祠を破壊すること。
だが「いかにも罰当たりな行為」であるから、よほど強い確信がなければ行動に移すのは難しい。
社会通念や常識を利用して「ハッタリ」を仕掛け、露骨な弱点をカバーしているということだ。
つくづく人間を分かっている呪霊だ、と徹は敵ながら感心していた。
「それに、仮にそういう効果があったとしても対策はできる」
徹の持つナイフが放つ術式の光はやがて淡い白色へと変わり、まとわりつくような形から刃を覆うような形状へと移っていく。
「領域展延か!」
「これなら術式を中和しつつ破壊可能だ」
要はゴリ押しだけどな、と言いながらナイフを祠に突き立てた瞬間。ぶじゅ、という木を切り裂いたとは思えない音が飛び出し。
――ギィエ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛!!!
山そのものが鳴動しているかのような、生き物とは思えない悲鳴が響き渡った。
同時に祠からはまるで生き物を切り裂いたように血液のようななにかが噴き出し、徹の服を汚していく。
「ビンゴ!」
葵は語気の割に冷静で、呪力による攻撃に備え警戒を強めた。
「祠自体が呪霊の体の一部になっていたらしい。この呪力量、罠と言えば罠だったかもな」
俺じゃなければ正気ではなくなってるかもしれん、と平然と言い切る徹は、見れば全身を領域展延で覆っている。
「ふっ、それでこそ
「それより」
「ああ。俺にもはっきりと感じられる。結界の縁はあそこだな」
徹の読み通り、祠の破壊によって結界が揺らぎ、それまでは徹にすら認識できなかった結界の境目が露出している。
境目さえ分かってしまえば、結界の中へ強引に押し入るのはそう難いことではない。
と言っても、それは領域展延の応用で結界に付与されている必中効果を中和可能な空閑徹にとっての話であり、普通は定義外の人間が押し入るためには力ずくで領域そのものを破壊する必要があるのだが。
「作戦は?」
「まず俺が展延で結界の中に押し入った後、内側から領域展開して結界を崩壊させる。俺の『晩鐘劒ヶ丘』なら必中効果をカットできるから、歌姫先生と楓さんを巻き込んでも殺すことはない。その後、第一優先事項として二人を回収。余力があれば、第二優先事項として結界の主を探し出し、祓う」
「了解した」
一息に説明された作戦概要を聞き返すでも異を唱えるでもなく、葵はシン・陰流の構えを取って突入に備える。
戦友としてはこんなに頼もしいのにな、と一瞬余計なことを考えて、徹もすぐに気を取り直す。
「分かってるとは思うが、対策を持たずに領域に引き込まれた術師の生存率は1割以下だ。深追いはするな」
「無論だ。だが今ならデッドライン圏内、希望を捨てるには早いぞ」
葵の言う「デッドライン」とは、連絡が途絶した後の女性呪術師が生存可能な平均時間のことだ。
統計的な分析により、術師が女性の場合、敵の手に落ちてすぐは男性より有意に生存率が高い一方で、およそ60分を境に一気に生存率が落ちることが知られている。
下世話な話、「呪詛師または呪霊が
領域に「女性限定」の縛りが付いていた時点で、徹たちに求められているのは既に「無傷での救出」ではない。しかしそれでも、命が助かるのとそうでないのとは大きく違う。
二人にできること、そしてすべきことは、無傷の生還という奇跡を願うことではなく、二人が生き汚く
「タイミングは任せたぞ、
「分かった。1.2.3で突入する」
徹の号令に合わせ、二人の猛者が結界の内へと突入した!
実際問題、呪霊として出てくるレベルの負の感情って金がらみのものをのぞいたらだいたい色情霊だと思うんですよね。
原作でも女性の術師は金に釣られてる冥冥と三輪以外、基本最前線には出てこないみたいですし。